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正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その10
このシリーズもさすがに10まで続くと、我ながら、飽きてきましたね。
とっととケリを付けて次に行きたいと思っているので、本日で大団円致したいと思います。
で、前回よりの続きです。

伊藤博文の次は新渡戸稲造・エジソンとなるわけですが、この二人は著者である星 新一の実父・星 一が随分と尊敬していたということであり、また、花井卓蔵星製薬の顧問弁護士で、とにかく、明治期の法曹界では有名な人だったのだとか。
で、残る三人のうち、まず、後藤猛太郎という人物ですが、この人は、明治の元勲の一人、伯爵・後藤象二郎の息子で、父以上に「頭脳明晰、胆力にも優れる」が、いかにも明治期らしい「型に収まりきれない破天荒で豪放な人物」であり、私もこういう人物がいたことを知らなかったのはまったく持って不覚・・・という感じでしたが、それだけに、この人のことを書き出すと、とても手短では終わりそうもありませんので、また、機会を後日に譲るとします。

で、次に後藤新平ですが、この人は総理大臣にこそなってませんが、内務・外務大臣を歴任し、東京市長・満鉄総裁も務め、幾多の業績を残した人であり、特に、関東大震災直後に帝都復興院総裁として震災復興計画に当たったことや、台湾総督府民政長官として善政の礎を築いたことで知られ、私も、かねがね、一度、この人の下で仕事をしてみたかった・・・と思っておりました。
従って、採り上げられている人物たちの中でも、特に星 一はこの人との関係が深かったようで、その反動で、星製薬が後藤のスポンサーとなっている・・・と思われたことから、後藤の政敵らによる星潰しの標的にされてしまう、いわゆる、星 新一の代表作「人民は弱し 官吏は強し」で述べられたようなことになってしまうわけです。
もっとも、後藤という人物は正力松太郎が読売新聞を起こすに際し、後藤に金を借りたところ、その金は後藤が自宅を抵当に入れて用立てた金だった・・・という話があるくらい、清廉な政治家だったようで、星製薬が後藤のスポンサーだったということはなかったそうですが。
で、最後に出てくるのが杉山茂丸という人物です。

この人物は、同じ筑前福岡藩出身の頭山 満と共に明治・大正期の政界の黒幕として知られた人で、この辺も語り出したら、また長くなりますので触れませんが、実はこの人だけは、これまで採り上げられてきた人たちとは少々、趣が異なるところがあります。
それすなわち、著者自身が、子供の頃といえ実際に会ったことがある、つまり面識がある・・・ということですが、実は私もこの人だけはまったく知らない人でもないんですよ。
と言っても、もちろん、私が直接知っているわけもないのですが、この人の息子は博多では大正期を代表する有名な作家・夢野久作(杉山龍道)であり、その子が私財をなげうってインド緑化に尽くした杉山龍丸という人物で、そのご子息が、数年前、父の足跡を辿ったドキュメンタリー番組にも出演された杉山満丸という人です。

私は、この人はまったく存じ上げませんが、私の懇意にしている先輩がその満丸氏と同級生で、杉山家とは家族ぐるみの付き合いをされていたとかで、聞いた話によると、父の杉山龍丸という人は、地元の名門・旧制福岡中学を経て陸軍士官学校を卒業し、終戦時は陸軍少佐にまでなっていただけに、祖父の名前と併せ、地元では知られた存在だったらしく、それまで居丈高だった市会議員もこの人が出てくると、急に平身低頭になったとか。
ちなみに、頭山翁の方は、別に縁はありませんが、平太郎独白録 : 日露戦争と福岡人の奮闘に見る男装の女傑と人参畑!2で申しましたように、私はこの人が書いた「人参畑塾跡」の石碑を見て育ちましたけどね。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-02-15 18:15 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その9
親愛なるアッティクスへ

先日からの続きです。

伊藤博文という人物についてですが、彼が日露戦争開戦前夜、早期開戦を主張する福岡藩出身・頭山 満らに、「今は諸君らの名論卓説より、一発の砲弾が欲しい」と言って慎重姿勢を崩さなかったというエピソードから、これまで、「開戦に当たっての伊藤の逡巡は、『勝てる』という確信が得られないがゆえのそれであり、それゆえに、これは逆に言えば、当初から勝算さえ在れば戦争に賛成だった・・・ということであり、その現実感覚は、「安易に開戦した太平洋戦争開戦時の指導者たち」のそれと比較され、少なからず賞賛されてきました。
(現に、伊藤は一旦、開戦と決まると、同じく福岡藩出身・金子堅太郎をアメリカに派遣するなど、さすが・・・と思わせる手を次々と打っており、これ一つを見ても、彼が明治期を代表する政治家であったことは異論がないところでしょう。)

