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「甲斐甲斐し 師走の甲斐も 甲斐があり」師走山梨 その9
昨日の続きです。もう、いい加減にこのシリーズも終わらせなければ・・・と思っているのですが。

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新府城を出て、まだ少し時間があるというので韮崎でちょっと下車してみました。
ここは、新府駅の隣駅ですが、元々、甲斐武田家初代当主である武田信義の館があったと伝えられている所でもあります。

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武田家は元々、佐竹、小笠原、南部の各家などと同様に新羅三郎義光にその祖を遡る名門で、信義の父・義清が常陸国から甲斐国に配流されたのに始まると言われています。

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なるほど、この地図(↑)を見ると四方を川に囲まれ、躑躅ヶ崎館と同様に背後に緊急避難用の山が控えているのがわかります。
であれば、この山地の突き出した部分に躑躅ヶ崎館における要害山城に当たる城があるはずだ・・・と。

e0027240_1736268.jpg見れば、白山城跡と書いてあり、ビンゴ!と思ったのですが、地元の人に聞いたところ、「ここは、武田は武田でも武田信玄の時代の烽火台の為の城だ」とのことで、信義の時代の城ではないということでしたが、でも、私はこの城は元々、初期武田家の非難城であったのだろうと思います。
残念ながら、ここは熊出没注意ということで域内に入ることはできませんでしたが、看板だけは手前に出してあり、それを見るとやはり、「信義の要害として築かれた伝承を持つ」・・・と。

まあ、伝承の域を出ていないようですが・・・。

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武田信義は、保延6年(1140年)、13歳で武田八幡宮(↑)にて元服し、武田太郎信義と名乗り、源平の合戦においては源頼朝に合力、富士川の戦いから壇ノ浦の戦いまで、一連の戦いすべてに参戦し勇名を馳せたものの、鎌倉幕府成立後は頼朝の前に一介の御家人として抑えこまれてしまう・・・と。

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(↑八幡宮の傍らには、保元の乱における源氏の英雄、鎮西八郎為朝を祀る為朝神社が。為朝はここに匿われたという伝説があるそうです。)
おそらく、武田八幡宮は要害山城における積翠寺のような位置づけではなかったでしょうか。

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-01-22 18:42 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

そんなに簡単に始まったわけじゃなかった武士の時代
親愛なるアッティクスへ

いつだったか織田信長を特集した雑誌の中に、信長を評して「近代への扉をこじ開けた男」という紹介が為されていたことがありましたが、そこには続けて、「日本の歴史の中でも他にこういう人物を探すとすれば平 清盛くらいしかいない」ということが書いてありました。
その意味では、信長が近代なら、清盛は「中世への扉をこじ開けた男」と言えるのでしょうが、一方で、米タイム誌が「2000年までの千年紀(ミレニアム)に偉大な功績を残した人物」として採りあげた中で日本人で唯一、そこに載ったのが源 頼朝だった・・・という話があります。
確かに、「革命」という物を単なる権力闘争ではなく、階層の流動化という意味での階級闘争と定義づけたなら、日本の歴史上では明治維新よりもむしろ鎌倉幕府開闢の方が適当だとさえ言えるわけで、その意味では頼朝が日本人で唯一、そこに載るのはそれほどおかしな話でもないでしょう。

ただ、一口に、「明治維新まで700年間続いた武士の時代」などといいますが、それは頼朝が鎌倉の地に武士の政権を樹立した段階でいきなり確立したわけではなく、具体的には、頼朝の時点では源平合戦で勝利を収めたとはいえ、その勢威はかつての奥州藤原氏と同様に東国割拠した地方政権の趣が強く、むしろ、頼朝の死後、権力を掌握した執権・北条義時によって承久の乱において朝廷方の討幕軍が逆に鎌倉方に撃破されたことの方が武士の全国支配という意味ではエポック・メイキング的な出来事だったように思えます。
その意味では、後の戦国乱世が、信長・秀吉・家康という英傑三代によってようやく収斂していったように、武士の時代の始まりも清盛が切り開き、頼朝が基盤を作り、義時によって一応の確立を見た・・・というべきで、その意味では、武士の時代の始まりは清盛にこそ求められるのではないでしょうか。

