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危うく忘れるところだった祝12周年!
気がつけば3月も後半。
「何か書かなきゃなあ」と思っていたのですが、特に書くこともなくそのままになっていたところ、ふと、「あ!12周年だ!」と。
もう、12年も経ったら、完全に忘れてしまってました。
(12年の星霜は短いようで長い。人間の経年劣化も激しく。思い出すたびに忘れ・・・(笑)。)

ということで・・・、相変わらず貧乏暇なしで、色々と世間の雑事に追われておりますが、祝!12周年~!となりました。

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(↑初回からずっと、周年は「道」をテーマにした画像をUPしてきましたが、今回は少し趣向を変えて、「海に残った道」ということで。)

で、12年ですが、先述したとおり、12年というのは短いようで長い歳月ですねえ。

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(↑過日、長崎県でたまたま通りがかったホテル。周囲の風景には似合わないほど、明らかに目立ってましたので、ちょっとお茶してきました。設計は・・・、案の定、隈研吾でした。)

42歳の本田宗一郎が38歳の盟友・藤沢武夫と初めて会った時、「あたしも若かったけど、うちの副社長(藤沢)も若かったねえ」と言ったといいますが、当時、私はまだ20代。
「42歳と38歳の何が若いんだ。おっさんじゃねーか」と思いましたが、今、改めて振り返ってみて、40代が如何に若かったか・・・ということを痛感しますね。

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(と思ったけど、やっぱり、道シリーズが途切れるのも心苦しいので形だけ(笑)。)

最近では、「私たちはスマホと大人になっていく初めての世代だ」などというCMがありますが、スマホなんてあっという間に過去の遺物になりますよ。
iモードが死語になったように。

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(やっぱ、周年の割には華やかさが足りないなと。)

とりあえず、13周年・・・があるのか無いのかわかりませんが、ぼちぼち、頑張りませうご同輩。
                     平太独白
by heitaroh | 2017-03-21 17:57 | その他 | Trackback | Comments(0)

昭和41年の三鬼陽之助著「HONDA商法」読了 その3
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

これまでもたびたび、述べてきたことですが、本田技研という会社は、本田宗一郎、藤沢武夫という二人のカリスマ創業者によって発展してきた・・・と言われており、さらに、今日では本田宗一郎の名前しか残っていないような嫌いがありますが、本田宗一郎という人は技術担当重役というべきで、むしろ、事実上の創業者という意味では藤沢武夫だろうと思っています。

e0027240_154567.jpg本田という人は社長として、そのユニークな言動と相まって、マスコミ受けした人なのでしょうが、すべてを演出、脚本していたのは藤沢であり、おそらく、藤沢が敷いた線路の上を本田はそ知らぬふりで滑るように走っていった・・・というところではなかったでしょうか。
(←「徒桜
  陰の緑の
  鮮やかさ」
   梁庵平太


この点で、まず、その1でも申し上げました本田宗一郎の「絶対に人まねはしない」という独創精神伝説について、興味深い記事が載っていました。

ホンダが昭和33年に発売し、未だに売れ続けているドル箱商品である「スーパーカブ号」は、藤沢が提案し、渋る本田を説き伏せて、他社に先駆けて世に送り出した独創的な商品・・・と聞いておりましたが、同書によると、これが売れたのは「片手で運転でき、下駄代わりになるという性能にもあったが、あくまでも低価格にあった」のだそうで、「このセールスポイントを強調した需要開拓に、副社長の藤沢武夫は、先頭に立って指揮」、「凄まじい需要開拓作戦」の前に、「すでに、スーパーカブよりもさきに発売されていた昌和製作所(倒産)の東昌エコー五〇CCは販売網の未整備をつかれて、緒戦で敗れ去った」・・・とか。

