タグ:高杉晋作 ( 13 ) タグの人気記事

意外に知られてない幕末京都の色街・島原
このブログを始めるきっかけとなったのが2005年4月に知人に誘われ、京都で開催されるある会合に行ったことでした・・・とは過去に何度か申し上げたことではありますが、まったく休火山状態のブログに「いい加減に何か書かなきゃ、始めて以来、初の月間0になってしまうぞ」という危機感から、ちょっと思い立ちました。
で、この時、京都ではすべての行事を終えた後、駅に向かうまでに少しだけ時間があったので、幕末に新選組志士らがが大いに気炎を上げたことで知られる幕末京都の色街・島原に行ってきました

e0027240_11180991.jpg
     (↑島原

地名の由来は、あの、長崎県の島原から来ているというのは意外でしたが、もっと意外だったのが、当然、観光名所になっているんだろうとばかり思っていたら、タクシーの運転手さんが「島原」を知らなかったことにも驚きました。
以下、車中での会話。

「ほら、あの、新選組なんかで有名な・・・」
「いやあ・・・、そんなん聞いたことおへん」
「幕末の遊郭ですよ」
「ああ、遊郭でっか。わかったわかった。五条でっしゃろ」
「五条かどうかわかりませんが、結構、有名なはずですよ」
「いやあ、わては前からおかしい思うとったんですよ。やっぱり、あそこは遊郭やったんですね」
「はあ・・・」
「いやあ、京都には一応、そういう場所は無いということになってますけど、やっぱりあるんですなあ・・・」
「ん?わかってますか?」
「わかってますよ。前にそういうお客さん乗せたことがあるもので・・・」
「???」
「何か、勘違いしてませんか?」
「いや、わかってますって。まかしておきなはれ」
「新選組や高杉晋作なんかが行ってたやつですよ」
「はあ、そんなに昔からあったんやろか?今はもうマンションみたいになってますけど」
「マンション??」
・・・で、何かが違ってないか?と思い、住所を調べて告げたら、
「あら、それはまるで違いますね」
ということで、危うく、「昔の遊郭」ではなく、「今の遊郭」に連れて行かれるところでした(笑)。

あ、行ってませんからね(笑)。
                         平太独白

by heitaroh | 2014-04-16 06:25 | 地域 | Trackback | Comments(2)

第二次長州征伐における幕軍の周防大島占領は腰が引けた証拠
最近、日曜はコーヒーを片手に終日、読書をしております。
で、先日、幕末のことについて書かれた物を読んでいたのですが、その中で、第二次長州征伐の際に、フランス公使ロッシュが幕府軍に対し、「大島ではなく、小倉から一気に下関を攻略することを進言したということが載ってました。

e0027240_18372533.jpg
今まで、「戦争勃発となった後、幕府海軍は先制攻撃を仕掛けて周防大島に上陸し、島民にかなり酷いことをしたけど、長州の風雲児・高杉晋作率いるオテントサマ丸の奇襲を受け、うろたえて同士討ちをやって大損害を出した」・・・という程度の認識はあったのですが、この話を聞き、初めて、地図を出してきて、大島という所の位置関係を把握しました。
結論を言えば、私も幕府海軍が長州征伐の最初の攻略地に大島を選んだことに少なからず疑問を持ちましたね。

e0027240_18370732.jpg
ただ、むしろ、私なら、ロッシュの言う下関攻略よりもむしろ、大島を通りすぎて、一気に長州の脇腹、防府(もしくは小郡)を攻略し、そのまま陸戦隊を上陸させて事実上の藩都・山口を衝く構えを見せます。
無論、攻めこむ構えだけです。
もし、山口が落ちれば、満天下に幕府軍優勢を知らしめることの最高のアピールになるわけで、そうなれば、日和見を続けている諸藩も「これはいかん。戦後、お咎めがあるぞ」ということになって、各戦線で奮起したでしょうし、何より、藩都が危険にさらされるとなれば、長州藩は福岡、広島、島根などの各戦線から兵力を引き上げてこれに備える必要が出てくるわけで、各所で幕府軍は有利に戦えたはずです。

