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義経と仲達の差に見る上司に恵まれない時の政治判断
官房長官時代の枝野幸男氏を評して「頑張っているのに上司に恵まれない」ことを「エダる」と言う流行語があったそうですね。
まあ、いつの時代もこの手の話はあることのようで、「判官びいき」という言葉で知られる悲劇の名将・源 義経という人は軍人としては優秀でもやはり、高度な政治判断とは無縁の人だったのでしょう。
彼は自らのその後の保身のことを考えれば壇ノ浦平家を滅ぼしてはいけなかったんですよ。
平家の脅威が健在であれば、上司で兄の頼朝「狡兎死して走狗煮らる」の典型のような酷い仕打ちを科すことはなかったでしょうから・・・。

この点で、同じような立場に立たされた時の鋭敏な政治感覚を備えた人の対処例としては、三国志で有名な司馬懿 仲達の場合があります。
仲達という人は、三国志演義の中では、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」などと言われ、天才軍師・諸葛亮 孔明にいつもいいようにやられる引き立て役のように描かれていますが、実際には孔明に勝るとも劣らない第一級の名将で、そのことは、都合5度に渡る両者の名勝負が「孔明の名采配の前に仲達が毎度苦境に陥りながらも最終的にはなぜかそのたびに孔明が撤退して終わる」という不思議な様相を呈していることを見ればよくわかるでしょうか。

三国志演義などはこれを「孔明の不運」として描いていますが、運などというものはそうそう一方にばかり加担するものではないはずで、実はこのとき、仲達が所属していた魏の王宮内では仲達の敏腕ぶりを危険視する反仲達派の人々がいたようで、(事実、最終的に魏を滅ぼし三国を統一したのは仲達の孫・司馬炎です。)、かといって、彼らにしても名将・孔明がたびたび攻め込んできている以上、これと対等に戦えるのは仲達しかいないということは衆目の一致するところで、となれば反対派も安易に仲達排除には乗り出せない・・・ということだったわけですね。
ただ、その一方で仲達は惨敗を喫したならば、反仲達派ももはや仲達に頼らなければならない理由はなくなるわけで、そうなると、この時とばかり仲達の責任が追及され生命の危険に瀕することになったでしょうから、その意味では、仲達は実績を上げてもいけない(=孔明軍温存)、上げなくてもいけない(=孔明軍撃退)という難しい課題を背負わされて、この戦いをやっていたというわけですね。

相手を完全に撃滅してしまうことが自身に与えられた役割であり、それが国益なのでしょうが、それをやっては我が身が危ない・・・という場合、上手に自分の身を守りながら、その上で国益を追求する必要があるということでしょうか。
                                         平太独白

by heitaroh | 2011-11-14 18:09 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

一年半ぶりの東京に「To be, or not to be」的心境 2
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

e0027240_1017374.jpg私が日本でもシェークスピアの題材に成り得るのではないか・・・と思ったのが、「木曽義仲と巴御前」です。

(←別に宝飾品などを買いに来たわけではなく、ここがパーティ会場でした。)
だって、「貴族」「男女」「動き」がある、数少ない題材ではないですか?
「源 義経と静御前」でも良いのでしょうが、この場合、悲劇はあっても、静御前は義経と絶えず一緒にいたわけでもありませんし、致命的なのは静御前に「動き」がないことでしょう。
まあ、日本型の時代劇の範疇で演じる場合には問題ないのでしょうが。

e0027240_10402051.jpg・・・などと、くだらないことを考えているうちに舞台は終わり、その後、いくつかの取引先の営業(高級ブランド品店)に付き合うも、ただし、そういう物には致命的なまでに興味がない私は、こっそり、抜け出して「醤油こがしラーメン」なるものを食べ、素知らぬ顔で再び、へ・・・。
案の定、パーティ会場では殆ど、食事らしい食事は無く、ラーメン食ってて正解でした。

