ずっと気になっていましたが、寸暇を惜しんで以前の続きです。
足利館跡と言われる鑁阿寺でしたが、確かに、往時を偲ばせる土塁や堀はありましたが、私には何だか、後世になってからの物であるような観がありましたし、それ以前に私にはここが足利館跡・・・ということにどうにも違和感がありました。
で、その結果、気がついたのが背後にある山(↑)・・・。
私としたことが迂闊でした。
織田信長の
岐阜城にしても
武田信玄の
躑躅ヶ崎にしても、普段は麓の館で暮らし、有事の際に背後の峻厳な山を利用する・・・という造りになっていたのを思い出しました。
で、これは行かねばならぬ・・・と背後の山まで行ったところ、山の中腹と思われる所に
織姫神社という神社(←)があるのを見つけました。
すでに結構、体力を消費しておりましたので、どうするか・・・と思ったのですが、麓に湧き水があり、これを飲んで水分を補給したところ、どうにか登れそうな気が・・・。
で、ここに登ってみたところ、麓の鑁阿寺や足利学校は樹木の陰に隠れて見えませんでしたが、正面には川があり、その向こうに見えるのは小高い丘・・・。
足利家としては川向こうのこの丘も絶対に確保しておきたい所だったでしょう。
(ちなみに、今は川向こうも足利と名のつく駅があるようですが、おそらく、当時とは川の流れが変わったのがもしれません。ついでに言えば、この向こうには分家の
新田義貞に代表される新田氏の領土
「太田」があります。)
ともあれ、ここら辺一帯が
上州と
野州の国境だったはずことには違いないでしょう。
東国を基盤とした
八幡太郎源義家が四男・
義国をここに配置した意味がわかるような気がしました。
(その子、義康が足利氏を名乗るわけで・・・。)
で、この織姫神社の境内で見かけたのがこの地図(↑)。
まさしく、私の仮説が良く理解できるものではないでしょうか。
有事の際には右下にある館から、半島状の山間部へ逃げこむ・・・。
背後は無限とも思われるほどに深い山々があり、万一の際には妻子を逃がすには適している・・・。
となれば、織姫神社がある山脈の先端部は敵の動きを見通すことができる反面、攻撃が集中する危地でもあり、足利家としてはここは絶対に失う事ができな要地だったと言えるでしょう。
その意味では、ここは後世の
天守閣にも等しい足利家の
ランドマーク的存在でもあったのかもしれません。
平太独白