つまり、この商品以前に同様の商品がなかったわけではなく、そこには他社の商品と販売網の長短狡猾なまでに見据えていた一羽の梟がいた・・・というわけですね。
おそらく、その梟は、相手の販売網の整備の遅れに目をつけ、相手がこれを整備する前にこれを市場から駆追する必要を感じ、その為には同等品でより値段が安い物を供給する必要がある・・・と踏み、それを技術担当の相方に示唆という形で指示した・・・と。

二人の現役時代、「技術の本田、営業の藤沢」と呼ばれ、それぞれに、自らの分野に口を挟ませなかったことを評して、「ワンマンならぬツーマン」などと言われたと聞いていますが、その意味では、本田宗一郎その人も技術開発と広報、何より、TOPとしての確固たる思想という点で名創業者であったでしょうが、私が、藤沢武夫こそ、ホンダの事実上の創業者と評する点はここにあるわけです。
おそらく、三鬼陽之助翁も松下幸之助氏も本田宗一郎のカリスマ性よりも、藤沢武夫の経営手腕をこそ買っていたのではないでしょうか。
同書では、他にも多々、考えさせられることがあったのですが、まずは一旦、このシリーズはこれにて筆を置かせて戴きたいと思います。                                         平太独白
by heitaroh | 2012-04-09 17:50 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)

昭和41年の三鬼陽之助著「HONDA商法」読了 その1
親愛なるアッティクスへ

少し前になるのですが、「HONDA商法―企業における”情無用”の研究」という本を読み終えておりました。
(本当はもう少し早めに触れようと思っていたのですが、とにかく、ここ数か月は多忙でして・・・。)
この本が、他のホンダ本と違う所は、発行日が昭和41年7月1日・・・、私が満5歳の時の物だということで、(当時の価格「300円」・・・。)すなわち、最近では子供向けの伝記になるなど、すっかり、神様になってしまった観がある本田宗一郎氏と、今や、氏の陰に隠れてすっかり、伝説の人になってしまった感がある藤沢武夫の両創業者が、まだ神様や伝説になる前の、バリバリの現役時代に書かれた物である・・・ということです。

著者は、拙稿でもたびたび採りあげております昭和の老財界記者・三鬼陽之助で、私はこれまで、「ホンダ」と名の付く本はある程度、読破していたつもりだったのですが、実は同世代本田・藤沢コンビの現役時代について書かれた本は殆どありませんで、その点では、世界恐慌以来、多くの財界の変転を見てきた三鬼翁がどういう切り口で描いているのか、他の本と違い、大いに興味がある所でした。
まずもって、最初に違和感と言うか、どうにも驚いたのが、その数字の大きさでした。
昭和41年と言えば、まだ、オイルショックの前で物価は現在とは一桁は違っていたはずですが、それが、数百億円なんて数字がポンポン出てきて、まるで、現在の経済誌を読んでいるような錯覚に陥るんですよ。
(私の記憶では、当時は確か、ハガキが1枚4円、封筒が7円だったと・・・。)

で、内容ですが、まず、読み始めてすぐに、私が抱いた感想は「失望」でした。
というのも、現在でも発行されているホンダ本と大差ない内容ばかりでして・・・。
それが、雲行きが変わってきたのは半ばを過ぎた辺りから・・・で、まず、「おや?」と思ったのが、ホンダとソニー・・・というよりも、本田、藤沢の井深 大、盛田昭夫との経営方針についての比較した部分でした。
「ソニーは技術開発でも、まったく新しい商品を考案する。」が、「本田技研は、ソニーとまったく逆である。オートバイは、戦前からの製品であるし、新しい車種にしたところで、かならず弱小他社が本田技研の先兵をつとめている。」・・・とした上で、具体的に事例をいくつもあげておられました。
この瞬間、私は、「あ、三鬼翁、今、笑顔の裏で匕首(あいくち)を抜いたな・・・」と感じましたよ。

