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英賀合戦の地を歩く「なんじゃこりゃ?」の巻
先日、ちょっと京都まで行ったので、帰途、姫路に一泊し、かねてより行きたかった姫路郊外の英賀に行ってきました。

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(↑姫路城遠望。降りたら正面に城が出迎えるという駅も珍しいですよ。)

英賀と言えば、天正5年(1577年)5月、東上を開始した毛利の先遣隊5千を若き黒田官兵衛孝高(当時は小寺官兵衛)がわずか500の軍勢でこれを破った英賀合戦で知られる地ですね。

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私の認識では、毛利の一翼を担う小早川隆景の部将・浦宗勝に率いられた五千が、本軍に先駆けて、まずは、同盟する播磨国の英賀の地に上陸し、船旅で疲れて休息していた所を官兵衛に襲撃され、再び、海に追い落とされた・・・というものでした。

ただ、現地に初めて行ってみて、「なんじゃこりゃ?」と。
まず、播磨へ東進する毛利軍は直接、海から英賀に上陸したのかと思っていたら、毛利軍は、合戦に先立ち、「海上から室津(現・兵庫県たつの市)に上陸し、英賀から姫路を目指した」となっており、室津ってどこ?と思い、地図を見てみたら、英賀から10kmくらい離れてるんですね。
ここに上陸して英賀を陸路で目指したのなら、「船酔いで休息」という前提自体が崩れるわけで。

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さらに困ったのが、官兵衛が襲撃した場所ですが、何も、毛利軍は上陸して野原でくつろいでいたわけではなく、英賀城という城の中の英賀御堂という、本願寺の施設の中にいたんですね。

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おまけに、一帯は当時は葦などが茂っていたとしても、特に目隠しになるような遮蔽物もなく、比較的、見通しのいい所で、小寺方が近づいてくれば見つかってしまう可能性が高い・・・。
だからこそ、毛利軍は油断していた、しきっていたといえるのでしょうが、それにしてもと。
つまり、官兵衛は奇襲とはいえ、わずかな軍勢で大兵力が籠もる城を攻撃したことになるわけです。

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(↑官兵衛が襲撃をかけた毛利兵休息の英賀御堂は、今では昭和の企業誘致で川の下。兵どもが夢の跡。)

おそらく、毛利方先遣隊五千のうち、半分が室津に上陸し、残り半分はそのまま航行を続け、英賀城の入り口、川沿いに設けられた英賀港に上陸し、そのまま、城内の本願寺に入って休憩していたということだったのではないかと思いますが、それでも、敵には2500の兵がいるわけで。
それに対し、小寺方は各地に抑えの兵を割かなければならず、また、小寺方と言いながら、主君小寺政職には大した戦意はなく、官兵衛手持ちのわずか500の兵しかいなかったと言われています。

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(↑官兵衛決死の背中を見送った播磨の山河。)

官兵衛はこの時、近隣の農民に旗を掲げさせ、織田の援軍が既に来ているように見せかけたことから、その智略を賞賛されてますが、でも、この程度なら、官兵衛ならずとも考えますよ。
まあ、毛利のこの大兵力を相手に戦おうと思う時点で既に常人離れした思考なのでしょうが。
ただ、こういう状況の中ではもう少し、何かがあったはずです。

ここで一つ思い当たることがあります。
英賀城主・三木通秋は一向宗の熱心な門徒であったものの、家臣の三木清閑は官兵衛の妹婿でもあり、その常人離れした才知のほどを妻から聞いていたのでしょう、かねてより官兵衛に協力的で、おそらく、この時も、心情的には官兵衛の味方をしたかったのではないかと。
が、主君を始め、領内の一向宗門徒へ配慮する必要に迫られ、やむなく、敵方についたと。
それだけに、官兵衛の味方をしないまでも、官兵衛軍が近づくのを黙認、いや、城内への侵入を手引してやったと。
そうでも考えなければ、どうにも、有り得ない話のように思えるわけです。

