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タイトルを分け合う馴れ合いはプロとしての疑問
気がつけば、ついに12月ですね。
今年は本当に忙しかった印象があり、その意味ではあっと言う間でした。

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   「帰りなば 釣瓶落としの 夕日かな」 梁庵平太

ということで、とにかく、今年は多忙だったということで拙稿もなかなか、時間がとれず、今頃・・・で恐縮ですが、今年のプロ野球回顧です。

まず、最終戦で巨人の長野選手と坂本選手が最多安打のタイトルを分けあいましたよね。
この試合で、3安打を放って坂本が長野選手に並ぶと、原監督は長野選手を引っ込め、結果、同僚2選手のタイトル獲得が確定的となったわけですが、思わず、昔、西鉄ライオンズでの首位打者を争いの時のことを思い出しました。
ここまで、主砲・中西太選手は既に本塁打王、打点王を確定的としており、残る首位打者を獲れば三冠王・・・、対して、ライバル・豊田泰光選手が獲れば初のタイトル・・・だっただけに、どちらも譲れず、結局、当時の三原脩監督の「チーム内にしこりを残すべきではない」という判断で両選手は最終戦を欠場し、豊田選手の首位打者が確定した・・・と。

でも、私はプロなんですから、最後の最後まで堂々と争うべきだと思うんですよ。
最後の最後まで争って敗れたのであれば、実力で敗れたわけですから、それで不平を言う人はいないでしょう。
今回の場合は引き分けで両者並列でタイトルが獲れたわけですから、本人たちとしては別にそれで良いのかもしれませんが、それでもプロなんですから、お山の上に大将はオレだけで良い!・・・くらいのプライドは見せて欲しかったですね。
それに、同じチーム内だから仲良し・・・ってつもりかもしれませんが、同一チーム内だからといって、ポジションが違うからといって、仲良しでいられると考えるのはおかしいんじゃないですか?
トレードだってあるわけだし、何より、相手がこれで自信をつけて、来季はタイトルを独占すると、相手の給料が上がり、ひいては自分の給料が下げるわけで。
かつての、川上哲治選手と与那嶺要選手のように、本来、そこには激しい競争があるべきですよ。

もっとも、中西・豊田のケースはちと、レアな、一概に言えないパターンではあり・・・。
というのも、中西選手の妻は三原監督の娘・・・、つまり、中西選手は三原監督の娘婿ということになるわけで、そうなると、三原監督としてはやりずらかったでしょうねぇ。
もし、中西選手がタイトルを獲ると、「意図的に身内にタイトルを獲らせた」という声が聞こえてくることを覚悟しないといけないでしょうし、少なくとも、「他人」の豊田選手がどう思うか・・・については配慮せざるを得なかったのではないでしょうか。
もっとも、三原監督の判断にその辺がどう影響したかは本当のところは知る由もないことですが。

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白
by heitaroh | 2012-12-03 17:58 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

「エル・スール 我が心の博多」再見、そして西鉄ライオンズ!
親愛なるアッティクスへ

昨日は福岡に帰ってきて初めて、夜の風に吹かれてきました。
やっぱ、中洲は良かですねぇ・・・。

e0027240_19315588.jpgで、何しに行ったかと言いますと、こちら(←)です。

以前も、平太郎独白録 : 「エル・スール 我が心の博多そして西鉄ライオンズ」に号泣寸前で申し上げたことですが、私が大いに感涙にむせび、辛うじて嗚咽を漏らすのをこらえた、「エル・スール 我が心の博多そして西鉄ライオンズ」という舞台がまた、博多で再演されるという話を聞き、何としても、もう一度、行かねばならぬ・・・との思いから、同じく下町育ちの記憶を持つ先輩様にお付き合い戴き、行ってきた次第でした。

で、この舞台の舞台となったのが今の博多駅前地区・・・・でして、ここで生まれ育った私にとってはまさに、私の誕生前夜の博多がそこにありました。
(普通、昭和三十年代の博多が舞台になるときには、主に「山笠」などで知られる旧博多地区が舞台になるので、この現博多駅前地区が舞台になったのには本当に意外でしたが、やはり、プロデューサーの岡田潔という人が私の小学校の先輩でした。)
まあ、今回はさすがに嗚咽をかみ殺さなければならないような事態には至らなかったことだけはご報告申しあげておきます(笑)。

