タグ:黒田長政 ( 9 ) タグの人気記事

福岡城抜け穴伝説を検証 その1
福岡市南区に穴観音という所があります。
穴の中に観音様が彫ってあるから穴観音。
わかりやすい名前です(笑)。
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ここは古墳だったのですが、誰かが後年、ここに観音様を彫ったわけですね。

ただ、元々、古墳はここ一箇所だけではなく、一帯には古墳がたくさんあったそうですが、1600年、関ヶ原の戦いの後に新たに筑前の領主と成った黒田長政が自らの居城、すなわち、福岡城を築く際に辺り一帯の古墳を壊して石を持って行ってしまい、ここだけになったのだとか。
(当時の築城は廃物利用が多かったそうで、他にもそれまでの国主の居城があった福岡市東区の名島城などからも多く持ってきたと聞いております。)
結果、福岡城の石垣には今もここと良く似た石が使ってあったりするんだそうです。

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で、この穴観音ですが、福岡城より緊急脱出用秘密の抜け穴」が通じていたという伝説があります。

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ここは今は、曹洞宗のお寺になっているのですが、境内には昭和10年に建設されたという赤穂浪士の墓があり、抜け穴はこの辺りにあって、これが出来た際に塞がれたんじゃないか・・・とのことでした。
ちなみに、ここには、「カップルがここでイチャイチャしてたら、突然、石垣から石が一つゴロンと転がり落ちて、見てたら中から誰か出てきて、石を元に戻してそのままどこかに行った・・・」などという都市伝説(アリエネー(笑)。)などもあります。
(こういうことを言い出すのが福岡人です(笑)。)

ちなみに、この赤穂浪士の墓ですが、首を傾げられる方も多いと思います。
それもそのはず、赤穂浪士の墓は東京品川泉岳寺にありますし、刑が確定するまでの間、各浪士はいくつかの藩に分散されて収容されていましたが、岡藩はその中にすら入ってないわけで・・・。

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どういうことかというと、昭和の初めに東京観光に行った人が品川泉岳寺にて赤穂浪士の墓を見て痛く感銘を受け、帰郷後、泉岳寺にあるそれとそっくり同じ物を作った・・・と。

従って、墓はあっても遺骨はなく、血のついた太刀を洗ったという手水鉢はあっても血は流れてないわけです。

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他県の友人にこれを見せると、「まあ、今で言うテーマパークだな」と言いますが、ただ、かといって、これはそれほどいい加減な想いで造られた物でもなく、今でも12月14日の討ち入りの日には義士祭が行われ、信仰の対象として、私の祖母や母などは毎年行ってましたから。
で、話を本題に戻して、抜け穴の件ですが・・・、次回に続きます。
                                                              平太独白

by heitaroh | 2013-11-29 13:58 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

「甲斐甲斐し 師走の甲斐も 甲斐があり」師走山梨 その2
昨日の続きです。

甲府到着がちょうど、昼頃でしたので、戴きましたよ。
放蕩・・・じゃなくて、宝刀・・・でもなく、山梨県名物のほうとう・・・(笑)。
ぺろりと2杯平らげ、次に向かった先が・・・県庁(↓)

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今でも、絵葉書にそのまま使えそうな佇まい・・・でしたが、なぜか、真ん中にどでかい煙突が立っており・・・。
誰に聞いても何のためにそこに立っているのか不明でした。
ゴミ燃やすだけなら、こんな、どでかい煙突はいらないでしょうし、文化財という程には古くないなあ・・・と。

で、県庁を抜けて次に向かったのが、その傍らにある甲府城

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恥ずかしながら、私は「武田家滅亡後、甲斐に入った徳川家康は武田家の躑躅ヶ崎館があった古府中ではなく、少し離れたこの地を新たな拠点とした」とは記憶しておりましたが・・・、また、確かに、江戸時代は江戸の背後ということで、徳川義直、徳川忠長、徳川綱豊(家宣)、柳沢吉保ら、徳川将軍家の信頼が厚い有力者が配されて来たという認識はありましたが・・・・、それでも太平の世のそれですから、城と言うよりも居館というような物を想像しており・・・。
甲府城がこんなに立派なものだとは知りませんでした。

