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博多湾と有明海を同時に見る冬の背振山山頂
親愛なるアッティクスへ

いつの間にか大晦日まであと10日を切ってしまいましたね。
色々と用務も立て込んでいるのですが、それがどういうわけか、先日、7日に忘年会に出たら8日が頭がガンガンして朝まで治らず、翌朝は頭痛はそれほどでもなくなったのですが、そのうち、右後頭部から同首筋に張りが出てきて鈍痛に悩まされるようになり、さらに、12日の朝には枕が板になったかのような痛みで目が覚め、脳神経科に行ってCTスキャン撮ってもらったけど特に異状なしで「そのうち治るでしょう」・・・だったのですが、未だに全く改善されません。
ということで、私に愛着をお持ちの方は速やかに施しされることをお勧めします(笑)。

e0027240_1119085.jpgで、先日、福岡県佐賀県の県境にある背振山という山に登って来ました。
と言っても、麓から歩いて登ったわけではなく、ちと、ヤボ用でお付き合いしただけでしたので、車で登ったのですが、私は恥ずかしながらここに来るのは初めてで、車で上まで登れるのも知りませんでした。
(無論、名前は知ってましたよ。小学校の校歌にも歌われてましたから。)
で、ここに登って驚いたのですが、ここからは博多湾有明海が同時に見下ろせるんですね。
(←有明海です。)

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(↑福岡市内と博多湾)

とは言え、駐車場に車を止めて山頂までは少し歩かなければならないのですが、その山頂にはお決まりの古いお社がありました。

e0027240_112241100.jpgで、ここで目についたのがこの石灯籠(←)
元禄10年と彫ってありますから、西暦では1698年であり、300年以上前の物なのでしょうが、良くぞこの過酷な環境の中で今日まで立ってたよな・・・と。
さらに、少し意外だったのが建立者は佐賀藩主・鍋島家と記載があり、はっきりと「鍋島領」という記載があったことでした。
この、佐賀も福岡も同時に見渡すことが出来る山頂自体は佐賀藩が領有していたということなんですね。
ここは今も昔も佐賀・福岡の境目であり、筑前福岡藩はこの山を西の防衛線として想定していたと言われているだけに、山頂を領有するのとしないのとでは大きく違ってきたでしょう。
良くぞ、国境紛争にならなかったものだと・・・。
                                         平太独白

by heitaroh | 2011-12-22 08:49 | 地域 | Trackback | Comments(0)

中電の社員動員ヤラせ発覚で九電単独犯は福岡藩の末路
親愛なるアッティクスへ

やってくれましたね、中部電力・・・。
社員を動員してやらせ討論会をやっていたのが発覚した・・・と。
私は絶対、そうだろうと確信していました。
先般、九州電力のやらせ事件が問題になりましたが、こんなの九州電力ごとき、田舎電力が単独で考えつく犯行ではないですよ(笑)。
全国的にこれまでどの電力会社でも恒常的にやっていたことなんじゃないですか?
ただ、福岡で発覚しただけ・・・という。

e0027240_18354418.jpg
(↑「サクラ」です(笑)。)

で、ここで問題です。
廃藩置県前に、明治政府によってお取りつぶしになった唯一の藩はどこでしょう?
それは、会津藩でも仙台藩でも二本松藩でもありません!我が筑前福岡藩です(笑)。
しかも偽札なんて、情けない理由です。

それから、西鉄ライオンズ身売りのきっかけとなった黒い霧事件
主力投手がごっそりと八百長永久追放になったやつです。
近いところでは、ダイエーホークスサイン盗み疑惑事件
で、数年前、ヨドバシカメラビックカメラ福岡店だけがリサイクル料金疑惑が世間を騒がせましたよね。
処分代貰っておいて、実は北朝鮮に引き取らせていたというやつ。
で、これらに共通するのは何でしょう?
そう、みんな誰もがやってたことなのに・・・と言うことです。
なのに、福岡だけが発覚する。
当時、明治政府九州探題的役割を果たしていた日田代官で、後の総理大臣松方正義をして、「筑前福岡藩、人物一人もなし。」と言わしめた立派なお家芸です。