ちなみに、防府は当時、三田尻と言い、長州藩の軍港があったはずですから、それなりに港湾も整備されていたはずで、艦隊の装備だけなら優勢だった幕府海軍のちからをもってすれば十分に制圧することは可能だったのではないでしょうか。
そもそも、大島に攻めこむ時点で腰が引けてる証拠ですよ。
正面玄関からご丁寧に一つ一つ行くのが正攻法というかもしれませんが、そんな連中はとかく、「相手は我々の大軍を見たら、それだけで、為す術もなく降伏してくるだろう、してくるんじゃないか、してきたら良いな」という希望的観測に満ち満ちているもので、本音を言えば、我々が大島を攻めている間に戦争が終わってくれたらいいのにな・・・だったでしょう。
この点を如実に表すのが、現地視察に行った新撰組局長・近藤勇の「幕軍の士気は緩みきっており、戦えば負ける」というレポートだったでしょうか。
                                      平太独白

by heitaroh | 2013-11-27 19:26 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

体育会系薩摩藩士が見た長州の同志的放言

慶応2年(1866年)、坂本龍馬、中岡慎太郎らの仲介の下、薩長同盟締結を目指す薩摩藩は長州藩に対し、使者として28歳の薩摩藩士・黒田清隆(後の内閣総理大臣)を送り込みます。
到着後、大坂での薩摩の西郷隆盛との長州の桂 小五郎(木戸孝允)との対面を提案したところ、慎重居士の桂は逡巡する姿勢を見せたそうで、すると、この時、同席していた長州側の主要人物の一人で桂の6歳年下になる高杉晋作が、桂に対し、「桂一人死んでも長州が滅びるわけではあるまい」と、まるで、尻を叩くかのように言い放ったとか。
体育会系である薩摩藩では、下っ端の黒田君が12歳上の西郷先輩や10歳上の大久保利通先輩らに対して、「西郷や大久保が一人死んだくらいで・・・」などいうような発言は絶対にあり得ないことだったそうで、黒田はこれには本当に驚いたそうです。
(ちなみに、高杉は黒田の1歳年上。)

これに対し、桂はしばらく熟考した後、「よし、行こう」と、上方行きを決意する・・・と。
この辺の経緯を桂は「主命下るによりやむなく・・・」と記しているそうですが、実際には桂自身の意思と判断によって上方行きを決意したわけで、この辺のやりとりを見ていた黒田清隆は、「余計なことは考えずに黙って行けばいいんだ」という薩摩方式よりも、「自分で考えて納得して行く」長州方式の方を是とすべきなのではないか・・・と考えるようになったと言われています。
つまり、下級生であっても自分で納得して決めるというプロセスを抜かさないということですね。

この点で、私の知人にも典型的体育会系の人がいて、上からのウケは良い反面、下からは「上から言われたことに盲従するのではなく、少しは現場の現実を上に言ってください」などいう反発もあるとか。
彼の論理としては、「自分もその役職の時は上から言われることには黙って従ったのだから、彼らもその役職になった以上は従うのが当たり前」というもののようですが、でも、すべての人が彼のような体育会系上がりではないわけで・・・。
で、別の体育会系の友人にこの話をすると、「体育会系というのはそういうものじゃない。最後は実力なんだ」と言いますが、でも、実力と言っても、「数字で評価できない部署にいる人達にそれをどう当てはめるの?ペーパーテストでもさせるの?」・・・と。

残念ながら、黒田という人は酒乱で、酔って夫人を殺害したなどと言われるくらいに、あまり、良い印象を持たれていない人ですが、、体育会系で育ってきた人でありながら、違う考え方を認める辺り、やはり、見識はさすがに立派なものを持っていたようですね。
                               平太独白
by heitaroh | 2013-06-07 07:53 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

東日本大震災・北関東派遣見聞録 その9 雷電神社
親愛なるアッティクスへ

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」

これは伊藤博文がその死の一ヶ月ほど前に高杉晋作の顕彰碑への依頼に応じ揮毫した碑文の一節ですが、「動けば雷電の如し」とは、高杉という人の生涯を一言でいう上では、何とも言い得て妙であると、まだ高校生の頃、司馬遼太郎さんの「世に棲む日々」を読んだ直後に私も強く思った記憶があります。

e0027240_16225586.jpgで、なぜ、こんなことを言うかといいますと、先般、東日本大震災応援建築士として栃木県に滞在していた頃、たまたま、宇都宮市内で雷電神社(←)なる物があることを知り、雷電と言えば、江戸中期の伝説の力士・雷電為右衛門が真っ先に頭に浮かびましたので、その雷電の強さにあやかろうと出来た神社なのかな・・・と思い、行ってみたことがあったからです。
以前、映画「雷電」を見た記憶があるのですが、確か、浅間山が出てきてたから、この辺の人なんだよな・・・と。

