親愛なるアッティクスへ
埼玉県といえば、もう一つ、鉢形城が有名ですよね。
で、過日、行ってきたのですが、こちらは昨日申し上げた岩槻城とは違い、さすがに、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際にも、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの連合軍3万5千を向こうに回して3千の兵で持ちこたえたと言われるように、まさしく、「要害」という相応しい偉容をもってました。
(↑この向こう岸が真田隊が布陣したと言われる場所です。主将・真田昌幸を始め、
信幸、幸村兄弟もここにいたのでしょうが、これだけの川幅と断崖があれば、事実上、こちら側からの攻撃は不可能のだったでしょうね。)
(↑現地にはこういう往時の地形を表した模型もありました。右側にあるのが
荒川で、断崖と川があるのが見て取れると思いますが、一方で左側にも右側ほどではないにしても深い川があるのがわかると思います。)
(↑こちらが少しわかりにくいのですが、その左側の渓谷です。行った頃は初夏を迎えようかという頃でしたので、樹木が茂っており、やっとで見つけることが出来ました。)
(↑上から見るとこうなっています。右に流れている大河が荒川で、左の深沢川が荒川に合流する間にあることがわかると思います。つまり、両河川が谷を刻む断崖上に位置する天然の要害というわけです。)
(↑城を囲む豊臣方の布陣の様子ですが、荒川の向こうにいる真田隊は事実上の模様眺めで、あるいは、真田家はこの直前まで北条氏と小競り合いを繰り返しており、「そこでゆっくり休んでて」的な意味合いもあったのかもしれません。その意味では、おそらく、主力としてもっとも出血を強いられたのは上杉景勝の隊ではなかったでしょうか。)
平太独白