ついでに言えば、福岡県からは総理大臣は2人しか輩出しておりませんが(しかも合わせて任期二年。一人は言うまでもなく、「みぞうゆう」の麻生太郎さんですね(笑)。ちなみに、隣の山口県は菅さん入れて9名というダントツ日本一の総理輩出県です。)、芸能人は人口当たりにするとダントツの一位だと思います。
もっと言えば、高名な戦国武将はいませんが豪商はいました。
そういうお国柄なんですね・・・。
                      平太独白
by heitaroh | 2011-07-29 18:28 | 時事問題 | Trackback | Comments(2)

江戸時代の福岡ゴミ事情にみる環境循環型社会の現実
親愛なるアッティクスへ

e0027240_102789.jpg←先日の日曜はここに居ました。
もっと天気が良ければよかったんですけどね。

で、そのせいか、翌日の明け方、寝ていたら、突如、もの凄く足がつりました。
中学生くらいの頃、よくそういうことがありましたが、「それは背が伸びている証拠」と言われてました。
今更、背が伸びてるようには思えないんですけどね・・・(笑)。

ところで、江戸時代、江戸エコロジーならぬ、エドロジーと言われるほどに環境循環型社会がうまく機能していたと言われていますが、少し、よく言われすぎのような気もします。
元来が、埋め立て地だけに、井戸から飲料水がとれず、水源地からはるばる木製の水道を引いて、井戸の下を通し、飲料水にしていたとかで、驚くほどに近代的な発想ですが、逆に言えば、それだけに、一旦、床下浸水するようなことになると、飲料水汚水が混じり、伝染病が発生する元になっていたとも言います。
現代では、世界に冠たる衛生大国・日本も、当時の衛生感覚は、この程度の物だったということでしょうか。

この点では、江戸時代の福岡市・・・、つまり、福岡博多もまた、同様で、博多も井戸水が出ないので、大正以前、まだ、水道が普及する前は、「水売り」が水を担いで売りに来ていたそうです。
今でも、博多は人口の割に、安定した水源が無い為、雨が降らないと、すぐに、渇水になってしまいます。
ゴミもまた然りで、紙でも布でも使えなくなるまでリサイクルして、初めて、捨てていたと言います。
(私が子供の頃までは、我が家も近い物がありましたけどね。)
しかし、それほどに、うまく循環し、機能していたはずの江戸時代も、時代が下り、江戸中期頃になってくると、ゴミ問題が浮上してきたと言われています。

筑前福岡藩の領主、黒田家は、関ヶ原後、筑前に入国すると、博多に入らずに、その東、福崎の地に城を築き、ここを福岡としたわけですが、(平太郎独白録 「博多祇園山笠に見る、福岡・博多、三都物語・その1。」参照。)同時に、博多の東隣にある石堂川(現御笠川)を防衛線に想定し、この川の西側(博多側)に、たくさんの寺院を配置しました。
当時、お寺というのは、広い敷地をもっていた為、兵隊集結都合が良く、さらに、戦闘になった場合には、墓石などが防御の役に立ったといいます。
まあ、いかにも、小銃程度しか想定していない時代らしいなと・・・。

で、この石堂川ですが、江戸時代には、二本の橋が架かっていたと言われています。
当時、橋の修理費用藩の負担だったそうですが、清掃を始め、洪水の監視など、橋の管理自体は博多の町方がやっていたそうで、ところが、この頃になると、橋のたもとには博多の人々が捨てる、たくさんのゴミが溜まるようになっていたとか。
ゴミは、普段はともかく、川が増水したときなどは、ゴミに堰き止められた水流が橋ごと押し流してしまう危険性がある為、『博多津要録』によると、享保19年(1734年)、付近の10町は連名で、「石堂口の橋の周辺にゴミを捨てないこと」を誓約した・・・などという記録が見受けられると言います。

これは、何もこの石堂川だけのことではなく、上述の『博多津要録』によると、享保4年にも、博多の西隣、つまり、福岡と博多の間に流れる那珂川でも、藩より、「川筋、不行儀にこれあり。川へちりあくた(塵芥)を捨てざるよう・・・。」という達示があったそうで、ここでも、町役人たちは連署して、ゴミを捨てないことを誓っているとか・・・。 
しかし、状況はあまり改善されなかったようで、元文4年(1739年)、問題解決の為に、当時、あまり、人も住んでなかった、いわゆる、「中洲」南端付近にゴミ処理場を作ったと言います。
ところがところが、寛保3年(1743年)には、川に捨てられたゴミが、水流をせきとめるための川柵(川に杭を打ち、木や竹を渡したもの)を壊す恐れが出てきたことから、藩はゴミを取り除くよう命じた記録が見受けられるとか。
今も昔も、博多人に公徳心というものはないようです(笑)。