(ちなみに、この映画は昭和34年宇津井 健さん・・・でした。役者さんも痩せるのは出来るけど、やはり、太るのは難しいよな・・・と思った記憶が(笑)。)

e0027240_1639510.jpgであれば、きっと、相撲取りに因む神社にありがちな巨大な手形なんかあったりして・・・と思い、タクシーの運転手さんに聞いてみたら、「雷電・・・ですか?その場所に神社があるのはありますが、大した物じゃないですよ」という返事・・・。

(←ここにも、しっかり震災の被害が・・・。)
どうせ、通り道だし、約束の時間まで時間をつぶすにはちょうど良かったこともあり、行ってみたところ・・・、歴史はありそうだけどどこかうら寂しい何とも中途半端な神社が・・・。

e0027240_1734697.jpgこの神社、大きいわけでもないのですが、かといって、小さいわけでもない・・・、場所も、街の真ん中・・・というわけでもないのですが、かといって、郊外の山林の中でもない・・・、栄えているわけでもないけど、寂れきっているというわけでもない・・・という、実に、微妙な神社でして・・・(汗!)

で、とりあえず、あの力士・雷電とは関係ないようなので、なんで「雷電」なんだ・・・と。
ここの地名が雷電なのか???と思っていたら、そうではなく、本物の雷なんですね。

どういうことかというと、北関東の群馬や栃木というのは昔から雷が多い所のようで、従って、この「落雷」という災難を避けるための祈願所として設けられた物だった・・・というわけです。
それに、雷電為右衛門も、浅間山を挟んだ反対側、信濃国(長野県)の人でしたね・・・(笑)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-10-20 17:55 | 地域 | Trackback | Comments(0)

高杉晋作の豊前小倉城攻略に立ちはだかった肥後熊本藩
親愛なるアッティクスへ

e0027240_13234578.jpgNHK大河ドラマ「龍馬伝」で、高杉晋作率いる長州諸隊の前に、我が福岡県の豊前小倉城、実にあっさりと落ちてましたよね。
あっさりではなく、かなり省略気味の落城でしたが(笑)。
(←「じも」ではありません。「もじ」です(笑)。)
肥後熊本藩兵などは高杉晋作の前に、「おい達ゃ、幕府軍やなか。肥後熊本藩兵たい。幕軍から、むりやり守らされとうだけですたい」みたいなことを言い、「ゴメンナサイ」と言わんばかりみたいな感じで描かれてましたけど、実際には熊本藩は小倉口の戦いでは長州藩にとっては最強の敵であり、西国雄藩らしく、最新兵器のガトリング砲などをも装備しており、長州軍は大打撃をこうむっています。
結果、さしもの高杉晋作も一旦、兵を退き、熊本藩兵が居ない所に矛先を変えざるを得なかったわけで・・・。

e0027240_17463226.jpg
(↑関門海峡です。)

そもそも、熊本は勇猛で知られる薩摩への抑えとして知られる存在ですが、一方で、熊本人は川上哲治、江藤愼一、古葉竹識、秋山幸二、伊東勤・・・という人たちに代表されるように、プロ野球選手としても名選手であると同時に監督としても実績を残した人たちを多く輩出しております。