これまで、私が聞いていたのは、本田宗一郎という人はF-1で、「部品が自前でないからダメ」と言って、空輸をストップさせた・・・などという話を聞いてましたので、とにかく、人まねが嫌い・・・、自ら、創造した物のみを世に送り出してきた・・・と思っていたのですが、これも、都市伝説にすぎなかったんですね。
「本田は石橋を何度もたたき、先輩・同輩会社の成功、不成功を凝視、これならぜったいだいじょうぶと思うや、一瀉千里の勢いで突撃するのである。」とも言っておられましたが、この辺は、本田・・・というよりも、むしろ、藤沢翁の手腕だったのでしょうが・・・。

次回へ続きます。
                                         平太独白
by heitaroh | 2012-04-06 18:35 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)

高校野球の女子マネージャーが読むもしドラッカー その7
親愛なるアッティクスへ

先日からの続きです。

ドラッカーは言います。
「トップマネジメントがチームとして機能するには、いくつかの厳しい条件を満たさなければならない。チームは単純ではない。仲のよさだけではうまく機能しない。人間関係に関わりなく、トップマネジメント・チームは機能しなければならない」と。

その上で、それを実行するための標として、
「①トップマネジメントのメンバーは、それぞれの担当分野において最終的な決定権を持たなければならない。
②トップマネジメントのメンバーは、自らの担当以外の分野について意思決定を行ってはならない。ただちに担当のメンバーに回さなければならない。
③トップマネジメントのメンバーは、仲良くする必要はない。尊敬し合う必要もない。ただし、攻撃し合ってはならない。会議室の外で、互いのことをとやかく言ったり、批判したり、けなしたりしてはならない。ほめあうことさえしないほうがよい。
④トップマネジメントは委員会ではない。チームである。チームにはキャプテンがいる。キャプテンは、ボスではなくリーダーである。キャプテンの役割の重さは多様である」・・・という4法則を呈示しており、主人公の少女は、これに従って、他のメンバーが担当することについてはその意思決定に口を挟まないようにし、その結果、少女は、自分の負担を減らすことができ、担当分野に専念することもできた・・・と。

この辺は、参謀制度などにも通じる物があるように思いますが、特に、このうち、③などは、ドイツ帝国創業の三傑・モルトケ、ローン、ビスマルクを思い浮かべますね。
お互いに、認めてはいたものの、決して、仲は良くなかったという。
また、その点では、本田宗一郎、藤沢武夫のコンビも然り。
二人は、それぞれの領域に対してはお互いに口を挟まなかったものの、在任中は、殆ど、口をきくこともなかったと言われており、従って、マスコミは「ホンダはいずれ、藤沢に乗っ取られる」とか「いずれ藤沢はホンダを飛び出す」などということを盛んに言いたてたと言われています。
まあ、要は、そこには一定の緊張感が必要・・・ということなのでしょうが。
でも、これって、今日で言われるところの「事業部制」ですよね。
であれば、あのパナソニック松下幸之助以来、金科玉条にしてきた事業部制を廃止したわけですから、今はその弊害の方が目立ち始めたんじゃないんですか。

私も、昔居た会社で経験があるのですが、権限委譲は良いのですが、事業部の壁をあまりにもはっきりしすぎると、とかく、セクショナリズムがはびこりやすくなるもののようで・・・。
会社の存亡に関わるほどの大きな損害になることがわかっていても、「隣のことに口を出す必要はない」、「うちは、うちのことだけ、やっておけば良いんだ」・・・などとなるのはまだ良い方で、酷いときには、「あそこの成績になるようなことに手を貸すな」、「うちの部門だけが業績低迷というのは避けなければならない」などということも・・・。
要は、それらを統御するキャプテンの腕次第ということなのでしょうが、でも、それって、キャプテンも含め、事業部のTOPに「人を得ている」うちはともかく、「組織論」としては、少し無責任な話であるような気がするんですけどね。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-04-13 08:28 | 経済・マネジメント | Trackback(1) | Comments(6)