ただ、これも以前、続・「我が心の博多そして西鉄ライオンズ」と「恋文」比較で申し上げたことなのですが、「ALWAYS三丁目の夕日」などと違い、決して倫理的には褒められたものではない登場人物たちや、現代ではハラハラするような露骨な表現なども出てくるため、女性や、当時の時代背景、地域事情などを知らない人を誘うのはちと難しいかな・・・という気がしたのも事実でして、今回、この先輩に断られたらどうしよう・・・と思っていたのも事実でした。

ま、そんなこんなで会場となったアクロス福岡に行ってきたのですが、ただ、前回と違い、今回は二部構成で、第一部としてかつての西鉄ライオンズの名選手によるトークがあり、私の父をして、「今日も西鉄、明日も西鉄、勝てば勝ったで祝い酒、負けたら負けたでヤケ酒」と言わしめた伝説の名選手たちが舞台の上に出てこられたのですが・・・、まあ、皆さん、しっかりお年を召されたのは仕方ないのですが・・・、ただ、闘将としてならした豊田泰光翁の著しく衰えた姿にはとても驚きました。
私はかねて、この方の著書などには大いに啓発されるところが多く、機会があれば是非、一度お目にかかりたいと思っていただけに、初めて見た生豊田の姿に言葉を失いました。
また、是非、元気な姿を見せていただきたいと願ってやみません。 
                                        平太独白
by heitaroh | 2011-08-04 20:16 | 文学芸術 | Trackback | Comments(6)

大沢親分逝去に思う親分と後任・土橋正幸氏の思ひ出 1
親愛なるアッティクスへ

先般、亡くなった「親分」こと、大沢啓二さんですが、私的には思ったより大きく採り上げられていたのが意外でした。
だって、選手としては見るべき成績は残してませんし、監督としてもリーグ優勝1度やってますが、それも日ハムを率いて6年目のことで、しかも、当時のパ・リーグは前期後期制でそのうちの後期を優勝しただけですからね。
私的には、大沢監督の手腕・・・というよりも、ここまで長期的な視点を持って球団経営に臨んでいた球団フロントにむしろ、感嘆しますよ。

その意味では、やはり、TBS系の「サンデーモーニング」に出演されていたことが大きかったのでしょうか。
逝去後、誰が後任として後釜(?)に座るのかな・・・と思っていたら、共演の張本 勲氏と同じ日ハムの前身である東映フライヤーズ出身の土橋正幸氏が出てましたね。
なぜ、横浜ではなく、日ハムの関係者ばかりが出るのかわかりませんが、(スポンサーでしたっけ?)土橋氏と言えば、軟式野球チーム出身で、友人の入団テストに付いていったら合格したので入団したという異色の経歴をお持ちと聞いております。
もう一つ、印象深いのが、当時の西鉄の強打者で今や、ご意見番として知られる豊田泰光翁が著書の中で語っていたことで、翁は、「現役の十七年で、私は一度も退場処分を受けたことがない」そうですが、実は一度「退場」と「言われたことがある」のだそうで、以下、抜粋してみますと、
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 東映戦の守備だった。走者一塁で内野ゴロ、遊撃の私が二塁ベースカバーに入り、走者封殺というプレーがあった。ところが長谷川信義さんという二塁塁審は「セーフ」。ベースに足が触れていないという。
 頭にきて、両手でをすくい、長谷川さんのまっさらなシャツの胸にべたべたなすりつけた。こうも泥を塗られては向こうも黙っていられるはずがなく「退場」。
 ところがその声が蚊の泣くような小さな声だった。宣告が周りに届かないのをいいことに「さあ、行こう、行こう」と大声でかき消して、プレーを続けたら、処分はうやむやになった。
 困ったときはとにかく勢いよく振る舞ってみるとよい。威勢のいい方が正しいようにみえることも世の中では多いのだ。
(中略)長谷川さんはかつて大陽(のちの松竹、横浜の前身) の指揮も執ったほどの 「大物」だった。(中略)
 そういう審判がなぜ、私の退場処分を「執行」しなかったかと考えると、実は勢いに負けたばかりでもなかったかもしれない。むやみに「レッドカード」を出す審判がいい審判と限らないのはサッカーと同じだ。退場という球趣をそぐ事態に至らないようにするのがいい裁き。長谷川さんも、退場はあくまで最終手段と思っていて、声が弱くなったのかもしれない。
 とにかく、退場を免れた私だが、実はあの現場にもう一人「宣告」を聞いた証人がいた。
一塁走者の東映・土橋正幸投手だ。あの試合、延長でサヨナラ本塁打を放ったのが、そこにいてはいけない私だった。そりゃ、頭にくるだろう。
 引退後しばらくして、昔の仲間と山梨のぶどう棚でワインを、という飲み会があった。
 木漏れ日の下でうとうとしていると頭をガツンとやられた。顔を真っ赤にした土橋君が立っていた。「この野郎、本当は退場だったのに」
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明日に続きます。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-10-22 18:04 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(0)

