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思えば遠くへ来たもんだ!祝、10周年記念号。
またまた、昨年に続き、すっかり忘れるところでした。
なので、今年は少し早いかな~と思いつつ、明後日・・・などと言ってたら完全に忘れるなと思い、今のうちにやっておこうと。
で、表題の通りで、2005年に拙ブログを始めて以来、とうとう、10年が経ってしまったんですねえ。
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おかげさまで、ちびっこだった輩はみ~んな大きくなり、私は年をとりました。
(本当に年を取りました。2月3月と昨年からの延長で講演の依頼などもあり、ちょっとバタバタとしていたところ、過労からか体調を崩してしまい、もう、いいかなあ~で飲みに行ったところ四日酔い。さすがにこれはまずいんじゃないかと思い、昨日、病院に行ったら「安政の大獄」・・・じゃなかった、「安静の通告」・・・。当たり前と言えば当たり前ですが、43歳は10年経ったら53歳になるんですよ。本当に、「いのち短し恋せよ乙女」です。ご自愛ください、皆様。)

e0027240_16342181.jpgで、話を本題に戻しますと、十年一昔と言いますが、いやはや、本当に隔世の感があります。
肉体的、環境的にはもちろん、思うようになった物、まるで違ってしまった物。

(←周年シリーズ恒例の「道」。福岡ドームへの道です。なかなか、こちらから見ることは少ないと思いますので。)

当時、書いた物を読むと自分でも思わず赤面してしまいます。
10年経っても何も進歩していないじゃないかと(笑)。

あ、それと、今年の年賀状からぼちぼち増え始めたのが「孫が出来ました」の報告。
リンゴ・スターは38歳で孫が出来たというけど、10年前はまったく考えられませんでした。
おそらく、今、戦争が始まり、徴兵が開始されたら満期除隊は最低60歳、場合によっては70歳からで、その意味では、今の時代の50歳はまだまだ若いのでしょうが、それでも織田信長じゃないけど人間五十年・・・。
改めて、40代が若かったと実感しております。
                               平太独白
by heitaroh | 2015-03-18 18:29 | その他 | Trackback | Comments(2)

「LEADERS リーダーズ」に上月城と信長日銀総裁を見る
今頃・・・ではありますが、この連休を利用して、ようやく、先ごろ放送された、トヨタ自動車創業者・豊田喜一郎氏をモデルにしたドラマ「LEADERS リーダーズ」を視聴しました。
まあ、少し良く描かれ過ぎている気はするけど、私が知る限り、概ね間違いではないと思います。
経営の神様と呼ばれ、本田宗一郎氏も師事したという石田退三、販売の神様の名をほしいままにした神谷正太郎、興の祖とも言うべき豊田英二・・・、そして、志半ばにして死んだ豊田喜一郎。
本名で出しても良かったんじゃないかな・・・と。

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で、さておき、劇中、主人公が日銀総裁(モデルは日銀の法王と呼ばれた一万田久登かと。)から救済の条件として人員整理を求められるも、「社員は家族」というポリシーの下、その狭間で苦しみ、そして苦悩の末に最後はそれを受け入れる・・・というシーンを見て私には思ったことが有ります。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で、織田方の対毛利最前線に位置する上月城を救援せんとするも、敵の圧倒的な兵力の前に果たせぬ黒田官兵衛(如水)・・・。
上司である羽柴秀吉もこの状態を危惧し、主将・織田信長に救援のための兵力の派遣を要請するも、信長からは「見殺し」を指示される。
見殺しに反対する官兵衛、秀吉も、苦慮しながらも、最後は受け入れるしかなくなる・・・と。

この場面、官兵衛が豊田喜一郎、秀吉が日銀名古屋支店長、信長が日銀総裁・・・と一緒だな・・・と。
船の航路を見る目は信長の方が正しいのでしょうが、その矢面に立たされる者はいたたまれないでしょうね。
                         平太独白

by heitaroh | 2014-04-29 20:59 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

長寿時代に知っておくべき日本人の本当の寿命
世界有数の長寿国として知られる日本…。
平均寿命は男性がほぼ80歳で、女性に至っては90歳に迫る勢いだそうですが、この数字を当然の事のように考えるのは如何なものでしょうか。
「人間五十年」とは織田信長で知られていますが、でも、これって実はそんな昔の話ではないんですよ。
以前、戯れに我が家の成人以上の平均寿命を調べたことがあるのですが、戦前は何と55歳でした。(乳幼児の死亡者を入れるといきなり20歳くらいになります。)