清閑の子孫はのち、福岡藩士となったといいますが、関ケ原合戦の翌年、慶長6年の福岡藩分限帳を見ると、家臣団の中に「三木」の姓を名乗る者が二人。
ともに、「吉」の字がついてますから、兄弟だったのではないかと思いますが各1200石と500石。
重臣とはいかないまでも、まずまずの身分だったかと。
彼らが、子孫だったのでしょうか。
                  平太独白
by heitaroh | 2016-11-25 06:44 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

惰性でもってるだけの祝11周年記念号!
去る3月20日、ふと見たニュースで、「福岡県西方沖地震から11年」・・・というのを見て、「あの日もちょうど休日でこんな良い天気だったんだ。書き始めたばかりだったブログにも書いたよな」と思い、はたと気付きました。
「あ!つーことは俺のブログも11年になるんだ!」と。
ということで・・・と言いながら、色々と世間の雑事に追われ、今日になってしまいましたが、寸暇を惜しんで、祝!11周年~!ということで。

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(↑例年、周年は「道」シリーズということでやっております。ここは何の変哲もない風景に見えるかもしれませんが、黒田如水が関ヶ原の戦いの折、豊後石垣原で大友の軍勢を撃破した古戦場の道です。正面に海が盛り上がっているのがおわかりいただけるでしょうか。この坂が、数に勝るはずの黒田勢が当初、苦戦した要因だったのかなと。)

で、あれから11年。
今にして思うと、何だか隔世の感があります。

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(↑私にはスター・ウォーズR2-D2C-3POが立っているように見えます(笑)。)

11年前・・・、いやいや、ホント若かったよなあ。
最近ではすっかり酒が飲めなくなってしまい、腰は痛い、中性脂肪は危険水域に入る・・・などという話は祝いの席ではやめましょう(笑)。

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ちなみに今、また懲りずに一つ書いてます。
何とか早く片付けて、次に移らないといけないのですが、なかなか・・・。

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ということで、こんな(↑)感じで、かなり息も絶え絶えですが、今少し、世上にはびこりますので、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。
ペロリ。
                     平太独白
by heitaroh | 2016-03-23 18:25 | その他 | Trackback | Comments(2)

中国大返しは人間の欲を活用した秀吉の妙。

中国大返し。世界史的にも類例を見ないと言われるこの、200キロにも及ぶ敵前大反転攻勢作戦は常識では考えられない要素を含んでいる。

まず、絶えず生命の危険に晒されている戦場では、敵前での後退はそれだけで恐怖心から潰走に至ってしまう可能性もあり、為に、羽柴(豊臣)秀吉は自軍に「敗走」ではなく「転進」だということを明示する意味から、敵将・清水宗治を衆目の中で自害させ、その上で部隊に撤退開始を指示。

自身は遅れて、毛利との和睦を確認した614時より移動を開始し、途中、休養日などはあったものの7日後の13日には200キロ先の山崎にて明智光秀の軍を撃破、特に、最初の休憩地・沼城から70キロ先の拠点姫路までは豪雨の中を丸1日で走破しています。

おそらく兵士らは24時間歩きっぱなしだったのでは。

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一つには、これは黒田官兵衛(如水)というよりも、おそらく石田三成の手腕だろうと思いますが、鎧や刀槍などの武具はすべて置いて裸になって走れ!ということもあったようですし、また、当時は「歩く」という行為が現代より遥かに身近だったということもあったのでしょう。    

現代ならば「岡山から京都まで歩いて来た」と聞けばびっくりでも、当時の人は他に移動手段がないわけで、「だって、馬なんて持てる身分ではないし」と不思議そうな顔で答えたのでは。

つまり、歩くということは現代人が呼吸するのと同じくらい当たり前のことだったわけですね。

でも、それでも1日平均40キロ移動ですよ。

まだ、疑問氷解とはいかないような気がします。

で、ここで見過ごせないのが秀吉軍の猛烈な戦意です。

一般に1万石以上を大名というようですが、では、1万石というのは現代の貨幣価値で幾らか?

