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中国大返しは人間の欲を活用した秀吉の妙。

中国大返し。世界史的にも類例を見ないと言われるこの、200キロにも及ぶ敵前大反転攻勢作戦は常識では考えられない要素を含んでいる。

まず、絶えず生命の危険に晒されている戦場では、敵前での後退はそれだけで恐怖心から潰走に至ってしまう可能性もあり、為に、羽柴(豊臣)秀吉は自軍に「敗走」ではなく「転進」だということを明示する意味から、敵将・清水宗治を衆目の中で自害させ、その上で部隊に撤退開始を指示。

自身は遅れて、毛利との和睦を確認した614時より移動を開始し、途中、休養日などはあったものの7日後の13日には200キロ先の山崎にて明智光秀の軍を撃破、特に、最初の休憩地・沼城から70キロ先の拠点姫路までは豪雨の中を丸1日で走破しています。

おそらく兵士らは24時間歩きっぱなしだったのでは。

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一つには、これは黒田官兵衛(如水)というよりも、おそらく石田三成の手腕だろうと思いますが、鎧や刀槍などの武具はすべて置いて裸になって走れ!ということもあったようですし、また、当時は「歩く」という行為が現代より遥かに身近だったということもあったのでしょう。    

現代ならば「岡山から京都まで歩いて来た」と聞けばびっくりでも、当時の人は他に移動手段がないわけで、「だって、馬なんて持てる身分ではないし」と不思議そうな顔で答えたのでは。

つまり、歩くということは現代人が呼吸するのと同じくらい当たり前のことだったわけですね。

でも、それでも1日平均40キロ移動ですよ。

まだ、疑問氷解とはいかないような気がします。

で、ここで見過ごせないのが秀吉軍の猛烈な戦意です。

一般に1万石以上を大名というようですが、では、1万石というのは現代の貨幣価値で幾らか?

これは、時代によっても大名家によっても違い、また、公務員初任給などない時代ですから、米価なのか大工の手間賃なのかの換算基準によっても違うわけですが、大体、ざっくり1万石=年収1~10億円だと。

こういうと、底上げされた数字のように思えますが私の母方の祖先は福岡藩の下級武士で53人扶持・・・ですから年収100万円以下

しかも、これより下がまだいるわけで、封建社会が如何に貧富の差が激しかったかということがわかるかと。

当然、この年収では生活していけなかったはず。(ちなみに、時代劇に出てくる江戸の同心与力というのは足軽身分ですから、彼らの本来の年収も似たようなもので、実際には役得などの副収入に頼っていたとか。)

つまり、秀吉に従っていた末端の兵士らの多くはこういう未来に展望が描けない低所得の人たちだったわけで、それだけに、「秀吉様が天下を獲る≒俺も殿様になれる=結婚も出来る、家族も養える≒こんなのは一生で一回あるかないかのチャンス」・・・と。

走りませんか?(笑)。

つまり、秀吉軍の強さの秘密は人間の「欲」が支えていたということであり、逆に光秀ら他の武将はその辺を活かしきれなかったということで、改めて秀吉という人の人間心理の洞察力の凄さがわかるでしょうか。

                平太独白


by heitaroh | 2014-07-16 12:59 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

備中高松城水攻めにみる心理的効果が黒田官兵衛の特徴
豊臣秀吉がまだ織田家の部将であった頃、三木の干殺し鳥取の飢殺し高松城の水攻めで中国地方を席巻したと言われてますよね。
特に有名なのが城の周囲に延々と土堤を築き、川の水を引き込んで水没させて落とした備中高松城ですが、私がかねてより疑問だったのが、なぜ、ここだけ水攻めだったのか・・・ということでした。
もちろん、他の2つと違い、水を貯めやすい地形だったということはあるのでしょうが、でも、他の2つは普通に兵糧攻めで落ちてるわけですから、別に水没させなくても落とせたんじゃないの?・・・と。
で、さらに疑問なのが、秀吉方は救援に来た毛利軍の猛将・吉川元春の軍と土堤との間にはわずかな部隊しか配置していないことで、これでは、毛利軍がその気になれば夜間にでも急襲をかけて土堤を破壊し、城を水没から救うことは出来たんじゃないの・・・と。

