親愛なるアッティクスへ
楽天の名伯楽・野村克也監督・・・・、ついに退任されましたね。
本人はまだ、現場の執着があったみたいですが、何せ高齢という表向きの事情と、1億5千万円という高額の年俸という本音の部分で、どうやら、事実上の現場からの完全引退・・・という雰囲気になってますよね。
もし、これで完全にノムさんの現場人生が終わったと仮定したとして・・・ですが、もし、そうならば、野村克也という人の偉大なる野球人生についても総括しておくべきではないかと思い立ちました。
(↑ノムさんの故郷、丹後の
日本海もこんな感じだったのでしょうか・・・。)
まず、ノムさんが
南海ホークスに
テスト生として入団したのが、
2リーグ分裂から5年目の
昭和29年(1954年)のこと・・・。
この年のプロ野球勢力地図を見てみると、
日本一になったのは
中日ドラゴンズで、対して、ノムさんが在籍した
パ・リーグを制したのは、
プロ野球選手第一号にして、
巨人監督として実績を残しながらも
「石を持て追われ」た智将・
三原 脩に率いられて4年目で初優勝に輝いた新興球団・
西鉄ライオンズ・・・。
川上哲治や
藤村富美男と言った
戦前からのスター選手はまだまだ現役バリバリである一方、
広岡達郎、吉田義男、豊田泰光、中西 太、山内和弘という若い力が台頭してきた時代でもあった・・・と。
この年のMVPは、セは
「魔球フォークボール」で
セ・リーグを席巻した中日のエース・
杉下 茂、パは三原 脩をして
「ただひとりの天才」と謳わしめた
青バットの大打者・西鉄の
大下 弘。
(ちなみに、この年、入団5年目の
金田正一投手はすでに
100勝(94敗)を挙げており、大投手への道を一直線に突き進んでおりました。)
その後、
「松坂世代」ならぬ
「野村世代」とも言うべき、
長嶋茂雄、杉浦忠、仰木彬、近藤和彦ら
同級生進学組が入団してきたとき、ノムさんはすでに前年に
本塁打王を獲得しており、押しも押されぬパの
看板打者のひとりとなっていた・・・と。
その後のノムさんの活躍は改めて言うまでもないことで、
MVP5回、三冠王1回、8年連続本塁打王9回などなど、パを代表する強打者にして
名捕手であり、さらに、監督としては
日本一3回を含む
優勝5回という名監督であったわけで・・・。
つまり、何が言いたいかというと、それら、長くプロ野球の
中枢に居続けてきたことで、今や、誰かを語るときには必ず、何らかの形でこの人が出てくる・・・ということになっているということです。
言うならば、ノムさんの野球人生は
日本戦後プロ野球史と大きく重なっており、ある意味、歴史そのものと言っても過言ではない・・・と。
明日・・・になるかどうかわかりませんが、とにかく、次回に続きます。
平太独白