これは、時代によっても大名家によっても違い、また、公務員初任給などない時代ですから、米価なのか大工の手間賃なのかの換算基準によっても違うわけですが、大体、ざっくり1万石=年収1~10億円だと。

こういうと、底上げされた数字のように思えますが私の母方の祖先は福岡藩の下級武士で53人扶持・・・ですから年収100万円以下

しかも、これより下がまだいるわけで、封建社会が如何に貧富の差が激しかったかということがわかるかと。

当然、この年収では生活していけなかったはず。(ちなみに、時代劇に出てくる江戸の同心与力というのは足軽身分ですから、彼らの本来の年収も似たようなもので、実際には役得などの副収入に頼っていたとか。)

つまり、秀吉に従っていた末端の兵士らの多くはこういう未来に展望が描けない低所得の人たちだったわけで、それだけに、「秀吉様が天下を獲る≒俺も殿様になれる=結婚も出来る、家族も養える≒こんなのは一生で一回あるかないかのチャンス」・・・と。

走りませんか?(笑)。

つまり、秀吉軍の強さの秘密は人間の「欲」が支えていたということであり、逆に光秀ら他の武将はその辺を活かしきれなかったということで、改めて秀吉という人の人間心理の洞察力の凄さがわかるでしょうか。

                平太独白


by heitaroh | 2014-07-16 12:59 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

大河ドラマ「軍師官兵衛」での涙の名演技に思わず胸に迫るものあり。
今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」ですが、全国的にどうかはわかりませんが、北部九州地方ではダントツ1位の視聴率を誇っております。
(最近はそうでもないようですが、一時期は本当に2位以下に大きく差をつけてのぶっちぎりの1位でした。)
地元だから・・・なのかもしれませんが、だとすれば、福岡人も変わったなあ・・・と。
地元を盛り上げよう・・・とか言ったって、まあ、1~2回はお付き合いで見るかもしれませんが、私が知るかぎり、とにかく粘りがないのが福岡人なんで・・・(笑)。

e0027240_10455295.jpgでも、黒田官兵衛孝高(如水)摂津有岡城に幽閉されてからの2話は本当に見応えありましたね。
特に、妻・てる役の中谷美紀さんの「我が子・松寿丸(後の黒田長政)が殺された」と聞いた後の、やつれ方は思わず、胸に迫るものが・・・。
戦国でも現代でも子を思う母の気持ちに変わりはないわけで、これが母の顔だ・・・と思いましたよ。
(←黒田長政愛用の兜。)

で、名演技という点では、もう一人、やはり、父・職隆役の柴田恭兵さん・・・でしょう。

実は、私はこの人が父親役と聞いた時、いや、この回の直前まで、この人の父親役にはどうにも違和感がありました。
だって、やはり、我々の世代には柴田恭兵と言えば、ドラマあぶない刑事」のセクシー大下ですよ(笑)。
でも、よく考えたら、私、あぶない刑事って殆ど見てないんですよね。
でも、「俺たちは天使だ!」とか「プロハンター」なんかにも軽いキャラで出てましたし、やっぱり何といっても缶コーヒーのCMの「関係ないね」がモノマネが流行りましたからねえ。
それだけに、「ハゲタカ」なんかでも、重厚感ある役というのがどうにも違和感がありました。

ただ・・・、今回のそれは思わず、目を見張りました。
「羽柴殿、それがしの独り言も聞いてくださらんか」と言って語り出すシーンは圧巻でしたね。
目には大量の涙・・・、しかし、絶対に零れ落ちることはしない。
武士だから。

やはり、柴田さん自身、20歳の次男に先立たれたという経験があったからなのかもしれませんが、それにしても見事でした。
江戸時代、博多には仙崖という名僧がいましたが、この人が「孫が産まれたから目出度い書を書いてくれ」と言われて書いたのが「親死ぬ子死ぬ孫死ぬ」
どこが目出度いんだと言われ、答えて曰く、「これが一番目出度い。この逆が一番不幸」と。
まったくその通りで、子が親より先に逝くというのは最大の親不孝ですよ。
                              平太独白

by heitaroh | 2014-06-09 07:33 | 文学芸術 | Trackback | Comments(4)