で、「御町ちり捨所」が作られて12年後の寛延4年(1751年)、このゴミ処分場はすでに、満杯になっていたのか、この時点では、もはや、ゴミ捨て場ではなく、材木置き場になっていたようで、中洲中島町の商人が相応の地主銀を上納して拝領したという記録が残っているそうです。

つまり、現代のように無機物ゴミなどない、理想の環境循環型社会と思われていた江戸時代でも、実際には、しっかり、ゴミ問題が存在したと言うことですね。
平太独白
by heitaroh | 2006-08-23 08:11 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 前編。
親愛なるアッティクスへ

日露戦争時、日本が打った対露戦略の中でも、もっとも大きな・・・と言っても過言ではない役割を果たしていたのが明石元二郎です。
明石元二郎は、元治元年(1864年)、筑前福岡藩士・明石助九郎貞儀の次男として福岡天神町に生誕しています。
明石家は1300石の大身であったものの、父、貞儀が29歳の若さで自刃して果てたところから、次第に家産を食い潰し、さらには、元二郎8歳のとき、福岡藩そのものが贋札事件を起こしお取り潰しとなったことから、一家の生活はますます困窮を極め、家は人手に渡り、遂には、母は長男、と次男、元二郎を連れて親戚の世話になることを余儀なくされます。
そんな中でも、母は、二人の息子への教導には余念が無く、針仕事の傍ら、武士としての心構えから論語の素読まで教え込んだとか。

やがて、成長した元二郎少年は、大器の片鱗を見せ始めます。
まず、余りに悪さをするために親戚から土蔵の中に閉じこめられたときのこと。
放り込んだものの、泣き叫ぶ声も聞こえず、余りにも静かなことから、逆に心配になった親戚が土蔵を開けて見れば、元二郎少年は、別に悪びれる様子もなく平然と端座していた・・・と。
また、元二郎の生涯を通してのスタイルととして、頭脳は極めて明晰でありながら、風釆ははなはだ不潔・・・というものがありますが、(後年、それなりの地位についたときも、手鼻をかんで、そのまま、フロックコートのポケットの中になすりつけたなどという話もあるくらいで・・・(笑)。)当然、少年時代も、いつも鼻水や、よだれを垂らしていたそうで、それでいながら、学校では常に成績は一位・・・。
しかも、その一位は並はずれて一位だったそうで、ここでも、元二郎少年は大器を思わせるエピソードを残しています。

元二郎の神童ぶりを聞きつけた当時の県令、渡邉 清が視察に来るということになったときのこと、家とて満足にない明石家にて待つわけにもいかず、代わりに場所を提供した家では、「県令様が来られる!」ということで、家の畳をすべて新しく張り替えて待ったそうです。
元二郎少年は、県令を前に、大人たちの視線にもいささかも臆することなく「精神」の二字を大書・・・。
ところが、あまりに勢いよく書いてしまったもので、「神」の字の最後の縦棒が紙面中に入りきらないことになってしまったとか・・・。
しかし、元二郎少年は周囲が「あっ!」と息を呑む中、そのまま、躊躇することなく平然と青畳の上へ墨痕鮮やかに書き通したとか・・・。
この少年の気宇の壮大さを見て取った渡邉県令は、その後、是非、養子に貰い受けたいと申し入れたと言いますが、母は決して応じることはなかったそうです・・・。

その後、中学を経て、1889年に陸軍大学校を卒業、フランス公使館付陸軍武官
ロシア公使館付陸軍武官を歴任、1904年、日露戦争が勃発すると、38歳明石大佐は、当時、ロシアで澎湃として起こりつつあった革命運動を支援することを提案。
当初、参謀本部は、あまり、乗り気ではなかったと言いますが、渋々、当時の金額で100万円工作資金として渡したところ、内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件戦艦ポチョムキン号の叛乱等を起こし、 ロシア国内の政情不安醸成することに成功。
これにより、事実上の戦争継続が困難になったロシア政府は、講和交渉のテーブルに着くことを余儀なくされますが、その際、講和交渉に応じる条件として、真っ先にロシアが呈示したのが、「まず、アカシの工作をやめさせること。」だったと言いますから、如何に超大国ロシアがアカシ1人に追い詰められていたかが見て取れると思います。

