親愛なるアッティクスへ
今回、
京都に行って、せっかくだからと
北野天満宮(↑)へ行ったのですが、ちょうど、折から
紅葉の時期でもあり、たくさんの人出で賑わっていました。
別に私はそういう物には興味がありませんので、スルーして、一路、
平安京造営当時の
御所の北西角に当たる
大将軍八神社へ行こうとしたのですが、と、
「史跡・御土居」という立て看板が目に付きました。
「?」と思って説明板を見てみると、ここは
豊臣秀吉が京都の
治安維持のために、都を、ぐるっと取り囲む形で築いた
土塁であるということが書いてありました。
なるほど、考えてみれば、秀吉の手によって天下が治まった以上、京都の平穏は秀吉の
威信と直結するものであったわけで、であれば、
山賊、強盗などの
凶徒の侵入を防ぐためにも、何らかの設備を設けるのは当然のことであったでしょう。
で、現在は多くが失われ、その一部が北野天満宮に現存している・・・と。
この土塁はその外側に堀(←現
天神川)を配し、さらに土塁自体、結構な高さで、おそらく川底からの高さは
5mくらいはあるように思えました。
これでは、少なくとも、大がかりな
窃盗団などの侵入はかなり、防ぐことが出来たのではないでしょうか。
で、その後、大将軍八神社に行ったところ、ここも、この川の内側に沿って配置されていたことを見て、おそらく、この川は元々、秀吉の築造以前には、かつての御所の外堀だったのではないか・・・という気が。
(そもそも、
天神なんて名前は、どうせ、天満宮から来てるのでしょうから、天満宮・・・、すなわち、
菅原道真の後に付けられた名前でしょう。)
(↑左下に見えている遊歩道の向こうが天神川ですから、その高さがおわかりいただけると思います。)
で、北東端に位置する
晴明神社に行くと、その向こう、大通りを渡った先にも小さな川が流れており、おそらく、昔はこの川もそこそこ、大きな堀だったのではないかと思ったわけで、見れば、その傍らには「堀川通り」の看板が・・・。
つまり、この二つの川は御所を守るために作られた堀の名残、あるいは、この川の間に沿って、御所を配置した・・・ということなのかもしれません。
平太独白