その論で言えば、実際には人間五十年どころの話ではなく、明治中期の日本人の平均寿命は43歳だったというデータもあるそうですし、江戸時代は40歳を超えるともはや老境で、息子に家督を譲って隠居し、いつ死んでもいいようにしていたという話も聞いています。
ただ、このデータには実は大きな落とし穴がありまして、この寿命の短さというものは、医療技術や衛生観念の未熟さ・・・ということもながら、それ以上に大きかったのが、むしろ著しい栄養不足だったんだそうです。
これは当時の農耕技術では国民すべてに食料を行き渡らせることが難しかったということが前提にあるのでしょうが、(明治期に来日した小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンは日本人の食生活のあまりの貧弱さに驚愕したとか。)一つには桓武天皇肉食禁止令以来、日本人が基本的に肉食をしてこなかったということもあるようです。
特に「動物の肉を食うと四足になる」と信じられていたこともあって、その為、江戸時代にロシアに拉致された人々の中には、肉食を拒否してビタミン不足で亡くなった人もあったように聞いております。

となれば、当然、食い物には基本的にそれほど制約を受けなかったであろう権力者層の寿命はそこそこで、いつの時代も権力者層の平均寿命は庶民のそれを大きく凌駕しているようです。
そう考えれば、明治の45年間というのは、たかだか、45年とはいえ、当時の平均寿命が43歳であることを思えば、世代という点では三世代が包含されてもおかしくないわけで、現代の百年に相当するのではないでしょうか。
だから、同じ明治でも、明治一桁生まれと明治20年代生まれ、同40年代生まれでは、かなり、趣が違ってきていると考えるべきでしょう。
(その意味では、昭和30年代は明治・大正の延長線上ですが、平成の御代は全くの別世ですよ。)

ちなみに、江戸時代における鎌倉時代というのは、昭和に置ける明治のようなもの・・・と言っても良いでしょうか。
共に、ひとつの象徴的な時代の先魁となったという意味では共通するものがあるでしょうが、一方で、時代、(あるいは社会体制)への対比と憧憬という点でもそう言ってもいいような気がします。
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-08-10 07:05 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

社会が変革するときのリーダーのタイプ三態
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」の落首でも知られる、織田信長、豊臣(羽柴)秀吉、徳川家康の三将ですが、この「変革」「啓蒙」「定着」という三つのタイプは日本の歴史が大きな社会変革を迎え、それが次の時代へと定着していく時には割りと良く見られるもののようです。

また、三者の性格は、よく、信長の「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」、秀吉の「泣かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」、家康の「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」で知られていますが、要は「激烈」「機略」「忍耐」・・・ということだったのでしょう。
で、それらを踏まえた上で、平安朝という、長く続いた秩序が終わり、武士という新興勢力の台頭という形で社会変革をもたらされた時代に当てはめると、平清盛、源頼朝、北条義時・・・となり、同じく、徳川幕府という古い秩序が、外圧によって近代国家への変革を余儀なくされたケースでは、高杉晋作、坂本龍馬、大久保利通・・・と。
まあ、もっとも、これは、そもそもが、まったくの別人格なわけですから、時代の要請によって微妙にタイプが異なってくるのは当然でしょうが、大久保は家康を敬し、家康は頼朝を敬した・・・という話も聞いていますので、あながち、こじつけという話でもないと思います。

もちろん、北条執権政権も北条義時の代ですべてが定まったわけでもありませんし、幕末維新期だって、何より、西郷隆盛などのように、他に引けをとらない大きな足跡を残した人物を、タイプに当てはまらないからと言って、名を挙げないのも適当ではないでしょう。
(その意味では、幕末維新期というのは、それまでと違い、世界が視野に入ってきたということから考えれば、人材が順番に・・・ではなく、一斉に群がり出たということだったのかもしれません。その意味では、幕末維新期とせずに、長州では吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文・・・、薩摩では、島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通・・・、土佐では、武市瑞山、坂本龍馬、岩崎弥太郎と分ける・・・という見方もあるでしょうか。)