でも、考えてみれば、伊藤が対外戦争に反対したのは何もこのときだけではありませんで、日清戦争開戦時にも徹底して反対しており、陸奥宗光外相と川上操六参謀次長にはめられて開戦の憂き目に至ってしまったと言われており、さらにそれ以前の西郷隆盛による征韓論にも反対しており、その後の大久保利通による台湾出兵のときも参議兼工部卿として、やはり、強く反対しています。
もっとも、彼自身、高杉晋作功山寺決起の折には自ら、力士隊を率いて馳せ参じていますが、それ以外の戦闘では禁門の変にも参加しておりませんし、長州征伐時にも軍人としては目立った活躍はしていないことを考えれば、やはり、彼自身、早い段階で山県有朋などとは違い、自らは軍人ではなく、政治的人間であるということを自覚していたのでしょう。
(ちなみに、長州藩の四カ国連合艦隊との戦争の時には伊藤は英国留学中で不在でした。)

確かに、日清・日露の折は、相手は大国であり、結果から見るほど楽観視が許されるような状況でもなかったし、また、征韓・征台の時は内治や列強の思惑などの外的要因など、「時節が悪かった」・・・ということもあったでしょう。
しかし、伊藤はその生涯でことごとく、対外戦争を拒否し続けたということは紛れもない事実であり、そう考えれば、もしや、彼は時期や勝算などということではなく、本当に「平和主義者」だったのか・・・と思いました。
(あるいは、彼は「すべての条件がすべてに整った上で行動を起こす」主義者だったと言えるのかもしれませんが、まあ、この辺は幕末維新風雲を切り抜けてきた人ですから、勝算、外交、内治、経済、人心と、すべてにそうそう条件が上げ膳据え膳で整っている時・・・といのはあり得ないことは良く知っていたでしょう。)

星 新一「明治の人物誌」によると、父・星 一は、伊藤のアメリカ外遊時にその世話をした関係で、帰国してからもかなり目を掛けられたていたようで、盛んに役人になることを勧められたとか。
で、同書では、伊藤が絶命した後、「これまで折あるたびに伊藤を攻撃しつづけた新聞は、こぞって彼を英雄に仕上げた。(中略)伊藤の内心は不明だが、公的な資料でみる根りは、彼に合併の意図などなかった」としています。
結局のところ、真実を語れるのは伊藤本人のみかと・・・。

次回に続きます。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-02-12 08:49 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その8
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

事実がどうだったのかはともかく、もし、伊藤博文のケースが吉田東洋のそれと同じであったとしたら、日本の帝国主義者たちにしてみれば、目の上のたんこぶだった伊藤が消えてくれたことは歓迎すべき事態だったということは十二分に有り得る話だったでしょう。
だからこそ、伊藤は死に臨んで、自分を撃った相手が韓国人だと聞くと、「ばかなやつだ」と呟いた・・・と。
この最期の言葉を、「明治の人物誌」の中で星 新一氏は「自分を殺せば韓国のためにも、日本のためにもならないという意味ではなかろうか」と述べておられましたが、私には、「俺を撃ってどうする」・・・という意味と共に、相手への暖かみがある言葉に聞こえます。

そう考えれば、著者は同時に、「韓国人が伊藤博文を豊臣秀吉と並べて二大悪人と呼ぶのは、当然である。植民地支配への引き金となり、そのシンボルとなったのはたしかなのだ。しかし、日本人までが戦前の評価を裏がえしにし、大陸侵攻の元凶とし、責任を彼ひとりに押しつけてしまうのはどうか」と言っておられましたが、この点で思い出す話があります。
以前、伊藤の子孫の家に突然、韓国の国会議員を名乗る人物が訪ねてきて、何かの式典に出席し、安重根の子孫と和解するというセレモニーへ参加してくれと要請されたそうで、このとき、伊藤家側は困惑し、外務省に聞いたところ、「見送るように」と言われたので断った・・・という話でした。
これが何年前の話なのかは失念しましたが、今でもまだ、伊藤に対する嫌悪感が抜けていないことを考えれば、「和解」と言っても、下手をすれば壇上で吊し上げにあうことになった可能性もあり、外務省が止めたのもその辺を懸念してのことだったのでしょう。

もっとも、この辺の詳細についてイマイチわかりませんし、韓国側の思惑がどういうものだったのかも良くわかりませんので、これ以上、迂闊なことを申し上げる気はありませんが、一方で、同書には日露戦争のあと、伊藤が西園寺公望首相を始め、軍関係者に対して、「満州にあるロシアから譲渡された権益を保有することには、なんの問題もない。しかし、その地は清国の領土。戦いが終ったいま、軍をとどめておくことは許されない。その地方の行政および治安は、清国に一任すべきだ……」と言って、「窓ガラスがふるえるほどの大声でどなりつけた」という記述があります。
この点は、伊藤の師匠と言っても良い大久保利通も、台湾出兵による清国との交渉の後には、「実際の補償に当てた以外の賠償金は清国へ返還すべし」ということを言ったように記憶しておりますが、思えば、この師弟には共通点が多いですね。
共に近代日本に置いて大きな業績を為し、共に暗殺され、共に良く思われていない・・・、そして、共に、死後、あまり遺産を遺さなかった・・・と。