「LEADERS リーダーズ」に上月城と信長日銀総裁を見る
今頃・・・ではありますが、この連休を利用して、ようやく、先ごろ放送された、トヨタ自動車創業者・豊田喜一郎氏をモデルにしたドラマ「LEADERS リーダーズ」を視聴しました。
まあ、少し良く描かれ過ぎている気はするけど、私が知る限り、概ね間違いではないと思います。
経営の神様と呼ばれ、本田宗一郎氏も師事したという石田退三、販売の神様の名をほしいままにした神谷正太郎、興の祖とも言うべき豊田英二・・・、そして、志半ばにして死んだ豊田喜一郎。
本名で出しても良かったんじゃないかな・・・と。

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で、さておき、劇中、主人公が日銀総裁(モデルは日銀の法王と呼ばれた一万田久登かと。)から救済の条件として人員整理を求められるも、「社員は家族」というポリシーの下、その狭間で苦しみ、そして苦悩の末に最後はそれを受け入れる・・・というシーンを見て私には思ったことが有ります。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で、織田方の対毛利最前線に位置する上月城を救援せんとするも、敵の圧倒的な兵力の前に果たせぬ黒田官兵衛(如水)・・・。
上司である羽柴秀吉もこの状態を危惧し、主将・織田信長に救援のための兵力の派遣を要請するも、信長からは「見殺し」を指示される。
見殺しに反対する官兵衛、秀吉も、苦慮しながらも、最後は受け入れるしかなくなる・・・と。

この場面、官兵衛が豊田喜一郎、秀吉が日銀名古屋支店長、信長が日銀総裁・・・と一緒だな・・・と。
船の航路を見る目は信長の方が正しいのでしょうが、その矢面に立たされる者はいたたまれないでしょうね。
                         平太独白

by heitaroh | 2014-04-29 20:59 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

ついに9年目にしてすっかり忘れていた9周年記念号!
日々の多忙さに紛れ、すっかりサボりぐせがついてしまった拙ブログですが・・・、ふと、気がつけば遂に・・・というか、とうとう・・・というか、何と言うか、
9周年!・・・を迎えてしまったようです。
まずは、これも偏に、皆々様のお引き立ての賜物と厚く御礼申し上げます。

まあ・・・、熱しやすく冷めやすいの博多人の典型のような私ですから、ここ数年は惰性で、さらに、この数ヶ月は完全に燃え尽きたような状態で、単に続いているというだけの状況でしたので、ついに、9年目にして9周年記念号を起稿することをすっかり忘れておりました。

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(↑毎年恒例、周年シリーズ画像、「道」です。特に珍しい道ではないのですが、ここは私にとって三の丸(?)に相当するような所で、かねてから、この蛇行が気になっておりました。川の跡かとも思ったのですが、調べた限り、ここに川はなかったはずで・・・。昭和48年に完了した博多駅地区土地区画整理で整備されたはずの地域に何でこんな曲がりくねった道があるんだ・・・と。ちなみに、画像で見るとかなり蛇行してますが、地図で見ると殆ど蛇行らしい蛇行にはなってないんですよね。たぶん、すぐ脇をJRが走ってますので、博多駅に入る前のカーブを緩やかにする為の軌道に合わせたんだろうとは思いますが・・・。)

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思えばブログを書き始めた9年前、2005年の3月ですが、翌4月2日の土曜日から秋田の友人から京都で開催されるある会合に誘われたことがきっかけでした。
全く知らない人ばかりの会合ですから、私のような凡下の人間がそういう会に参加させていただくということ自体、厚かましい限りでして、ならばと著書の宣伝と自己紹介を兼ねて「今流行のブログという物を始めてみるか・・・」と思い立った次第でして、(その少し後ですが、玄界西方沖地震郵政解散があった頃です。)んなもんで、明確に、「今日から始める!」と思って始めて無いので、明確に何日から始めたか覚えていません。
大体、3月の20~25日くらいだったよな・・・という程度でして・・・。
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ちなみに、ここ最近、私がサボり気味なのには訳がありまして・・・。
以前、拙著、「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を書いたことから、おかげさまで、今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の余禄に預かっており・・・。
色々と講演の依頼などを頂戴している為、準備その他にかなり時間をとられている・・・というのは表向きで、まあ、やっぱり9年も続けていればいい加減飽きたんでしょうね(笑)。
                                    平太独白


by heitaroh | 2014-03-28 13:04 | その他 | Trackback | Comments(2)