プロ野球交流戦パ・リーグ完全制覇とスワローズの体質
親愛なるアッティクスへ

サッカーのワールドカップの陰に隠れて、少し印象が薄い観があるプロ野球ですが、昨日、「日本生命セ・パ交流戦」が終了しましたよね。
オリックス初優勝もながら、それ以上に驚いたのが 上位をすべてパシフィック・リーグの球団が独占したこと。
しかも、全6球団が勝ち越しての完全制覇で、セのチームは12勝12敗で勝率五割の巨人以外は、すべて負け越し・・・とか。
いやぁ、こういう結果になることもあるんだな・・・と、結構、驚いています。

オールスターではパ・リーグはまったく勝てないし、以前、平太郎独白録 : オールスターでのパ・リーグの選手たちの笑顔に喝ーっつ!で申し上げたように2003年の阪神とダイエーの日本シリーズの前に、当時、阪神にいた片岡篤史選手が、ダイエーの松中信彦選手に、「松中、頼むから勝ってくれ。こっちの連中はパをなめきっとる」と言わしめたという話などもあり、そういうパ・リーグの選手たちに苦々しい想いを抱いていただけに、ガチンコ勝負で結果を出したというのは「やれば出来るじゃない!」という気も。
しかし、逆に、セ・リーグはこの結果を重く受け止めるべきだと思いますよ。
特に、ヤクルト横浜・・・。
いつまでも、巨人頼みの時代じゃないってことにいい加減、気付よ・・・と。

ちなみに、ヤクルトといえば、今更ですが、交流戦の最中に高田 繁監督が辞任しちゃいましたよね。
あのとき、新聞記事を見ていると、「キャンプの時から嫌な予感がしていた」ということが書いてあり、曰く、「キャンプの時というのは始まったばかりだし、どんな弱小球団でも普通、元気が良い物だ。それが、今年のヤクルトのキャンプはあまりにも静かすぎた」と・・・。
ヤクルトといえば、少し前までは池山、古田、広沢、内藤、高津といった明るいキャラクターでしられたチームだっただけに、少し寂しい気もします。
でも、この点で、思い出したことがあります。

大昔、まだサンケイ・アトムズの時代、キャンプを見た誰かが、「今年もアトムズはダメだね」と言い、その理由を聞かれて、「だって、チームで一番の大飯食いが監督の別所毅彦で、二番目が打撃コーチの豊田泰光なんだよ。選手より、監督、コーチの方がたくさん飯を食うチームが強くなるわけがない」と言った・・・と。
さらにいえば、それより前の国鉄スワローズ時代、金田正一投手のワンマンチームだったわけだし、昭和37年(1962年)に豊田さんが西鉄ライオンズから移籍してきた時も、野武士集団といわれた西鉄はミスをすると先輩であろうが後輩であろうが、ぼろくそに言われたのに対し、国鉄では皆で慰めてくれた・・・と。

e0027240_1693057.jpg結果、豊田翁は国鉄ではあまり大した成績を収められなかった・・・と。

(←西鉄ライオンズの聖地、平和台球場跡地です。まさしく、「つわものどもが夢の跡」・・・でしょうか。ちなみに、下の方に小さく写っているのは私です(笑)。サービスカットです。)