(←このとき、女性物の毛皮のコートを見たのですが、後で隣にいた女性に「あれって、何十万かするんでしょう?」と聞いたところ、「何百万ですよ」と言われ、絶句・・・。私は世の中に「何百万もする衣類があること」を初めて知りました(汗)。)

e0027240_10425785.jpgで、とりあえずは、ここで解放され、その後は、銀座のホテルにチェックインして、東京在住の友人と合流し、夜の街(←)へ・・・。
ところが、案内させようと思って呼んだはずのこの、三代続いた東京人氏が、「僕、銀座なんてまったく知りませんよ」などと言いだし・・・。
何のために、こいつを呼んだんだ・・・と(笑)。

で、そのまま夜は更け、翌朝、軽度の二日酔い歌舞伎座へ・・・。
と言っても、私は歌舞伎が見たかったわけではなく、大正時代建築の建物が、まもなく建て替えのために解体される・・・と聞き、建物を見たいと思って行ったのですが・・・。

機会が有れば、続くと思います(笑)。

                                         平太独白
by heitaroh | 2010-02-27 07:02 | その他 | Trackback | Comments(0)

蒲冠者範頼
親愛なるアッティクスへ

源 範頼という人をご存じでしょうか。
「源」と名が付くことでもおわかりのとおり、源氏の一門で、源 義朝の六男、つまり、源 頼朝異母弟にして源 義経異母兄に当たり、通称、蒲冠者範頼と呼ばれる人物です。
ただ、二人の才人の兄と弟の間に挟まれ、どうしても影が薄く、また、源平絵巻を構成する上では、義経の功績を光り輝かせる上で損な役回りを背負わされたようですが、実際にはそれほど無能な人物でもなかったようです。
源平合戦に置ける源氏軍の構成は、二人が共闘した宇治川、一ノ谷の両合戦に置いては本軍司令官・範頼、別働隊司令官・義経という割り当てになっており、それは、「凡将範頼が苦戦しているところを、天才・義経が寡兵を率いて姿を現し撃破」・・・という構図になりがちですが、義経の働きも結局は正面で敵を引き付けた本軍の激闘あってのことであり、範頼にしてみれば、「殆ど、戦ったのはこちらなのに、美味しいところだけ持って行かれた」・・・的な感もあったでしょう。

また、一ノ谷合戦後、義経が干された際には、範頼が単独で平氏追撃戦を行ったものの、その進撃は停滞してしまったのに対し、再び登用された義経は、あっさり、平家の前線基地・屋島を攻略し、そのまま、壇ノ浦まで義経の快進撃が続いたことも範頼無能説を裏付けることになったようですが、義経の屋島攻略もまた平氏の主力を牽制した範頼の本軍あってのものだったと言え、さらに言えば、範頼軍のもたつき自体、補給に目処が立たぬのに、頼朝が無理矢理、進撃を命じたことにあったわけで・・・。
補給は本来、後方業務を担っている頼朝の責任だったのでしょうが、頼朝としても大消費地である京都3万もの兵士の食糧調達することは容易ではなく、このまま、京都に置いておくことは木曽義仲の二の舞になる可能性が危惧されたということだったのでしょう。
つまり、何でも良いからとにかく、出発しろ・・・と。

その後、範頼は兵糧不足などの厭戦気分から勝手に帰国しようとする御家人たちを説き伏せ、豊後国(大分県)豪族の協力などを得てようやく、兵糧と兵船を調達すると、一路、九州に上陸し、そのまま北部九州制圧・・・。
これにより、平氏軍は最後の砦とする長門国彦島(下関市)に孤立することとなってしまったわけですから、平氏の滅亡はこのとき、決まったと言ってもよかったでしょう。
そこへ、屋島を制圧した四国担当の義経が合流してきたわけですから、範頼からすれば、苦労しながら王手を掛けたところへの合流だったわけで・・・。

結局、壇ノ浦合戦は範頼が憂慮していた通り、義経の一人勝ちのような形となってしまうも、それらのスタンドプレーは、やがて頼朝との対立を招き、結果、義経は都を追われ、奥州の地で自害
しかし、頼朝の後継資格者排除の動きは、義経の轍を踏むことの愚を憂慮していた範頼にも向けられ、建久四年(1193年)、範頼は色々と言いがかりと付けられた挙げ句、ついに、伊豆国修禅寺幽閉され失脚、後に誅殺されたと伝わっています。
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-06-11 20:01 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

