親愛なるアッティクスへ
「武者どもが
先を歩みし
秋の夕」
梁庵平太
昨日の続きです。
この日は、朝、天神を出発し、熊本城ならぬ隈本城址等を訪ね、宇土城から八代城を経由し、最後は熊本県葦北郡芦北町にある佐敷城へ行き、また、戻ってくる・・・という結構、ハードなコースでした。
(←秋の夕日に染まる佐敷城。小城には不釣り合いなほどに立派な石垣を見て、思わず、以前、行った群馬県太田市の金山城を思い出しました。)
ちなみに、佐敷城がある葦北郡というのは熊本県の南部に位置しますが、当初より、肥後(熊本県)北半国の領主だった加藤清正の飛び領地だった所でして、従って、城づくりの名手として知られた清正によって築かれた城ということになります。
で、一方で、肥後の南半国を治めた小西行長が居城としたのが先に行った宇土城でした。
宇土城については、行長が
キリシタン大名だったことから、
島原の乱後、ここが再度、反乱の拠点となってはいけないということで、
江戸幕府によって、徹底的に破却されたらしく、今では狭い道を過ぎ墓地の傍らを上った所にある殺風景な公園の中に、ぽつんと不釣り合いなほどに立派な小西行長の銅像だけが屹立している状態でして・・・。
イクサに負けた者の
悲哀を雄弁に語っているような城でしたね。
で、この日、バスの中で、私が講師として話すつもりにしていたのが、「
関ヶ原戦役勃発時、東西力軍激突の間隙をついて天下獲りに名乗りを上げようとした・・・」と言われている
黒田如水に「実はその意図はなかった」ということだったのですが、到着予定時刻が少々、遅れてしまったので、皆さん、明らかにお疲れのご様子・・・。
車内の空気を読みまして、急きょ、手短かな本日の補足的内容に変えました。
一部だけ、簡単に触れておきますと、加藤清正の家臣の中で
飯田覚兵衛と並んで知られる
森本儀太夫の次男に
森本右近太夫という人物がいるのですが、この人はある意味、父親以上に有名な人でして・・・。
というのも、江戸時代の初め、鎖国令が発令される直前の時代に、カンボジアの、あの、
アンコールワットに行って
落書を遺しているからです。
(参照:
平太郎独白録 : ベトナム・カンボジアの旅 8 アンコールワット)
今を先立つこと400年近くも前に日本人が行ったというのは、感慨深いものがありましたけどね。
平太独白