「傷口を舐め合う姿勢」というのは弱いチームには共通することなのでしょうが、その意味では元々、こういう体質なのかもしれません。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-06-17 07:42 | スポーツ | Trackback | Comments(2)

「君はフランス人になれるか?」にみる自己犠牲のあり方
親愛なるアッティクスへ

今日は久々、見事な二日酔いです。
従って、見事に脳がフリーズしており、急きょ、柔らかい話題に切り替えます(笑)。

過日、元巨人の名二塁手で、お亡くなりになった土井正三氏の現役時代を「送りバントの名手だった」と書いたのですが、この件で、先日、プロ野球OBで構成するマスターズリーグで土井氏が打席に立ったとき、「送りバント」のサインが出て、これに氏が怒った・・・という話を耳にしました。
曰く、「誰だってバントなんかやりたくないんだ。でも、チームが勝つために必要だから今までやってきただけのことだ」と。  

e0027240_11531858.jpgまあ、サインを出した側からすれば、「土井のバントをファンは期待しているだろう」ということだったのでしょうが、土井氏自身はあれほど「送りバントの名手」と呼ばれながらも、決して、好きでやっていたわけではなく、チームの勝利のために自分の恣意を殺して・・・ということだったのでしょう。

この点で、以前からたびたび紹介しております元西鉄ライオンズ豊田泰光氏がその著書の中で、「君はフランス人になれるか?」ということを書いておられました。

一部抜粋しますと、
『元阪神監督の吉田義男さんがフランス野球を教えていた時のこと。送りバントを命ずると、打者が「なぜ私が犠牲にならねばならないのか。私には打ってヒーローになる資格はないのか」と訴えてきたそうだ。
 もちろんフランスにはサッカーラグビーといった団体競技の伝統があり、犠牲の意味も説明すれば通じるそうだが、そこには確かに「団体競技としての野球と個人」という深い問題が横たわっている。「個人」が勝ちすぎると勝利は遠ざかる。一方では、個性の発露の場がないスポーツなんて何の意味がある? となる。』・・・と。
私としては、今の、やたらバントを多用する戦術は感心しませんが、ただ、今では、その分、犠打自体、結構、認められていることを思えば、それほど「自己犠牲」ばかりでもないような気もしますけどね。

ちなみに、豊田翁は、『 カウント0-3から打って出るかどうか。フランス人ならためらいなく打って出るだろうが、日本人はそうはいかない。1球、2球待って様子をみろ、というのが球史を通して浸透してきた定石だ。お客にみせるプロ野球で四球を待つという戦法は何とも後ろ向きの発想だが、これをひっくり返すのは難儀。
 昔、三原脩監督に聞いたことがあった。「0-3から打ってはいけませんか」。すると、「いいよ」と言う。話がわかる監督じゃないか……。しかし監督は付け加えた。「だが、打つならヒットだ。凡退したらまわりがうるさい」。いかにも外国語に訳しづらそうな「まわり」の目が日本にはある。フランスの打者ほど自己主張しかねる私は、0-3は「待ち」と決めたのだった。』・・・とも述べておられましたが、まあ、この辺は三原さんならではの言い回しなんでしょうが、確かに考えさせられることではあります。
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-11-25 18:07 | スポーツ | Trackback | Comments(2)

ONの時代に想う虚像と実像と力道山伝説
親愛なるアッティクスへ

以前、NHKで「シリーズ ONの時代」というのをやってましたが、ご覧に成りましたでしょうか?
2回シリーズで、先日は、その「第1回スーパーヒーロー 50年目の告白」というものでしたが、やはり、我々の世代は、別に巨人ファンで無くとも、王 貞治長嶋茂雄と言えば、少年時代に一時代を築いた人・・・という意味で、少し特別な思いがこみ上げてきますね。