高校野球の女子マネージャーが読むもしドラッカー その3
親愛なるアッティクスへ

先週よりの続きです。

次に私の興味を惹いたのが「専門家」についての部分でした。
この物語では、野球部マネージャーである少女マネジメントに目覚めて、甲子園に向けて奮闘するわけですが、ただ、そうなると問題になるのが、本来、マネジメントをする役割である「監督」の立場です。
もし、監督がばっちりマネジメントをやっているのなら、この少女の出番はなくなるわけだし、かと言って、能力も、少女に奮闘させる雅量もない人物であれば、これまた、物語は成り立たないわけで・・・。
で、この物語では、監督を「マネージャー」ではなく、「技術屋」として描いており、この辺の作者の設定の巧みさには思わず、感心しましたね。
(この部分を、ドラッカーは「専門家」という言葉で顕し、私は常々、「技術屋」と表しておりました。)

曰く、「 専門家にはマネジャーが必要である。自らの知識と能力を全体の成果に結びつけることこそ、専門家にとって最大の問題である。専門家にとってはコミュニケーションが問題である。自らのアウトプットが他の者のインプットにならないかぎり、成果はあがらない。専門家のアウトプットとは知識であり情報である。彼ら専門家のアウトプットを使うべき者が、彼らの言おうとしていること、行おうとしていることを理解しなければならない。
 専門家は専門用語を使いがちである。専門用語なしでは話せない。ところが、彼らは理解してもらってこそ初めて有効な存在となる。彼らは自らの顧客たる組織内の同僚が必要とするものを供給しなければならない。
 このことを専門家に認識させることがマネジャーの仕事である。組織の目標を専門家の用語に翻訳してやり、逆に専門家のアウトプットをその顧客の言葉に翻訳してやることもマネジャーの仕事である」

物語での監督は、この指摘通りに、知識に関しては並外れたものを持ちながら、自らの意図を人に周知させる説明能力、部員の欲求をくみ取るコミュニケーション能力に、決定的に欠けている典型的技術屋として描かれており、その欠けた部分をマネージャーである少女が補うことで、物語は進み始める・・・と。
(おそらく、この部分の設定こそが作者がもっとも苦心した部分ではないかと。)
ただ、一方で、この部分では私的には未だに理解しきれていないものを感じています。

私が、ここまで読み終えた時点で感じたのは、「監督をやっているからと言ってその人が監督であるとは限らない。社長が社長の名札を付けているからと言って社長であるとは限らない」ということでした。
つまり、その人は適任だから、そのポジションにいるとは必ずしも限らないし、そのポジションにいる者が、そのポジションに相応しい役割を果たしているとも限らない・・・と。
そして、その意味での好例こそが本田技研工業の創業当初の体制でしょう。
ホンダの社長は本田宗一郎でも、実際に「経営」の職を担っていたのは藤沢武夫副社長であり、事実、当時のホンダの手形は「代表取締役副社長 藤沢武夫」の名前で振り出されていたことを考えれば、経営者=社長という観点から見る限りでは実態は「藤沢社長」に「本田(技術担当)副社長」・・・だったと思うんです。

次回に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-04-05 15:33 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)

敬愛する藤沢武夫翁にそれでも敢えて呈する疑問
親愛なるアッティクスへ

昨年、平太郎独白録 : 続・ホンダの広告塔としての「本田宗一郎」の功罪是非 の中で、佐藤正明著「ホンダ神話~教祖のなき後で~」という本を読んだということを申し上げましたが覚えておられますでしょうか。
で、この本を読んで、改めて、私が企業人として敬愛してやまぬ藤沢武夫という人の、私なんぞ、もう、到底、追いつけそうもない手腕を見せつけらたのですが、即ち、藤沢さんが現役時代の、ホンダの手形小切手はすべて、「代表取締役 藤沢武夫」の名前で降り出されていたということや、鈴鹿サーキットは当初、藤沢翁個人の邸宅を抵当に入れて作られたこと・・・などはもとより、中でも特に、改めて思い知らされたのが、その資金調達並びに、その返済手腕についてでした。

