親愛なるアッティクスへ
東日本大震災の応援建築士として栃木県に行った当初は、とにかく、何もかもが混乱を極めており、派遣の期間・・・どころか、勤務地もはっきりしておりませんで、「あるいは何日かしたら別の場所へ行ってもらうことも有り得る」という風に聞かされておりました。
となれば、栃木にもいつまで居るかもわからず、せっかく来たんだから、やはり日光東照宮は行っておかないと・・・ということで休日初日は日光東照宮へ行き、次の休日は足利家の本貫である足利市へ行った次第でしたが、栃木県と言えば、マニアにとってはもう一つどうしても足を運んでおきたい「聖地」がありました。
それが、小山評定で知られる小山市です。
居る間に何とかしてここまでは行きたいなぁ・・・と思っていたら、しばらく経った頃、たまたま、小山の案件が巡ってきました。
私は、内心、
欣喜雀躍勇気百倍、何としてもこの時に行っておかねば・・・と思い、わずかな空いた時間を利用して行ったのですが・・・。
(↑現地はちょうど、おあつらえ向きに空き地となっておりました。正面がJR小山駅方向、背後が小山市役所です。)
小山評定とは
関ヶ原戦い前夜。この地にあった
徳川家康が上方で決起した
石田三成を討伐すべく会議を開き、結果、諸大名を糾合することに成功した件のことですが、どうやら、一番上の画像の説明書きにあるように、
野営地に急造の
「三間四方の仮御殿」を建てて行ったものだったようで、はっきりと「ここだ!」とはわからないようですね。
私としては、せっかくここまで来て「どっかこの辺」では少しがっかりしたのですが、それでも、評定の地はおおよそ、現在の市役所の敷地辺りと推定されているようでしたのでそれを信じるとして・・・、私にはこの地に立って、どうにも腑に落ちないことがありました。
それすなわち、家康がなぜ、傍らにある
小山城(別名:祇園城)に入らずに城外に野営したか・・・ということです。
この辺は、以前、
平太郎独白録 : 今日は茨城県まで行って来ました。でも触れておりますが、確かに、小山城はこの当時、この年表(↑)にもあるように
豊臣秀吉の
小田原征伐で落城し、ちょうど、廃城となっていた時期に当たります。
しかし、それでも、空堀の跡や土塁(↓)などは少し手入れをすれば使えたと思え、少なくとも、何もない平坦な野営地よりはマシだったと思います。
(↓傍らに流れる川側からの侵入に備えた土塁です。堤防も兼ねていたのでしょうか。)
事実、江戸時代に入ると、先ほどの年表とその横の図面にもあるように、
徳川将軍家の
日光参内の折の御殿もしっかり、野営地と目と鼻の先の城内こ設けられており・・・。
家康としてはここは単なる通過地点であり、泊まるとしてもたかだか一泊程度のことであり、それにわざわざ修復工事で兵士を疲れさせることはない・・・ということだったのかもしれませんが、どうせ同じ仮御殿を建てるのなら、平地よりもいささかでも高低差がある所の方が・・・と。
この点、あの、用心深い家康にしては何とも違和感を感じるところではあります。
平太独白