ちなみに、当時、王と長島というのが、どれほど、子供たちの間に行き渡っていた存在だったかというと、昭和47年頃だったと思うのですが、ある子供向けSFドラマで、日本とそっくりだけどまったく違う異次元世界の「統制国家日本」に来てしまった子供たちが、お互いに本当に仲間かどうかを調べるのに、「ONの背番号は?」というのを合い言葉代わりに尋ねていたことからもわかるでしょうか。
(さらに、私も、幼稚園の時に、具体的に王と長島を知っていたわけでもないのに、ただ、名前の響きだけで、どちらが良い打者なんだろう・・・と考え、結局、結論が出なかった記憶があります。)
で、このドキュメンタリーで、二人とも、「天才長嶋」と、「努力の王」というそれぞれに貼られたレッテルについて、まったくの虚像だった・・・ということを言っておられましたが、この点は、拙稿でも、これまで、たびたび採り上げてきたことで、プロとして虚像を演じ続ける・・・というのは大変だったでしょうが、当時は割と「有り」の話だったようにも思います。
この点は、以前からたびたび、ご紹介申し上げました元西鉄ライオンズ豊田泰光翁の著書で言っておられたことがあります。

力道山のプロレスはスポーツ興行として出色だった。あれほど大衆に受けたのはかつての敵国アメリカから来たレスラーを敵役とするなど、時代背景を巧みに利用した仕掛けもよかったのだが、やは、り力道山という人のショーマンシップが効いていたのだと思う。
 力道山とは飲み屋で一緒になることもあった。よくよくみていると、彼はどこでも周囲の目を意識していて、たとえばビール瓶のフタを開けると、あっという間に指で平たくし、四つに裂いてしまう。それで店の女の子の気を引いたりするのだが、私もそのタネは知っていた。昔はそういうマジックの小道具を扱う店があり、柔らかい鉛製の 「アサヒ」やら「キリン」 のフタがあったのだ。
 力道山でなくても、ぺちゃんこにできるわけだが、常に人の目を引きつけ、常人ではないというところをみせておくことが大事なのだ。ちまたで「人間」 の部分をみせてはいけないという力道山の姿勢こそショーマンシップの基本だ。
 博多中洲のあるクラブ「会員以外お断り」と言われた力道山が、閉じられたドアをやおらはずして、中へ、というシーンをみたこともあった。一緒にいた私は怖くなり、逃げ帰ったが、あれはやらせなしの 「ガチンコ」だったか、伝説作りのための種まきだったか。
 本当のショーマンは隠すところは隠し、見せたい自分だけを見せる。力道山は公私にわたって力道山だった」

ついでに言えば、豊田さんという人は現役時代、随分と肝が据わったプレー勇名を馳せた方ですが、こういうときはしっかり逃げるんだな・・・と(笑)。
私のような、肝が据わってない人間に限って、妙に、見捨てて逃げたりしないもので、結局、後で一人、馬鹿を見るという・・・。
これはこれで、考えさせられる話でした。
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-09-25 08:08 | スポーツ | Trackback | Comments(4)

豊田泰光のチェンジアップ人生論に思う道具のALWAYS
親愛なるアッティクスへ

先日からの「ALWAYS」シリーズの続きですが、私的には、大体、昭和45年(1970年)頃、大阪万博の辺りから世の中がカラーになってきたように記憶してますね。
当時、小学校3年に上がってすぐに、初めて、母から、Tシャツなるものを着せられて、そのあまりの肌触りの良さに驚嘆したのを覚えておりますが、要はそういう物が割合、安価にて、庶民の手にも入る時代がやってきたということだったのでしょう。

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それを裏付けるかのように、確か、昭和43年頃のことだと思いますが巨人の星という野球マンガの中で、主人公が父の現役時代のスパイクを履いて巨人の入団テストを受けに行ったとき、ライバルから、「この物資豊富な時代に、あんなボロボロのスパイクを履いているとは・・・」と嘲笑されるというシーンがありました。
でも、私には昭和44年(1969年)まで近所に住んでいた私の友人が、毎日、ボロボロのグローブを大事に大事に磨いていたことを思い出しますね。
おそらく、親からやっとの思いで買ってもらったグローブだったんでしょう。