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で、ここ、甲府城と我が、福岡市の福岡城との意外な共通点が幾つかあることに気づきました。
まず、甲府城の別名は「舞鶴城」だそうですが、実は福岡城も「舞鶴城」と言い、今では福岡城一帯を舞鶴公園などと呼んでおります。
次に、福岡城は我々が子供の頃は徳川家に遠慮して天守閣を作らなかった城・・・と聞かされていたのですが、最近の研究では「実は在ったけど、撤去した」・・・という意見が強くなってきているようです。
で、一方の甲府城ですが、聞けば、こちらも昔は「天守閣はなかった」となっていたそうですが、最近では天守台から地鎮祭をしたような遺構や鯱の瓦が出てきたので、実は在ったんじゃないのか・・・という意見が強くなってきているのだとか。

ちなみに、福岡藩祖・黒田長政は関ヶ原の戦い後に筑前を領有し、「筑前守」を名乗りますが、それまでは、官職名は「甲斐守」を名乗っており、長政死去後は宗家・福岡藩の当主が筑前守を、支藩・秋月藩の当主が「甲斐守」を名乗ることが多かったようです。
福岡と山梨、縁もゆかりもないようですが、意外に・・・。

また、いずれ続きます。

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白
by heitaroh | 2012-12-22 07:41 | 地域 | Trackback | Comments(0)

「酒飲めば 夢に見るなり 崇福寺」 その2 如水軒殿


先日からの続きです。
書ける時に書いておかなければ・・・と。

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この、福岡市博多区にある崇福寺ですが、私にはここは「お地蔵さんの寺として子供の頃から馴染み深い寺であると同時に、一方では、筑前福岡藩の歴代藩主の菩提寺でもありまして・・・。

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で、山門(↑)を見に行ったついでに境内もふらりと一周していると、普段は立ち入ることが出来ない歴代藩主の墓が一般開放されているではないですか。

e0027240_15452985.jpgこれは結構、びっくり仰天な出来事でして、私も恥ずかしながら、拙著「黒田家三代」の中で描いておきながら、これまで柵の前から遠目で覗いたことがあるだけでした。

で、「何たる幸運!」と、慌てて番号札をもらって行って来た次第だったのですが、「福岡藩の藩主なんて興味無いや・・・」と仰るなかれ、福岡藩の藩主は黒田家ですから、黒田家と言えば歴史ファンの人気も高い、あの、如水こと、黒田官兵衛孝高の墓もあるんですよ。

で、黒田如水公といえば、豊臣秀吉の軍師で、あまりの切れ者ぶりゆえに逆に秀吉から警戒され続けた・・・と言われている人ですよね。

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(↑こちらが黒田如水の墓です。彼自身は京都で亡くなっていますが、福岡藩の始祖ということで、改めて、こちらに埋葬されたようです。)

その隣が、息子で、福岡藩の初代藩主となった黒田長政の墓でしたが、やはり、如水さんの墓だけは別格って感じで、四面ともびっしりと、故人の功績を讃えた漢字が刻み込まれてましたね。
(置いてある賽銭も如水さんの前だけがたくさん・・・でしたので、見かねて、私は長政公の前に置いてきました(笑)。)

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(↑この痛々しさが昭和を感じさせます。ちなみに、博多には「博多塀」と呼ばれる塀があります。博多は戦国時代、何度も戦火で焼けており、言ってみれば「廃物利用」で作られた塀ですね。)
                                         平太独白

by heitaroh | 2012-05-19 17:55 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

「酒飲めば 夢に見るなり 崇福寺」 その1 参門
先日、まだ私が目が回るような多忙な中に居た頃(本当に頭がくらくらしてました。)、それでも敢えて、時間を割いて行ってきた所があります。
福岡市博多区の福岡県庁近くにある崇福寺です。

