昨日の続きです。
幕末有数の名君として知られる薩摩藩主・島津斉彬・・・ですが、しかし、この点で、昨日、述べました「調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚」の中では、末尾の方で調所を死に追いやった斉彬という人物は「果たして名君と言えるのか?」ということについて著者は疑問を投げかけられておられました。
確かに、薩摩藩が幕末、維新回天の大業に乗り出すにしても、調所笑左衛門のこの改革がなければ、金蔵は底をついたままだったし、それでは維新どころか、京都まで出て行くことすらおぼつかず、いくら名君成彬でもどうにもならかったのではないかと思われます。
その部分を、ちょっと、抜粋してみますと、
【近代工業というものは、
資本の蓄積があり、各種産業の競うような技術の進歩と応用があり、
大量生産した商品を販売し、
資本を回収する市場があってはじめて成り立つ。
ある日突然、目を驚かせるような近代工場ができたとしても、それは実験工場でしかなく、近代工業が成立したとはいえない。
斉彬の作りあげた磯の工場群は、右のような意味で、斉彬個人の実験工場にすぎなかった。
それはそれで意義のあることかもしれないが、日本の近代化、工業化には何ら寄与しなかった。
藩士にも影響を与えていないし、後継者もあらわれていない。
のちの薩摩の指導者たちは、磯の工場群再稼働やそこでの製造には手をださなかった。
作るより外国のものを買うほうが、安いし、性能もいい。兵器や艦船は、せっせと外国から買い入れた。
公平にいって、斉彬のつくりあげた磯の工場群は、斉彬の知的好奇心を満足させる、単なる金食い虫にすぎなかった。
斉彬が薩摩藩士に強烈な刺激を与え、彼らを魅了しつづけたのは、金食い虫のほうではなく、富国強兵、近代国家の建設を急がなければならないという、斉彬の思想と情熱だった。】
まさしく言われてみれば、
薩英戦争でイギリスの近代兵器の威力を見せつけられた後でも、薩摩では先代が作った「磯の工場群」を再稼働させようという動きはなかったようですし、その意味ではやはり、こういった工場群は、斉彬にその意識があったかどうかは別にして、若者達に「近代化」というものを具体的な形で見せる、言うならば「見本市」的な役割を果たしたのだと思います。
ただ、同時期、
佐賀藩では独自に西洋の最先端技術の確立に成功しており、後の上野戦争や戊辰戦争でも、同藩の工場群は稼働し続けたことを思えば、これはこれで、もう一人の名君・
「閑叟」こと、
「鍋島直正」という人物の凄さを改めて認識させられることでもあるのでしょうが・・・。
平太独白