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東日本大震災より1年半・・・復興予算 19兆円の是非
親愛なるアッティクスへ

東日本大震災より一年半が経ってしまいましたね。

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e0027240_1631256.jpg実は私、6月に仙台に行ってきたのですが、その際、地元の友人に厄介かけて、一部でしたが、震災より1年3ヶ月が経った被災地の現状も見てきました。
ただ、せっかく復興に突き進んでいる東北に今更、イメージを損なうようなことを言う必要もなかろうと思い、その折は被災地の画像などは一切、アップしなかったのですが・・・。
昨日、今更ながらにNHK スペシャル「シリーズ東日本大震災 追跡 復興予算 19兆円」という番組を見て、気が変わりました。

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(↑この日は、「本当にここから、あの魔物が上がってきたのか」・・・と思わされるくらいに穏やかな海原でした。)

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この番組を見て、すべてがいらない予算だとは言う気はありませんが、少なくとも、一般会計でやるべきだというものはたくさんありましたよね。

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民主党政権自体、元々、「脱官僚」だなんて浮世離れしたことを言ってた人たちなんでしょうが、それでも事業仕分けなんてやってた人たちなんですから、こういう被災地以外で多額の予算が消費されることを見逃していたということ自体、もはや統治能力を無くしてしまっていると言われても仕方ないことのように思います。

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それでも、野田佳彦総理はよくやってると思ってましたが、最近はこの、良識的な人にも民主党の浮世離れが伝染したか・・・としか思えない、「らしからぬ」失策が目立つようになってきましたしね。

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(↑私が今回の訪仙でもっとも印象に残ったのがこれでした。震災から1年以上経って当時のバイクがまだ完全に片付いていない・・・。不謹慎ですが、私にはこれが死体置場に見えましたよ。)

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震災から1年以上が過ぎて仙台市内でさえ、まだこの状態ということを考慮すれば、何をか言わんや・・・・と。
もっとも、昭和の自民党政権だったら族議員の暗躍で結局は同じ事になっただろう・・・と思いますので、この点は、先の大戦前夜、国が滅ぶかもしれないという時に、まだ、予算の獲り合いに狂奔していた陸軍海軍の姿と重なるのかもしれません。
喉元過ぎれば熱さを忘れる・・・なのか、それとも近視眼的な日本人の体質なのか。
いずれにしても、被災地の復興がもっと目に見える形で進むべきだと思いますので、3ヶ月前の現状を報告させていただきました。
                                         平太独白
by heitaroh | 2012-09-14 18:10 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

東日本大震災一年に思う「タイミングの悪さ」の共通点
親愛なるアッティクスへ

e0027240_10175411.jpg東日本大震災から一年が経ちましたね。
あの日のことは直接的な被害という点では無関係と言って良い博多人にも鮮烈な記憶として残っております。
お忘れかもしれませんが、あの日は翌日に迫った九州新幹線全線開業プレイベントの日でして、博多駅前に生まれ育った人間としては翌日の本イベントが講演依頼を戴いていた日と重なっていたことから、断腸の思いでこの歴史的なイベントを見送り、やむなく、前日のプレイベントだけでも行くべく車に乗り込みました。

で、少し早めに帰途についたところ・・・、車のラジオから流れてきたニュースで、初めて今、東日本で起こっている事態を知りました。
さらに帰宅後、あの映像を見たときには、福岡県民でありながら、偏屈さゆえか福岡よりも東北に友人が多い私としてはとてもプレイベントに駆けつける気にはなれず・・・。
まあ、幸いにして私の友人らは皆、無事だったのですが、その後、まさか自分自身が長期にわたって被災地に行くことになるとは夢にも思いませんで、その意味ではあの日のことはその始まりの日として鮮烈に印象に残っております。

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それにしても、今回の東日本大震災もそうですが、どうしてこういう歴史的な大災害というものはここまでタイミングの悪い時に起こるのでしょうか。
安政大地震などは別として、被害の甚大さという点では、やはり、近世以降の三大大地震といえば関東大震災、阪神淡路大震災、そして、今回の東日本大震災・・・となるのでしょうが、阪神淡路大震災の時に政権を担当していたのは政権運営という点では素人と言って良い、社会党政権・・・。
今回の東日本大震災では同じく、素人の弊害を至るところであらわにしている民主党政権・・・。
関東大震災のときは・・・といえば、前日に総理が急死しており、事実上の空白状態での震災勃発だったという・・・。
「どうして?」と言いたくなるような見事なタイミングの悪さ・・・。
天に何らかの意図があったのならば、少々、戯れもすぎるのではないですか・・・と言いたくなるような負の悪さです。

