太平記をスピンオフで歩く。 その7 「続・激突、多々良浜」 福岡市東区

先日の続きです。


すっかり、余談が長くなりましたが、ここでようやく話を元に戻しますと・・・の前に、立花道雪こと戸次鑑連の墓(↓)です

e0027240_18042836.jpg

で、本題。

まだ要塞化される前の松崎台地に登った足利尊氏が敵のあまりの大軍に絶望し、自害を口走り、弟の直義に止められた・・・という件ですが、実はこの話には伏線があります。


まず、尊氏一行は上方から落ち延びてきたとき、満足な武装すらしていなかったらしく、出迎えた肥前国守護の少弐頼尚の父、貞経が装備品の調達をしていたものの、菊池武敏らに率いられた宮方の軍勢が少弐の本拠大宰府を襲撃したことから、貞経は自害、尊氏一行の為に用意されていた武具もすべて焼失してしまったと。

つまり、尊氏が松崎台地の上に立ち、「もうダメだ」と嘆いたとき、その彼我の兵力差もながら、満足な武装すらしていなかったわけで、素手で完全武装した10万の軍隊に立ち向かうような気分だったでしょうか。

なるほど、確かに、尊氏ならずとも、「こりゃだめだ」という気になるでしょうね。

惨めに辱めを受けるくらいなら・・・と思うのもわかるような気がします。

さらに、自害するという尊氏を諫めたのも実弟直義ではなく、足利軍に加わっていた少弐頼尚だったという話もあります。

頼尚は、既に父を討たれているのみならず、敵軍を主導する菊池武敏とは仇敵の間柄、降伏という選択肢はなかったでしょう。


両者の確執は建武の新政の直前、一足早く決起した菊池一族が鎌倉方の鎮西探題館を襲撃した際、少弐、大友も誘ったにもかかわらず、彼らは裏切り探題側について菊池氏を攻撃。

結果、菊池一族は敗退して、多くが館の一角で首を切られました。


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(↑昭和の地下鉄工事の際に大量の頭骨が出土した所。識者により、この時に処刑された菊池一族の物では無いかと。)


なのに、ほどなく、中央で足利尊氏によって六波羅探題が陥落との情報が届くと一転、少弐、大友は鎮西探題を攻め、これを陥落せしめています。

菊池一族からすれば、「あいつらだけは絶対に許さん!」だったでしょうね。


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(↑尊氏はこの状態のまま、宗像大社に戦勝を祈願。筑前国宗像を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて筑前国の多々良浜に進出します。この期に及んでも尊氏に味方しようとする勢力があったということは注目すべきかと。)


ということで、次回に続きます。

                 平太独白

# by heitaroh | 2018-05-13 17:26 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その6 「激突、多々良浜」 福岡市東区

先日の続きです。


戸次鑑連(立花道雪)の奮戦により、小早川隆景が守る多々良川防衛線の一端が突破されたことにより、毛利軍は立花山城に撤退。


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(↑戸次隊が渡河したのがどの辺りだったのかはわかりませんが、おそらく、このもっと向こうなんだろうと思います。)


毛利としては背後の立花山城の防衛が目的なのであって、無理してここで損害を出してまで決戦を挑む必要もない・・・ということだったのでしょうが、でも、それは机上で物を考えるほど簡単では無かったはずですよ。

「敵の一隊が川を渡ってこちらに向かっている」という報せを受けての撤退ですから、ある意味、敵前撤退に近く、一歩間違えば潰走に繋がりかねないわけで・・・。

こういう記述を見ていると、いつも、「戦いに次ぐ戦いで鍛え抜かれた戦国武士団」という言葉を思い起こします。

さすが、武勇に優れた吉川元春・・・。

かつて、敗走しているフランス軍の前に白馬に乗ったナポレオンが現れると、兵士たちはUターンして敵に向かっていったといいますが、そこまではないにしても、これもまた、見事な統率力だったと言わざるを得ないでしょう。


e0027240_15085953.jpg
(↑松崎台地から見る多々良川上流方向。右が多々良川、後方が河口。毛利兵が大友軍が姿を現すであろうと睨みし景かと。)


もっとも、多々良川の防衛線を突破したとはいえ、大友軍の損害も多く、この状態で、堅城・立花山城に籠もる手つかずの毛利軍主力を攻略できるはずもなく、双方とも再び、手詰まりとなってのにらみ合いとなったと。

ここで、後方にいる主将・大友宗麟が動く。

毛利が中国統一の過程で追った周防の前国主・大内の一族である大内輝弘に兵を与えて周防に送り、旧領回復の兵を挙げさせ、さらに、毛利の仇敵である山陰の尼子勝久山中鹿之助幸盛らが旧臣に奉じられて挙兵、山陽の浦上とも連携し、一気に毛利包囲網を形成した。