ちなみに、その100年以上後に、再び朝廷権力の再復を目指した後醍醐天皇によって鎌倉幕府が倒れたことを思えば、朝廷の勢威がいかに根強かったかがわかるでしょうか。
もっとも、皮肉なことに、そのことが武士の時代の定着をいよいよ後押ししたと言え、即ち、後醍醐天皇を吉野に追い新たな権力者となった足利尊氏は、反対を押し切り、鎌倉ではなく京都に幕府を開きますが、このことにより武家政権という物はようやく全国区になり得たわけで、その後、その孫の三代将軍・足利義満の時代になり、朝廷は全国の荘園や公領からの税の徴収を自ら行えず、幕府に依存したことで、朝廷の弱体化は誰の目にも明らかになり、ここに名実ともに武士の時代が成った・・・と。
つまり、「ローマは一日にしてならず」と言いますが、清盛、頼朝の時代からここまで実に200年以上の歳月が流れていたわけで、そう考えれば、やはり、武士の時代の最初の扉を開けた・・・という点では清盛にこそ、高い評価を与えるべきだと思います。
                                         平太独白
by heitaroh | 2012-03-13 18:54 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(0)

頼朝公拝顔!
親愛なるアッティクスへ

今、一時的に博多に帰ってきております。
何をしに帰ってきたかと申しますと、「健康診断」でして、従って、これが終わるとすぐにまた、栃木県の方へ旅立たなければ成りません。
どうやら、七月一杯放免される見通しとなってきましたが、正直、私も、まさかここまで長くなるとは思っておりませんでした。
(帰ってきたら、たんすには普通にまだ、冬物が入っていました(笑)。)

e0027240_1622577.jpgで、一昨日の夜は、既述の通り、子供の頃から、「祗園風に吹かれれば夏風邪ひかん」と言われている博多の夏の風物詩を無くしたくないという一心で、寸暇を惜しんでガキ連れて山笠見物へ行ってきたわけなのですが・・・、その帰り、たまたま駅で九州国立博物館の広告看板を目にしました。
「九州新幹線全線開業記念特別展 『よみがえる国宝 - 守り伝える日本の美 - 』」という物で、見れば、あの、「伝(?)源頼朝像」が公開されるではないですか!

この絵は髪の毛の一本一本にまで描き別けられている精巧な物・・・と聞いておりましたので、これは是非、何としても拝顔の栄を賜らねばならぬ・・・と思ったのですが、見れば、一緒に展示される平重盛像は8/28までなのに、頼朝像のみはなぜか今月一杯の展示だそうで、これでは私が帰ってきてからでは間に合わない・・・と。
で、この、わずかな帰郷期間で多忙を極めている中、思い切って、行ってきました。
行ってみたら、平日の午前中にもかかわらず、すでに第一駐車場は満車でしたので、「やはり・・・」と気を引き締めた次第。

e0027240_18442625.jpgで、重盛公と並んで鎮座ましましている頼朝公を発見、まず、思ったより意外に大きかったこと。
次に、重盛公の方は修復がなされてはいるのでしょうが、あまり、鮮明とは言い難い部分が多いのに対し、頼朝公の方はやはり、衣冠束帯、髭の手入れから衣の見事さまで、「公達」とはこういう人を言うのか・・・という雰囲気がありましたね。
(最近、この、頼朝肖像画説に異を唱える説があると聞きましたので、上記では敢えて、「伝」としましたが、頼朝ではなかったとしても、それなりの貴人であることは間違いないでしょう。)
ちなみに、頼朝公も重盛公も今頃になって関門海峡を渡るとは思わなかったでしょうね。
身内はたくさん行ってるんでしょうが・・・。

ついでに、申し上げておきますと、両作品の他で印象に残ったのが二つ。
一つは、国宝・「人道不浄相図 (六道絵のうち)」という絵でして、人間が死んで、腐っていく姿を描いた物でしたが、私は「まったく、この通りだ」と思いました。
でも、私はどこで人間の死体を見たのでしょうか。
最近、栃木に行って以来、実は少し不思議な感覚を持っており・・・。
まあ、取り立てて言うほどのことではないですけどね。
あと一つは、萬国絵図屏風 ・・・。
これがここで見れるとは思いませんでした。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-07-13 17:43 | 文学芸術 | Trackback | Comments(0)