何はともあれ、今はお亡くなりになった方のご冥福といち早い復興を祈念してやみません。
改めて合掌・・・です。

                             平太独白
by heitaroh | 2012-03-12 07:05 | 社会全般 | Trackback(1) | Comments(0)

東日本大震災・北関東派遣見聞録 その17 総括大晦日
親愛なるアッティクスへ

この年末、まったく大掃除をする余裕がありませんでしたので、昨日の夜に、独り、大掃除をやっていたのですが、本日に持ち越したものの、当然、終わるはずもなく・・・。
本日、午前中は散髪に、午後からガソリンスタンドに行き、さあ、大掃除態勢に入ろう・・・と思ったものの、夕刻には博多人毎年恒例の厄八幡こと、若八幡神社へ行かなければならず、大掃除を放棄して、寸暇を縫ってパソコンに向かっております。

e0027240_14282390.jpg今年は私にとっては、東日本震災豪雨災害などの関係で、これまでの50年間の人生で経験したことがなかった貴重な経験をさせて戴きました。
この場を借りて、いち早い復興を祈念申し上げます。

(←出張中、苦楽を共にした「靴」です。今となっては笑い話ですが、行った当初はどういう状況かわからず、余震次第では倒壊する家屋から逃げ出さねばならない時や火災に巻き込まれた時、また、泥濘を何日間も歩かねばならない時などを考え、結局、選んだのがこの安物ビニール靴でした。とはいえ、新品だったのが、帰る頃にはボロボロになりましたからねぇ。よく頑張ってくれました)

e0027240_1433396.jpgで、出張中はずっとホテル暮らしだったのですが、それでも、最後の方はかなり、精神的にきつかったですよ。
よく、壁に向かって、「お帰り」と話しかける・・・などというギャグがありますが、気持ちはよくわかりましたね(笑)。
(←最終的に解放された日の帰途、新幹線の車窓から見た広島スタジアムの光景です。手前の電車なんか、何だかモーゲージみたいにも見えますが、立派な本物です(笑)。やはり、人間にはこういう場がないと・・・とは強く思いましたね。)

で、このシリーズですが、本来は、もう少し、書き残しておくこともあったのですが、ちょうど大晦日でもあり、切りが良いので、ここで完結させておきたいと思います。

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ということで、ちょうど、タイムアップとなりました。
(大掃除は年明けですね(笑)。)

今年は、本当に、心から御礼申し上げたい人に恵まれたことを痛感した一年でした。
私の人生ではこういう年は初めてでしたね。
ということで、どなた様にも大変、お世話になりました。
良いお年をお迎えください。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-12-31 16:09 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

東日本大震災・北関東派遣見聞録 その15 武州岩槻城
親愛なるアッティクスへ

12月となり、このシリーズも、いい加減にけりをつけなければ・・・と思っているのですが、なかなか先が見えてきそうにありません。

で、長きに渡った東日本大震災での建築士派遣ですが、5月下旬に一旦、終息となり、そのまま、栃木県から北上してくれと言われるのか・・・と思いきや、言い渡されたのは北・・・ではなく、南の埼玉県でした。

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(埼玉であてがわれたホテルがこれ・・・(↑)。前日まで、宇都宮で泊まっていたホテルとのあまりの差に、隣室の友人は思わず、「何かあるんじゃないか?」と疑心暗鬼になってました(笑)。)

で、移動して後、せっかく埼玉に来たんなら是非、行っておきたい・・・と思っていたのが、岩槻城鉢形城でした。
言うまでもなく、川越城、玉縄城と合わせ、徳川家の入封以前に関東に覇を唱えていた小田原北条氏の重要拠点ですね。

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で、まず、岩槻城ですが、今では単なる公園(↑)になっており、ここだけを見て、ここにかつて重要な防衛上の拠点があったとは想像することの方が難しかったでしょうか。

