親愛なるアッティクスへ
昨日の続きです。
不覚にも私もここに来て初めて知ったのですが、この、福江島というのは遣唐使船の国内最後の寄港地だったんですね。
つまり、空海も最澄も、筑紫博多津(福岡)を出航した後、壱岐対馬を経由し、朝鮮半島をかすめ、渤海、黄海を目指した・・・のではなく、博多までは一緒でも、そこから先は北上するのではなく舵を西へと切り、九州北岸を廻り、五島列島の各島を経由しつつ、最後に水が豊富な福江島で飲料水などの最終補給物資を補填した後、島内の美弥良久の崎(現三井楽柏崎)で風を待ち、そのまま、一気に東シナ海を突っ切り、中国を目指すこのコースで大陸へ渡ったのだとか・・・。
このコースは中国本土まで最短で行けるコースですから、うまく行くと10日間くらいで行けたそうですが、当時の航海技術では危険さと背中合わせの航海であり、だからこそ、私もてっきり、朝鮮半島の西岸を北上していたものだとばかり思っていた次第ですが・・・。
で、なぜ、そんなことになったかというと、遣唐使船は当初は
難波三津浦(大阪)を出発し瀬戸内海を通って、筑紫博多津(福岡)に入り、壱岐、対馬を経由し、朝鮮半島の西岸沿いの
百済、新羅の領海を北上、黄海を横断して中国の
山東半島に上陸する・・・という一番確実なコースを採っていたそうですが、やがて、朝鮮半島を
白村江の戦いで日本と交戦した新羅が統一してしまったことから、遣唐使を派遣することが出来なくなってしまい、事実、しばらく途絶えたんだそうです。
(私もこのことは知ってましたが、半島に寄港しなくなっただけでコースは変えていなかったんだろうと思っていました。)
その後、このルートをあきらめた日本政府は8世紀の初頭から、九州を南下し、
南西諸島、屋久、奄美、沖縄、石垣などの島々を経由、当時はまだ、日本にとっては未知の国だった沖縄の勢力圏には入ることなく、そこから一路、東シナ海を横断して
揚子江の河口を目指したようです・・・が、このルートは朝鮮半島経由のルートと所要時間こそあまり変わらなかったものの、外洋へ漕ぎ出すことから危険が多く、遭難率が上がることになった・・・と。
その結果、「どうせ、遭難するなら・・・」というわけでもなかったのでしょうが、8世紀後半から最終的に選ばれたのが五島列島を経由するこの「南路」だったのだとか。
で、その中の、804年に、久賀田之浦から出発した第16次遣唐使船4隻に、当時31才の空海、38才の最澄が乗船してたのだそうです。
当時の日本の発展の原動力となったのは、
「優秀だけど優遇されることはない」、これら幾多の俊秀らの命がけの
野心だったと考えれば、幕末維新の時代に多くの優秀な下級武士の若者らが命がけで海外の新知識吸収に乗り出したこととどちらも同質のもののように私の眼には映ります。
違いますかな、草食男子諸君・・・。
平太独白