この点、長州が何だかんだ言っても総理大臣を日本最多で輩出していることと比較すると、「長州人は一つしかない総理大臣のポストを自分たちから輩出しようとするが、肥後人は自分が小集団のTOPになろうとする」・・・といえるでしょうか。
ちなみに、菅 直人氏が学生時代まで山口県だったということはよく知られておりますが、同様に、阪神の真弓明信氏も元々、小学校三年までは熊本なんだそうですね。
(福岡県大牟田市の出身だとばかり聞いておりましたが。)
話をもとに戻すと、その後、熊本藩兵は自分たちばかりを働かせようとする幕府軍の体たらくに愛想を尽かし、小倉戦争から撤兵。
これにより、高杉晋作はもはや、恐れるものなしとして一気に小倉城の攻略を命令。
幕府側の敗退は誰の目にも明らかになり、それが、そのまま、その後の明治維新に至るわけですから、その意味では、肥後熊本は薩摩にとっても、長州にとっても、鬼門であったといえるでしょうか。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-09-30 08:09 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(4)

非松下村塾系・菅直人総理に清狂草堂塾の悲哀を見る
親愛なるアッティクスへ

菅 直人総理は山口県出身だったんですね、知りませんでした。
でも、これで山口県からは伊藤、山県、桂、寺内、田中、岸、佐藤、安倍に次いで9人目の総理大臣ですか。
戦後だけでも4人ですから、こうなると、単なる藩閥政治の賜とばかりもいえないでしょう。
ただ、菅さん以外のこれまでの総理大臣というのはすべて、吉田松陰以来の松下村塾系長州閥の延長線上にあるといってよく、(平太郎独白録 : 日本の中枢で現代も生き続ける長州閥:参照。)その意味では、菅さんは、初めてのまったく別系統からの山口県出身総理大臣だといえるわけです。

e0027240_149247.jpg菅家自体は元々、岡山の方だったようですが、菅 直人さん自身は山口県宇部市で生まれ、宇部市立の小中学校を経て地元の進学校である県立宇部高校へ入学、高校2年の時に父の転勤で東京に出てくるまでの17年近くを宇部で過ごしたという、事実上の長州人でしょう。

その意味では、彼が自らの内閣を「奇兵隊内閣」と命名したのもわかるような気がします。
(うまいネーミングだとは思いませんけどね(笑)。)
なぜなら、高知県では坂本龍馬が偉人の域を通り越して、もはやアイドルであるように、山口県では高杉晋作の人気は凄いんですよ。
岸 信介元総理なども学生時代は高杉晋作に心酔していたといいますし、今でも、高杉晋作の墓がある所は命日でもないのに休日は車で溢れてますからね。
(ちなみに、NHK大河ドラマ「龍馬伝」では高杉晋作を伊勢谷友介さんが演じるそうです。とかく、主人公はあり得ないくらい良い人になってしまう大河ドラマの傾向を思えば、私的にはむしろ、そういうフィルターを被せられないこういう役の方が期待でき、その意味では楽しみにしています。)

ただ、ここで思うのは岸、佐藤の兄弟総理は当時の長州藩の首都・がある長門国ではなく、周防国の出でありますが、事実上は上述の参照の通り、山県有朋の系列に連なっているといえるのに対し、菅総理の出身地・宇部は長州藩ではありますが、松下村塾系に連ならないという意味では、むしろ、
  「男児志を立ちて郷関を出づ 学もし成る無くんば死すとも還らず
    骨を埋むる豈に惟だに墳墓の地のみならんや 人間到る処に青山有り」

という漢詩で知られる海防僧・月性に連なる清狂草堂塾の系譜を思い浮かべます。

月性は吉田松陰同様、赤禰武人、大楽源太郎、世良修蔵ら有為の人材に薫陶を与えるも、その門下生の多くが非業の死を遂げており、そこには首都・萩に在する松下村塾系学閥の向こうを張り、さらに権力を奪取しようとしたことで徹底的に目の仇にされて潰された・・・という権力闘争の側面もあるようです。
いざとなると、殿様を有し、行政機能を持つ首都の学閥の底力は凄かった・・・と。
少し、不吉なようですが、非松下村塾系である菅 直人総理はその意味では、これまでの長州系総理と違い、後ろ盾なくして総理になったといえ、この点はどのような手腕を発揮されるか興味あるところですが、ただ、高杉晋作だとて、ただ一騎のみで「功山寺決起」軍事クーデターに踏み出したことを思えば大いに健闘を期待したい次第です。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-06-18 07:01 | 政治 | Trackback(1) | Comments(4)