蒲冠者範頼
親愛なるアッティクスへ

源 範頼という人をご存じでしょうか。
「源」と名が付くことでもおわかりのとおり、源氏の一門で、源 義朝の六男、つまり、源 頼朝異母弟にして源 義経異母兄に当たり、通称、蒲冠者範頼と呼ばれる人物です。
ただ、二人の才人の兄と弟の間に挟まれ、どうしても影が薄く、また、源平絵巻を構成する上では、義経の功績を光り輝かせる上で損な役回りを背負わされたようですが、実際にはそれほど無能な人物でもなかったようです。
源平合戦に置ける源氏軍の構成は、二人が共闘した宇治川、一ノ谷の両合戦に置いては本軍司令官・範頼、別働隊司令官・義経という割り当てになっており、それは、「凡将範頼が苦戦しているところを、天才・義経が寡兵を率いて姿を現し撃破」・・・という構図になりがちですが、義経の働きも結局は正面で敵を引き付けた本軍の激闘あってのことであり、範頼にしてみれば、「殆ど、戦ったのはこちらなのに、美味しいところだけ持って行かれた」・・・的な感もあったでしょう。

また、一ノ谷合戦後、義経が干された際には、範頼が単独で平氏追撃戦を行ったものの、その進撃は停滞してしまったのに対し、再び登用された義経は、あっさり、平家の前線基地・屋島を攻略し、そのまま、壇ノ浦まで義経の快進撃が続いたことも範頼無能説を裏付けることになったようですが、義経の屋島攻略もまた平氏の主力を牽制した範頼の本軍あってのものだったと言え、さらに言えば、範頼軍のもたつき自体、補給に目処が立たぬのに、頼朝が無理矢理、進撃を命じたことにあったわけで・・・。
補給は本来、後方業務を担っている頼朝の責任だったのでしょうが、頼朝としても大消費地である京都3万もの兵士の食糧調達することは容易ではなく、このまま、京都に置いておくことは木曽義仲の二の舞になる可能性が危惧されたということだったのでしょう。
つまり、何でも良いからとにかく、出発しろ・・・と。

その後、範頼は兵糧不足などの厭戦気分から勝手に帰国しようとする御家人たちを説き伏せ、豊後国(大分県)豪族の協力などを得てようやく、兵糧と兵船を調達すると、一路、九州に上陸し、そのまま北部九州制圧・・・。
これにより、平氏軍は最後の砦とする長門国彦島(下関市)に孤立することとなってしまったわけですから、平氏の滅亡はこのとき、決まったと言ってもよかったでしょう。
そこへ、屋島を制圧した四国担当の義経が合流してきたわけですから、範頼からすれば、苦労しながら王手を掛けたところへの合流だったわけで・・・。

結局、壇ノ浦合戦は範頼が憂慮していた通り、義経の一人勝ちのような形となってしまうも、それらのスタンドプレーは、やがて頼朝との対立を招き、結果、義経は都を追われ、奥州の地で自害
しかし、頼朝の後継資格者排除の動きは、義経の轍を踏むことの愚を憂慮していた範頼にも向けられ、建久四年(1193年)、範頼は色々と言いがかりと付けられた挙げ句、ついに、伊豆国修禅寺幽閉され失脚、後に誅殺されたと伝わっています。
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-06-11 20:01 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

藤原泰衡の決断
親愛なるアッティクスへ

歴史上、さまざまな場面でさまざかに決断を迫られた人々・・・、成功すれば英雄となり、失敗すれば愚物となる。
第二次大戦中、ドイツ軍の作戦指導にことごとく容喙したヒトラー弊害を批判する声がありますが、しかし、戦局が悪化した後はともかく、当初はむしろ、目前の作戦指導のみしか見ようとしない軍人たちに対し、ヒトラーは、「彼らは、まったく、戦時経済というものがわかっていない」と嘆息したとか。
つまり、戦争を遂行するためには戦闘だけではなく、資源食料の確保といった戦争全体を考えなければならず、その意味では、ヒトラーのそれは必ずしも的外れでもなかったわけで、そのことは、同時期に大陸の反対側で攻勢をかけていた日本軍の極端な補給軽視姿勢を見れば納得できるものがあるでしょうか。
その意味で、判断としては、決して、間違っていなかった・・・、私もその立場にいたら同様の判断を下した・・・と思えるもので、かつ、それが、最悪の結果に終わってしまったという例がひとつだけあります。
それが平泉中尊寺金色堂で知られる奥州藤原氏最後の当主藤原泰衡の決断です。