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ここは、筑前福岡藩黒田家の菩提寺であると同時に、「お地蔵さん」の寺としても知られておりまして、実は私が物心ついた頃から、どういうわけか、いつも連れて行かれていた所でした。
まあ、母としては、「子供を連れてお地蔵さんにお参りに行ってくる」というのは、数少ない息抜きの場だったのでしょう。
それだけにで、私にとって、ここは、「昭和30年代」をもっとも体現した場所でして・・・。
で、ここに行くときにいつも見上げて通っていたのがこの山門(↓)・・・です。

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(昔は両側に店が軒を連ねており、もっと、雑多な人たちで賑わってました。)

e0027240_12313330.jpgとなれば、子供心に「一度でいいから上がってみたいな・・・」と思うのも人情でして、それは大人になってからもこの山門を見上げるたびに、遠い昔の切ない願いとしてフィードバックされていました。
それが、聞けば、一般開放されるというじゃないですか。
で、多忙さの中、ふと、締切に気づいたのが3日前・・・。
翌日はもう、終日、予定が詰まっておりましたので、今日か明後日か・・・ということになり、本当はそれどころではなかったのですが、意を決して、思い切って、行って参りました。

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(↑この先に何があるか、ずっと知りたかったんです。ちなみに、こう言うと、大概、「何があった?」と聞かれますが、「あった」んじゃないんです。「いた」んです。そこから先は言うと減るので言いません(笑)。)

で、この参門、実は最近知ったんですが、由緒正しき参門だったようで、元々、福岡城の門を移築した物だそうですね。
従って、中にはこれ(↓)が展示してありました。

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黒田家の瓦だそうですが、始祖・黒田如水も藩祖・黒田長政も、共にキリシタン大名だったという過去があることから、瓦に密かに十字架を刻んでいたのではないか・・・と。
それがこの瓦だと・・・。

明日に続く・・・と思います。
                                         平太独白
by heitaroh | 2012-05-16 11:42 | Trackback | Comments(0)

年の初めの東京de黒田長政の墓探訪記 前編
昨日も申しましたとおり、昨一昨日と、ちと東京まで行っておりました。
で、そうなると、ご多分に漏れず、いつものように業務に追われております。
暫時、手抜きをお許しください。

で、東京に行ったついでに、拙著、「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」(←ここからも買えます。どうぞ、宜しくお願い致します(笑)。)で描いた筑前福岡藩初代藩主・黒田長政の墓が東京にもあると聞き、一応、行ってきました。
それが、渋谷区広尾5丁目の祥雲寺(↓)です。
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ここはどなたの設計になるのか存じませんが、山門をくぐった瞬間が一番、絵になるように設計されているようですね。
この向かって左の方に墓地があるのですが、少しそちらへ歩みを移すと、もう、さして美しくないんですよ。
私は広尾という所は初めて行きましたが、聞いていたとおり、賑やかな所でそれは参道沿いも例外ではなかったのですが、この参道の突き当たり、山門をくぐると拡がる周囲の喧噪とはほど遠い、静かな美に感心しました。
設計された方は、なかなかの手練れだと拝察致しましたよ。

e0027240_156311.jpgで、こちらがその黒田長政の墓(←)ですが、私が思うに、ここに遺骨は無いんじゃないかと・・・。

長政は京都で死んで、遺体は福岡に運ばれ、箱崎(現福岡市東区)で荼毘に付され、崇福寺(現福岡市博多区)に埋葬されましたから・・・。
ただ、没時には嫡男で二代藩主となった忠之は京都から福岡まで一緒に着いてきていたのですが、長政の江戸にいたでしょうから、分骨を望んだという可能性もないわけではないでしょうが・・・。

で、祥雲寺で、その辺の説明を知りたかったのですが、ただ、「ここの和尚さんと懇意だったから・・・」ということしか書いておらず、その辺の説明が無いところを見るとあるいは遺髪も無いんじゃないのかな・・・と。
つまり、遺族にとっての故人を偲ぶための仏壇状態だったのではないか・・・と思うのですが、如何でしょうか。