でも、そういう我が家も、誰かがどこからか拾ってきたような、汚いグローブでしたよ。
もっとも、我が家は家にグローブがあっただけマシな方だったんでしょう。
(それに比べて、私の愛用のグローブは今からちょうど30年前に入手した物なのですが、長年使い込んでいるから使いやすいのに、子供たちに「これを使え」と言っても、「汚い」とか「ボロっちい」などと言って誰も、使いたがらないんです。)
でも、当時はそんなもんで、グローブといえば、以前も申し上げました話ですが、昭和48年のプロ野球では、巨人の捕手だって、ひとつのプロテクターを使い回しにしていたわけですし・・・。
今から考えれば、巨人の選手でもプロテクターを使い回しにしていた時代なのに、一方では、「物資豊富な時代」と言う・・・。
いかに、その前の時代が物がなかったかということなのでしょう。

この点で、以前もご紹介した元西鉄ライオンズの強打者で、球界のご意見番である豊田泰光氏がそのもっと前の時代である、氏の現役当時はプロといえども、満足な道具をふんだんに与えられるような環境にはなかったようで、それについてその著書の中で以下のように述べておられました。

『いまでは副業禁止などといってうるさいのだろうが、私は道具を得るため、オフに勝手に二軍選手を集めた「日本代表」を編成し、国際試合をしたこともあった。福岡市板付(現在の空港付近)に駐留している米軍の相手をするのだ。対戦の報酬はステーキのごちそうと、こっちが勝ったら基地内の用具室を開放してくれること。部屋にはソフトボールの道具が多かったが、たまにいいバットを調達できた。新しいグラブの感触を楽しむだけでもよかった。
 今、用具事情は一変した。メジャーでも日本製バットが目につくし、グラブの性能も米国をしのいだ。
 だが、それを使う側の力量はどうか。道具の進化で自分の技量を錯覚しないことだ。』

古き良き時代・・・でしょうが、それにしても、プロ野球選手が、勝手に国際試合とは・・・。
豊田さんというじーさんは長生きしそうですねぇ(笑)。
                                平太独白                        
by heitaroh | 2008-11-29 20:34 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

阿久悠物語に想った昭和 番外編 スターの年功序列論
親愛なるアッティクスへ

e0027240_14283065.jpg福岡県地方では、ここ10日間ほど、毎日、夕方になると雨が降ってます。
それはそれで、有り難いのですが、気になるのは驟雨などという可愛らしい物ではなく、まさしく、スコールそのもののような豪雨が降ることです。
地球温暖化の影響で日本は亜熱帯化してきているような気が・・・。

(←大分県九重にある日本一の歩行者専用の大吊橋、九重夢大吊橋快晴であれば素晴らしいんでしょうけどね・・・。ちなみに、長さも高さも日本一だそうです。)

で、昨日の続きです。

ちと、話が順逆逆さになりますが、レコード大賞やプロ野球のオールスターでの「今結果出してる者が勝ち」的な選考基準についてですが、豊田泰光氏は昇級についても同じ事を言っておられます。

曰く、『 今は三、四年も働けばすぐ一億円になるが、冗談ではない。長嶋、王だって周りがじりじりするくらい上がり方は遅かったし、またそこに毎オフ、いくらになるんだろうと契約更改を見つめる興味があった。
 この遅々とした出世に、現役のときは泣かされた。新人王となった一九五三(昭和二十八)年のオフ。球団経営の苦しさは知りつつ、ひそかに期待していたが、球団提示は月給ベースで三万円から六万円になっただけだった。倍とはいえ、元がそう高いわけではなかったからがっかりだった。当時の西鉄代表、西亦次郎さんは言った。
「去年の中西君も三万円から六万円。これが慣例だから」
「慣例」にはかちんときたが、一年先輩でやはり新人王になった中西さんも同じというのでは逆らえない。三年後輩の稲尾21勝を挙げてやっと、月給七万円弱から三倍の二十万円になっただけだったとか。
 何年も余計にプロのメシを食っている先輩を抜くのは難しかった。
 バブル経済を経て、プロ野球はそれこそ三億、五億と夢の年俸を手にできるようになったが、しかし、今はいきすぎだ。
 以前安打製造器張本勲君と雑談していて、球界の金銭感覚が話題になった。ある球団の社長が契約更改で若い選手に 「たった二千万円、どうして上げられないのか」と詰め寄られ、あぜんとしたという。二千万円を「たった」で片づける選手がいるかねえ、と嘆じたものだった』と。