平成二六年の謹賀新年!
新年、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

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実は新年早々、地元FM局の番組に「今からでもわかる軍師官兵衛入門」ということで、ゲスト出演してきました。
言うまでもなく、今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」にちなんで、主人公の黒田官兵衛(如水)という人について何か話せ・・・ということですね(笑)。
年末には大河ドラマの余録に預かったようで、拙著、「黒田家三代」も重版の運びと成りましたので、その勢いに乗って・・・などと安易に考えていたところ・・・、講演は何度かやったことがあったのですが、生放送のマイクの前に立つというのはまったく初めての経験でして・・・。

e0027240_16501215.jpgやはり、勝手が違うことだらけの上に、おまけに、前夜半から、生まれて初めて、チキンガーリックステーキ年越しカウントダウン・ミニライブなどというものに行って僅かしか寝ておらず、さらに、元旦の昼間は甥っ子、姪っ子にお付き合いして疲労のため、ゲーセンでうつらうつらしていたような状態で臨みましたので、不慣れの上に、話しながらも時々、意識が飛ぶという・・・。
まあ、ご興味のある方はネットでも配信しているそうですから、見てやってください(笑)。

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ところで、今年の正月は天気もまあまあだったので、ちょっと、着物のまま、生放送に出かけてみました。
で、ちょっと思ったのですが、私が子供の頃は父も祖父も正月は着物でしたので、それほど違和感はないのですが、ところが、ここ数年で明らかに着物を知らない人たちが増えてるんですよね。
おそらく、親も着物を着たことがない世代なのでしょうが、着物で神社に行くと若い人の中には奇異な目で見る人もいます。
まあ、そこまでなら、いい年こいたおっさんですから、特に視線を気にすることはないわけで、取り立てて言うこともないのですが、ただ、今年はちょっと驚いたことがありました。
というのは、FM局を訪れた際、40代の方から、「いつも、そうういう格好をしてあるのですか?」と聞かれたんです。
そういえば、この方、会った早々に「易者の方かと思いました」とか言ってたことを思い出し、そこで、ふと、気づきました。
「もしかしたら、この方は着物を知らないんじゃないか・・・」と。

つまり、もう、40代くらいの人まで男性の着物を見たことがない・・・ってことなのでは・・・と。
そう考えれば、少なくとも着物業界の人は相当の覚悟がいる時代に入ってきたという認識はいると思いますよ。

ということで、どなたさまも良いお年を・・・ではなかった、今年もよろしくお願いします!
平太独白


by heitaroh | 2014-01-03 16:54 | その他 | Trackback(1) | Comments(4)

あーあ、今年も終わっちゃうな的な大晦日独言。
今年も気がつけば、あっという間に一年が終わろうとしてますね。
世間様は普通に大晦日ってやつなのでしょうが、私は独りでラーメン作って仕事してます。
ていうか、既に結構、時間に追われていますので、とっとと本題に行きたいと思います。

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来年の大河ドラマ「軍師官兵衛」ですが、おかげさまを持ちまして、拙著、「黒田家三代」も重版の運びと相成りました。
まあ、大河ドラマの余録に預かった形になりましたが、これも偏に、皆々様のご愛顧の賜物と、改めまして厚く御礼申し上げます。

で、黒田官兵衛孝高(如水)繋がりで少し。
まず、黒田官兵衛その人のことにつきましては、これまでもたびたび、触れてきましたので、置くとして、官兵衛の盟友にして黒田家にとっては恩人となる人物に竹中半兵衛重門という人がいますよね。
「軍師官兵衛」では谷原章介さんが演じられるようですが、官兵衛と違い、一般に白面痩身のイメージが強いようですが、往年の大河ドラマ「国盗り物語」での米倉斉加年さんの印象が残っております。
ちなみに、この時、黒田官兵衛役を演じたのは江守徹さんでした。
どうしても、病気で陣没した半兵衛に比べ、地下牢に幽閉されても死ななかった官兵衛の生命力という先入観からか、官兵衛役は半兵衛役に比べ、少し、アクが強いようです(笑)。