中編、後編へと続きます。
                             平太独白
by heitaroh | 2006-04-18 08:39 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

日露戦争と福岡人の奮闘に見る男装の女傑と人参畑!1
親愛なるアッティクスへ

先日から、度々、シリーズで述べさせていただいておりますが、毎回、この軽薄アバウト福岡人の国民性ゆえか、どのシリーズもなかなか、最後まで辿り着きません(笑)。
で、とりあえず、入らない気持ちにむち打って(?)、その中の一つ、「日露戦争と福岡人」シリーズを完結させるべく、「日露戦争と福岡人の奮闘!完結編、その1」です。(←ここまで来て、まだ、その1かよ!という突っ込みには耳を貸すことなく、我が道を行きたいと思います(笑)。)

先日から述べさせて頂きましたように、福岡市というところは、早くから拓けた国際貿易港「博多」に代表されるように、昔から、有力戦国大名などが居ない代わりに、大商人を輩出してきたところで、現代でも、有力な政治家はなかなか出ませんが、芸能人の数は、間違いなく人口当たり日本一だと思います。

で、過日も述べましたとおり、幕末、筑前福岡藩は、勤王党を弾圧した直後に明治維新が起こったことから、反動で佐幕派を粛正せざるを得なくなり、それでなくとも江戸時代を通して、無様な財政運営を行ってきた藩上層部を、このため、致命的なまでの人材枯渇を招くことになりました。
結果、松方正義をして、「筑前福岡藩、人物、一人も無し」などという指摘のもと、おおよそ、武家にあっては、これ以上ないほどの不名誉な理由「偽札」での、『廃藩置県前に明治政府によって「お取りつぶし」になった唯一の藩』という歴史に汚点を残してしまったわけです。

e0027240_13545577.jpgしかし、福岡藩は、これの屈辱の中から・・・、いや、屈辱があったればこそ、新しい人材を世に送り出します。
それは、単に、旧藩士の側の奮起にばかりあったのではなく、旧福岡藩主である黒田家による学資援助があったことも見逃せない理由の一つだったようです。

黒田家は、東京に居住を義務づけられた後も、旧藩士の中で、これは!と思える人材には学費を援助したのだとか・・・。

ただ、華族黒田家と言えども、当時、それほど手許に余裕があったわけではなく、その原資となったのが、福岡城のお堀にて栽培されていた蓮根だったと言います。
(ちなみに、この制度は、形を変えて、現代でも存続しております。現代では、お堀は、多くが埋め立てられて道路となった為、今では、蓮根の代わりに、福岡法務局福岡市消防局などの土地の借地料が、それら、奨学金の原資となっているのだとか・・・。)
そして、それらの人材が歴史の表舞台に登場してくるのが、お取り潰しから30年が経過した日露戦争の頃となってきます。
これまで、平太郎独白録 「民主党のお粗末さに想いを馳せる筑前福岡藩の財政運営。」や、平太郎独白録 幕末福岡藩の無様さが日露戦争勝利の遠因!で述べて参りましたことは、すべて、今回のマエフリでした・・・。

ということで、続きは、明日のその2のココロだ~って、幾つまで行くかは終わったときに聞いてくれのココロだ~(笑)。
                                   平太独白
by heitaroh | 2006-04-14 17:08 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

幕末福岡藩の無様さが日露戦争勝利の遠因!その2
親愛なるアッティクスへ

一昨日の続きです。

早速、冒頭に唐突ですが、ここでクイズです(笑)。

1.日本で唯一、日銀支店が二つある県はどこでしょう?
2.最近、品川に止まるまでは、日本で、唯一、一つの県で新幹線のぞみが二つ止まっていた県はどこでしょう?
3.日本で一つの県で百万都市が二つある県は神奈川県ともう1つ、さて、どこでしょう?

さすがに、すぐにおわかりですね(笑)。
そうです、答えは、すべて福岡県です。
言うまでもなく、福岡市北九州市、平たく言えば、博多小倉・・・です。

では、ここから、問題は中級者レベルです(笑)。
がんばってください・・・。

4.幕末、一番最初に反幕府勢力により攻略された藩はどこでしょうか?
5.明治政府により、廃藩置県前に、唯一、お取り潰しになったのはどこの藩でしょうか?