で、このパターンを戦後に当てはめてみると、信長は「ワンマン宰相」と呼ばれた吉田茂、秀吉は「今太閤」と称された田中角栄・・・とまあ、面白いくらいにピッタリですよね。
ただ、家康・・・となると、特に類推される政治家はいませんでしたが、「戦後政治の総決算」を掲げ、また、角栄さんとも微妙な盟友関係にあったという意味でも、中曽根康弘さんだったのかもしれません。
ついでに言うと、小泉純一郎さんは良く、信長に例えられましたが、行き詰まった戦後体制に変革をもたらそうとしたという意味ではそうとも言えるのでしょう。
後は、秀吉、家康が続けばいいんですけどね。
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-05-10 17:30 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

「甲斐甲斐し 師走の甲斐も 甲斐があり」師走山梨 その8
先日からの続きです。

で、その武田勝頼築城による新府城です。
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e0027240_19211079.jpgまず、我々は東面(←)から上ったのですが、ここはご覧のとおり、高さがあると言っても、若い者なら一気に駆け上がれる程度であり、前面に堀を穿った跡があったものの、大軍に任せて力攻めにここを突破しようと思えば出来ないことはないような気が。
まあ、この辺はさすがに、土塁(↓)を築き、それなりの防御設備を整えていたようですが、この階段を上がるとすぐに本丸に出てしまうことなどを考えると、少なくとも、武田勝頼が大大名の武田家に相応しい城として築いた割りには・・・と。

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さらに、本丸に上がり、北回りに台地上をぐるっと一周してみると、北面(↓)に至ってはこの程度の高低差・・・。
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前回掲示の復元予想図を見てもらうと、確かに、こちらにもぐるっと東面から堀が伸びてきているようですが、堀幅も東面に比べれば狭いし、それを補うためか堀の中に突出した櫓を設けているものの、少々、迫力不足の観は否めないような。

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次に、二の丸(↑)を横切り、西面(↓)に出ましたが、ここはご覧のとおりの断崖絶壁で、その向こうに釜無川が流れており、航空兵力が無い時代、こちらからの攻撃は不可能だったでしょう。
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また、南面は全体に上り勾配になっている上に幾重にも縦深陣地を構成することで攻撃に備えられる構えとなっておりますが、であれば、この方面に敵を集めて叩く・・・というコンセプトであるべきで、それが、東面と北面、特に北面の脆弱性を考えると、少し首を傾げたくなってしまいます。
また、台地上にあるということは要害山城の項でも触れたように追い詰められた場合、逃げ道が無いことになってしまうことなどを考えれば、一見、堅城のように見えて、本気で本気でここで戦うことを考えていた施設だったのか・・・と。
おそらく、勝頼にとって、ここは領国を統治する為の政庁であって、ここで敵を防ぐことは想定しておらず、城の造りを堅固にしたのは自らの威信を示すためであったのではないか・・・と。
事実、勝頼は織田信長の軍が迫ると聞いたとき、ここに立て籠もって戦うことを選択せず、まだ、出来たばかりの城に火をかけて、家臣の城を目指して落ち延びて行ったことが雄弁にその辺を物語っているようにも思えます。

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-01-21 20:14 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

大河ドラマ「平清盛」に思うそれでも2つの疑問
親愛なるアッティクスへ

今年の大河ドラマ「平清盛」ですが、出だしは何だか陰気臭いばかりでまったく面白くなかったものの、中盤以降は割りと面白くなってきましたね。
結構、毎週、欠かさず見ていますよ。

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(↑青雲の志・・・ってやつですね(笑)。)

以前も申しましたように、織田信長が近世の扉をこじ開けた男・・・なら、平清盛は中世への扉を開いた男・・・と言って良いほどに魅力的な人物だと思っています。
(ちなみに、私のペンネームも平太清盛からとっています。もっとも、私が見たのは仲代達矢主演の方の清盛・・・ですけどね(笑)。)

で、後半の「平清盛」ですが、割りとよく出来ていると思いますが、どうにも首を傾げる所が二つ・・・。
一つは、武将同士が戦う場面で「やあやあ、我こそは・・・!」という名乗りが無いことですね。
大河ドラマ草創期の「義経」(数年前の「源義経」ではなく、「義経」ですね(笑)。)ではこの辺のことを牧歌的なまでに描いてましたが、まあ、当時は講談に親しんだ人たちが数多く見ていた・・・という背景があったのでしょう。
でも、そこまではないにしても、名乗りを上げるというのは何も敵に聴かせるわけではなく、味方・・・、特に上司に対する自己宣伝なわけで、実際、蒙古襲来の時は日本兵が名乗りを上げているところを攻撃され、多くの犠牲者を出したという話があるわけで、それがまったくないと言うのは・・・。