まず、藤原氏は、泰衡の父、三代秀衡の晩年に、平氏討伐に目覚ましい活躍を見せた源 義経保護し、その異母兄、源 頼朝対決姿勢をとっています。
ところがまもなく、秀衡が死に、泰衡が家督を継ぐと、泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を殺害したばかりか、義経擁護派であった二人の弟も殺し、頼朝に対し恭順の意を示すも、頼朝はそのまま奥州に攻め込んで、泰衡は逃亡中、家臣に殺され、藤原氏は滅亡する。
初代清衡以来三代に渡って栄華を誇った藤原氏を、秀衡の死後、わずか2年で滅ぼしてしまったことで、史家の泰衡を見る目は冷たいものがあります。
しかし、私には泰衡の決断は必ずしも間違っていたようには思えないのです。
すなわち、藤原氏は義経を擁していたとしても、果たして戦って勝てたのか・・・という点で。

まず、藤原軍は、源平争乱を戦い抜いてきた源氏の精鋭と違い、約五十年にわたって戦争を知らず、おそらく戦争経験がある将兵は皆無だったでしょう。
そして何より、藤原氏は、奥州17万騎と号したものの、おそらく、実態は相当に水増しされた数字であって、兵力という点で、まともに戦えるレベルにはなく、その為、藤原氏は初代清衡以来、中央政府に対し、徹底して、追従外交に終始して、決して、全面戦争の口実を与えていません。
秀衡が死に臨んで、息子たちに「今後は義経を主君として仕えよ」と遺言したことも、あくまで、源氏同士の内輪もめという形にして、決して、中央政府藤原氏という形にしてはならないという認識があったからだと思います。
さらに、義経の軍才と藤原氏の兵力が結びついたことで頼朝も迂闊に手が出せない・・・といっても、この微妙なバランスがいつまでも保てたかという点も疑問で、それを国是とするのは大変、危険なことだったでしょう。
それらを勘案すれば、藤原氏は、徹底して頼朝に討伐の口実を与えるべきではなかったのでしょうが、奥州に近い鎌倉に政権が成立した以上、かつてのような遠交近攻外交が通じない時代が来たということであり、いずれにしても難しいところだったでしょう。
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-05-11 08:56 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

桜開花と春の嵐に見る気温の変動と日本史
親愛なるアッティクスへ

せっかく、一度、UPしたのに間違って消しちゃいました・・・(涙!)。
また、同じ事を書くってのは、もの凄~くモチベーションを保つのが大変なんですよね。
・・・で、気を取り直して、テキトーに(笑)。

      「亡き父の 暖かみ識る コートかな」      梁庵平太独白

e0027240_1341976.jpg何かにつけて、流行の最先端を行きたがる県民性そのままに、昨日の福岡県地方は、最高気温18℃で、もうが咲いたそうですね。
当方は4月初めに花見を予定していたので、これでは、ちと、予定が狂いまくりです(笑)。
でもって、昨日は、我が家はガキの卒業式でしたが、雨の中、突風も吹いて、まさしく春の嵐・・・って感じでしたが、今日は一転、最高8℃でしっかり寒いです。
いわゆる、寒の戻りというやつでしょうが、まあ、さすがにもう、こちらは1月のときのような大雪(←)が降ることはないでしょうが・・・。

ちなみに、私は祖父のコートも愛用してますけどね(笑)。

ところで、寒いと言えば、12世紀頃~15世紀頃にかけて、中央アジアでは小氷期と呼ばれる気温の低い時代があったそうですね。
12世紀頃~15世紀頃と言えば、ちょうど、日本は平安末期、すなわち源平騒乱の時代から、室町中期、すなわち、戦国時代初期くらいまでの時期に当たります。
まあ、中央アジアの気候変動が、そのまま、日本にも当てはまるとは限らないものの、もし、そのまま適用できたとしたら、
「12世紀、気温が下がったことにより、農作物の生産高が落ちたことで、生産者でもあった板東武者が立ち上がり、源 頼朝を担いで生産者による生産者のための生産者の政権・鎌倉幕府を成立せしめ、一方、再び、15世紀になって、気温が上昇を見せ始めたると、農作物の生産量が増大したことで、群雄GDPが上がり、比較的、大規模な軍事力を行使できるようになったことで戦国という一大競争時代に突入した」・・・という見方もできるのかもしれませんね。