幕末版オタク登用事例、大村益次郎。
大村益次郎という人物をご存じでしょうか。
東京の靖国神社に銅像として置かれている人物・・・と言えば、思い当たる方もいらっしゃるかもしれませんが、事実上の日本陸軍の創始者とされている人です。
ところが、この人は元々、長州藩出身とはいえ、松下村塾で知られる志士の出身ではなく、本来、幕末の激動とは何ら関係なく、家業の村医者を継ぐために、医学を学んだ学者さんだったとか。
ただ、勉強の方は半端じゃないほどに出来た人のようで、防府の梅田幽斎、豊後国日田の広瀬淡窓緒方洪庵大坂適塾といった私塾に学び、長崎に遊学後は、適塾の塾頭を務めたほどの秀才だったそうで、まあ、今日で言うならば、国立大学の大学院を出た後に欧米系の大学に留学、帰国後は母校で助教授を務めていたようなケースを想像すればわかりやすいでしょうか。

その後、一旦、父親に言われるままに帰郷し、近隣の娘と結婚したものの、村医者としてはあまりにも優秀すぎたのか、患者に対しては診察よりも講義をしてしまう傾向があったようで、医者としてはあまり芳しい評判がなかったのに対し、一方では、その学識を惜しむ声は多く、やがて、伊予宇和島藩から求められて出仕、西洋兵学の翻訳と講義を受け持ち、その後、安政3年(1856年)には宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝として幕臣となり、さらに、万延元年(1860年)、噂を聞きつけた故郷長州藩からの要請を受け、長州藩士となり、やがて、文久3年(1863年)に長州へ帰国。
帰国後は、西洋学兵学教授となったものの、その翌年、長州藩は軍部の暴走により、蛤御門の変にて大敗し、その結果、幕府の第一次長州征伐を経て高杉晋作の決起による内乱状態となってしまうわけですが、やがて、討幕派が政権を掌握すると、高杉や桂 小五郎ら藩中枢は西洋式兵制の採用を推し進め、書物を通して、この点に一番詳しい大村にその指導を要請・・・。

ここで、面白いのは、長州藩は、これまでの相次ぐ戦乱で、多くの人材を失っていたこともあり、大村は講義だけでなく、実際の作戦指導まで任されることになったことです。
なぜなら、大村その人は本の中でしか戦争を知らない単なる学者であり、その人に作戦指導を任せてしまったということは、今日で言うならば、軍事に詳しい大学教授を、そのまま、自衛隊の司令官に任じてしまったようなものでしょうが、インパクトの上ではむしろ、戦争マニア、あるいは兵器オタク防衛大臣兼参謀総長に任命した・・・と言った方が当を得ていたでしょうか。

この点、メジャーリーグ、ボストン・レッドソックスのチーム編成を担当しているのは、野球経験などまったくない、ネット上で独自の数式で選手を評価していただけの、いわば、ネット版野球オタクのような人だと耳にしました。
つまり、レッドソックスのオーナーとしては、「能力さえ確かならば、出自や経歴などにはこだわらない」・・・ということなのでしょうが、日本のプロ野球がそういう人を抜擢するなどとは到底考えられないことを思えば、如何に追いつめられていたとはいえ、長州人というもののこの辺の発想の柔軟さには凄味すら感じます。
                                        平太独白

by heitaroh | 2009-08-10 08:39 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(6)

黒澤明と勝海舟の同時代性
親愛なるアッティクスへ

e0027240_16231933.jpg先日、家で晩飯を食っていると、小学生の息子が「聖徳太子について教えて」と言ってきました。
「ほう!もう、聖徳太子など習っているのか」と思ったものの、それならば、以前、買ってあげていた偉人伝記に載っていたことを思い出したので、それを見てみろ・・・と言ったところ、「いや、載ってない」と。
「載っていたはずだ」と言うと、再び、やってきて、「やはり、載ってない」・・・と。
はて・・・と思い、私が手にとって調べてみるとしっかり載っている・・・。
「載っているじゃないか」と言うと、「聖武天皇は載っていない」と言う。
で、「ん?聖徳太子だろう?」と言うと、「いや、聖武天皇だ」と(笑)。