もう一つが、平治の乱のシーンで、待ちぶせしていた平氏軍が源氏軍に向けて矢を空に向かって放ち、重力を利用し、放物線を描かせて源氏の将兵を射殺する・・・というのがありましたが、そもそも、日本にああいう攻撃方法なんてあったんですか?
映画、「ラストサムライ」の時も同様の疑問を持ったんですが、あれって、ヨーロッパ特有のそれで、モンゴルなどにも無いんじゃないですか?
実際、「平治物語絵巻」でも武士は特定の相手を狙って、水平に射ているように見えますし、そもそも、日本の場合、集団戦じゃないわけですから、あれじゃあ、大将を射殺しても誰の手柄にもならないんじゃないですか?
つまりは講談世代が絶滅したので、ハリウッド世代に受け入れられるように演出が変わった・・・ということでしょうか。
であれば、数年後にはユーチューブか3Dに受けがいいような物に変わるのかもしれませんね(笑)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2012-09-20 18:35 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

徳川家の時代に影響されている現代日本人の就職観
親愛なるアッティクスへ

先日、加藤(清正)家の家臣団の一覧表を見た際、やたらと、「旧OO家家臣」という添え書きが目につくことに気づきました。
これは、門閥によらない人材登用を推進した織田信長の登場と、その薫陶を受けた豊臣秀吉の勢力範囲拡大に伴い、加速度的にそういう風潮が広まっていった結果だと思いますが、その意味では、戦国という時代は実力さえあれば高給に応じて転職し、自らのステップアップを図るlことができる「大求人時代」であったと言えるのでしょうか。
(その辺を端的に顕しているのが、「武士たるもの七度、主君を変えねば武士とは言えぬ」とうそぶき、最後は伊勢 津藩32万石の藩主にまで上り詰めた藤堂高虎の存在かと。)

ところが、その日本中の流れに染まらなかった異質な集団があります。
「徳川家」です。
その辺の異質さを示す話として、徳川家康の重臣で秀吉に引き抜かれた石川数正という人物がいるのですが、家康が秀吉に屈して後、秀吉が同じく家康の重臣である井伊直政を大阪に招いた際にそこに数正を同席させたところ、直政は数正を見るなり、露骨に不快感を表し、罵倒した後、そのまま退席した・・・という話があります。
秀吉にしてみれば、何も、数正を辱めようとして同席させたわけではなく、「知り合いが居た方が直政も気がほぐれるだろう」という程度の配慮からだったのでしょうが、現代の我々日本人の感覚からすれば、むしろ、直政よりも秀吉の感覚に違和感を感じられる方が多いのではないでしょうか?

その意味では、当時の日本人の就職に対する感覚はむしろ今のアメリカ社会に近かったようで、その辺を端的に表した話があります。
ソニーの創業者の一人、盛田昭夫氏がアメリカへ進出して間もない頃、これはと見込んだアメリカ人社員に一から仕事を教え、ソニーのノウハウを伝授し、ようやく一人前になった・・・と思っていたところ、その社員はあっさりと高給を提示されたライバル企業に転職してしまい、盛田氏は思わず人間不信に陥りそうになったそうです。
ところが、数日後、あるパーティでばったりその元社員と会ったところ、彼は思いっきり笑顔で普通に「ハーイ、アキオ!」と話しかけてきたのだとか・・・。

そう考えれば、今の日本人の感覚というのは徳川家の時代が300年近くも続いたことに縛らているということの裏返しであるとも言えるのではないでしょうか。
つまり、もしも、信長・秀吉の時代がその後の日本のスタンダードになっていたとしたら、パナソニックからサムソンに転職した技術者が他の日本の電機メーカーに再就職できない・・・などというような話はなかったのではないかと・・・。
その意味では、我々は未だに徳川家の時代の「洗脳」から解き放たれていない・・・といえるのかもしれませんが、でも、これは無理もない話であって、秀吉没後、忠君報国の価値観は帝国日本にも受け継がれたことを考えれば、実際には350年、そういう価値観の時代が続き、対してその価値観に縛られなくなってからはまだ65年程度しか経っていないわけで。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-10-08 07:59 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