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(↑左側に少しだけ写っている緑地が吉川陣。土堤との間には花房、山内の部隊しかいないことがわかると思います。)

ここまで考えて、ハッとしました。
つまり、「ここがどういう場所か?」ではなく、「今がどういう時期か?」だったのではないかと。
戦闘は梅雨から初夏にかけて行われたそうですから、織田家と違い、兵農分離が進んでいない毛利兵は農繁期の出兵を嫌ったのではないか・・・と。
兵からすれば、「だったら、来年の年貢は負けてもらえるんですか?」と言ったとしても、言われた側は現代もそうであるように税収不足は困るわけで、「いや、それはそれで・・・」としか言えず、だったら「冗談じゃない」となった・・・と。
となれば、救援に来た毛利軍は実際には大した兵力を確保できておらず、さらに、いくら、「もうすぐ終わるから」と言ったところで、目の前でしっかり水に浸かっている城を見れば長引くというのは明らかで、そうなると今いる兵を引き留めるのも難しくなっていたのではないか・・・と。

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(↑昭和期の大雨時の写真。中央で天橋立のようになっているのが高松城址。)

結果、少ない兵力で土堤に向かって出動すれば「待ってました」とばかり秀吉軍の主力部隊に捕捉され、全滅してしまう可能性があり、また、秀吉もそれを狙っていた・・・と。
そういう目で見れば、高松城は周辺の泥沼で防御するという「時代遅れの城」で秀吉軍なら水攻めでなくてもどうにでもなった・・・と。
つまりは、織田家の革新兵制「兵農分離」も含めた戦争形態の変化が勝利の背景にあったと言えるでしょうか。

ちなみに、この攻略法を献策したのは秀吉の参謀として頭角を現していた黒田官兵衛(如水)だったという説もありますが、これは私もそう思います。
なぜなら、作戦計画という物には人それぞれの傾向というものがあるもので、官兵衛のそれは、後の小田原攻囲の時などでもそうですが、単に物理的に攻略を企図するのではなく、目に見える形での心理的効果を狙うというのが一つの特徴のように思えるからです。
つまり、水攻めは攻略の手段ではなく、敵兵に与える心理的効果を狙った象徴的な物だったと。
                                         平太独白

by heitaroh | 2013-11-07 17:44 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

社会が変革するときのリーダーのタイプ三態
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」の落首でも知られる、織田信長、豊臣(羽柴)秀吉、徳川家康の三将ですが、この「変革」「啓蒙」「定着」という三つのタイプは日本の歴史が大きな社会変革を迎え、それが次の時代へと定着していく時には割りと良く見られるもののようです。

また、三者の性格は、よく、信長の「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」、秀吉の「泣かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」、家康の「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」で知られていますが、要は「激烈」「機略」「忍耐」・・・ということだったのでしょう。
で、それらを踏まえた上で、平安朝という、長く続いた秩序が終わり、武士という新興勢力の台頭という形で社会変革をもたらされた時代に当てはめると、平清盛、源頼朝、北条義時・・・となり、同じく、徳川幕府という古い秩序が、外圧によって近代国家への変革を余儀なくされたケースでは、高杉晋作、坂本龍馬、大久保利通・・・と。
まあ、もっとも、これは、そもそもが、まったくの別人格なわけですから、時代の要請によって微妙にタイプが異なってくるのは当然でしょうが、大久保は家康を敬し、家康は頼朝を敬した・・・という話も聞いていますので、あながち、こじつけという話でもないと思います。

もちろん、北条執権政権も北条義時の代ですべてが定まったわけでもありませんし、幕末維新期だって、何より、西郷隆盛などのように、他に引けをとらない大きな足跡を残した人物を、タイプに当てはまらないからと言って、名を挙げないのも適当ではないでしょう。
(その意味では、幕末維新期というのは、それまでと違い、世界が視野に入ってきたということから考えれば、人材が順番に・・・ではなく、一斉に群がり出たということだったのかもしれません。その意味では、幕末維新期とせずに、長州では吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文・・・、薩摩では、島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通・・・、土佐では、武市瑞山、坂本龍馬、岩崎弥太郎と分ける・・・という見方もあるでしょうか。)