もし、そうだとしたなら、平太郎独白録 : 平 将門、独立失敗の要因でも触れたように、平 将門決起は早きに過ぎ、北条早雲の台頭は時期を得たものだったと・・・。
北条早雲は伊豆を切り獲った後、税率を大幅に下げることで民心の掌握に成功しますが、これなどは、その低税率でやっていけるほどに生産高が増えた・・・ということだったのかもしれませんね。
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-03-14 08:01 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

日本の実情に適した相続の在り方・その3 
親愛なるアッティクスへ

はい、今更ながらに、このシリーズのその3です。
書きかけのまま、ず~っと、放置しておりました(笑)。
いい加減にまとめなきゃな・・・とは思っていたのですが、なにぶん、門外漢も甚だしい無いようなもので、つい・・・。
で、先日、車のラジオの人生相談で、誰かが、相続について尋ねているのを聞いて、ふと、このシリーズを思い出しました。

この点で、野口悠紀雄早稲田大大学院教授という方が、以前、「駅前商店街の衰退は相続税のせいだ」ということを述べておられましたのを思い出しました。
曰く、「現行相続税は相続人が1人として1億円相当の土地は相続税ゼロだが、同額の金融資産なら相続税600万円。相続のためには土地が絶対有利であり、商店街は家族の資産保全のための相続の場と化した。衰退は必然だ」と。
まあ、日本人の土地好きは、相続税のことだけでも無いような気がしますから、その意味では、少し極端な意見かな・・・とは思いますが、しかし、これとは別に、現実には都市部では普通に家業を営んでいるだけなのに、知らぬ間に、土地が莫大な資産価値を生み、相続税を払う為に、また、他の兄弟たちへの遺留分の支払いのために、土地を売り、他へ移ることも出来ず、結局、廃業してしまわなければばならないという事態が、バブル期には、結構、見られたようにも聞いています。

よく、親は死に臨んで、「兄弟仲良く・・・」というようなことを言い残す傾向があるようですが、いざ、兄弟同士になってみれば、遠慮会釈もない・・・。
親が死んで兄弟間で相続争いになったという話を耳にしますし、ましてや、叔父甥、従兄弟同士などになってしまえば、もう、親近感もへったくれもないですよ。
木曽義仲は同じ源氏の源 義経によって殺され、義仲の子供も義経の兄、源 頼朝によって殺されましたが、それ以前に、義仲の父は頼朝・義経兄弟の兄、悪源太義平によって殺されていたわけで・・・。
祖父にとっては、皆、可愛い我が子であり、であるのでしょうが、当人同士は、本気で殺し合いをしますからね。
現代でも・・・。

そもそも、階級の固定化と、それに伴う勤労意欲の減退を防ぐ・・・というのが、相続税のお題目ですよね。
その理屈自体は、私も決して、間違っていないと思うんですよ。
ただ、世界的に見れば、この相続税というものはなくなる方向にあるとか。
実際、香港は数年前に相続税を廃止していますが、その理由として、「より多くの投資を引きつけ、アジア太平洋地域資産管理金融のセンターとして競争力を高めるため」だと言っているとか。
さらに、アルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中国、インド、インドネシア、メキシコなど、資金を呼び込みたい国は、皆、相続税をやめてしまい、アメリカ2010年をめどに、段階的に廃止の方向だとか・・・。
それらを考えれば・・・。
しかし、相続税というものは、税率軽減でさえ、庶民感情という名の嫉妬心に縛られて、簡単にはできないでしょうし、ましてや、廃止などというのは、事実上、不可能な話でしょう。
しかし、それを放置しておくと、ますます、日本とは取り残される・・・。
実際、相続対策として、オーストラリアに移民した人の話も聞きましたけどね。
                             平太独白
by heitaroh | 2007-08-06 08:26 | 社会全般 | Trackback | Comments(6)

平 将門、独立失敗の要因
親愛なるアッティクスへ

以前、義経所縁の奥州平泉・金色堂(岩手県)に行ったことがありますが、私は金色堂よりも、むしろ、その周囲の雰囲気に感銘を覚えました。
世に入れられぬ者たちの無常の声が聞こえたような気がして・・・。

 「いにしえの いにしえびとの いにしえに
       えにしうけにし 幽明の里」
   梁庵平太郎

で、義経と言えば、大河ドラマで同じ時代を扱ったものに「草燃える」(1977年放送)というのがあります。
(もちろん、大河では他にも度々、採り上げられてますが、それは一旦置くとして・・・。)

e0027240_17121825.jpgこの「草燃える」は例によって、現代の倫理観を無理矢理反映させた勧善懲悪式発想が随所に見られ、当時はあまり好きではありませんでした。