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で、とりあえず、周囲にそってしばらく歩くうち、こういう場所(↑)に出ました。

おそらく、堀の跡だろうと思いましたが、やはり、そうで、往時はもっと堀も深く、北条氏特有の「堀障子」と呼ばれる堀の中の障害物も見つかっているのだとか。

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e0027240_1622138.jpgただ、そうは言っても、この程度の堀だけでは北条氏の重要拠点としては少し貧弱すぎるように思っていたのですが、しばらく行って、この看板(←)を見つけ合点が行きました。
ここは今では埋め立てられ、公園の広場になっていますが、かつては沼地で、周囲も川越城同様、腰までどっぷりとはまるような泥濘で、いわば、その中に浮かんだ水上要塞の観があったのでしょう。

ただ、中世の関東の土豪同士の戦いならそれでも良かったのでしょうが、豊臣秀吉の大軍を引き受けて戦うとなると、やはり、役不足の観は免れず、天正18年(1590年)、小田原征伐の折には2千の兵が篭るも、約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して伏落城した・・・と言われています。
土木技術の革新が進んだ上方勢の前にはこの程度の障害は大したものではななかったのではないでしょうか。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-12-08 18:42 | 政治 | Trackback | Comments(0)

タイ大洪水は人災・・・らしい
親愛なるアッティクスへ

大洪水に見舞われているタイでは首都バンコクがいよいよ、大変な事態になりつつあるそうですね、
大潮と満潮が重なり、首都中心部を流れるチャオプラヤ川の堤防の高さを越えるそうで、堤防を人為的に決壊させるなど、厳戒態勢を続けている・・・とか。

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この件で、タイ人の知己に話を聞いたところ、日本の東日本大震災の時もそうでしたが、やはり、テレビではあまり伝えられない話があるみたいですね。
日本の田中角栄ともいうべきタクシン政権時代に「コブラ池」と呼ばれていた巨大な池を埋め立てて国際空港を作ったんだそうですね、
当時、国王は「あそこは調整池だから埋め立ててはならない」と言ったそうですが、タクシンさんがそれを押し切って着工してしまったのだとか。
(空港自体は地盤を高く作ってあるそうで、水没していないんだとか。)

皮肉にも、タクシンさんの妹が首相に就任し、タクシン復権に向けて法整備に動こうとした途端、この洪水だそうで思わず、「コブラの呪いじゃないの?」と・・・。
さらに、知己いわく、「今の洪水は結局、人災ですよ」と。
どういうことかというと、現首相は政治の経験が大幅に不足しているそうで、的確な対策が打ち出せなかったことが被害を拡大させたのだとか。
なるほど、それって、我々日本人にはよくわかるんじゃないですか。
まったく、東日本大震災で的確な政策を打ち出せないでいる、どこかの民主党政権と一緒じゃないですか。
                             平太独白
by heitaroh | 2011-10-29 07:24 | 国際問題 | Trackback | Comments(2)

東日本大震災・北関東派遣見聞録 その13 川越城
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

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e0027240_1528546.jpg川越の街並みを抜け、主目的地である河越夜戦における激戦地と伝えられる東明寺へ向かおうとしたところ・・・、例によって方向音痴を発揮してしまい、道を間違って寺の先に出てしまいました。
で、そこにあったのがこれ(←)。
一目見て、ピンときましたね。
もし、本当にこの付近で激戦が繰り広げられたのなら、ここを外して戦うはずがない・・・と。
で、傍らを見ると、川越のメインストリートに繋がる街道と思しき通りがあり、東明寺橋と書いてある・・・。

e0027240_15391052.jpgおそらく、関東管領方は、この橋を渡り、この街道から一気に侵入しようとし、城側は橋を落とし、敵の侵入を阻もうとこの堀を頼んで戦ったのだろう・・・と。
(こんな小さな小川・・・と思われるかもしれませんが、おそらく、当時、橋は落としてあったでしょうし、堀ももっと幅広く水量も豊富だったのではないかと・・・。)
ところが、そうなると、どうにも疑問に思えてきたことが一つ・・・。
ここから、現在の川越城までの距離が遠すぎる・・・、つまり、城域が広すぎるんですよ。

e0027240_15475146.jpg(←現在の川越のシンボルタワー的存在の「時の鐘」です。)
確か、当時、この川越城ならぬ河越城に籠っていたのは、北条氏康の義弟で猛将として知られた北条綱成に率いられた兵3,000だったと言われていますから、その程度の兵力で守るには広すぎるんですよ。