藤原泰衡の決断
親愛なるアッティクスへ

歴史上、さまざまな場面でさまざかに決断を迫られた人々・・・、成功すれば英雄となり、失敗すれば愚物となる。
第二次大戦中、ドイツ軍の作戦指導にことごとく容喙したヒトラー弊害を批判する声がありますが、しかし、戦局が悪化した後はともかく、当初はむしろ、目前の作戦指導のみしか見ようとしない軍人たちに対し、ヒトラーは、「彼らは、まったく、戦時経済というものがわかっていない」と嘆息したとか。
つまり、戦争を遂行するためには戦闘だけではなく、資源食料の確保といった戦争全体を考えなければならず、その意味では、ヒトラーのそれは必ずしも的外れでもなかったわけで、そのことは、同時期に大陸の反対側で攻勢をかけていた日本軍の極端な補給軽視姿勢を見れば納得できるものがあるでしょうか。
その意味で、判断としては、決して、間違っていなかった・・・、私もその立場にいたら同様の判断を下した・・・と思えるもので、かつ、それが、最悪の結果に終わってしまったという例がひとつだけあります。
それが平泉中尊寺金色堂で知られる奥州藤原氏最後の当主藤原泰衡の決断です。

まず、藤原氏は、泰衡の父、三代秀衡の晩年に、平氏討伐に目覚ましい活躍を見せた源 義経保護し、その異母兄、源 頼朝対決姿勢をとっています。
ところがまもなく、秀衡が死に、泰衡が家督を継ぐと、泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を殺害したばかりか、義経擁護派であった二人の弟も殺し、頼朝に対し恭順の意を示すも、頼朝はそのまま奥州に攻め込んで、泰衡は逃亡中、家臣に殺され、藤原氏は滅亡する。
初代清衡以来三代に渡って栄華を誇った藤原氏を、秀衡の死後、わずか2年で滅ぼしてしまったことで、史家の泰衡を見る目は冷たいものがあります。
しかし、私には泰衡の決断は必ずしも間違っていたようには思えないのです。
すなわち、藤原氏は義経を擁していたとしても、果たして戦って勝てたのか・・・という点で。

まず、藤原軍は、源平争乱を戦い抜いてきた源氏の精鋭と違い、約五十年にわたって戦争を知らず、おそらく戦争経験がある将兵は皆無だったでしょう。
そして何より、藤原氏は、奥州17万騎と号したものの、おそらく、実態は相当に水増しされた数字であって、兵力という点で、まともに戦えるレベルにはなく、その為、藤原氏は初代清衡以来、中央政府に対し、徹底して、追従外交に終始して、決して、全面戦争の口実を与えていません。
秀衡が死に臨んで、息子たちに「今後は義経を主君として仕えよ」と遺言したことも、あくまで、源氏同士の内輪もめという形にして、決して、中央政府藤原氏という形にしてはならないという認識があったからだと思います。
さらに、義経の軍才と藤原氏の兵力が結びついたことで頼朝も迂闊に手が出せない・・・といっても、この微妙なバランスがいつまでも保てたかという点も疑問で、それを国是とするのは大変、危険なことだったでしょう。
それらを勘案すれば、藤原氏は、徹底して頼朝に討伐の口実を与えるべきではなかったのでしょうが、奥州に近い鎌倉に政権が成立した以上、かつてのような遠交近攻外交が通じない時代が来たということであり、いずれにしても難しいところだったでしょう。
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-05-11 08:56 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