で、このパターンを戦後に当てはめてみると、信長は「ワンマン宰相」と呼ばれた吉田茂、秀吉は「今太閤」と称された田中角栄・・・とまあ、面白いくらいにピッタリですよね。
ただ、家康・・・となると、特に類推される政治家はいませんでしたが、「戦後政治の総決算」を掲げ、また、角栄さんとも微妙な盟友関係にあったという意味でも、中曽根康弘さんだったのかもしれません。
ついでに言うと、小泉純一郎さんは良く、信長に例えられましたが、行き詰まった戦後体制に変革をもたらそうとしたという意味ではそうとも言えるのでしょう。
後は、秀吉、家康が続けばいいんですけどね。
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-05-10 17:30 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

権力は遠心力を有している
親愛なるアッティクスへ

今日からついに10月ですね。
驚いたのはカレンダーが2月のまま止まっていたこと・・・。
今年に入ってからの私の多忙さがおわかりいただけるでしょうか。
それと一緒で、久しぶりに当ブログの訪問者数を見てみたら、何と、236,984となっており、25万人突破が視野に入って来ていることに気づきました。
(ただ、これはこのエキサイトブログだけの数字ですから、当初はライブドアでもやってましたし、一時期はgooとも併設していましたので、実数はおそらく、30万人を突破しているのではないかと思われます。)

さて、常日頃、私は、「権力とは、それ自体に遠心力を有しているもののようである」と感じております。
即ち、権力とはハンマー投げハンマーのように、油断すると、すぐに手から離れて飛んでいってしまうもののようだと。
時には、ちょっとした油断からその辺に落ちて、側近くの者に拾われてしまうもののようでもあります。
従って、それを手放さないように維持するためには、もの凄いエネルギーを必要とするわけで、その意味では、黒田如水よりは豊臣秀吉・・・、周 恩来よりは毛 沢東のような、権力に対しての脂ぎった執着心を持った者の方が適任である・・・といえるでしょうか。

となれば、どうにも、こういう脂ぎった物を持たない・・・、つまり、恬淡すぎる私としては・・・、平たく言えば、福岡人の国民性そのものに、アバウトでどうにも粘りがない私としては・・・、砕けて言うならば、ワックスなど滅多にかけないけど、たまにかけると、半分掛けた段階力尽きてしまう私としては・・・、もっと砕けて言うならば、残り半分のワックスはまたそのうち・・・などと思いつつ、半永久的にに掛けない私としては・・・(長い!)、とにかく、こういう具体的「数字」というものは、大いに励みになるということです(笑)。

e0027240_1145265.jpgともあれ、「継続は力なり」とは申しますが、これほど多くの方にお越し頂いていたことに、知らぬうちにご支援を戴いていた感慨を覚えると共に、改めて、謝意を表し奉る次第です。誠に持って、有り難うございました。

(←この鍾乳石が繋がるには、まだ60年かかるとか。意外に早い?(笑)。)

と言いつつ、実は昨日までは先月中旬以来、多忙さも一段落して、わりとゆっくりしていたのですが、今朝からなぜか、突然、忙しくなってしまいました。

で、また、しばらくは思うに任せない日々が続くのですが、今後ともご支援のほど、よろしくお願いいたします。
                                         平太独白
by heitaroh | 2012-10-01 07:58 | 思想哲学 | Trackback | Comments(0)

東日本大震災・北関東派遣見聞録 その15 武州岩槻城
親愛なるアッティクスへ

12月となり、このシリーズも、いい加減にけりをつけなければ・・・と思っているのですが、なかなか先が見えてきそうにありません。

で、長きに渡った東日本大震災での建築士派遣ですが、5月下旬に一旦、終息となり、そのまま、栃木県から北上してくれと言われるのか・・・と思いきや、言い渡されたのは北・・・ではなく、南の埼玉県でした。