「おんな太閤記」しかりで、女性が主人公になったときに、特にこの傾向が強いようですね。)

で、最近、ビデオでこれを見て、改めて思ったことがあります。
石坂浩二扮する源 頼朝は、ご本人そのままに(?)育ちの良さが良く出ていましたネ(笑)。石坂氏曰く、「このドラマは、地方の資産家のところに婿養子に入った男の話だと思えばわかりやすい」とのこと。なるほど、確かに(笑)。)

このドラマは、主役は岩下志麻扮する北条政子でしたが、全編を通して背景を彩るのは、当時の関東地方の住人である板東武者でした。
そこで思ったのが、何故それ以前の平 将門は失敗して、急速にあの時代から、坂東武者が力を持ち始めたのか?ということでした。
そこで思ったのが、ひょっとして、平安末期あたりから急速に関東圏では人口が増加していたのではないか?ということです。
何があったのかは、わかりませんが、あるいは、「2℃ほど気温が上昇した」とか、「関東ローム層に適した農業技術の開発普及があった」・・・などの、何らかの変化があったのではないでしょうか。
それにより、箱根以西で食えなかった人たちが、広大な関東平野への入植へ続々と流れ込んだのではないかと。
かつて、多くの日本人が満州フロンティアを夢見たように・・・。

もちろん、当時は、家康入植前ですから、現代と違い、江戸などの沿岸地帯は葦が生い茂る湿地帯だったでしょうが、ちょっと内陸に行けば、一国すべてが武蔵野と呼ばれるススキが生い茂る平野だったのですから、開墾により、一族を養おうと夢みたことは十二分に考えられたと思います。
この点で、将門の時代には、哀しいかな人口の絶対数が足りず、関東に割拠(独立)するには国力として限界があった・・・というのが、将門の「叛乱」が失敗した真の理由であるように私には感じられますが、如何でしょうか・・・。
                         平太独白
by heitaroh | 2007-05-26 00:01 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

アジアには王様が必要
今のイラクアフガンを見ていて、つくづく思いましたが、アジアにはまだ、王様が必要なんですね。
「何をばかなことを!」と言われるでしょうが、それを端的に表すのが、蒙古来襲の折、果たして時宗の決断と、江戸幕府におけるペリー来航への対応です。
結論を言えば、「いずれにしても幕府は滅びる」ということだったでしょう。
つまり、鎌倉幕府は国内の威信は保てたものの、対外的には存亡の危機を招き、撃退することこそできたものの、その結果としての財政負担に耐え切れず、自らを滅亡に追い込む事となり、江戸幕府は対外戦争は回避できたものの、自らの弱体化を白日の下にさらしてしまい、それが国内諸勢力からの侮りにつながり、ひいては倒幕勢力の台頭を招き、結果的に自らを滅亡に追い込んでしまったわけです。

戦った鎌倉幕府と戦わなかった江戸幕府。
即ち、北条氏にしても、徳川氏にしても、武力を背景にして成り立っている政権というものは、その君臨基盤は、端的に言えばガキ大将的なものであり、一言で言うならば「彼は強いから逆らえない。」だったと思います。
強いから威張っている。そこに理屈はないわけで、自分の村のガキ大将が強いから誰も理不尽な事をされても文句を言わないわけで、それが隣村のガキ大将にはヒト睨みで何もいえなかったりすると、いきなり、威信は地に落ちるわけです。

で、何が言いたいかと言うと、日本はアメリカ様の占領政策という、恩恵(?)を受けたが為に、やや趣を異にしていますが、アジアでは今日でも多かれ少なかれ、幕府と大差ないということです。
即ち、イランにしても、北朝鮮にしても、たとえどんな大敵でも腰を屈したりしないんだと言うポーズを取らなければならず、彼らが、わずかでも屈する姿勢をとったならば、一瞬にして、彼らの威信は地に落ち、あるいは、生命を維持することすら、おぼつかなくなるでしょう。
だから、彼らは本音とは別に、強気の態度を取り続けなければならず、この点を考えるなら、アメリカは彼らのこの点だけは立ててやる度量外交を展開するべきだと思います。
北朝鮮に対しても、今、安易に経済制裁を叫ぶ人が増えてますが、彼らがいなくなることは、その地域にとっては、とてつもない真空状態を招く事につながり、それは混乱、混迷・・・、大変危険な事だと思います。
拉致の問題にしても、不誠実でも交渉相手がいる交渉と、交渉相手さえいない状況ではどちらがいいのでしょうか?