おわかりになりましたでしょうか?
マスターの称号まであと僅かです・・・(笑)。

で、答えです。
4は、会津でも二本松でもなく、高杉晋作に攻め落とされた福岡県の豊前小倉藩です。
時の老中、小笠原家の居城・小倉城は落城し、城下は焼け野原になったとか・・・。
5ですが、実は、これも、同じく、会津でも仙台でも庄内でもなく、堂々の、我が!筑前福岡藩です。
それも、他の九州諸藩のような反政府活動などではなく、「偽札」という情けない理由で・・・(泣)。

もっとも、偽札自体は、当時、どこの藩でもやっていたそうですが、新政府が取り締まりに本腰を入れ始めたことから、他の藩は、「もう、やばいぞ!」と言ってやめていたのに、その後も、作り続けていたのが福岡藩だけ・・・。
当時、九州探題的な役目を担っていた日田代官にして、後の総理大臣、松方正義をして、「筑前福岡藩、人物一人も無し」と言わしめたとか・・・。
(哀しいかな福岡藩は、これもまた、度々、述べてきましたように幕末に勤王党弾圧し、維新後、その反動で佐幕派粛正したことから、著しく人材が枯渇していたようです。)

この辺は、まあ、大宰府に在った三条実美ら五卿を、罪人として冷遇していたことで、当然、新政府のウケはいいはずもなく、となれば戊辰戦争には積極的に派兵しなければならなかったわけで、おかげで、それでなくとも逼迫していた財政状態は、これまた著しい悪化を見せ、こうなれば、偽札でも作らないことにはどうにもならない状態になったのでしょう・・・。
(その辺は、まあ、歴史の流れが速かったわけでしょうから、一概に責められはしないのでしょうけれど、それでも、数年前の福岡ダイエーホークスサイン盗み疑惑のときと同様、「以前は皆やってたこと」で、「もう、最近じゃやってないよ・・・」みたいなものでしょうか。他にも、西鉄ライオンズ黒い霧(八百長)事件、ヨドバシカメラやビッグカメラの福岡店リサイクル疑惑・・・、とても、偶然とは思えない、見事な県民性です(笑)。)

そういう意味では、いくらひいき目に見たって、まったく無様!
小倉戦争で落城の憂き目を見た豊前小倉藩、そして、偽札で日本で唯一のお取りつぶしになった筑前福岡藩・・・。
明治初期の福岡・北九州が、(物理的な物よりも精神的な・・・と言う点で)如何に惨めな状態だったかがおわかり頂けると思います。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-03-06 08:18 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

幕末福岡藩の無様さが日露戦争勝利の遠因!
親愛なるアッティクスへ

ご存じかどうかわかりませんが、我が郷土、福岡は、転マナーの悪さは、よく、日本一だと言われてました。
東京から転勤で来られた方が、「この運転マナーの悪さは何だ!」と怒ったと言う話も耳にしたことがあります。
まあ、最近では、随分、言われましたので、以前ほどは無くなりましたが・・・。
よく、大阪が運転マナーが悪いと言われますが、大阪のそれは「荒い」という方の悪さだとしたら、福岡のそれは「セコイ」という方のそれです。
早い話が、「自分さえ行ければいい」という・・・。
(私も一度、大晦日にスーパーの駐車場に車をとめて買い物をして出てきたら、中の車が出ないと入れないのに、「とりあえず、自分だけ置ければいい・・・」で片っ端から入って来てて、もう、出ように出られない状態ということがありました。)

思えば、福岡市は、先日から述べております通り、早くから拓けた国際貿易港であったと言うこともあり、大商人というものを輩出しておりますが、一方で、これといった戦国大名はいません。
(以前、大河ドラマで「独眼竜政宗」というのをやっていた頃、仙台の観光客が増加したことから、旅行代理店だったか航空会社だったかが、二匹目のドジョウを狙い、仙台の次は同じく、拠点空港がある福岡市で!と運動したらしいのですが、残念ながら、福岡市には戦国大名がいなかったので諦めたんだとか・・・(笑)。)
現代でも、総理大臣輩出数では隣の山口県が、まあ、維新の元勲と言うこともあり、断トツなのに対し、福岡県は・・・と。
その代わり、芸能人の数は、間違いなく、人口当たりに直すと、断トツ、日本一だと思います。