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(埼玉であてがわれたホテルがこれ・・・(↑)。前日まで、宇都宮で泊まっていたホテルとのあまりの差に、隣室の友人は思わず、「何かあるんじゃないか?」と疑心暗鬼になってました(笑)。)

で、移動して後、せっかく埼玉に来たんなら是非、行っておきたい・・・と思っていたのが、岩槻城鉢形城でした。
言うまでもなく、川越城、玉縄城と合わせ、徳川家の入封以前に関東に覇を唱えていた小田原北条氏の重要拠点ですね。

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で、まず、岩槻城ですが、今では単なる公園(↑)になっており、ここだけを見て、ここにかつて重要な防衛上の拠点があったとは想像することの方が難しかったでしょうか。

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で、とりあえず、周囲にそってしばらく歩くうち、こういう場所(↑)に出ました。

おそらく、堀の跡だろうと思いましたが、やはり、そうで、往時はもっと堀も深く、北条氏特有の「堀障子」と呼ばれる堀の中の障害物も見つかっているのだとか。

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e0027240_1622138.jpgただ、そうは言っても、この程度の堀だけでは北条氏の重要拠点としては少し貧弱すぎるように思っていたのですが、しばらく行って、この看板(←)を見つけ合点が行きました。
ここは今では埋め立てられ、公園の広場になっていますが、かつては沼地で、周囲も川越城同様、腰までどっぷりとはまるような泥濘で、いわば、その中に浮かんだ水上要塞の観があったのでしょう。

ただ、中世の関東の土豪同士の戦いならそれでも良かったのでしょうが、豊臣秀吉の大軍を引き受けて戦うとなると、やはり、役不足の観は免れず、天正18年(1590年)、小田原征伐の折には2千の兵が篭るも、約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して伏落城した・・・と言われています。
土木技術の革新が進んだ上方勢の前にはこの程度の障害は大したものではななかったのではないでしょうか。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-12-08 18:42 | 政治 | Trackback | Comments(0)

徳川家の時代に影響されている現代日本人の就職観
親愛なるアッティクスへ

先日、加藤(清正)家の家臣団の一覧表を見た際、やたらと、「旧OO家家臣」という添え書きが目につくことに気づきました。
これは、門閥によらない人材登用を推進した織田信長の登場と、その薫陶を受けた豊臣秀吉の勢力範囲拡大に伴い、加速度的にそういう風潮が広まっていった結果だと思いますが、その意味では、戦国という時代は実力さえあれば高給に応じて転職し、自らのステップアップを図るlことができる「大求人時代」であったと言えるのでしょうか。
(その辺を端的に顕しているのが、「武士たるもの七度、主君を変えねば武士とは言えぬ」とうそぶき、最後は伊勢 津藩32万石の藩主にまで上り詰めた藤堂高虎の存在かと。)

ところが、その日本中の流れに染まらなかった異質な集団があります。
「徳川家」です。
その辺の異質さを示す話として、徳川家康の重臣で秀吉に引き抜かれた石川数正という人物がいるのですが、家康が秀吉に屈して後、秀吉が同じく家康の重臣である井伊直政を大阪に招いた際にそこに数正を同席させたところ、直政は数正を見るなり、露骨に不快感を表し、罵倒した後、そのまま退席した・・・という話があります。
秀吉にしてみれば、何も、数正を辱めようとして同席させたわけではなく、「知り合いが居た方が直政も気がほぐれるだろう」という程度の配慮からだったのでしょうが、現代の我々日本人の感覚からすれば、むしろ、直政よりも秀吉の感覚に違和感を感じられる方が多いのではないでしょうか?