備忘録的感慨その2 尊氏登場以前の足利家の息吹
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

実は私が足利に来た目的は足利学校を観たかったから・・・ではなく、その裏にあるこちら(↓)でした。

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足利尊氏によって室町幕府が開かれる以前の足利家の墳墓の地、つまり、尊氏登場以前の足利家の息吹というものを見ておきたいと思ったからで、それがここでした。
足利家屋敷跡と言われる真言宗金剛山鑁阿寺です。
ただ、私にはここはなんとも釈然としないものを感じさせる場所でもありました。

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確かに、ここは四周を土塁で囲まれた形(↓)をしていますが、何か武家屋敷としての戦闘性とでもいうか、そういうものが感じられないんですよ。

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まあ、尊氏が室町幕府を開いてから600年以上経っていることもあり、今では寺になっていますから、やむをえないのでしょうが、それでも・・・と。

で、この日は終日、雨は降らないという予報だったにも関わらず、突然、雨が降ってきて、しばらく雨宿りしていたものの、一向にやむ気配がなく・・・、
少し小降りになってきたのを見て、再び、歩き始めたのですが、さすがに濡れ鼠になってきたので、この辺で切り上げて帰ろうか・・・と思い、駅の方向へ向けて歩き始めたのですが、途中で、どうにも消化不良のものを感じ、再び、歩みを戻しました。

e0027240_703166.jpgで、外回りをぐるりと一周することにしたのですが、そこで初めて気づいたんです。
「背後に山があるじゃないか」・・・と。
つまり、武田信玄躑躅ヶ崎にしても、織田信長岐阜城にしてもそうですが、平時は麓の館で政務を執り、有事の際には背後にある山城に立てこもって戦うというのが、当時の武家屋敷の一般的な形ですから、もしや、足利館もそうだったのではないかと。
で、疲れた体を奮い立たせて、この山の方向へ向かいました。
この山は見ておかねばならぬ・・・と。

明日に続く・・・と思いますが未定です。
なんせ、空き時間がないもので・・・。
                         平太独白
by heitaroh | 2011-05-19 07:10 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

大正100年に見る信長の「思うておるより時は早い」の言
親愛なるアッティクスへ

年が明けたと思ったら、一月ももう終わりましたね。
まったく、時が経つのは早いものです。
などと言いつつ、ふと、カレンダーを見たら、今年は大正100年なんですね。
で、少し感慨に耽っていたのですが、ここでとんでもないことに気づきました。
「大正100年って、そのうちの半分は俺が占めてるじゃねーか」・・・と(笑)。
大河ドラマ「江~姫たちの戦国」での織田信長のセリフ、「思うておるより時は早い。人生は短いぞ」・・・ではないですが、まったくです。

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で、本日は歳の話題です。

先日、ラジオで誰かが面白いことを言ってました。
日本人の全国民の年齢をすべて足して、その国民の数で割ったいわゆる、平均年齢ですが、(平均寿命ではないですよ。くれぐれも、誤解のないよう・・・。)これが昭和25年(1950年)は22歳だったのが、60年後の今は45歳になっているんだそうです。
いわゆる、高齢化社会の到来ですが、これ自体は特に目新しい話題ではないわけで、私が興味を持ったのが平均年齢の上昇による世代間の位置づけ・・・についてでした。
曰く、「昔は平均年齢が22歳だったから30歳は老人だったが、今はそれが45歳だから30歳は若者ということになる」・・・と。

e0027240_15112488.jpgなるほど・・・と。
「だから、昔は早く結婚しなければならなかったのが、今では・・・」という主旨だったのですが、確かに、私が子供の頃などは、大変、失礼な話しではありますが、「女性クリスマスケーキ説」というのがありまして・・・、つまり、24が一番高く売れる売り時で、それを過ぎればどんどん安くなって行って、大晦日(31)を過ぎればアウト・・・というものでした。
酷い話かもしれませんが、当時は、私はこれを聞いたときは、「上手いこと言うなぁ」と感心しましたよ。