(ちなみに、攻城側の兵力は80,000、援軍に駆け付けた北条本軍の兵力は8,000だったと・・・。まあ、北条方はともかく、関東管領方は相当に誇張された数字でしょうけどね。)

などと思いながら、ここを過ぎ、途中から左に折れ、現在の川越城方面に向かったところ、そこには江戸時代の堀が復元(↓)されていました。
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まあ、本丸に迫った敵を防ぐための物でしょうが、それにしてもどうにも位置関係がわからない・・・。
そこで、城の前にある博物館に入ったのですが、ここでも河越夜戦における資料はほんのわずかしかなく、やむなく、研究員の人と思しき人を掴まえて聞いたところ・・・、まず、私が激戦地だと思った東明寺橋はそれでやはり当っていたのですが、ただ、当時の河越城というのはものすごく小さく、今の本丸部分くらいしかなかったんだそうで、つまり、私が城方が防衛したと思っていた東明寺橋の堀は外から攻めてきたのが救援に来た北条氏康の軍で、中に居たのが河越城を攻めていた関東管領方の将兵だったわけです。
つまり、攻守逆転していたわけで・・・、ま、当ったといえば当った・・・と言っていいんでしょうか(笑)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-10-27 18:04 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

東日本大震災・北関東派遣見聞録 その12 川越夜戦跡
親愛なるアッティクスへ

東日本大震災派遣建築士として栃木県へ来て少し経った頃になると、休日は県内は一通り行きつくしてしまいましたので、隣県まで足を延ばそうと思い立ちました。
で、良い機会だから、以前から殆ど行ったことがないに等しかった埼玉県に行こうと考え、であれば、私にはぜひ、一度行ってみたかった所がありました。
それが川越です。

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川越と言えば、「蔵の町」として知られる埼玉では有数の観光地でしょうが、私が行きたかったのはそこではなく、日本三大奇襲戦の一つに数えられる「河越夜戦」(かわごえよいくさ)の戦跡でした。

e0027240_17463749.jpg天文14年(1545年)、小田原北条氏三代目・北条氏康が家督を継いだ混乱につけ込み、隣国・駿河の今川義元がその同盟者である武田信玄を誘って駿河の北条領に侵攻。
これを迎撃すべく出陣した北条勢の背後で今川と示し合わせた関東管領山内上杉家扇谷上杉家、それに北条の娘を娶っていた古河公方足利晴氏までもが挙兵、数倍と言われる大軍で北条方の河越城を囲んだ・・・と。
(←川越城は台地の上にあります。)

これにより、北条方は腹背に敵を受け、絶体絶命のピンチに陥いるも、ここから氏康は急転直下、今川、武田と三国同盟を結ぶと一気に反転して河越へ駆けつけ、敵の大軍に夜襲をかけてこれを撃破。
北条が関東に覇を唱えるきっかけとなった・・・と言われている戦いです。

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(↑たぶん、この辺が激戦地だと思います。)

ところが、これほどの戦いでありながら、この戦いについては殆ど良質の資料が残されてないんだそうで、そのため、この戦いは後世の創作であるという人もいるという話もあり、それもあって、ぜひ、自分の目で現地を見てみたい・・・と思った次第でした。

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で、電車を乗り継いで宇都宮から川越まで行ったのですが、駅を下りてから結構、遠そうでしたけど、バスの乗り方もわからなかったので、目的地である「激戦地」と伝えられる東明寺を目指して歩くことにしたのですが、さすがに、蔵が目に飛び込んできたときにはその赴きある姿に、思わず、「おお!」っと思いましたね。

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こういう風情がある所と、そういう血生臭い戦いとはなかなか結びつかないのですが、川越に限らず、江戸時代に城下町はどこも少なからず変えられてますから、やむを得ないものがあるのかもしれませんね。

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ということで、明日に続きます。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-10-26 17:48 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