その意味では、当時の日本人の就職に対する感覚はむしろ今のアメリカ社会に近かったようで、その辺を端的に表した話があります。
ソニーの創業者の一人、盛田昭夫氏がアメリカへ進出して間もない頃、これはと見込んだアメリカ人社員に一から仕事を教え、ソニーのノウハウを伝授し、ようやく一人前になった・・・と思っていたところ、その社員はあっさりと高給を提示されたライバル企業に転職してしまい、盛田氏は思わず人間不信に陥りそうになったそうです。
ところが、数日後、あるパーティでばったりその元社員と会ったところ、彼は思いっきり笑顔で普通に「ハーイ、アキオ!」と話しかけてきたのだとか・・・。

そう考えれば、今の日本人の感覚というのは徳川家の時代が300年近くも続いたことに縛らているということの裏返しであるとも言えるのではないでしょうか。
つまり、もしも、信長・秀吉の時代がその後の日本のスタンダードになっていたとしたら、パナソニックからサムソンに転職した技術者が他の日本の電機メーカーに再就職できない・・・などというような話はなかったのではないかと・・・。
その意味では、我々は未だに徳川家の時代の「洗脳」から解き放たれていない・・・といえるのかもしれませんが、でも、これは無理もない話であって、秀吉没後、忠君報国の価値観は帝国日本にも受け継がれたことを考えれば、実際には350年、そういう価値観の時代が続き、対してその価値観に縛られなくなってからはまだ65年程度しか経っていないわけで。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-10-08 07:59 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

大河ドラマ「江~姫たちの戦国」で信長普遍の法則 その1
親愛なるアッティクスへ

今年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」ですが、昨日、やっと第三回まで観終わりました。
最近の大河ドラマは、まあ、題材が出尽くした・・・ということもあるのでしょうが、「利家とまつ」辺りから完全に女性の占有物になったような気がします。
(以前から、「おんな太閤記」日野富子を描いたやつなど、女性目線の物が無かったわけではないのでしょうが、最近は特にその傾向が顕著になったかと・・・。この点は、私が大河ドラマ史上、「花神」と並んで高い評価をしているモッくん主演の「徳川慶喜」が、ちょうど今、ケーブルでやってますので、比べていただければよくわかるかと思います。)

で、今年の大河ドラマですが、そもそも、あんたら三姉妹だけじゃないでしょ・・・と(笑)。
小谷城落城の際には弟で浅井長政の嫡男、万福丸織田軍に捕まってかなり酷い形で殺されてますし(一説によると死ぬまでにとても苦しむ串刺の刑だったとか。)、下の弟は生かされて僧侶になったなどと言いますから。
この点は別に細かく突っ込むつもりはないのですが、ここで私が採り上げたいのが、おそらく、惨殺された万福丸は織田信長の妹、お市の方の子ではなかったのではないか・・・ということです。
織田信長という人は、身内でも一切、容赦しないようなイメージがありますが、実際には意外に身内には優しい人なんですよ。

父、信秀の晩年にできた幼い弟たちはすべて、ちゃんと養育してますし、家督を争った実弟、信行は殺したものの、その息子、信澄は終生、一門として遇し、実子以上に可愛がっていたようにさえ思える部分もあります。
また、自らの子供たちも家督争いが起こらないように、早い段階で、嫡男・信忠に家督を譲り、次男三男は他家に養子に出すなど、しっかり、良い親父しており、さらには徳川家康の嫡男、信康に嫁いだ娘が夫と姑の悪口を言ってきたら、家康に落とし前付けさせるし・・・。
ただ、その一方で、織田家に置いては信長の存在は絶対であり、となれば、当然、一族の女性に婚姻の自由などあるはずもなく、すべて信長の命令ひとつで、その意味では、そもそも、お市の方に自らの意思など無いも同然だったでしょう。
(信長は、自らの命令で嫁がせた叔母が背いたとき、その叔母を捕らえ、衆人環視のもとで逆磔の刑で殺していますから・・・。)

ただ、このドラマでもそのようですが、信長はそんな酷い事をしている反面、時代が変わっても普遍の人気を誇っているのに対し、(かつて、元プロ野球投手の江夏 豊氏は「男の子はどんな悪い奴でも強いものに憧れる時期がある」と言ってましたが、なるほど、このドラマでの信長を見ていると、そんな気がしますね。「昨日の敵が今日の友になるのが乱世の定め。武士がいちいち、憎んでいていては・・・」等と言うと、襖の向こうで若侍らが「得心」と言わんばかりに聞き入っている場面など、思わず私も妙に納得・・・と(笑)。)豊臣秀吉は最近は朝鮮出兵のこともあってかどの作品でも描かれ方がキツイですね。
昔は、秀吉といえば、立身出世の見本みたいなもので、「今太閤」などという言葉もあったほどだったんですが・・・。