e0027240_1324893.jpg

ということで、この軽薄でアバウトな国民性ゆえか、歴史の変動期には度々、苦い目に遭ってきております。
(戦国時代は、当然、群雄の取り合うところとなり、焼け野原になっております。ちなみに、それを復興したのが豊臣秀吉で、未だに博多の旧市街の町割りは「太閤町割り」と呼ばれております。)
幕末も、三条実美以下、勤王派五卿を、幕命により、長州から福岡藩預りとなり、太宰府に収容したところ、そのうち、長州と幕府とが再び手切れとなったことから、監視が緩い!とのお咎めを受けたことで、これを貴人としてではなく、囚人として遇し、勤王派を弾圧しちゃったところへ明治維新が起きたのだとか・・・。
で、急に五卿にわびを入れたところで、五卿ならずとも、「ムシが良い!」って話になるわけで・・・。
戊辰戦争にも進んで出兵してますが、扱いはもの凄~く、冷たいモノだったとか・・・。
(この辺のことは、こちらをご覧下さい。)→平太郎独白録 「嗚呼、筑前福岡藩!」

たぶん、あと一回くらい続くと思います。
                           平太独白
by heitaroh | 2006-03-04 08:20 | 歴史 | Trackback | Comments(6)

民主党のお粗末さに想いを馳せる筑前福岡藩の財政運営。
親愛なるアッティクスへ

表記の文句は昔、舘ひろしのヒット曲「泣かないで」の一節です。
ちなみに、この後は、「静まり返ったこの部屋に二人ィ、ンー、リラックスベイビー♪、泣かないで~」と続きます。
・・・・失礼しました。
はい、ご賢察の通り、今日も二日酔いです・・・。

さて、民主党、偽装メール問題謝罪会見してましたが、それに対し、「小泉首相、送金メール問題で民主党、前原代表の会見を批判」だとか・・・。
それはそうでしょう。
私は、この問題に関しては、当初から、証拠も示さないでいいのなら、誰でも適当に何でも(たとえば前原さんが1億もらったと)言ってもいいことになり、そうなると、何でもありの無法地帯になってしまうだろ!と思ってましたよ。
まったく、責任追及する方が、責任追及されてたら、世話無いですよ!
あの彼も、元祖爆弾男、楢崎弥之助元議員(福岡選出)に「私も爆弾質問したいんですけど・・・。」って聞いてたそうですが、これって、結局、有名になりたかったってことだけなのでしょうか・・・。

前原代表さんにしても、ケンカの仕方をしらないと言われてますよね。
確かに党首討論などを見てても、イチイチ、けんか腰・・・ていうか、あれは、チンピラみたいで、はっきり言って品がない
ああいうのは、明らかに自分に余裕がない証拠ですよ。
弱い犬ほど良く吠える・・・という。
やはり、民主党は岡田克也氏の党首辞任が惜しかったのでは・・・。

ところで、少し強引ですが(笑)、お粗末という点で、私が連想してしまったことがあります。
福岡藩は元々、赤字体質になるところがあったのですが、それ以前に、とにかく、支配者側に領民からの搾取以外の発想は無く、それゆえ、一時的に騙して、とりあえず、藩財政さえ持ち直せばいいや・・・というものが根底にあり、従って、藩札など発行しても、領民の不信根強く、一向に流通しないし、とうとう三回目にそれをやったら、(一回目がもろ、騙し)担当者が、ぽろっと、「あれは実は騙しなんですよ。」と本音を言ってしまって、それがあっという間に広まって、領民からも、「どうせそんなことだろうと思った。」冷ややかな視線を浴びせられる始末・・・。

月初めは忙しいんですぅ・・・ということでご理解頂戴、御同輩・・・。

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by heitaroh | 2006-03-01 08:01 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