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で、その米倉斉加年さんですが(ちなみに福岡市出身(笑)。)、おそらく、今の若い方たちにとっては「誰それ?」って感じなのではないかと思います。
でも、この方は1970年代の頃には良くテレビなど活躍しておられ、特に、当時は「勝海舟」での佐久間象山「風と雲と虹と」での興世王「花神」での桂小五郎と、大河ドラマの常連だった印象がありましたが、いつの頃からか、気がつけばあまり画面ではお見受けしなくなっておりました。
が、最近、映画ALWAYS三丁目の夕日'64」で茶川青年の父親役で久しぶりにお見受けし、「おお、米倉斉加年だ」と。
でもって、少し前のNHKドラマ「坂の上の雲」でも大山 巌・総司令官役で出ておられたのを見て、また、活躍の幅を広げ始められたんだな・・・と。

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などと、とりとめのないことを書いてまいりましたが、本日もしっかり時間に追われており、ここまでとさせていただきます。
一年間、ご愛顧のほど、有難う御座いました。
どなたさまも良いお年をお迎えください。
                       平太独白


by heitaroh | 2013-12-31 15:29 | その他 | Trackback | Comments(0)

福岡城抜け穴伝説を検証 その3
前回よりの続きです。
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前回、私が福岡城からの抜け穴の存在を疑問視する根拠としてその距離と保存年数だと申し上げましたよね。
まず、距離の問題ですが、城の脱出用抜け穴というのは、そもそも、抜け穴を抜けても、敵の布陣の只中に出てしまっては意味が無いわけで、そうなると、想定される敵の攻囲の向こうに脱出口が無いといけないわけです。
その点、福岡城からここ、穴観音(←)までの距離は最短でも3km・・・。
まあ、敵軍の規模にもよりますが、囲まれた場合に敵をかわす、最低限の距離なんだろうと思います。


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ただ、おそらく、実際には掘りやすい所を掘っていくわけでしょうから、そんなに一直線に掘り進めたとも思えず、であれば、くねくねと少なくとも5kmは掘らなければならなかったのではないかと。
そうなると、まず、問題となってくるのが「水」の問題でしょう。
今日の地下鉄でもよく、水が排水溝をチョロチョロと流れているのをよく目にするように、埋立地でなくとも湿地帯が多かった当時の日本の地盤では排水というのが結構に問題となってきたように思われます。
(金山なども、金の採掘そのものよりも湧水の処理が問題だったと聞いたことがありますから。)

さらに問題になるのが、掘削時の土砂の処理の問題もながら、酸欠だったでしょう。
一定距離ごとに古井戸などで偽装して酸素を取り込むとしても、毎日、そこに暮らしている領民がすぐに気づきますよ。
もし、領民を締め出したとしたら、敵もバカじゃないでしょうから怪しむでしょう。

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(↑穴観音裏手より、福岡城方面を望む。)

次に、保存年数の点で言えば、昭和10年・・・まではあんまりとしても、仮に幕末、福岡藩が存続していた期間中、抜け穴が存在していたとして、260年も機能していたということであれば、今日の一般住宅でも、人が住まない建物はたとえ鉄筋コンクリート製であっても、驚くくらいに痛みますから、そう考えれば、木材で柱やつっぱりをしたとしても、滅多に空気も変わらない湿気が多い地面の下では、木材は腐りやすく、毎月のように修繕が必要になってきたでしょう。
となれば、石材で壁、床を作り、その上にまた、巨石で蓋をしたと考えざるを得ません。
が、その場合、地崩れしないように土留をした上に地盤固めして、さらに、製材した石をどこからか引いてきて、置いていって・・・って、はっきりいって、ピラミッド並みの物凄い大工事じゃないですか。