摂津播磨の旅 その6 義経奇襲の真の狙い
親愛なるアッティクスへ

先週からの続きです。
このシリーズもぼちぼち、終わりにしなきゃ・・・と思いつつ、その5まで来てしまいました。

e0027240_81729100.jpgで、須磨浦公園展望台を出て、さて、どこに向かおうかと思ったところ・・・、ガイドブックに平家に拉致されていた幼少安徳天皇内裏跡なる物があることに気づきました。
で、少し離れてましたので、当初はそこまで行くつもりはなかったのですが、まだ、帰りの新幹線まで時間があったこともあり、やむなく、そこを目指したのですが、これがまた、地図ではわからない結構な上り坂でして・・・。
思えば、こんな大事なところが見晴らしが悪い低地に置かれるはずもなく・・・。
で、重い荷を背負い、遠き坂を登るがごとし・・・って、まるで徳川家康みたいな(笑)。
で、今ではすっかり、住宅街に取り込まれた一角に・・・ありました。

e0027240_820494.jpgで、横を見ると、なぜか皇女和宮の像が・・・。
ちょっと前に、山中から発見されて、ここに置かれているらしいのですが、おそらく、明治期に地元の資産家が学校などに置くようにいくつか作った物が戦時中接収されるのを恐れて、隠したのではないかということでした。

時節柄、大河ドラマ篤姫でもちょうど、話題になっているところでしょうから、ついでにカメラに納めてきましたが、この人って、最期は箱根斬り殺された・・・って説もあるんですよね。

で、話を本題に戻すと、ここに立って、なぜか私には、源 義経鵯越から平氏軍を奇襲したと言うけど、それとは別に、ここのもう少し上にある頂付近から、ここに押し寄せたのではないか・・・という気がしました。
ガイドブックにはここから先と、そして、鵯越との位置関係がわかるものが記載されていなかったのですが、なぜか、そんな気がしました。

で、そこを出て、最寄りの駅に着いて見てみると、鵯越駅というのがあり、何があるかわからないけど、まだ時間があったので、せっかくだから行ってみました。
おそらく、神戸市内なのでしょうが、まだ、片田舎の雰囲気を残す駅を降りて、鵯越史跡という看板の方向へ歩いたのですが、残念ながら、それはどこにあるかわからなかったのですが、坂を登り切ると、突然、この風景(↓)に出会いました。

e0027240_8445490.jpg

山も切りひらかれていますので、おそらく、義経の時代とは違うでしょうが、近づく前に神戸市内が一望できるじゃないですか。
当時は、こんな場所が他にもあったんじゃないかと・・・。
さらに、帰途、駅にあった観光地図を見ると、義経が部隊を鵯越から奇襲させた後、一隊を率いてさらに奥へと進み、逆落としに奇襲した場所は、まさしく、安徳天皇内裏跡の真上に当たり、であれば、おそらく、義経は、巷間言われているように敵を撃破することを目的にここから奇襲したのではなく、安徳天皇奪還のために少数でここを目指したのだと。
そして、その少数の義経一行に対し、安徳天皇を後方に下げようとして混乱した平氏軍はそのまま、崩壊してしまったのではないかと。

最近、雑兵物語という本を読んだのですが、この中に、雑兵がネズミを捕まえて遊んでいるうちに騒ぎが大きくなり、何万もの大軍が戦う前に潰走してしまった・・・という話も載ってましたから有り得ない話でもないでしょう。
                                平太独白
by heitaroh | 2008-11-20 08:49 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(4)

摂津播磨の旅 その5 須磨浦高地から見る戦線の是非
親愛なるアッティクスへ

先週からの続きです。

そんなこんなで、須磨寺を出て、山陽電鉄にて須磨浦公園駅へ。
ガイドブックを見る限りでは、もう少し、一ノ谷合戦の史跡が有るようになっていたのですが、行ってみると、敦盛塚と呼ばれる塚があるだけで、しかも、どうやら、後世建てられた物であるとのことで、やむなく、ケーブルカー須磨浦公園展望台へ向かいました。
ところが何と、ここは、遊園地なんですね。
親子連れカップルばかりの中、明らかに場違いなオヤジが一人・・・。
でも、ひるむことなく、山頂の展望台へ・・・。
で、そこから見た風景がこれでした。

e0027240_1520964.jpg
↑まず、ここから東側の神戸市内を見た風景。

e0027240_1522305.jpg←次に、この須磨浦公園から直角に真下を見た風景。
わかりにくいのですが、海岸線に沿って、JR山陽本線、山陽電鉄本線、それから、一番狭い部分では片側一車線となった国道二号線が走っています。

e0027240_15231792.jpg←そして、こちらが西側の明石方面を見た風景。
明石海峡大橋が見えます。)