嗚呼、筑前福岡藩!
親愛なるアッティクスへ

先般、ヨドバシカメラビックカメラ福岡店リサイクル料金疑惑が世間を騒がせましたよね。
処分代貰っておいて、実は北朝鮮に引き取らせていたというやつ。

e0027240_1294217.jpgここで問題です。
廃藩置県前に、明治政府によってお取りつぶしになった唯一の藩はどこでしょう?
それは、会津藩でも仙台藩でも二本松藩でもありません!我が筑前福岡藩です(笑)。
しかも偽札なんて情けない理由。
それから、西鉄ライオンズ身売りのきっかけとなった黒い霧事件
(エースを含め、主力投手がごっそりと八百長永久追放になったやつです。)
近いところでは、ダイエーホークスサイン盗み疑惑事件

で、福岡のヨドバシカメラとビッグカメラのリサイクル疑惑!
で、これらに共通するのは何でしょう?
そう、みんな誰もがやってたことなのに・・・と言うことです。
なのに、福岡だけが発覚する。
当時、明治政府九州探題的役割を果たしていた日田代官で、後の総理大臣松方正義をして、「筑前福岡藩、人物一人もなし。」と言わしめた立派なお家芸です。

ついでに言えば、福岡県からは総理大臣はわずかしか輩出しておりませんが(ちなみに、隣の山口県は日本一の輩出県です。)、芸能人は人口当たりにするとダントツの1位だと思います。
もっと言えば、高名な戦国武将はいません。
いたのは、博多商人と呼ばれる豪商ですね。
そういうお国柄なんですね・・・。
                        平太独白
by heitaroh | 2005-10-28 23:58 | 地域 | Trackback(1) | Comments(0)

筑前福岡藩黒田家のお粗末な財政運営想いを馳せる
親愛なるアッティクスへ

江戸時代を通しての、我が筑前福岡藩の財政運営を言うならば、もう、これこそ、お粗末を通り越して「無様!」の一言です。
福岡藩と言うのは、そもそも、関ヶ原以降、黒田家が入府して成立したものですが、「物語福岡藩史」と言うのを読んだ限りでは、藩政は、智将、如水 黒田官兵衛孝高を祖に持つにしては、あまりにお粗末!余りにも情けない・・・。

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元々、筑前国と言うのは、黒田家入府前の小早川氏時代には30万石程度だったものを、藩祖黒田長政が家格のアップを図る為に、無理矢理50万石にしたもので、当然、実収が伴うわけではなく、また、石高に伴って、有事動員計画に基づいた人員の過剰雇用は求められるわ、長崎警備の負担は命じられるわ・・・で、そもそもが財政が窮乏するような体質になっていたようです。
これは、それ以前の孝高(如水)の代の豊前中津時代、石高を低く申告して、内部の充実は図ったけど、主君である豊臣秀吉(中央)には睨まれて、不遇のうちに終わった才人の父へのいささかの批判もあったのでは?と思いますし、少なくとも、その時点での長政の判断は正しかったと思います。

ただ、毛利家伊達家などが、その後、増収に成功している事を考えれば、それ以降の福岡藩の政策運営は拙劣の一語に尽きるでしょう。
即ち、福岡藩のすべての財政政策破綻の根幹は、不信にあると言っていいと思います。
支配者側に領民からの搾取以外の発想は無く、それゆえ、一時的に騙して、とりあえず、藩財政さえ持ち直せばいいや・・・というものが根底にあり、従って、藩札など発行しても、領民の不信根強く、一向に流通しないし、とうとう3回目にそれをやったら、(1回目がもろ、騙し)担当者が、ぽろっと、「あれは実は騙しなんですよ。」と本音を言ってしまって、それがあっという間に広まって、領民からも、「どうせそんなことだろうと思った。」冷ややかな視線を浴びせられる始末・・・。

当然、領民から信用されないようでは、何をやってもうまくいくはずもなく、となれば・・・、安易に鴻池などの大坂商人からの債務を一方的に放棄を宣言してしまったところ、逆に、大阪商人に筑前米の売り捌きを締め出されて、収入の元を立たれることになり・・・、結局、藩主自らが直々に詫びを入れに行くなど、まったくもって、無様
一時的には、櫨蝋の増産で財政は上手く行くかにみえたのに、それも、搾取の発想から抜け出せず、育くむことをせず、ちょっと何か殖産興業が根付いてくると、片っ端から、そこにツケを廻してしまい、結局、頓挫・・・。

で、そんな状態の所へ降って湧いたのが明治維新と、それに伴う、戊辰戦争だったわけで、後はご想像の通り・・・といったところです。
                                         平太独白
by heitaroh | 2005-05-06 18:32 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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