「聖武天皇なんて学校で習うのか?」と言うと、「いや、大仏について調べているから」と言われ、「ああ、なるほど、そっちか」・・・と。
それならば、・・・と思いつつ、念のために、その伝記の本を手に取ったところ、巻末に、偉人の生きた年代がグラフになって載っている・・・。
それを見て、改めて、意外に思ったのが、幕末の英雄・勝海舟昆虫記で有名なファーブルが同年生まれであるということ、そして、そのファーブルが死んだとき、映画監督の黒澤 明はすでに生まれていた・・・ということでした。

つまり、黒澤 明が子供の頃まで勝海舟は生きていた・・・・ということになるわけですが、ファーブルはともかく、黒澤 明といえば、つい、最近亡くなった人でもあり、何より、あの人が作った映画を私は「影武者」以降、リアルタイムで見ていたこともあり(黒澤作品としては、晩年のほんの一部に過ぎないのでしょうが)、私的には自分と「同時代人」だというような気がしていたので、それが、あの、江戸幕府の高官で歴史の教科書の中に出てくる勝海舟と時代が重なる・・・というのは、少し、不思議な気が・・・。

そういえば、安倍晋三さんの祖父である岸 信介元首相は、若かりし頃、郷土の英雄・高杉晋作に憧れたといいますが、よく考えてみれば、岸元首相と高杉晋作は祖父と孫くらいの年齢差でしかなく、となれば、岸元首相のそれは、今日の「高杉ファン」の漠然としたそれとは違い、「さっきまでそこに座っていた人」のような生々しい温もりを持った「目標」だったのかもしれないな・・・と。
岸元首相が子供の頃には、周囲には、実際に高杉と行動を共にした人や、身近に高杉の謦咳に接した人なども少なからずいたはずでしょうから。
                           平太独白
by heitaroh | 2007-06-06 17:15 | 文学芸術 | Trackback | Comments(2)

またもや「ザ・ヒットパレード」後編、技術屋社長の弊害。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_10352698.jpg今日から、ついに六月ですね。

で、過日、ここ(←)に居ました。
屋上ビアガーデンです。
今年初のビアガーデン・・・、ていうか、ビアガーデン自体、久しぶりでしたが、なかなか、オツな物でしたよ。
バドガールも居たし(笑)。

ちなみに、この画像は19:35のモノです。
今の博多の日没時間は20時です。
東京とは、ほぼ、一時間違いますからね・・・。

で、またまた、昨日の続きです。

私も、出来るものなら、ドラマ「ザ・ヒットパレード」に出てきた渡辺晋氏のように、ああいう温顔>で生きていければいいな・・・とは思いますね。
もっとも、人間、向き不向きというものがあり、・・・というか、逆に、この年になって、日頃、やりなれないことをやると、かえって弊害の方が大きくなるようで・・・(笑)。
そもそも、私のような、心が狭くて、敵が多い人間が、渡辺社長の真似など出来るはずもなく、妙にその気になったりすれば、どうせ長続もきせず結局、中途半端になって、余計に敵を増やすだけの結果になるもんです。

この点で、以前も述べたような気がするのですが、私の怒っているときの理想は、海老沢泰久氏の小説、「監督」の中で出てきた広岡達郎という人です。
広岡氏は言うまでもなく、実在の人物で、かつて、プロ野球、ヤクルトスワローズ西武ライオンズで監督を務め、名監督として、一時代を築いた人ですが、同時に敵の多い人でもありましたね(笑)。
ただ、その小説は、ヤクルト監督時代の広岡氏をモデルに描いたフィクション的要素が強いモノでしたが、その中で、広岡監督が、マウンド上で荒れ狂っている外国人投手に、誰もが尻込みする中、あくまで、冷静に交代を告げる場面が印象的でした。
本当に強い犬は、むやみやたらに吠えない、こうありたいものだと・・・。
そう言えば、高杉晋作という人も、単に、勇ましいだけの人ではなかったようですね。
英国公使館焼き討ち事件のときにも、まず先に、しっかりと逃げ道を作っておいた上で侵入し、一同に指示を出したと言います。