つまり、これらを見て明らかなとおり、ここは東に拡がる大阪平野と西に拡がる播磨平野 との分岐点なんですね。

従って、現在でもこの狭い海岸線にひしめくように電車や道路が走っているわけで、おそらく、ここは明治以前は旅人を難渋させた交通の難所だったのではないかと思われます。
つまり、この須磨浦公園の高地を占拠すれば、東西、どちらから来た敵にも対処できるわけで、そう考えれば、楠木正成湊川などで足利尊氏の大軍を迎え撃たずに、この須磨浦高地迎撃するべきではなかったかと。
あるいは、正成はここを目指して進軍中に、間に合わずに湊川辺りで遭遇してしまったということだったのでしょうか。
あるいは、ここに籠もってしまっては、敵は押さえの兵力だけを残して、主力は京都へ向かうということを懸念したのかもしれませんが、でも、それはどうせ同じ結果に終わるだけの話であり、だったら・・・と。

また、であるからこそ、正成と違い、それなりの兵力を集め、乾坤一擲源氏軍を待ちかまえていた平氏軍は、大兵力が展開しやすいここの東の大阪平野の末端部分に展開していたのだと。
つまり、平氏軍としては、南は海、西と北は山地で守られているわけですから、敢えて西北南の防衛戦には目をつぶり、思い切って、兵力の大半を正面の東側防衛戦に結集することで、ここで雌雄を決しようとしたわけですね。
これはこれで、平氏側の兵力配置は計算上は間違っていなかったでしょう。
ただ、惜しむらくは平氏側には我が世の春謳歌しすぎたのか、これは多分に机上の戦闘計画だったように思えます。

私がそう思う理由・・・、それは、北と西はともかく、南側の海に、いつでも逃げられるようにを浮かべていたことです。
後の、戦国時代になってくると、こういう場合、少なくとも、名将と名が付く人であれば、船など浮かべずに背水の陣で敵に当たったでしょう。
だから、源 義経率いる源氏の別働隊が北側の山を踏破して鵯越から攻めかかると、あっけなく、敗走しちゃったんじゃないかと。
「いざとなったら、船に乗って逃げればいいさ・・・」では戦いには勝てないよと。

もう一回くらい続く・・・でしょう。
                               平太独白
by heitaroh | 2008-11-18 15:08 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

日本の実情に適した相続の在り方・その3 
親愛なるアッティクスへ

はい、今更ながらに、このシリーズのその3です。
書きかけのまま、ず~っと、放置しておりました(笑)。
いい加減にまとめなきゃな・・・とは思っていたのですが、なにぶん、門外漢も甚だしい無いようなもので、つい・・・。
で、先日、車のラジオの人生相談で、誰かが、相続について尋ねているのを聞いて、ふと、このシリーズを思い出しました。

この点で、野口悠紀雄早稲田大大学院教授という方が、以前、「駅前商店街の衰退は相続税のせいだ」ということを述べておられましたのを思い出しました。
曰く、「現行相続税は相続人が1人として1億円相当の土地は相続税ゼロだが、同額の金融資産なら相続税600万円。相続のためには土地が絶対有利であり、商店街は家族の資産保全のための相続の場と化した。衰退は必然だ」と。
まあ、日本人の土地好きは、相続税のことだけでも無いような気がしますから、その意味では、少し極端な意見かな・・・とは思いますが、しかし、これとは別に、現実には都市部では普通に家業を営んでいるだけなのに、知らぬ間に、土地が莫大な資産価値を生み、相続税を払う為に、また、他の兄弟たちへの遺留分の支払いのために、土地を売り、他へ移ることも出来ず、結局、廃業してしまわなければばならないという事態が、バブル期には、結構、見られたようにも聞いています。

