親愛なるアッティクスへ
昨日の続きです。
川越の街並みを抜け、主目的地である
河越夜戦における
激戦地と伝えられる
東明寺へ向かおうとしたところ・・・、例によって方向音痴を発揮してしまい、道を間違って寺の先に出てしまいました。
で、そこにあったのがこれ(←)。
一目見て、ピンときましたね。
もし、本当にこの付近で激戦が繰り広げられたのなら、ここを外して戦うはずがない・・・と。
で、傍らを見ると、川越のメインストリートに繋がる街道と思しき通りがあり、
東明寺橋と書いてある・・・。
おそらく、関東管領方は、この橋を渡り、この街道から一気に侵入しようとし、城側は橋を落とし、敵の侵入を阻もうとこの堀を頼んで戦ったのだろう・・・と。
(こんな小さな小川・・・と思われるかもしれませんが、おそらく、当時、橋は落としてあったでしょうし、堀ももっと幅広く水量も豊富だったのではないかと・・・。)
ところが、そうなると、どうにも疑問に思えてきたことが一つ・・・。
ここから、現在の川越城までの距離が遠すぎる・・・、つまり、城域が広すぎるんですよ。
(←現在の川越のシンボルタワー的存在の「時の鐘」です。)
確か、当時、この川越城ならぬ河越城に籠っていたのは、
北条氏康の義弟で猛将として知られた
北条綱成に率いられた
兵3,000だったと言われていますから、その程度の兵力で守るには広すぎるんですよ。
(ちなみに、攻城側の兵力は
80,000、援軍に駆け付けた北条本軍の兵力は
8,000だったと・・・。まあ、北条方はともかく、関東管領方は相当に誇張された数字でしょうけどね。)
などと思いながら、ここを過ぎ、途中から左に折れ、現在の川越城方面に向かったところ、そこには江戸時代の堀が復元(↓)されていました。
まあ、本丸に迫った敵を防ぐための物でしょうが、それにしてもどうにも位置関係がわからない・・・。
そこで、城の前にある博物館に入ったのですが、ここでも河越夜戦における資料はほんのわずかしかなく、やむなく、研究員の人と思しき人を掴まえて聞いたところ・・・、まず、私が激戦地だと思った東明寺橋はそれでやはり当っていたのですが、ただ、当時の河越城というのはものすごく小さく、今の本丸部分くらいしかなかったんだそうで、つまり、私が城方が防衛したと思っていた東明寺橋の堀は外から攻めてきたのが救援に来た北条氏康の軍で、中に居たのが河越城を攻めていた関東管領方の将兵だったわけです。
つまり、攻守逆転していたわけで・・・、ま、当ったといえば当った・・・と言っていいんでしょうか(笑)。
平太独白