親愛なるアッティクスへ
少し前の、随分と形を為してきた新・博多駅です。
(↑右端が新・博多駅です。ちょっと前の物ですが・・・。本当はもっときれいな夕景だったのですが、携帯で撮ったので、イマイチ何だかわからなくなってしまいました。)
ちなみに、
「新・博多駅」は正確には
「新博多駅」ではありません。
新博多駅というのは、かつての
西鉄博多駅の大正13年(1924年)から昭和17年(1942年)までの名前です。
(開業時、既に
国鉄博多駅が存在したことから新博多駅の名で開業したのだとか。)
かつての
西鉄宮地岳線は昔は今の
博多区千代付近まで伸びており、私の子供の頃は、すでに
市内電車に組み込まれていたようで、正式には
千鳥橋駅という名前があったようですが、大人たちは皆、かつての駅名である西鉄博多駅とか、新博多駅などと呼んでました。
「新博多で乗り換えてから行けばよかったい」・・・という具合に。
従って、融通が利かない
昭和男としては、「新博多駅て言うたら千代町やろうもん」ということで、ここは譲れないところですね(笑)。
ちなみに、この新博多駅(千鳥橋駅)は、昭和49年(1979年)に廃駅となり、駅跡は西鉄千代自動車営業所の構内ならびに駐車場になった・・・のだとか。
で、少し前置きが長くなりましたが、本日の本題です。
昭和36年10月24日・・・、この日付は何だかおわかりになりますでしょうか。
残念ながら、私の誕生日・・・ではありません。
私はこのとき、生後4ヶ月、もうすぐ5ヶ月に達しようか・・・というところですので、当然、リアルタイムでこの日付に何か心当たりがあるわけでもありません。
この日付・・・、実は先頃、お亡くなりになったギャグマンガの巨匠・
赤塚 不二夫氏が
トキワ荘から退居した日付なんです。
トキワ荘といえば、今更、改めて言うまでもなく、
手塚治虫氏を慕って集まった
藤子不二雄A・B、石森章太郎ら新進気鋭の漫画家が巣くっていたいたアパートで、ここを退居するということは、単にアパートを引っ越すということではなく、
独り立ち・・・という意味合いがあったように思います。
(無論、必ずしも、皆、
卒業ばかりでなかったのでしょうが、いずれにしてもここを出るということは、形は違えど、
青春時代との決別ではあったでしょう。)
赤塚氏がここを出たとき、すでに、
寺田ヒロオ、藤子不二雄A・Bを初め、主立った顔ぶれはすでに巣立っていたようですが、なぜ、そのようなことを言うかというと、実はこのとき、
福岡市下人参町の当家でも同じようなことが起こっていたからです。
この前年に私の父が嫁を迎えたことで、たくさん同居していた祖父の弟子(つまり、父の兄弟弟子)らも、はっきりと
代替わりを悟り、一人、また一人と、それぞれ嫁を迎えるなり、独立するなりして当家を巣立って行ったようで、さらに先述したとおり、このちょっと前に
嫡男である私が生まれたことで、父が当主で、祖父が隠居・・・という流れは決定的になったようです。
その意味では、この動きは、トキワ荘と当家に限ったことではなく、
終戦から
15年が過ぎたことで、日本そのものが
青春時代との決別期だったようにも思えてきます。
平太独白