よく、親は死に臨んで、「兄弟仲良く・・・」というようなことを言い残す傾向があるようですが、いざ、兄弟同士になってみれば、遠慮会釈もない・・・。
親が死んで兄弟間で相続争いになったという話を耳にしますし、ましてや、叔父甥、従兄弟同士などになってしまえば、もう、親近感もへったくれもないですよ。
木曽義仲は同じ源氏の源 義経によって殺され、義仲の子供も義経の兄、源 頼朝によって殺されましたが、それ以前に、義仲の父は頼朝・義経兄弟の兄、悪源太義平によって殺されていたわけで・・・。
祖父にとっては、皆、可愛い我が子であり、であるのでしょうが、当人同士は、本気で殺し合いをしますからね。
現代でも・・・。

そもそも、階級の固定化と、それに伴う勤労意欲の減退を防ぐ・・・というのが、相続税のお題目ですよね。
その理屈自体は、私も決して、間違っていないと思うんですよ。
ただ、世界的に見れば、この相続税というものはなくなる方向にあるとか。
実際、香港は数年前に相続税を廃止していますが、その理由として、「より多くの投資を引きつけ、アジア太平洋地域資産管理金融のセンターとして競争力を高めるため」だと言っているとか。
さらに、アルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中国、インド、インドネシア、メキシコなど、資金を呼び込みたい国は、皆、相続税をやめてしまい、アメリカ2010年をめどに、段階的に廃止の方向だとか・・・。
それらを考えれば・・・。
しかし、相続税というものは、税率軽減でさえ、庶民感情という名の嫉妬心に縛られて、簡単にはできないでしょうし、ましてや、廃止などというのは、事実上、不可能な話でしょう。
しかし、それを放置しておくと、ますます、日本とは取り残される・・・。
実際、相続対策として、オーストラリアに移民した人の話も聞きましたけどね。
                             平太独白
by heitaroh | 2007-08-06 08:26 | 社会全般 | Trackback | Comments(6)

苦労というものの功罪・中編、源氏一門の悲劇
昨日の続きです。

壇ノ浦合戦前夜とも言うべき、文治元年(1185年)1月26日、苦心の末に、補給線の確立に成功した範頼は、周防国(山口県)より船出し、平家側の哨戒線に捕捉されることなく、九州豊後国(大分県)への上陸に成功し、そのまま、北上して、九州の平家方の中核を為す原田種直軍を撃破
これにより、彦島(下関市)に本拠を置く平家方は後背地九州からも敵の進撃を受ける形となったことで、補給線も逃げ道もない、事実上の壊滅状態となっており、「壇ノ浦」で滅亡することとなったときも、実際には、建礼門院徳子や、安徳天皇を始めとする、非戦闘員ばかりであったとも言われています。
こうなれば、もはや義経の大活躍が必要な「一大会戦」と言うよりも、平家方の最期を飾るだけの、単なる掃討戦であったとも言えるでしょうか・・・。

平家滅亡後、兄、源 頼朝と、弟、源 義経の不仲は日を追うごとに激しくなっていきますが、これにより、源 範頼の立場は微妙なものとなっていきます。
そして、遂には、範頼は、頼朝より、義経追討軍司令官を命じられます。
おそらく、踏み絵的な意味合いもあったのでしょう。
範頼は、これを固辞したことから、頼朝からは、「汝も九郎の如き振舞いは為されぬよう・・・」と言われたとか・・・。

そして、文治3年(1187年)10月29日、義経は、遂に奥州の地で横死します。
義経の悲劇を目の当たりにした範頼は、その後、義経の轍は踏むまいという政治的判断の元、徹底して、兄、頼朝のに徹し、それをまた、頼朝も好感を持って遇しますが、やはり、頼朝の猜疑心からは逃れることは出来ず、義経横死より6年後、遂にそのときは訪れます。
ある日、頼朝の寝所に潜んでいた男が逮捕されるという事件が起こり、男は、尋問の結果、「範頼の命令で潜んでいた」旨を自白。
これにより、範頼は、伊豆修善寺幽閉され、その後、結局、頼朝に兵を向けられ、自害して果てたと伝えられています。

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(↑さすが、伊豆の観光地・伊東の交番ですね(笑)。)

もっとも、範頼の死には諸説有るようですが、それはさておき、ここで頼朝に話を戻しますと、頼朝は、子供の頃、平家が捕らえた自分に憐憫の情をかけて殺さなかったばかりに、自分によって、滅亡の憂き目をみることとなったことから、徹底して、自分に敵対した者の子孫を根絶やしにしています。