本田・藤沢両氏が共同経営を始めた直後、「無」から始めたホンダには潤沢手元資金があるわけでもなかったことから、藤沢さんは随分と資金繰りに苦労されたようですね。
(この点では、ホンダの創業神話を語る上で、よく、引き合いに出されるソニーは、何だかんだ言っても、「銭形平次」のヒットで人気作家だった野村胡堂や、実業家だった盛田昭夫の実父などからの資金援助や、さらには、井深 大岳父であった文部大臣経験者・前田多聞の信用・・・と言った有形無形のバックアップがあったわけで・・・。)

そのことは、「あのとき、藤沢さんは泥棒と詐欺以外のことは全部やったんじゃないかな」という往事を知る人の言葉が、すべてを言い表しているように思いますが、ただ、企業人として敬愛してやまぬその藤沢さんに対し、私が敢えて、疑問に思わぬことがないでもありません。
藤沢翁は、現役時代、「ホンダが技術を売る会社である以上、ホンダの社長は技術畑から出るべきだ」ということを言っていたそうで、実際、ホンダの社長は、初代の本田宗一郎氏から現職の社長に至るまで、歴代の社長は全て、技術畑上がりなのだそうですが、しかし、私的には、これはおかしいと思っています。

かつて、本田・藤沢両人とも、「身内は入社させない」方針を貫き、そのことを不文律とするが為に、本田宗一郎氏は、創業当初から苦楽を共にしてきた実弟の弁二郎氏を辞めさせ、長男・博俊は別途に「無限」を創業させねばならなかったのでしょうが、これらは、それもこれも、ひとえに、ホンダは、「努力次第で誰にも社長になれるチャンスがある」ということではなかったでしょうか?
また、本田宗一郎氏は、「ホンダの社長に社内で適任者が居ないときは、日本中から呼んでこい。日本に適任者がいないときは、外国から探してこい」とさえ言っていたともいいます。
これなども、多分に、たとえ話だとしても、少なくとも、「中途採用」「生え抜き」などということには、何ら、こだわらなくて良いということであり、事実そうだったと聞いております。
であれば、技術畑出身者だけが社長になれて、それ以外の人たちは、最初から、いくら頑張っても社長にはなれないというのは、たとえ、不文律であるにしても、如何なものかと・・・。

つまり、「俺たちは、いくら努力しても、実績を上げても、社長にはなれない」と決まっているというのは、本田・藤沢の思想とは、ちと、違うような気がするのです。
少なくとも、門戸は開放されていないといけないと。
これじゃあ、まるで、初級公務員試験に合格して地方公務員になった者は、永遠に初級待遇のまま・・・というのと似ているような気がしますが、如何でしょうか・・・。

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by heitaroh | 2008-01-21 00:14 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(8)

続・ホンダの広告塔としての「本田宗一郎」の功罪是非 
親愛なるアッティクスへ

先日、書いた平太郎独白録 : ホンダの広告塔としての「本田宗一郎」の功罪是非という記事の中で、「ホンダの社員が本田宗一郎の名前を安易にセールスポイントとして使うことには違和感が残る」という内容のことを申し上げましたが覚えておられますでしょうか?
で、それから間もなく、私は佐藤正明著「ホンダ神話~教祖のなき後で~」という割と分厚い本の中で思わず、「ほぅ」と思った部分がありました。

まず、何度も申し上げておりますように、ホンダという会社は、ソニーが井深 大・盛田昭夫コンビで成長してきたように、本田宗一郎藤沢武夫という極めて強い個性を持った二人の分業経営により発展してきた会社だということがあります。
昭和29年(1949年)8月、藤沢さんが、初めて、盟友・本多宗一郎さんと、一緒にやっていくことを決めた日、帰宅して、夫人に、そのことを告げたところ、「あなたのような我が強い人が、人様とやっていけるわけがないでしょう」と言われたとか。)
主に、技術・広報を本田さんが担い、営業・経理を藤沢さんが担っていたと。