週明けに続く・・・と思うが予定は未定・・・(笑)。
                                         平太独白

by heitaroh | 2011-01-15 08:08 | 地域 | Trackback | Comments(10)

性懲りもなく「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」告知
親愛なるアッティクスへ

e0027240_141831.jpgこのたび、またもや、性懲りもなく、「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」
という歴史小説を出版しました。

内容をかいつまんで申し上げますと・・・、
戦国時代、名うての知恵者として知られた黒田如水も、その智謀ゆえに、その主君・豊臣秀吉との間にを繰り広げるが、やがて、その子で後に福岡藩初代藩主となった黒田長政も、その重臣で兄弟子(あにでし)とも言うべき後藤又兵衛との間に激しい相克の炎を燃やす・・・。

そして、時代は下り、福岡藩二代藩主となった長政の子・黒田忠之もまた、その後見役ともいうべき重臣、山大膳との間に再び、激しい反目の嵐を巻き起こし、「黒田騒動」と呼ばれる御家存亡の危機をもたらす・・・。

黒田家三代の藤と相克を描いた作品ですが、現代でも、中小企業などでは少なからず見られる人間関係にも共通する者があるように思います。
ということで、ご興味お有りの方も、そうでない方も、どなた様も遠慮無くご協力のほど宜しくお願い致します。
結構、生活がかかっております(笑)。

一応、書店でも並ぶ予定にはなっているのですが、どこの書店に置いてあるのかはまだ、出版社からは何も言ってきませんが、こちら→(「黒田家三代」)を押して頂いても、また、右サイドに表示されている「ライフログ」の中からも買えますので、どうぞ、宜しくお願いします。

(こちらでも買えます。)
     ↓
http://www.bk1.jp/keywordSearchResult/?keyword=%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AE%B6%E4%B8%89%E4%BB%A3&storeCd=1&searchFlg=9&x=19&y=8

                                         平太独白

by heitaroh | 2010-12-21 07:12 | 私小説 | Trackback(1) | Comments(12)

釜山紀行 その5 倭城
昨日の続きです。

最終日、ホテルをチェックアウト後、釜山市内より車で小一時間ほどの所にある片田舎の漁村へ・・・。
なぜ、そんなところに行ったかというと、ここに目指すべき主目的、機張城があるからです。
機張城というのは朝鮮式の城ではなく、豊臣秀吉文禄慶長の役の際、日本軍が防衛拠点とするために築いた日本式の城で、いわゆる、倭城と呼ばれている物の一つですね。

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(↑上の方に石垣が見て取れるのがおわかりいただけるでしょうか。)

ただ、日本に残る安土桃山時代の城跡のほとんどが、江戸時代に徳川幕府による一国一城令でもって完全に破却され、破却を免れた物も、大名の威光を示す為の象徴的な物へと作り替えられたことから、実戦用要塞としての「城塞」というものが日本国内では殆ど残ってないのに対し、朝鮮半島ではうち捨てられていたことで、逆に良好な状態で残っている・・・と。
ということで、一度、機会があれば見てみたいとは思っておりましたが、なぜこの城か・・・というと、それは、ここが後に筑前福岡藩初代藩主となる黒田長政が築いた城だからです。
(最近、日本人観光客が増えたんでしょうね、今回は階段なども作ってありましたが、前回来たときには、まったくの小丘だったそうです。)

e0027240_14282487.jpgで、ここに登って、長政が見たであろう視線の先に想いを馳せてみると、まず、眼下には小ぶりながらも良港があり、かつ、何とも眺めが良い・・・。
(ガイドさんによると、倭城はすべて、こういう眺めが良いところにあると。)
さすがに戦国武将の戦術眼は確かだな・・・と。

さらに、ここは、重要拠点・蔚山釜山の中間となる地点で、蔚山の孤立化を防ぐために確保しておかなければならない要衝だったわけで、だからこそ、長政が託されたわけですね。