この点は、旧来の年功序列型社会ではなく、中途半端に、アメリカ型実力優先社会に移行してしまった日本の現状が反映されているのでしょうし、かつてのように、アメリカが太平洋の向こうにあった時代と違い、情報的に陸続きになってしまった現在では、いかんともし難いのかとも思うのですが、昭和人である私的には、評価をその時の成績だけで決めてしまう社会というのは、何とも、肌に合わない気がしますけどね。

ちなみに、豊田泰光氏が西鉄ライオンズ時代の一年目、新人王を獲るほどの活躍をしていながら、オールスターに出られなかった・・・という話をしましたよが、面白いことに、この時は氏はファン投票でさえも選ばれてないわけで・・・。
この点は、当時は、ファンもまた、しっかり地に足が着いていたのか・・・と思ったのですが、よく考えたら、氏は、一年目、打撃成績では清原和博選手に抜かれるまでの高卒新人の本塁打記録を作るほどの活躍をしたとはいえ、守備では、地元出身選手を遊撃手のポジションから追い出してレギュラーの座を獲得しておきながらも、エラーだらけで、しかも、それでしょんぼりしているならともかく、「エラーした分だけ打って返す」などと平然とうそぶいての活躍・・・ですから、これでは、ファン投票で選ばれるというのが無理な話だったかもしれませんね(笑)。

あと一回くらい続くような・・・(笑)。
                                  平太独白
by heitaroh | 2008-08-16 18:04 | 文学芸術 | Trackback | Comments(10)

阿久悠物語に改めて想った昭和 その3
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

e0027240_10435868.jpg現在のように、プロ野球のオールスターも、レコード大賞も、「結果を残してりゃそれで良いさ・・・」的な基準で選んでいるということについては、私は、今でも違和感を感じています。
決して、年功序列が良いことだとは思いませんが、こういう物に選ばれるからには、選ばれるなりの「風格」というものが必要ではないのか・・・と。

アメリカオールスターは、誰でも出られるというものではないことは、本塁打王のタイトルを獲った選手が出られなかったり、イチローを除けば、松井松坂も簡単にでは出られない・・・ということでもわかるように、本当に敷居が高いですよね。

しかし、だからこそ、そこに選ばれるということを選手も誇りに思うし、喜んで出たがる・・・のに対し、日本のそれは、かつて、阪神の小山正明投手が球宴辞退を申し出たものの理由薄弱として却下されたように、球宴なんて、本音で言えば余計なだけのものなんですよね。

そう考えれば、もっと、「簡単には出させてあげないよ」的なものがあっても良いようにおもうんですよ。
(ちなみに、現在のベストナインダイヤモンドグラブ賞という物は、結構、現場を知らない管理職クラスの記者も一票を持っているそうで、その結果、今でも、ある程度、知名度実績がある選手でなくては選ばれないのだとか。)
まあ、そのことが果たして良いことなのかどうかはわかりませんが、この点でも、豊田泰光氏は独自の体験から興味深い話を展開されておられました。

曰く、『 その三年後、私は再び「民意」という名の壁にぶつかった。
 思い出すのは同じ西鉄勢で最優秀選手(MVP)を争った一九五六(昭和三十一)年のこと。当時は最高殊勲選手といっていたが、私は中西太さんに1票及ばず、敗れた。
 この年は自信があった。中西さんは本塁打打点二冠を取った。私はタイトルこそ首位打者のみだったが、中西さんより11試合多い148試合に出た。故障で欠場した中西さんに代わり、ペナントレースの勝負どころで働いたのが評価されると期待した。しかし結果は負け。「やっぱり、嫌われ者は損をする」と思ったものだ。(中略)
 数々の落選経験は生意気盛りの私にはいい薬になったが、ファン投票、記者投票の結果に失意を覚えた選手は枚挙にいとまがないだろう。日本人と外国人が同じょうな成績だと、MVP投票ではどうしても外国人に不利になるという傾向もある。
 ファンあっての商売だから「民意」は大事にしなければならないが、それにとらわれて窮屈に生きることはない。それが私の結論だ。他人の評価を気にしなくなったら、一気に肩が軽くなって、世の中がよくみえるようになった。