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そのことは、本田さんをして、「おいら、会社の実印が丸いのか四角いのか見たこともねえ」と言わしめ、その一方で、ホンダの発行する小切手手形は引退する前日まで「株式会社本田技研工業 代表取締役 藤沢武夫」の名前で切られていたということが、その辺のことを如実に物語っているでしょうか。
この本でも、そのことは、「世間では二人の関係を宗一郎を主役、藤沢を番頭役や補佐役と位置づける人が多いが、それは明らかに間違いだ。ホンダの社長は宗一郎だが、実際の経営を担ってきたのは藤沢だった」という言葉で触れています。

で、この本に載っていた「ほぅ」の部分ですが、それは、その藤沢さんの晩年の言葉として紹介されていた物でした。
曰く、「あんた(本田宗一郎)は〝ホンダ教の教祖〟の役をあたしが思った以上に、見事に演じてくれた。あれは社外向けのイメージなのに、いつのまにか偶像化され、社内でもそれが本物の宗一郎だと信じるバカ者どもが出てきた。企業としてこれはヤバイ。虚像が独り歩きすれば、ホンダの経営基盤が揺らぐ。あたしの最後の仕事は、目の黒いうちにおまえさんを教祖の座から下ろし、等身大の姿に戻してやることだった。しかし虚像が風船のように膨らんでしまってはとうてい無理だ。パンパンに膨らんだ風船に針を刺せば、無用の混乱を引き起こす。問題はあんたがこの世からいなくなった時だ。やはりホンダといえども、万物流転の掟に逆らえないのではないか」というものでした。

これぞ、まさしく、前章で、私がうまく言い表せなかったホンダに感じた違和感そのものを、極めて、端的に言い表した物で、思わず、「ほぅ」という言葉が口を衝いて出た次第でした。
さすがに、常より私が畏敬の念を込めてやまぬ藤沢武夫という人は、当事者だけに、在任当時から、しっかり、このことの弊害を認識されていたんですね。
                           平太独白
by heitaroh | 2007-12-06 08:49 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(2)

ホンダの広告塔としての「本田宗一郎」の功罪是非
親愛なるアッティクスへ

以前、平成元年頃に、ホンダの方と話したときに、「本田宗一郎さんが引退して、全国のホンダ販売店を廻ったときに、うちにも来られましたよ」という話を聞いたことがあります。
(ちなみに、このとき、この販売店では、全員整列・・・と言われて並んでいると、一人、若い社員がトイレに行っていたようで、慌てて、駆け込んできて列に並ぼうとしたところ、本田さんがその若い社員の頭を軽く一発、ペシっと叩いて「こらっ」と言って大笑いしたとか。いかにも、本田さんらしいエピソードですが、この、叩かれた人は、今や、「あの本田宗一郎に頭をはたかれたやつ」なわけですから、ある意味、人間国宝みたいなものでしょう(笑)。)
で、先日、ホンダの営業の方と一献やる機会があった折に、「会ったことあるの?」と尋ねてみたところ、「いえいえ、まったくありませんよ」との答え。
なるほど、言われてみれば、本田さんが引退してからすでに、35年以上が経っているわけで、ホンダの社員といえども、会ったことがあるのは、まあ、私より上の世代の人たちだよなと。

で、まあ、会ったことはなくても・・・と思い直して、企業人として私が敬愛する、本田宗一郎の盟友にして共同創業者であった副社長・藤沢武夫についても、この営業の人に聞いてみました。
すると、「藤沢?それ、誰?」という答え・・・。
説明しても、やはり、「まったく知りません」と。
そういえば、藤沢さんが亡くなったとき、ホンダの広報が「藤沢武夫が亡くなりました」とマスコミ各社に連絡したところ、どこのマスコミも、皆、「藤沢?誰?」という反応だったといいますが、一方の本田氏が今では伝記にすらなっていることを考えれば、私としては少々、感慨深い物がありました。
(つまり、当時、本田・藤沢コンビはソニーにおける井深 大・盛田昭夫のコンビと並び称されたそうですが、盛田昭夫は社長になったから有名で藤沢武夫は社長にならなかったからその名が埋没している・・・ということですね。)

