親愛なるアッティクスへ
12月となり、このシリーズも、いい加減にけりをつけなければ・・・と思っているのですが、なかなか先が見えてきそうにありません。
で、長きに渡った東日本大震災での建築士派遣ですが、5月下旬に一旦、終息となり、そのまま、栃木県から北上してくれと言われるのか・・・と思いきや、言い渡されたのは北・・・ではなく、南の埼玉県でした。
(埼玉であてがわれたホテルがこれ・・・(↑)。前日まで、宇都宮で泊まっていたホテルとのあまりの差に、隣室の友人は思わず、「何かあるんじゃないか?」と疑心暗鬼になってました(笑)。)
で、移動して後、せっかく埼玉に来たんなら是非、行っておきたい・・・と思っていたのが、
岩槻城と
鉢形城でした。
言うまでもなく、
川越城、玉縄城と合わせ、徳川家の入封以前に関東に覇を唱えていた
小田原北条氏の重要拠点ですね。
で、まず、岩槻城ですが、今では単なる公園(↑)になっており、ここだけを見て、ここにかつて重要な防衛上の拠点があったとは想像することの方が難しかったでしょうか。
で、とりあえず、周囲にそってしばらく歩くうち、こういう場所(↑)に出ました。
おそらく、堀の跡だろうと思いましたが、やはり、そうで、往時はもっと堀も深く、北条氏特有の
「堀障子」と呼ばれる堀の中の障害物も見つかっているのだとか。
ただ、そうは言っても、この程度の堀だけでは北条氏の重要拠点としては少し貧弱すぎるように思っていたのですが、しばらく行って、この看板(←)を見つけ合点が行きました。
ここは今では埋め立てられ、公園の広場になっていますが、かつては沼地で、周囲も川越城同様、腰までどっぷりとはまるような泥濘で、いわば、その中に浮かんだ水上要塞の観があったのでしょう。
ただ、中世の関東の土豪同士の戦いならそれでも良かったのでしょうが、
豊臣秀吉の大軍を引き受けて戦うとなると、やはり、役不足の観は免れず、天正18年(1590年)、小田原征伐の折には2千の兵が篭るも、約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して伏落城した・・・と言われています。
土木技術の革新が進んだ上方勢の前にはこの程度の障害は大したものではななかったのではないでしょうか。
平太独白