レコード大賞もまた然り。
その意味では、ピンク・レディ山口百恵を抑えてレコード大賞を受賞したということが、私には違和感として感じられましたが、ある意味、時代の変わり目だったのかもしれませんね。

なかなか、本論に行き着きませんが、次回へ続きます。
                             平太独白
by heitaroh | 2008-08-08 08:08 | スポーツ | Trackback | Comments(2)

阿久悠物語に改めて想った昭和 その2
親愛なるアッティクスへ

e0027240_135458100.jpg(←昭和50年代、私が学生時代の音楽シーンに出てきそうな風景。もっとも当時のカラオケに、まだ映像はありませんでしたけどね(笑)。それに、阿久悠というよりはどちらかと言えば大瀧詠一系・・・でしょうか。)
で、先日の続きです。

・・・と言いたいところですが、本当は前回、もう少し続けて書きたかったのですが、時間がそれを許さず、何とも中途半端なところで切れてしまい、結果、なかなか続きを書く気になれません。
で、思い切って、続きは先送り・・・ということにして、本題です(笑)。

1978.12.31・・・

これは何の日付かと言えば、阿久氏が作詞し、そして、プロデュースしたピンク・レディが「宿敵」(?)、山口百恵を抑え、レコード大賞に輝いた日・・・ですね。
このドラマでは、この場面、壇上で大賞を取ったピンク・レディが歌っている最中に客席にいた山口百恵さんが、傍らの人に、「紅白がありますから、先に失礼させて頂きます」と言って立ち去るシーンがありました。
以下、これを目撃したときの、劇中の阿久さんのコメントです。
「黒いドレスが喪服に見えた。客席の通路がしんと静まりかえり、空気が凍てつく気配さえ伝わってきた。壇上の受賞者さえピエロにしてしまいそうな強烈な大スター、山口百恵・・・、私は誇りに思った」
ここまでの「圧倒的な存在感」・・・という点では、山口百恵という人はまさしく、美空ひばり以来の存在だったんでしょう。
改めて、それを感じました。

で、このとき、私は誰かに「レコード大賞は何だった?」と聞き、「えー!UFO!?うっそー」と言った記憶がありますので、おそらく、番組自体、見ていなかったんでしょうね。
が、ピンク・レディの受賞は意外・・・というよりも、首を傾げる結果ではありました。
これは、当時、レコード大賞などという物は威厳のある物であり、いくらヒット曲でも色物が獲るということはなかったように認識していたからです。
すなわち、山本リンダフィンガーファイブ社会現象になっても、決して、彼らがレコード大賞を獲ることはなかったわけで・・・。

この点は、以前から採り上げております元西鉄ライオンズの名遊撃手、豊田泰光氏もその著書の中で同じようなことを述べておられました。
曰く、『一九五三 (昭和二十八)年、ルーキーの私はオールスターまでに14本塁打をマークした。西鉄の先輩、中西太さんの16本に次いで、リーグ2位。ファン投票で当然選ばれるだろうと思った私が甘かった。
 フタを開けると、遊撃手の1位は3685票の南海・木塚忠助さん。私は3位の1617票だった。四度の盗塁王など、すでに名選手の呼び声高い木塚さんだったけれど、その年の前半戦は28試合に出ただけで、打率2割5分7厘だった。
 よし、ファン投票が駄目でも監督推薦があるさ。
 しかしここでもがっかり。三原脩監督が私を呼びつけて言うには「監督推薦で出られると思っているだろう」。「ハイ」
 すると監督は説得調で「実は」と切り出した。パの監督を務める鶴岡一人・南海監督(当時は山本姓)が「豊田はまだ若いから」と電話してきたというのだ。結局、球宴初出場は二年後になった。』

やはり、中途半端になりましたが、続きは、また、次回・・・。
                               平太独白
by heitaroh | 2008-08-07 08:53 | 文学芸術 | Trackback | Comments(2)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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