ちょっと話が、もこみち・・・じゃなかった、橫道に反れましたが、話を戻すならば、昨日も触れましたように、渡辺晋という人物は、「ドラマに描かれていたような芸能界の地位向上だけに尽くしてきた温顔」と、「死去の際にワイドショーが言っていたような政財界に太いパイプを持ち、ナベプロ帝国と呼ばれて、批判を一切許さずに君臨>していた帝王」と、どちらが、本当の姿なのでしょうか・・・。
それは、もとより私などが知るところではありませんが、この点で、元部下でもある、(株)スペースシャワーネットワーク代表取締役社長、中井 猛氏の話として、「晋さんは数字を見やしないから楽でしたよ(笑)。説明しながら『あの…実はここで1200万の赤字が出まして…』、『お前、そんなことはどうでもいいんだ。要は、あのレコーディングのあのトラックダウンどうしたんだ?』って、もう音楽の話になる。」というのを聞いたことがあります。
渡辺晋という人は、自らもミュージシャン上がりでもあった、言うならば音楽という技術屋社長だったんですね・・・。

かつて、本田宗一郎氏は、若手技術者の「水冷で!」という意見を、あくまで排除し、「空冷で!」ということを主張し続けたと言いますし、ヘンリー・フォード一世は、ただの機械好き、発明好きだった頃には、周りにはたくさんの人が居たのに、自動車王になったときには、誰も彼の周りにはいなかった・・・。
これと似たような話がドラマの中の渡辺氏にもありましたよね・・・。
これこそが、まさしく、典型的な「老いた技術屋社長にありがちな弊害」ですよ。

他の追随を許さない技術開発力で、次々にヒット商品を飛ばしてきたが、一旦、老害をまき散らすようになると、誰も異見など出来ないし、したところで、意固地になって聞く耳を持たない・・・どころか、過去の栄光があだとなって、迷走深謀遠慮にさえ映り、それを利用しようとする者さえ出てくる・・・。
本田然り、フォード一世然り、中内功然り、松下幸之助然り、拙著でも取り上げた武田信玄然り、そして・・・、渡辺晋然り・・・。
まあ、ドラマでは、渡辺氏は、そこで、病気になって、病床で自分を見つめ直し、以後は一歩引いたところから・・・のように言われてましたが、ちょっとだけ、眉唾のような気がするのは私だけでしょうか・・・(笑)。
                          平太独白
by heitaroh | 2006-06-01 08:45 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

無事、豊橋より帰還しましたので野村望東尼続きですの巻。
親愛なるアッティクスへ

今、愛知県豊橋市から戻りました。
途中、せっかくだから、途中下車して、岐阜県大垣市にある大垣城を見てきたのですが(委細はまた後日・・・(笑)。)、豊橋が暖かかったのに対し、大垣は異常なくらい寒く、とうとう、一枚出して、着込んだのですが、先ほど、博多駅に着いたら、今度は、50m歩くうちに汗ビッショリに・・・(笑)。
日本は狭くないのでは・・・。

で、先日の続きです。
折から、福岡藩は長州藩の危機と軌を一にして「乙丑の獄」と呼ばれる、勤王党弾圧政策を採っていたこともあり、望東尼は、その一環として、福岡県西部に位置する姫島という島の獄に繋がれることとなります。
で、ここからがようやく本題です(笑)。

姫島というところは、現在では、福岡市の西隣、福岡県糸島郡志摩町に位置しますが、隣の現福岡県糸島郡二丈町対馬藩領ですから、当時としては、福岡藩の西の果て・・・という認識だったのでしょう。
で、基本的に、牢獄というのは、今も昔も、快適な環境になどあるはずもなく、この姫島の獄も、床には畳などなく、冬は持ってきた衣類を張り巡らしても寒さをしのげず、夏は、ムカデなどの害虫の侵入に悩まされたと言います。
冬も、今のように地球温暖化が進む前です。
私が子供の頃の記憶でも、昔の冬は本当に寒かったですよ。
夏は夏で、蚊帳を吊って、蚊取り線香を焚いて寝ないと、朝には体中、蚊に刺されまくりでしたしね。
これだけ、衣類が整い、暖房器具が普及し、地球温暖化が噂されるた現代でも、私なんかは、寒くて寒くて堪らないことを考えると、まさしく、現代で言う岐阜県大垣市状態・・・。
望東尼のおかれた環境が如何に凄まじいものだったかということがおわかりいただけると思います。