そういえば、いつだったか、やはり、別のホンダのディーラーに行ったところ、その営業マンがやたら本田宗一郎の名前を連呼するのを聞いて、少し、違和感を覚えたことがあります。
で、知らないふりして、「え?本田って、まだ、生きてるの?」と言ったところ、「いえ、死んでますけどね」・・・と。
「だったら関係ないだろう」
「いえ、理念は生きてますから」と。
「その理念が生きているかどうかは本人はどうやって確認するんだ?」と言うと、口をもぐもぐさせながら、「まあ、そうですけどね」と・・。

少し意地悪な気がしましたが、セールストークに本田宗一郎の名前を連呼するというのは、私には何か違う・・・という気がした次第で、その一方で、得てして、こういう人は藤沢武夫の名前は知らないというケースが多いような・・・。
(語るのなら、そこまで語れよ・・・みたいな(笑)。)
この点は、本田・藤沢のコンビが揃って引退するという鮮やかな出処進退もあったことで経済誌などで大きく採り上げられたことや、さらには、本田が、まるでアイドルのような扱いをされたことで、ある程度、ホンダの広告塔にもなっているんだろうなという気はしていましたが・・・。
(演出者の藤沢さんも「虚像が大きくなりすぎた」と言ってましたからね。)
無論、たまたま、私が当たった営業の人が個人的に本田宗一郎を尊敬していただけなのだろうとは思いますが、一般論として、その会社の社員が創業者を崇拝するのは悪いことではないとしても、最大のセールスポイントにしてしまうのは如何なものか・・・という気がしたまでです。
                            平太独白
by heitaroh | 2007-11-21 08:06 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(2)

敬愛する企業人・藤沢武夫翁に学ぶ水魚の交わり
親愛なるアッティクスへ

藤沢武夫という人物がいます。
あの、本田宗一郞氏と一緒にホンダを作った共同創業者です。
そういうと、参謀や番頭というものを想像しがちですが、現役時代は、「技術の本田、営業の藤沢」と呼ばれ、ワンマンならぬ「ツーマン」と呼ばれたほど、当時のホンダは完全に開発部門と経営部門が分離していたそうで、つまり、本田は作業服を着て工場におり、藤沢はネクタイを締め本社に居る・・・、その意味では、藤沢こそが事実上のホンダの創業経営者だったと言えるでしょうか。

ただ、その藤沢は今日では知名度はあまり高いとはいえないようです。
(引退から15年後、藤沢逝去の報を受け、ホンダの広報がマスコミに電話したら、「藤沢?誰??」という扱いだったとか・・・。)
なぜ、それほどの人がこれほどに知名度が低いのか?それはひとえに、彼が社長にならなかったからで、一説によると、迷走し始めた本田社長を退任させるべく、自らの退任の意向を申し入れたところ、この点は、さすがに老いたりといえども本田宗一郎!、即座に「辞めるなら二人一緒だ!」と答え、二人揃っての見事な退任劇となったそうです。

もっとも、そういうと、二人とも仲良しコンビだったように聞こえますが、現役時代は長年、ろくに口もきかない、顔も合わせないような関係だったとか。
その為、当時のマスコミは、「藤沢がいずれ、ホンダを乗っ取る!」と言い続けたそうですが、そこを問われると、いつも二人は、「最初の頃にまとめて全部話したから」と言ってたそうで、実際、共同経営に乗り出した頃は、まさに、「水魚の交わり」と言えるほどに、毎日毎日、寝食を惜しんで色々なことを語り明かしたとか。
それでも、「あの頃は奴も、ああ言ったが・・・」などという意識が芽生えて来るのが普通で、仮に二人の間に何も含むことがなかったとしても、周囲には面白おかしく騒ぎ立てる輩もおり、あの西郷隆盛でさえも、下野後、盟友、大久保利通への中傷を聞いて、「大久保も堕落した」と嘆いたという話があるくらいですから、いくら、最初の頃の付き合いが密接だったからといっても、今のコミュニケーションが希薄では中傷や離間が入り込む隙が生まれるように思えてならないわけです。