で、この海を眺めていて、ふと思い出したことがあります。
長政ら、当時の日本軍将兵とは逆に、古代に百済新羅などの使節団が、この海の向こうにある日本に来るとき・・・のこと。
彼らは、前もって、「使節を送りますよ」と通達した後に来るのではなく、突然、船団を組んで訪ねてくるものだったそうですね。
まあ、考えてみれば、今と違い、電信設備があるわけではなし、航海自体が無事に行って帰ってこれるとは限らない命がけの旅だったわけですから、通達の使節自体、無事、到着するかどうかわからないわけですから・・・。
ただ、驚くべきはその使節団の内容で、中には、一度に700人くらいが、突然、訪ねてきたという記録もあるとか。
ところが、当時の日本政府にしてみれば、大宰府からの指示も無しに、使節団一行が勝手に市民と触れあったりして、愚民によけいなことを吹き込まれては敵わないから、決して、彼らを一般市民と触れあわせるようなことはしなかったそうです。
そのために、緊急の収容の必要に迫られて博多湾に作ったのが鴻臚館で、ここは、迎賓館という立て前とは裏腹に、実際には刑務所みたいな作りになっていたと・・・。

で、最後の締めとして、今回の釜山で印象に残ったことが一つ。
それは、「セコムしてる家が多い」ということ。
機張の海沿いの民家みたいなところまで「セコム」のシールが貼ってありましたからね。
商魂こめ~て~♪、恐るべし、セコム・・・。
                                         平太独白

by heitaroh | 2009-01-22 17:48 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

廃嫡とは何とも難しい・・・
親愛なるアッティクスへ

昔、主役に無名の役者抜擢しながら、途中でその俳優を降板させた原作者が、その役者から刺された・・・という事件がありました。
この俳優さんは、その後も、色々と問題を起こしたりしたようにも聞いておりますから、まあ、元々、問題がある人だったのかもしれませんが、一方で、一旦、抜擢しておきながら、途中で安易に降板させた原作者の方にも非がないとはいえないと思います。
おそらく、その役者さんは無名だっただけに、この大抜擢に、粉骨砕身、全身全霊を賭けて役を演じようとしていたはずで、それが突然、大した理由もなく降ろされたわけですから、やはり、納得は出来なかったでしょう。
無論、だからといって、こういう傷害事件に走るなどというのは論外でしょうが、ここで言いたいのは、この事件の是非ではなく、一度、決まったものを変えるということがいかに難しいか・・・ということであり、つまり、変える場合には、「変えるなりの理由」がなくてはならないということですね。
ところが、そう言いながらも、この点では、実に興味深い事例があります。

豊臣秀吉片腕として、太閤記などでも有名な黒田官兵衛の嫡男黒田長政が、関ヶ原の戦いの功績によって筑前一国を与えられたことから創設された筑前福岡藩52万石ですが、その長政は晩年、嫡男忠之の気性を危ぶみ、これを廃嫡し、弟長興二代藩主とすることを検討したといいます。
ただ、このときは、忠之付きの重臣、栗山大膳が強く反対したことで、これを断念し、やがて、長政が死ぬと、忠之が二代藩主となったのですが、時が経つに連れ、忠之はその危惧されたとおりの気性で、実力者・栗山大膳との軋轢を深め、その結果、大膳から幕府に対し、「忠之に謀叛の心有り!」と訴えられてしまいます。
これが、映画や講談などで有名な「黒田騒動」と呼ばれるお家騒動なのですが、まあ、曲折あった物の、結果は無罪となって一件落着・・・となるのですが、あわや、お家お取り潰し・・・存亡の危機にまで行ってしまったわけですね。