東日本大震災・北関東派遣見聞録 その11 真岡陣屋跡
親愛なるアッティクスへ

東日本大震災栃木県へ行ってまだ、それほど日が経っていなかった頃のある日、真岡市という所へ行くことがありました。
(真岡・・・って、まさおかでもまおかでもなく、「もうか」って読むんですけど、九州人にはなかなか読めない地名ですね。)
で、この日は午前中からバタバタだったこともあり、少し休憩しようということになったのですが、であれば、せっかく休憩するならマニアとしては「城に行きたい!行かせてくれ!」と同行の方に三拝九拝お願いして、むりやり探し出した城に行ったのが、ここ、真岡城です。

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ところが、よくある話なのですが、城というのは往々にして公共施設の用地になっていることが多く、真岡城も看板だけで、しっかり、高校の敷地になっておりました。
で、諦めて帰ろうかとしたら、向かいにもそれっぽい敷地があるのに気づき、せっかくなら・・・と入っていったところ、まず、目に飛び込んできたのが、これ・・・(↓)。

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「ん?何か変だな・・・」と違和感を感じたのもそのはず、本来、何らかの乗っているであろうはずの物が乗ってないじゃないですか。
その答えは、これ(↓)。

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こんな所にもしっかりと震災の被害は及んでいたんですね。
石垣も一部、崩壊したようで、端っこの方はこういう状態(↓)でした。

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で、立ち去ろうとして、ふと振り返ると、ここにも何かの看板(↓)が・・・。

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どうせ、真岡城の看板と同様のことが書いてあるんだろうと思ったら、そうじゃなくて、真岡城が廃城になった後の江戸時代、ここは代官が派遣されて陣屋として機能していたんですね。

委細はこの看板の通りなんでしょうが、読み終えて、今度は看板の横に付け加えられている表示板に目が留まりました。
この陣屋は、あの、金次郎こと二宮尊徳にゆかりがある場所で、彼がここに居たことを顕彰する石碑の説明書きだったんですね。
で、ふと、足元を見ると、これ(↓)ありました。

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戦前の物でしょうが、震災の傷痕がこんな所にも及んでいることに改めて愕然としました・・・。
と、まあ、震災そのものから見れば、それだけのことではあるのですがどういうわけか、私にとっては、今、改めて見てみて、他の画像などよりもなぜかとても新鮮で、懐かしい気がするひと時の画像でして・・・。
敢えて、UPさせて戴きました。よしなに。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-10-22 07:45 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

東日本大震災・北関東派遣見聞録 その10 小山評定
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東日本大震災応援建築士として栃木県に行った当初は、とにかく、何もかもが混乱を極めており、派遣の期間・・・どころか、勤務地もはっきりしておりませんで、「あるいは何日かしたら別の場所へ行ってもらうことも有り得る」という風に聞かされておりました。
となれば、栃木にもいつまで居るかもわからず、せっかく来たんだから、やはり日光東照宮は行っておかないと・・・ということで休日初日は日光東照宮へ行き、次の休日は足利家の本貫である足利市へ行った次第でしたが、栃木県と言えば、マニアにとってはもう一つどうしても足を運んでおきたい「聖地」がありました。
それが、小山評定で知られる小山市です。

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居る間に何とかしてここまでは行きたいなぁ・・・と思っていたら、しばらく経った頃、たまたま、小山の案件が巡ってきました。
私は、内心、欣喜雀躍勇気百倍、何としてもこの時に行っておかねば・・・と思い、わずかな空いた時間を利用して行ったのですが・・・。

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(↑現地はちょうど、おあつらえ向きに空き地となっておりました。正面がJR小山駅方向、背後が小山市役所です。)
小山評定とは関ヶ原戦い前夜。この地にあった徳川家康が上方で決起した石田三成を討伐すべく会議を開き、結果、諸大名を糾合することに成功した件のことですが、どうやら、一番上の画像の説明書きにあるように、野営地に急造の「三間四方の仮御殿」を建てて行ったものだったようで、はっきりと「ここだ!」とはわからないようですね。