おっと、もう、時間がありません。
この続きは、また、いつか続くと思います。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-01-28 07:59 | 文学芸術 | Trackback | Comments(2)

中村富十郎死去に見る女の幸せの一つの在り方
親愛なるアッティクスへ

e0027240_1919079.jpg今年の年末年始はあいにくの天気でしたね。
福岡県地方はもう、長いこと、終日、好天に恵まれた日を迎えていないような気がします。
それもあって、私は、この年末年始は大晦日元旦三が日も昨日も今日も、普通に仕事をしておりました。
まあ、家にいてもすることがない・・・というのもあるんですけどね(笑)。
でも、お陰様で、昨年からたまっていたのが随分、片づきましたよ。
ちなみに、大掃除はまだ、まったく手つかずとして残っております(笑)。

ところで、歌舞伎大御所人間国宝中村富十郎さんが亡くなったそうですね。
享年81歳だったとか・・・。
謹んでご冥福をお祈り致します・・・が、ただ、私は、まだ、一度も歌舞伎を見たことがない人間ですから、当然、この人の芸の素晴らしさどころか、実は名前さえ知りませんでした。
ではなぜ・・・というと、以前、たまたま、テレビに出ておられたのを見かけたからでして、その番組では、最初、この方が、美しい息子の嫁幼い孫2人とお宮参りに行かれている映像が流れていたのですが、普通なら、そのうち、30代くらいの跡取り息子が「パパ、お帰り~」とか言って、子どもたちが駆け寄る映像と共に出てくるはずなのに、それがいつまで経っても出て来ないんですよ。

で、「ん?」・・・と気づいたのですが、何と、それは孫と嫁ではなく、この方の子どもだったんですね。
私的には大変、驚いたのですが、それもそのはず、平成8年(1996年)に結婚した奥さんは33歳年下で、平成11年(1999年)に生まれた息子は69歳のときの、平成15年(2003年)に生まれた娘は74歳のときの子どもなんだそうです。
となれば当然、お子さん方には目に入れても痛くないほどの愛情を注いでおられ・・・。
「この人、今、豊臣秀吉の役をやったら歴史に残る名演技になるんじゃないの・・・」などと思いつつ見ていたわけで・・・。

まあ、家康みたいのはいないでしょうし、人間国宝ですから経済力もでも十分な物はあるのでしょうから、何も心配する必要は無いのでしょうが(ここでも、ベルルスコーニが言うことは一理あるような・・・(汗)。)、この方が、「可愛くて仕方がない」という言葉と共に、「産んでくれた家内には感謝感謝で頭があがりませんわ」と仰っていたのを聞いてまた別の感慨が湧いてきました。
「これはこれで、女性にとっては幸せという形の一つの在り方なんじゃないのか・・・」と。
経済力云々のことは置くとしても、女性としてこれほどに愛されて、これほどに感謝され、これほどに家庭を大切にしてくれるのであれば、たとえお爺ちゃんでもこっちの方が良いんじゃないの・・・と。
あ、別に、私の老後を睨んで布石を打っているわけではありませんから、くれぐれも誤解のないよう・・・(笑)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-01-05 20:21 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

紅葉に誘われ御土居に遊び、二つの川に御所の名残を見る
親愛なるアッティクスへ

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今回、京都に行って、せっかくだからと北野天満宮(↑)へ行ったのですが、ちょうど、折から紅葉の時期でもあり、たくさんの人出で賑わっていました。