一方、その忠之の子供である三代藩主光之は嫡男綱之「酒癖が悪い」という理由で廃嫡し、弟である綱政を四代藩主とします。
ところが、その光之が、当時としては記録的な長命の80歳まで生きながら、最後まで実権を離さなかったことから、光之は綱政とも険悪となり、その結果、光之死後、綱政の恨みは光之側近で実力者であった立花実山へと向かい、さらに、廃嫡後、長年にわたり幽閉されていた実兄綱之が復権する事への恐怖へと繋がり、それから間もなく、二人とも幽死したことから(死因については定かではないようですが・・・。)、少なくとも、綱之死去に対しては、あまりにもタイミングが良すぎたこともあり、幕府から「兄の復権を恐れた綱政が殺した」と嫌疑が掛けられ、黒田家は再び、取り調べを受けることとなり、またもや、「第二の黒田騒動」と呼ばれるお家存亡の危機をもたらしてしまうわけです。

廃嫡しなかった長政と廃嫡した光之・・・。
結果は、いずれも同じく、黒田家を存亡の危機におとしめてしまったことを考えれば、大きな運命の歯車の前には人選などというこざかしい人間の思惑は無意味なことなのでしょうか・・・。
                           平太独白
by heitaroh | 2008-12-10 08:30 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

藤堂高虎に見る「一芸」か「オールラウンドプレーヤー」かのハムレット的考察・後編
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

で、藤堂高虎のこの言葉です。
高虎は、当時の平均身長より30cmも高かったという巨漢であったことを活かして(今なら2m近い大男・・・ということになるでしょうか。)、まずは先述の通り、「敵の首を取る」という槍働きからスタートしたわけですが、とかく技術屋というものは、ひたすら、この最初の分野だけ、つまり槍働きだけを追求しがちのように見受けられます。
この時代にも、戦場でだけ有能な、軍事技術というものの技術屋がたくさん居たようですが、彼らの中には、次にランクアップしたときに、槍一筋からレベルアップすることを考え、謀略の分野を磨く者も見受けられたようです。
黒田長政などがこれに当たるでしょう。

高虎は、これにさらに、もうワン・ステップ必要だと考えたようです。
どうしたか?
槍働きと謀略に留まらず、築城技術スペシャリストとなることを目指したわけです。
(これは私には、高虎が次のステージランクアップするべく考えを巡らせている間に、誰か、目先のことを処理してくれる番頭のような人がいたような気がします。)
この点では、加藤清正なども、剛勇であると同時に築城の名手としても知られておりますが、彼は謀略に長けていたかというと、少なくとも高虎ほどではなかったように思います。

そしてさらなるランクアップの結果として、一国一城の主となれば、当然、必要とされる分野として、「領国経営」というものが出てきたわけで、これは高虎に限らず、その立場になったなら、どの武将も、好き嫌い言っていられる問題でもなく、当然、高虎もこれに熟達しようとしたし、それを補うべき人材も求めたでしょう。
(この辺が本田宗一郎氏が専門知識を得るために社会人になって以降に聴講生となったことや、盟友・藤沢武夫に経営の一切を託したことなどに通じるのでしょうか。)
それ以前のレベルアップは、自分が上に上がる為に自ら選択したものであったのに対し、この領国経営というものだけは、好むと好まざるとに関わらず、立身出世の結論として必要になった物だからです。

ということで、ここまで見てきて、「一芸に秀でる」べきか、「バランスのとれたオールラウンドプレーヤー」を目指すべきかですが、結論として、「多芸であろうとする努力、可能性は常に探らなければならない。が、明らかにこの方面では自分には無理だ!という限界を感じたならば、得意分野のみに集中して、その分野を誰かに補ってもらった方がいい。」というふうに愚考致す次第です。
ま、あくまで、「食わず嫌い」で終わってはいけないということでしょうか。
ついでにもう少し、高虎について触れておくならば、彼は秀吉死去後、石田三成徳川家康との暗闘が続いている関ヶ原前の重要な期間、どこにいたか?
実は、彼は国内にはいなかったのです。
秀吉の朝鮮出兵の後始末、講和交渉を行っていたのです。
戦闘、謀略、築城、政治、経営、外交・・・。
秀吉にしても、家康にしても、こういう高虎のような人材が下請けに一人いると重宝したでしょうね・・・。
                                         平太独白
by heitaroh | 2005-12-09 00:30 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
S M T W T F S
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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