こうなると形勢逆転。

孫の毛利輝元とともに後方にいた元就毛利軍主力を呼び戻すこととし、吉川、小早川の両川は「一戦した後の撤退」を主張したが、元就は譲らず、やむなく、敵前撤退を開始。

少なくない被害を出しながらの撤退となり、以後、元就の死と、それに続く、織田信長の台頭の前に九州を顧みる余裕を無くしていく・・・と。


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(↑松崎台地より後方の立花山を望む。狼煙通信でも簡単な意思疎通は出来たであろうが、目が良い者であれば肉眼でも見えたのでは無いか。私も20歳くらいのとき、このくらいの距離で山麓を行く車の運転手が見えた。)


ということで、すっかり余談が長くなりましたが、次回より原点回帰(?)ということで。


                    平太独白


# by heitaroh | 2018-04-07 07:56 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

太平記をリスペクトしてスピンオフ的に歩く。 その5 「続・第二次多々良浜合戦」 福岡市東区

ちょっと間が空きましたが、先日の続きです。


つまり、18回も小競り合いが続いていたのであれば、足利尊氏望見の松崎台地立花山城の出城として城塞機能を強化されていた可能性は十分にあるかと。

ここを城塞化することは、多々良川下流からの渡河に睨みをきかせることが出来るわけで。

ちなみに、多々良川は一級河川が無い福岡市にあっては比較的、川幅が大きな川です。

海に注ぐ辺りの幅はおそらく、福岡市の川では一番広いのでは無いでしょうか。

当時はダムなど無い時代ですから、水量も今より多かったはずで・・・

特に兵農分離前の合戦シーズンは冬。

もっとも、両度の戦いは必ずしも厳寒の季節では無かったようですが。


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(↑ちょっとわかりにくいかと思いますが、左に見えるのが多々良川下流。左から右へと流れており、その先にわずかですが博多湾が見えています。)


で、この戦いに至った立花山城争奪戦の経緯について記しておきますと、当時、大友毛利は北部九州の覇権を賭けて激しい争奪戦を繰り広げており・・・。

まず、一旦は室町幕府第十三代将軍・足利義輝の仲介によって和が保たれたものの、所詮、「平和とは戦争と戦争の時代」という言葉そのままの一時的な均衡に過ぎず、その間にも、謀略に長けた毛利元就の浸透工作は進み、結果、永禄1015671月、筑前の武将・秋月種実から、大友の重臣・高橋鑑種までもが毛利に靡き挙兵という形になって火を噴きます。

これに対し、大友宗麟は秋月、高橋を討伐すべく、大友自慢の戸次鑑連(後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理の三家老に兵を与えて攻めさせるも、逆に、秋月勢の奇襲を受け敗北。

こうなると、筑前、筑後の国衆は動揺し、大友方の劣勢は日を追うごとに際立ってきます。

永禄111月には、大友方の筑前の重要拠点・立花山城を任されていた立花鑑載が叛旗を翻し毛利方となるも、大友が誇る三老も、毛利の援軍が到着する前に陥落させるべく、立花山城に押し寄せ、三ヶ月に渡る攻城戦の末、再び、立花山城を陥落させ、立花鑑載は自害。

すると、大友軍が秋月攻めに向かっている間に、毛利方も、「両川」と呼ばれる元就の次男吉川元春、三男小早川隆景らを送り込み、三度(みたび)、立花山城は毛利の手に。

攻守所を変えという言葉そのままのめまぐるしい展開ですが、結果、立花山城を再奪還したい豊州三老率いる大友軍と、これを阻むべく、城から打って出て多々良川付近に布陣した両川の毛利軍が睨み合う事態となります。

が、当時の多々良川河口付近は海からずっと続く干潟となっていたことから、毛利方の格好の防衛線になっており、大友方としても肝心の立花山城攻略の前に甚大な被害を出すわけにもいかず、結果、両軍は川を挟んで睨み合うことになったと。


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やがて、大友勢は対陣地よりやや上流に行った所にある長尾(現在の福岡市東区名子付近)から迂回渡河することを企図しますが、ここを守っていたのが後に碧蹄館の戦いでは日本軍を率いて戦う智将・小早川隆景。

さすがに抜かりはなく、大友勢は大いに苦戦したものの、戸次鑑連自ら陣頭に立って戦う決死の奮戦により、遂に、小早川勢を駆逐し、長尾を奪取しています。

これが、巷間、第二次多々良浜合戦・・・と呼ばれるもののハイライト部分の概略です。

ということで、また次回に続きます。

                       平太独白


# by heitaroh | 2018-03-19 19:53 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

え?何周年なんだ・・・もうわからなくなってきた祝13周年記念特別号!
おかげさまで、拙ブログも気がつけば13年!を迎えることができました。
これも偏に皆様のお引き立ての賜物と厚く御礼申し上げます。

