親愛なるアッティクスへ
で、昨日の続きです。
まずもって、日露戦争において、日本側が大国ロシアと事を構えるに当たって、巷間、知られている戦略というものがあります。
一つめは、人員でも、装備でも、圧倒的劣勢ながらも、連戦連勝を続けた陸海軍。
二つめは、単身、欧米に渡り、戦費の調達に成功した高橋是清の存在。
三つめは、単身、ロシア内部に潜入し、レーニンら革命勢力を支援して、ロシアの屋台骨を大きく揺さぶった明石元二郎の存在。
四つめは、ルーズベルト・米大統領に対して、同窓という関係で調停工作を推し進めた金子堅太郎の存在。
五つめは、日英同盟からポーツマス条約に至る外交的成功。
六つ目は、満州の広野に潜入し、シベリア鉄道の破壊など、ロシア軍後方攪乱にあたった特別任務班の存在。
で、これら6つの対露戦略のうち、まず、第一番目の軍事的成功では、日露戦争時、満州派遣軍として第一軍から第四軍まで4軍団が編成されますが、そのうちの三つまでが薩長出身者が司令官であったのに対し、第二軍司令官だけは福岡県は豊前小倉藩出身の、奥 保鞏陸軍大将です。
「唯一の薩長以外の」と言うよりも、「旧幕府側出身の」軍司令官であり、もう、それだけで、この人物への有能さの説明は不要ではないでしょうか・・・。
一方で、上述の明石元二郎に金子堅太郎、それに、開戦時、ロシア政府に国交断絶の通告公文を提出した時の駐露公使・栗野慎一郎(当時はまだ大使は無い時代。日露戦争勃発の翌年、在イギリス公使館が昇格して大使館となるのが最初。)から、はたまた、外務省の中枢にあって「山座の前に山座無し、山座の後に山座無し」とまで言われた優駿・山座円次郎などは、すべて、旧筑前福岡藩の出身。
(↑彼らも見たであろうか、
福岡城天守台跡より見る桜の景。)
さらに言えば、アメリカへは、
ハーバード大卒の金子堅太郎が向かったように、イギリスへは
オックスフォード大卒の小倉藩出身、
末松謙澄が向かっております。
英語が堪能な末松は日英同盟を強固なものにする為に、また、
書生時代よりの親友、高橋是清の募債活動を有利にする為にも、イギリスの
親日世論の
喚起に尽力したと言います。
最後に、6番目の戦略として位置づけられる物に、
特別任務隊(満州義軍)の存在があります。
これは、元々、福岡の政治結社・
玄洋社が、日露開戦となれば主戦場となるであろう
満州の奥深くに潜入し、情報収集、後方攪乱活動を行うことを企画したもので、その後、勃発と同時に満州に潜入した福岡の
玄洋社社員・
安永東之助らにより中国志士との提携を核とした
義勇軍構想が提案され、それを参謀本部が承認したことで、正式に、陸軍少佐、
花田仲之助の指揮のもと、軍人・通訳など
55人の陣容にて満州義軍が編成されます。(うち、玄洋社からは
14人が参加。)
彼らの多くは、満州の沃野に、弔う者もないままに命を落としたと言いますが、これに大いに苦しめられた、ロシア軍の
マドリドフ少佐は、この満州義軍をして、
「ロシア軍、眼中の釘!」と大いに嘆じた・・・と。
明日に続く。
平太独白