確か、私の認識では当時の標準的な結婚適齢期というのは、女性は24~5歳、男性が27~8歳くらいで、男性でも30歳過ぎて独身だったら、少し奇異な目で見られたように記憶しております。
まあ、戦後は栄養価の充足や学校給食などによる発育促進で日本人の体自体がかなり、若くなったな・・・というような観がありますので(明治中期の日本人の平均寿命は43歳だったというデータがあるとか。)、私は平均寿命の延びも晩婚化も、すべて、その延長線上にあるのだろうと思っておりましたが、(平太郎独白録 :人間五十年の人生論にみる国民投票法案の是非:参照)平均年齢の上昇という観点から考えれば確かに・・・。
私だって、昔なら、信長じゃないけど、「人間五十年~♪」だったのが、今では平均のちょっと上ですからね。
                                         平太独白

by heitaroh | 2011-01-31 08:10 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

大河ドラマ「江~姫たちの戦国」で信長普遍の法則 その2
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」ですが、いよいよ、明日は織田信長横死の章・・・みたいですね。
大河ドラマ史上、もっとも信長らしい信長・・・といえば、やはり、何と言っても昭和40年(1965年)の緒方 拳主演の「太閤記」での高橋幸治さんでしょうが私も非常に印象に残ってますね。
(当時、NHKにはファンかの「信長を殺すな」という投書が殺到し、本能寺の変を延期したのだとか。)
本能寺の変の回で、家宝のお宝を持って逃げようとする博多商人・神谷宗湛を小姓が咎めたとき、高橋信長は、「余は死んだ後は信じぬ。見るなら今じゃ」と言い、しばらく見入った後、「よし、持って行け!」と言う・・・。
「わしが欲しい物は現世にこそある!」と言わんばかりの潔さは、「信長はこうでなくちゃ・・・」と思わせるに十分なものがありましたね。
その意味では、今回の豊川信長のそれにも是非、期待したいところです。

で、本能寺の変についてですが、特筆すべきは織田信長の小姓団の存在ではないでしょうか。
彼らは、信長が苛斂誅求な他者への対応で知られる激しい癇癪持ちであるにも関わらず、誰もが信長に心酔していたと言われ、一方、さすがに、人物の能力を見抜くという点では信長は達人であり、小姓団の方も、本能寺で死ななければ、名を遺したであろうそうそうたる人材が多かったようにも聞いております。
(信長の晩年はそれら小姓団を介さなければ、軍団長でさえも面会が出来なかったと言われており、羽柴秀吉のような人でも彼らの機嫌を損ねることを極端に怖れたとか。こうなると、少々、本末転倒な気もしますが。)

e0027240_1431438.jpg(←織田信長、信忠父子の墓石。本能寺の変での犠牲者の遺骨を葬った物だとか。)

信長の小姓団といえば、長谷川竹一、森 欄丸などが有名ですが、他にも初期には前田利家、佐々成政がおり、また、出張中で、本能寺で命を落とさずに済んだ堀 秀政小牧長久手合戦に置いて敗退する豊臣方にあって、唯一、徳川方を撃退したことで知られ、卒業生扱いだった蒲生氏郷豊臣秀吉の後の天下人としても名が挙がったと言われています。


その信長の小姓団ですが、もっとも印象に残っているのが、本能寺の変の折のことで、彼らは光秀の謀叛を聞くと、たちどころに迎撃態勢をとったといいます。
光秀の万を超える大軍に対し、信長の周囲にいたのはわずかな人数であったにも関わらず、誰一人、逃げ出す者も狼狽える者も無く、整然と、一糸乱れぬ迎撃態勢を敷いてこれを迎えた・・・と。
さすがは信長の小姓団よ・・・と。
「人は本能的に命令されることを嫌がる生き物である。しかし、素晴らしく命令されたときは喜んで従う」とは私が師と仰ぐ元帝国陸軍参謀で兵法評論家の故大橋武夫氏の言葉ですが、信長はきっと、小姓らに対してはきついけど、素晴らしい命令をいつも発していたのでしょうね。                                         平太独白
by heitaroh | 2011-01-29 08:25 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(4)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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by heitaroh at 20:52
壊れた時計が動く理由もネ..
by M at 20:38
> sakanoueno..
by heitaroh at 12:35
なるほど。 先日の疑問..
by sakanoueno-kumo at 22:50
>sakanoueno..
by heitaroh at 10:05
キリのいい年となると、あ..
by sakanoueno-kumo at 19:28
>細田さん すみま..
by heitaroh at 10:36
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