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別に私はそういう物には興味がありませんので、スルーして、一路、平安京造営当時御所の北西角に当たる大将軍八神社へ行こうとしたのですが、と、「史跡・御土居」という立て看板が目に付きました。

e0027240_19124879.jpg「?」と思って説明板を見てみると、ここは豊臣秀吉が京都の治安維持のために、都を、ぐるっと取り囲む形で築いた土塁であるということが書いてありました。
なるほど、考えてみれば、秀吉の手によって天下が治まった以上、京都の平穏は秀吉の威信と直結するものであったわけで、であれば、山賊、強盗などの凶徒の侵入を防ぐためにも、何らかの設備を設けるのは当然のことであったでしょう。
で、現在は多くが失われ、その一部が北野天満宮に現存している・・・と。

e0027240_18281123.jpgこの土塁はその外側に堀(←現天神川)を配し、さらに土塁自体、結構な高さで、おそらく川底からの高さは5mくらいはあるように思えました。
これでは、少なくとも、大がかりな窃盗団などの侵入はかなり、防ぐことが出来たのではないでしょうか。
で、その後、大将軍八神社に行ったところ、ここも、この川の内側に沿って配置されていたことを見て、おそらく、この川は元々、秀吉の築造以前には、かつての御所の外堀だったのではないか・・・という気が。
(そもそも、天神なんて名前は、どうせ、天満宮から来てるのでしょうから、天満宮・・・、すなわち、菅原道真の後に付けられた名前でしょう。)

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(↑左下に見えている遊歩道の向こうが天神川ですから、その高さがおわかりいただけると思います。)

で、北東端に位置する晴明神社に行くと、その向こう、大通りを渡った先にも小さな川が流れており、おそらく、昔はこの川もそこそこ、大きな堀だったのではないかと思ったわけで、見れば、その傍らには「堀川通り」の看板が・・・。
つまり、この二つの川は御所を守るために作られた堀の名残、あるいは、この川の間に沿って、御所を配置した・・・ということなのかもしれません。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-11-26 18:52 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

多忙を極める中で見る猛暑の摂津路 その10
昨日の続きです。

e0027240_14351518.jpg山崎に着いた羽柴(豊臣)秀吉も当然、この天王山の重要性は認識していたようで一隊を割いて占拠している明智方の部隊を急襲し、これを撃破。
(←羽柴方天王山急襲部隊が自軍に見えるようにここに旗を立て、士気を鼓舞したと言われる「秀吉旗立ての松」。)

e0027240_14504750.jpgこれを受け、両軍は麓でも激突し、戦いその物は、開戦後しばらくは一進一退の攻防が続いたものの、やがて、数に劣る明智軍は総崩れとなり、主将・明智光秀は居城・坂本城をめざして落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて絶命したと言われています。
いわゆる、光秀の三日天下ですね。

(←天王山麓近くにある神社へと続く石垣階段。登り口で地元の老人は、「帰りはこちらを通って降りてきたらいいですよ」と仰いましたが、こちらの道は藪蚊だらけでした。)

で、数で劣っていたとはいえ、自軍に有利な戦場で待ち受けていたはずの光秀はなぜ、こうもあっさりと敗れたか・・・。

e0027240_14583752.jpgこの点、兵法評論家の大橋武夫氏は「実は天王山をどちらが獲ったかはそれほど重要ではない」と言い、その上で、「光秀には決定的に欠けているものがあった。それが、勢いである」と喝破しておられます。
つまり、備中高松城から一直線に姫路、尼崎を経て、合戦場へ馳せ戻ってきた秀吉軍には勢いがあり、勢いそのままに、全軍火の玉となって敵陣に突入し、明智軍を粉砕したと。

(←下山した辺りにある山門。)

秀吉軍の兵士を突き動かした大きな物、それは「信長の弔い合戦」であるという大義名分と、何より、「うちの殿様が天下人になるかもしれん。そうすれば、俺たちだって一国一城の主も夢ではない」という人々の強烈な「欲」だったでしょう。
そして対照的に、光秀軍にはそのすべてが無かった・・・と。
畿内から出ていないから疲れはないけど勢いもなく、「主君殺し」の後ろめたさと、「俺たち、これからどうなるんだ・・・」という不安とが入り交じった心境ではなかったでしょうか・・・。
これでは勝てませんわな。

あと一回くらい続く。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-09-18 08:25 | 歴史 | Trackback | Comments(2)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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