ちなみに、望東尼、このとき、60歳
当時の60歳は、いくら男性に比べて寿命が長いと言われ女性であっても、現代の75歳か、あるいはもっとそれ以上に相当する年齢であり、当時としては高齢であったということを考えると、藩としては、事実上の衰弱死を命じたようなものだったのかもしれません。
驚くべきは、この劣悪な状況下、高齢の望東尼が、ここで10ヶ月余の月日を送ったことです。
地元島民からの援助などもあったと言いますが、実際、一時期は、かなり、危険な状況に陥ったこともあったと言います。
ホント、いつの時代も、女性の強さには驚かされますよ・・・。

余談ですが、西郷隆盛の像は、いくつあるかご存じでしょうか?
上野、鹿児島・・・は有名ですが、実はもう一つあります。
それが、西郷さんが島津久光に疎まれ、島流しにされていたときのものだそうですが、あの上野や鹿児島の西郷さんとは似ても似つかない、痩せこけて、老人のようになった西郷さんの像だそうです。
当時の牢獄という物の過酷さの一端がおわかり頂けると思います。

その後、長州藩の主導権を回復した高杉晋作は、筑前福岡藩の同志6名に、望東尼救出を依頼。
救出部隊は、たった6名で藩の牢獄を襲うのですから、決死の覚悟で姫島の獄に乗り込んだと言います。
ところが・・・、まあ、この辺が、いかにも福岡藩らしいところですが、獄卒以下、拍子抜けするほどに誰も抵抗せず、実に、あっさりと望東尼救出作戦は成功したとか・・・(笑)。

で、その後、先述したとおり、高杉晋作の最期を看取り、王政復古の一ヶ月前の慶応3年(1867)11月6日、長州藩にて客死。
享年62歳であったと言います。

よろしければ、クリックお願いします。→ 人気blogランキング
by heitaroh | 2006-02-16 22:36 | 歴史 | Trackback | Comments(4)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
ライフログ
最新のコメント
> sakanoueno..
by heitaroh at 19:21
わたしは小学生の頃、少し..
by sakanoueno-kumo at 10:11
> sakanoueno..
by heitaroh at 10:46
ようやく読み終わりました..
by sakanoueno-kumo at 19:09
> sakanoueno..
by heitaroh at 17:31
12周年おめでとうござい..
by sakanoueno-kumo at 03:47
> sakanoueno..
by heitaroh at 18:12
光を当てられていない人に..
by sakanoueno-kumo at 15:14
>sakanoueno..
by heitaroh at 11:09
あけましておめでとうござ..
by sakanoueno-kumo at 15:22
>Mさん  そうだ..
by heitaroh at 20:52
壊れた時計が動く理由もネ..
by M at 20:38
> sakanoueno..
by heitaroh at 12:35
なるほど。 先日の疑問..
by sakanoueno-kumo at 22:50
>sakanoueno..
by heitaroh at 10:05
検索
タグ
(64)
(54)
(54)
(51)
(50)
(46)
(42)
(41)
(41)
(36)
(32)
(31)
(30)
(30)
(29)
(28)
(26)
(26)
(25)
(25)
(24)
(24)
(24)
(24)
(23)
(23)
(21)
(21)
(21)
(20)
(19)
(19)
(18)
(18)
(18)
(18)
(17)
(16)
(16)
(16)
(16)
(15)
(15)
(15)
(15)
(14)
(14)
(13)
(13)
(13)
(13)
(13)
(13)
(13)
(13)
(13)
(13)
(13)
(12)
(12)
(12)
(11)
(11)
(11)
(11)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(10)
(9)
(9)
(9)
(9)
(9)
(9)
(9)
(9)
(9)
(9)
(9)
カテゴリ
以前の記事
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 04月
2005年 03月
最新のトラックバック
八犬傳(上・下)
from 天竺堂の本棚
2016年NHK大河ドラ..
from <徳島早苗の間>
明治日本の産業革命遺産の..
from 坂の上のサインボード
明治日本の産業革命遺産の..
from 坂の上のサインボード
時~は2015年♪。
from <徳島早苗の間>
フォロー中のブログ
ブログパーツ
  • このブログに掲載されている写真・画像・イラストを無断で使用することを禁じます。
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