で、最近、ようやく、このことが愚鈍な私にも理解出来るようになってきました。
つまり、話す必要がなかったということは、折りに付け、お互いに、「社員の仲人にはならない」、「身内を入社させない」といった、「かつて、語りあかした理想」変質していないことを確認していたのではないでしょうか?
それさえ出来ていれば・・・、そこさえ崩れていなければ、後は人が何と言おうと構わないよ・・・ということだったのだろうと思います。
                    平太独白
by heitaroh | 2007-10-20 08:09 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)

軍人は星の数で相手を見るにみる肩書きの是非、その1
親愛なるアッティクスへ

実は、ここしばらく、期限付きで没頭していた仕事があったのですが、やはり、もう、間に合いそうもない・・・ということで、粘りのない福岡人らしく、すっぱりと諦めました。
で、元ののんべんだらりの生活が戻りつつあったのですが、昨日、やはり、どうしても「期限中に仕上げろ!」と、再厳命されまして、再び、パニックの中へと帰ってきました。
まるで、ターミネーターか、ダイハードみたいかと(笑)。(←少し、壊れてます。)
嗚呼、私の安寧は遠い・・・。

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で、先般、敬称を、すべて、「様」ではなく、「さん」で統一するという話を聞いたのですが、この点は、以前から思っていたことがあり、少し、考えてみました。

実は、20年くらい前でしょうか、私は、若き頃、本田技研工業の共同創業者である本田宗一郎藤沢武夫の両氏の創業伝説を読んで、その中の一文に感動したことがあります。
それが、「ホンダでは、肩書などでは呼ばない。社長も専務も新入社員も、皆、『~さん』で呼ぶ」という部分でした。
当時、私の周りにいた大人たちは、皆、自分の肩書地位のことしか考えてないような人たちばかりだったこともあり、それに辟易していた私は、「もしや、いつの日か、私が人を使うようになることがあったら、こうありたいものだ・・・」と思いました。

ちなみに、昔、私が勤めていた会社は、全体の9割が幹部クラスの社員だったのですが、時々、「幹部会議」なんてのをやっており・・・、「だったら最初から、全体会議にすればいいのに」って思ってましたよ。
また、当時、取引があった、ある会社では、「係長」「営業リーダー」、「主任」、「店長代理」、「主査」と、一度に、名刺を出されたことがありました。
これには、思わず、噴き出してしまいましたね。
「偉い順に並べろゲーム」じゃないんだから・・・と(笑)。

ところが、それから、20年を超える歳月が流れ、その間、色々な現実を見るにつけ・・・、かつて、私を感動させたこの考え方は、少し、「理想主義」に過ぎたものだったのではなかろううかと思うようになってきていました。
で、先日、日下公人という経済学者が、新聞に記事を寄せていたのを拝見したのですが、曰く、「今までは部長、課長、課長代理、係長、班長、主任なんて階段がいっぱいあった。命令する人と、それを聞いて実行する人はっきりしていた方が仕事するらしいんだな。それをフラット化して、肩書きもチームリーダーとかディレクターとかカタカナ化して『山田さん』なんてさんづけで呼び始めると、組織もガタガタになっちゃうようだ」というものでした。

如何にも、日本人的かな・・・って気もしますが、一方で、これには、私も、いくつか思い当たる話がありました。

続きは、また、来週・・・に書けるかな・・・ですね。
                               平太独白
by heitaroh | 2007-03-16 08:13 | 思想哲学 | Trackback(1) | Comments(10)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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