思えば、拙ブログを始めた2005年なんて、私にとっては、つい最近のようですが、13年前なんですね。
中曽根康弘さんが総理大臣になったとき、「戦後政治の総決算」を謳ったのですが、当時、私はそれを聞いて、「この人、何言ってんだ?」と思いました。
だって、私にとって、戦後なんて、既に生まれる前の出来事。
決算も何もそんなもん、とっくに済んでいるでしょ・・・みたいな感覚でしたが、従軍世代である中曽根さんにとっては戦後というのはそれほど昔のことでは無く、あくまで、延長線上のことだったんでしょうね。

e0027240_18015010.jpg
例年、周年のときは「道」の画像を上げてますので、今年も・・・と思ったのですが、今年は敢えて、見落としそうな小径といたしました。
誰もが通る大道ばかりが道ではなし・・・ということで。

e0027240_17303310.jpg
道と言えば、ついでに、これ(↑)。
のCM以来、すっかり有名になってしまった福岡県の宮地嶽神社「光の道」です。
この日はまだ、光の道が出来る日では無かったのですが、既に人だかりが・・・でした。
有名になりすぎるのもいかがなものかと。

ということで、もう、何周年になったのかかなり、わからなくなってきてますが・・・。
本当は20日頃じゃなかったかな・・・のような・・・。
でも、思い出したときに上げておかないと忘れるし・・・。
そもそも、何日から始めたか控えてなかったし・・・で、今年も惰性でぼちぼちと14年を目指して頑張ります。
            平太独白


# by heitaroh | 2018-03-13 18:14 | その他 | Trackback | Comments(2)

太平記をスピンオフで歩く。 その4 「第二次多々良浜合戦」 福岡市東区

先日の続きです。

足利尊氏が敵の大軍を見て絶望した所はあまり見通しも良くなかったので、行き止まりとは書いてあったのですが、もう一段下の道に降りてみました。

ここは、高さは尊氏望見の場所より一段低くはなるのですが、目の前を遮るような物は無く、「穴場」かと思われるほど眺望が利きました。


e0027240_19444732.jpg
(↑まさしく、この建物が建ち並んだ部分に敵が充満していたのだと思うと、尊氏が絶望したというのもあながち、嘘でもないような。)

敵は二万騎といいますが、もし、純粋に戦闘要員だけが二万人いたとして、一人辺りの占有スペースを1㎡で計算すれば、単純に2kmx1km。

正面に対峙する形で出来るだけ展開させたとすれば横方向に2km、奥行き1km。

つまり、ほぼ、ここから見える風景の前半分はすべて敵で埋まっていたということになります。


で、この撮影ポイントですが、突き出した二本の山の尾根の上にあって、その尾根と尾根の間がUの字になっており(↓)、これって、自然の地形にしては出来すぎてるんですよね・・・、何だか出丸みたいで。

e0027240_12320744.jpg
でも、ここが城だったとは聞いたことが無いし、何より、尊氏が登ったときは決戦の直前であり、土木工事をする余裕なんて無かったはずです。

で、思い出しました。

多々良浜合戦は二度あったんだ・・・と。


第一次合戦で川を挟んで睨み合ったのが足利尊氏と菊池武敏であったのに対し、第二次合戦で対峙したのが大友宗麟毛利元就

ただ、大友と毛利の合戦と言いながら、実際には大友宗麟は実戦型の武将では無く、毛利元就はこの時、既に高齢であったため、実際に対峙したのは、それぞれ、立花道雪小早川隆景でしたが、両者ともに代理とは言え、音に聞こえた名将同士。

西の川中島」と言っても良い、上杉謙信、武田信玄にも劣らぬ激しい合戦が繰り広げられたようです。

もっとも、この戦いも川中島合戦と同じく、一回きりの決戦では無く、長期間に渡り、計18回の対陣があったと言われており、そのうち、激戦となったのが永禄121569518日の合戦だと言われています。


この戦いはそもそも、第一次と違い、在地領主同士の領土拡張戦争。

従ってその目的は、多々良川の領有ではなく、国際貿易港・博多の確保のための筑前奪取であり、そのためにまず目標となったのが要衝・立花山城の領有でした。

e0027240_19411259.jpg
(↑山頂付近より振り返る立花山。)


いわゆる、「目的はパリ、目標はフランス軍」ならぬ、「目的は博多、目標は立花山城」ですね。


次回に続きます。

                      平太独白


# by heitaroh | 2018-02-15 06:04 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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