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私としては、せっかくここまで来て「どっかこの辺」では少しがっかりしたのですが、それでも、評定の地はおおよそ、現在の市役所の敷地辺りと推定されているようでしたのでそれを信じるとして・・・、私にはこの地に立って、どうにも腑に落ちないことがありました。
それすなわち、家康がなぜ、傍らにある小山城(別名:祇園城)に入らずに城外に野営したか・・・ということです。

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この辺は、以前、平太郎独白録 : 今日は茨城県まで行って来ました。でも触れておりますが、確かに、小山城はこの当時、この年表(↑)にもあるように豊臣秀吉小田原征伐で落城し、ちょうど、廃城となっていた時期に当たります。
しかし、それでも、空堀の跡や土塁(↓)などは少し手入れをすれば使えたと思え、少なくとも、何もない平坦な野営地よりはマシだったと思います。

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(↓傍らに流れる川側からの侵入に備えた土塁です。堤防も兼ねていたのでしょうか。)
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事実、江戸時代に入ると、先ほどの年表とその横の図面にもあるように、徳川将軍家日光参内の折の御殿もしっかり、野営地と目と鼻の先の城内こ設けられており・・・。

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家康としてはここは単なる通過地点であり、泊まるとしてもたかだか一泊程度のことであり、それにわざわざ修復工事で兵士を疲れさせることはない・・・ということだったのかもしれませんが、どうせ同じ仮御殿を建てるのなら、平地よりもいささかでも高低差がある所の方が・・・と。
この点、あの、用心深い家康にしては何とも違和感を感じるところではあります。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-10-21 17:57 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

東日本大震災・北関東派遣見聞録 その9 雷電神社
親愛なるアッティクスへ

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」

これは伊藤博文がその死の一ヶ月ほど前に高杉晋作の顕彰碑への依頼に応じ揮毫した碑文の一節ですが、「動けば雷電の如し」とは、高杉という人の生涯を一言でいう上では、何とも言い得て妙であると、まだ高校生の頃、司馬遼太郎さんの「世に棲む日々」を読んだ直後に私も強く思った記憶があります。

e0027240_16225586.jpgで、なぜ、こんなことを言うかといいますと、先般、東日本大震災応援建築士として栃木県に滞在していた頃、たまたま、宇都宮市内で雷電神社(←)なる物があることを知り、雷電と言えば、江戸中期の伝説の力士・雷電為右衛門が真っ先に頭に浮かびましたので、その雷電の強さにあやかろうと出来た神社なのかな・・・と思い、行ってみたことがあったからです。
以前、映画「雷電」を見た記憶があるのですが、確か、浅間山が出てきてたから、この辺の人なんだよな・・・と。

(ちなみに、この映画は昭和34年宇津井 健さん・・・でした。役者さんも痩せるのは出来るけど、やはり、太るのは難しいよな・・・と思った記憶が(笑)。)

e0027240_1639510.jpgであれば、きっと、相撲取りに因む神社にありがちな巨大な手形なんかあったりして・・・と思い、タクシーの運転手さんに聞いてみたら、「雷電・・・ですか?その場所に神社があるのはありますが、大した物じゃないですよ」という返事・・・。

(←ここにも、しっかり震災の被害が・・・。)
どうせ、通り道だし、約束の時間まで時間をつぶすにはちょうど良かったこともあり、行ってみたところ・・・、歴史はありそうだけどどこかうら寂しい何とも中途半端な神社が・・・。

e0027240_1734697.jpgこの神社、大きいわけでもないのですが、かといって、小さいわけでもない・・・、場所も、街の真ん中・・・というわけでもないのですが、かといって、郊外の山林の中でもない・・・、栄えているわけでもないけど、寂れきっているというわけでもない・・・という、実に、微妙な神社でして・・・(汗!)

で、とりあえず、あの力士・雷電とは関係ないようなので、なんで「雷電」なんだ・・・と。
ここの地名が雷電なのか???と思っていたら、そうではなく、本物の雷なんですね。

どういうことかというと、北関東の群馬や栃木というのは昔から雷が多い所のようで、従って、この「落雷」という災難を避けるための祈願所として設けられた物だった・・・というわけです。
それに、雷電為右衛門も、浅間山を挟んだ反対側、信濃国(長野県)の人でしたね・・・(笑)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2011-10-20 17:55 | 地域 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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