明日に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2006-05-10 18:07 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

軍事的能力は銀、政治的能力は金。
親愛なるアッティクスへ

軍事的才能を持つものは政治的才能を持つものはには勝てない運命にある。しかし、純金の才能を持つ者は見受けられても純銀の才能を持つものはきわめてである。しかも、銀メッキはできるが、金メッキはきわめて難しい。」

これ何だかわかります?
じつはこれ、25年ほど前に私が大学ノートにまとめていた論文の一つなのです。

この点で、源平期のスター・源義経はまさに好例と言えるのでしょう。
義経に政治感覚があれば、彼は平家を倒してはいけなかった・・・と。
つまり、兄で上司の源頼朝も、平家の脅威があれば、義経をお払い箱にできなかった・・・ということですね。
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この点は現代政治も同じで、アメリカは日本とドイツを弱くしすぎたから、ソ連という大敵と向き合うことになったわけで、今ではそのソ連を牽制する為に力を与えた国や組織(アルカイダなど)が、アメリカ自身に対する新たな脅威として浮上してきているわけですから、自業自得(むしろ自縄自縛?)と言ってしまえばそれまででしょうが、何とも皮肉な巡り合わせでしょう。
アメリカという国は、何とも目先の敵しか見えない国のようです。

ところで、話を元に戻せば、平清盛に対する一方の主役である後白河法皇の目指した「院政復活による絶対王政堅持」は清盛・頼朝らの「新興勢力武士による革命」とは見事に相容れない思想であり、この点、鎌倉幕府成立から武士の時代が始まったとするのではなく、むしろ、室町時代になって朝廷の力が完全に衰えるまでの300年にも及ぶ武士と貴族という階層間革命権力闘争だったととらえるべきではないでしょうか。
その意味では、武家政権成立は、あるいは厳密な意味での、世界史史上初めての革命だったといえるのかもしれません。
平家一門の没落の真因は、清盛とその嫡男で早世した重盛以外に、この階層間の権力闘争という意味を誰も理解せず、ただ、栄華を誇るだけに安住していたことにあるのではないでしょうか・・・。
その意味では清盛のあとを継ぐべきだった重盛が清盛よりも先に死んだということが惜しまれてなりません。
                               平太独白
by heitaroh | 2005-06-21 17:41 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

アレキサンダー大王の強さの秘密、「時間差攻撃!」
無料でもらえた!昨日のソフトバンクホークスの試合は長かった・・・。
少し早めに入ったこともあって、球場にいたのはトータルすると6時間超ですよ!
前日の二日酔いもあり、くたくたでした。
今日もまだ、体中に鉛を流し込んだようです(泣)。
ちなみに、開幕二試合はこれがもらえました。
新応援グッズです!

ところで、また、先日、仕事さぼって、映画「アレキサンダー」見に行ってきました。
映画自体はちょっと、締まりがない作品でしたが、それを見ていて思ったことがあります。
アレキサンダー大王こと、アレクサンドロスが無敵の強さを誇った秘密。
それこそが、即ち、スピード
ペルシャの大軍を打ち破ったイッソスの戦いに顕著に見られるのですが、それは、中央で自軍の歩兵が敵の大軍を引受け、それが壊滅する前に、騎馬隊の疾走力で敵の主将のみを急襲、撃破するという、言うならば時間差攻撃だったと思います。

何も両軍、皆が一斉に等しく当たる必要はなく、どんな優劣のはっきりしたの戦いの中でも、必ず、勝っている部分と負けている部分が出てくるわけで、味方が壊滅する前に、敵将だけに焦点を絞り、その一点だけを騎馬のスピードで撃破する。
源義経鵯越も本質的には同類だったでしょうか。

その意味で、孫正義が日本から流行らなくなったインベーダーゲームをアメリカに持って行くとき、彼は船便ではなく、航空便で送ったという辺りにも、同義の物を感じます。
                               平太独白
by heitaroh | 2005-03-29 16:18 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(4)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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