仮に、一人が手掘りで深さ2mに幅1mの穴を掘ったとして1日で5m、地盤の問題などを考えて迂回して5km掘ったとして1,000人、実際には石の加工なども含め、のべで5,000人くらいが動員されたのではないかと思いますが、そもそも、抜け穴などというのは敵に見つかってしまうと逆にそこから侵入されてしまうわけですから、建設に際しては極めて秘匿性が求められるわけです。
そうなると、まず、それだけの人に知られてしまって秘密は護り通せないでしょう。
工事にあたった人夫は機密保護のために全部殺した・・・としたら領民の不満は爆発したでしょうし、労働者の問題以前に、城の築造工事などというものは多くの人が出入りするわけで、敵のスパイが紛れ込んでいることなども十分に考えられるわけで、毎月のように修繕に人が入るというのも機密保持上は歓迎できない話のはずです
智将のほまれ高い、如水 黒田官兵衛がそんな無謀なことしたとは到底思えません。
つまり、結論を言えば、抜け穴というのは当時の技術では割に合う話ではなく、また、掘ったとしても維持の面でも大変であるということですね。
                                         平太独白

by heitaroh | 2013-12-21 17:48 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

備中高松城水攻めにみる心理的効果が黒田官兵衛の特徴
豊臣秀吉がまだ織田家の部将であった頃、三木の干殺し鳥取の飢殺し高松城の水攻めで中国地方を席巻したと言われてますよね。
特に有名なのが城の周囲に延々と土堤を築き、川の水を引き込んで水没させて落とした備中高松城ですが、私がかねてより疑問だったのが、なぜ、ここだけ水攻めだったのか・・・ということでした。
もちろん、他の2つと違い、水を貯めやすい地形だったということはあるのでしょうが、でも、他の2つは普通に兵糧攻めで落ちてるわけですから、別に水没させなくても落とせたんじゃないの?・・・と。
で、さらに疑問なのが、秀吉方は救援に来た毛利軍の猛将・吉川元春の軍と土堤との間にはわずかな部隊しか配置していないことで、これでは、毛利軍がその気になれば夜間にでも急襲をかけて土堤を破壊し、城を水没から救うことは出来たんじゃないの・・・と。

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(↑左側に少しだけ写っている緑地が吉川陣。土堤との間には花房、山内の部隊しかいないことがわかると思います。)

ここまで考えて、ハッとしました。
つまり、「ここがどういう場所か?」ではなく、「今がどういう時期か?」だったのではないかと。
戦闘は梅雨から初夏にかけて行われたそうですから、織田家と違い、兵農分離が進んでいない毛利兵は農繁期の出兵を嫌ったのではないか・・・と。
兵からすれば、「だったら、来年の年貢は負けてもらえるんですか?」と言ったとしても、言われた側は現代もそうであるように税収不足は困るわけで、「いや、それはそれで・・・」としか言えず、だったら「冗談じゃない」となった・・・と。
となれば、救援に来た毛利軍は実際には大した兵力を確保できておらず、さらに、いくら、「もうすぐ終わるから」と言ったところで、目の前でしっかり水に浸かっている城を見れば長引くというのは明らかで、そうなると今いる兵を引き留めるのも難しくなっていたのではないか・・・と。

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(↑昭和期の大雨時の写真。中央で天橋立のようになっているのが高松城址。)

結果、少ない兵力で土堤に向かって出動すれば「待ってました」とばかり秀吉軍の主力部隊に捕捉され、全滅してしまう可能性があり、また、秀吉もそれを狙っていた・・・と。
そういう目で見れば、高松城は周辺の泥沼で防御するという「時代遅れの城」で秀吉軍なら水攻めでなくてもどうにでもなった・・・と。
つまりは、織田家の革新兵制「兵農分離」も含めた戦争形態の変化が勝利の背景にあったと言えるでしょうか。

ちなみに、この攻略法を献策したのは秀吉の参謀として頭角を現していた黒田官兵衛(如水)だったという説もありますが、これは私もそう思います。
なぜなら、作戦計画という物には人それぞれの傾向というものがあるもので、官兵衛のそれは、後の小田原攻囲の時などでもそうですが、単に物理的に攻略を企図するのではなく、目に見える形での心理的効果を狙うというのが一つの特徴のように思えるからです。
つまり、水攻めは攻略の手段ではなく、敵兵に与える心理的効果を狙った象徴的な物だったと。
                                         平太独白

by heitaroh | 2013-11-07 17:44 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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