話が横道にそれましたが、ここで、王様は誰でもいいというわけではありません。
今日でも、社長の息子が社長になっても、「仕方ない!」であきらめもつくでしょうが、ドングリの背比べの副社長の中から・・・ということになれば、「何であいつなんだ!」となるでしょう。
次の天皇には天皇の子供がなるから誰も文句を言わないわけで。
源頼朝を担いだ鎌倉の御家人たちもそういう心理であり、執権となった北条氏がその後、他の御家人衆と「仁義なき戦い」を繰り広げなければならなかったことも、これに起因するかと思います。

人間、貴種がないとまとまらない世界もあるんですよね。
まさしく、今のアフガンやイラクなどが、これに当たると・・・。
つまり、きれい事、いい悪いではなく、アジアにはまだまだ、王様が必要だと思います。
その意味では、GHQ天皇を排除しなかったのは、まさしく正解だったでしょう。
そして、それだけに、アフガニスタンやイラクのブラックホールのような混迷が心配でなりません。
                                    平太独白

by heitaroh | 2007-04-20 00:49 | 国際問題 | Trackback(5) | Comments(6)

苦労というものの功罪・後編、苦労に値する人間。
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

この辺は、以前、平太郎独白録 「驕れる者も久しからず」でも触れたことですが、その矛先は、源氏一門であろうとも容赦はなく、木曾義仲敗死後、人質ながらも、自分の娘の婿としていた義仲の嫡男、義高を斬殺し、静御前が産んだ源 義経の遺児も、誕生すると間もなく、生き埋めにされて殺されました。
頼朝の、こういった行動が、結果的に源氏一門を細らせることになってしまったことは間違いないことのようで、実際、頼朝の死後まもなくして、頼朝の直系子孫は、いずれも悲惨な形で絶えることになります。

平家は、頼朝を生かしておいたから滅びたのではなく、驕り高ぶるあまり、人心に見放されたから滅びたのであって、もし、平家政権の支持率が高かったならば、いかに頼朝や義経が生きていようが出番はなかったと思います。
(まだまだ、侮れなかった天皇権力を始めとする既成の権力を軽視したゆえに滅びたという見方もできるでしょうが、そういう、政治的識見の低下も、結局は驕りがあったからでしょう・・・。)

e0027240_15445648.jpg現実に、平家の大軍を都から放逐したのは、義経でも頼朝でもなく、木曾義仲だったのですから・・・。
(←義仲が平家の大軍を壊滅させた倶利伽羅峠に佇む碑。得意の絶頂にあった義仲は、これから間もなく訪れる己が凋落と、それに伴う我が子の悲劇にまで思いは及んでいたのか。)

ただ、我が子を人質に出した時点での、義仲の状況判断は、三国干渉の時の明治政府と同様、驚くほど的確だったと思います。
しかし、であればこそ、なおのこと、頼朝とは徹底して対立してはいけなかったのではないか・・・。
何より、頼朝という人の凄惨なまでの、酷薄な性格に考えは及んでいたのか・・・。
あれほどまでに、冷徹な政治判断を下した男が、この倶利伽羅峠の大勝利を境に政治音痴の軍人に成り下がっていったのが、私には、どうにも解せません。
貧すれば鈍するということなのか。
いずれにしても、諸行無常の響き有り・・・でしょうか。)

しかし、そうは言いながらも、自らも同様の体験をしたことで、頼朝を尊敬していた徳川家康などには、このような、いたずらな猜疑心というものは、あまり見受けられません。
同様に、こういった経験を経てきた人物としては、始皇帝は頼朝的であり、ユリアヌス帝は家康的だと言えるようです。
まあ、とどのつまりは、「苦労をすること」自体良いとしても、やはり、「苦労しても人間性が歪められないかどうか・・・」、つまりは、「苦労をするに値するだけの人間かどうか・・・」がすべてなのでしょうか・・・。
                                平太独白
by heitaroh | 2006-05-11 08:43 | 歴史 | Trackback | Comments(2)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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