でもって、この「明治の人物誌」を読んで、もうひとつ、思ったのが伊藤は徹底した「平和主義者」だったのではないか・・・ということです。
彼が、日露戦争開戦前夜、大勢が「開戦」に傾きつつある中、独り、開戦を逡巡したことはよく知られてますが、それは平和主義などではなく、「勝てる」という確証が得られないがゆえの逡巡であり、その辺は、開戦を促す頭山 満に、「諸君らの名論卓説よりも、今は一発の砲弾が欲しい」と言ったことでも見て取れるように、現実主義政治家面目躍如たる話だとばかり思ってました。

明日に続きます。

                                         平太独白
by heitaroh | 2010-02-03 18:38 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その7
先日よりの続きです。

星 新一著、「明治の人物誌」ですが、次に実父・星 一と関わりを持った人として出てくるのが、明治の元勲・伊藤博文です。
この人物については、先日も申しましたように、私の世代にとっては、物心ついたときには千円札の顔となっていた人であり、事実上の近代日本を作った人物・・・という認識を当然のように持っていましたが、同著で、「顔を見ていても、きわめて印象の薄い人物となっている」と言われ、「どんなことをした人か、ほとんどの人が知らないのではなかろうか」・・・と言われてみれば、確かに、高杉晋作、坂本龍馬から児玉源太郎、大隈重信まで幕末維新に関する伝記では必ず登場する人でありながら、面と向かって、この人自身について書かれた物・・・というのは私も読んだことがないんですよ。
(ていうか、一時期だけならともかく、生涯を通じてこの人について書かれた物・・・というのは見たことがないような気がします。)

その理由を、著者は、「しだいに暗記しきれなくなり、うんざりしかかった時に明治維新となる」という学校の歴史カリキュラムの問題と、「大陸への進出から終戦に至るあいだのことは、反省すべきことがらで、思い出したくないというムードがある」ということを挙げておられましたが、カリキュラムの問題よりも、やはり、後者の「伊藤が日本の朝鮮侵略の象徴的存在に祭り上げられている」・・・という点が大きいのでしょう。
事実、先般、元外務次官の野上義二氏の講演を聴いた際、「日本では殆ど報道されていないが、今、韓国ではビルの一面を全部潰して、安重根の写真にしている」と言っておられましたが、それほどにあちらには伊藤を殺した安を讃える空気があるわけで・・・。

ただ、この「明治の人物誌」を読むと、伊藤はむしろ、自分が朝鮮総督としてあることで、日本内部の植民地支配論者を抑えていたということが書いてあり、確かに、日韓併合になったのは伊藤の死の後のことですし、何より、維新の元勲である伊藤がその地位にいれば、軍部と言えども、そうそう横暴なことも出来なかったことも十分、考えられるわけで・・・。
(伊藤は韓国の民族服を着て写真に納まったりしてますし、新渡戸稲造にも韓国を植民地支配することには断固反対する旨のことを語ったといいますから・・・。)
もとより、あくまで同書一冊を読んだだけですが、短い文章の中で極めて、的確に伊藤像を伝えているような気がします。

この点で思い出すのが吉田東洋という人物です。
この人は、大河ドラマ「龍馬伝」でも出てきますが、土佐藩の参政で武市半平太を中心とする土佐勤皇党によって暗殺されたことから、郷士と呼ばれる下級士族を弾圧した権力主義の権化のように思われていますが、実は、暗殺当時は、身分にとらわれず有能な者を登用することを旨とした藩政改革に取り組んでいるところだったとか。
となれば、改革には、いつの時代にも既得権益を守ろうとする守旧派が付きものなわけで、つまり、東洋にしてみれば、敵は土佐勤皇党よりも、むしろ、それら抵抗勢力であり、土佐勤皇党にとっては東洋は排除すべき相手ではなく、藩内守旧派にすれば土佐勤皇党は自らの手を汚すことなく、政敵を排除できるわけで、「敵の敵は味方なり」・・・というところだったでしょう。

明日に続きます。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-02-01 20:26 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その6
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

星 一星製薬を金融面から支援した岩下清周ですが、その名前の読み方は星 新一の著書「明治の人物誌」には「せいしゅう」とありましたが、実際には「きよちか」と読むのが正しいようですね。
実は私も「せいしゅう」と読んでいたのですが、何かで「きよちか」と読むのが正しい・・・というようなことを目にした記憶があり、以来、私は「きよちか」と呼んでいたのですが、この点は、源 義経の伝記「義経記」は「よしつねき」ではなく「ぎけいき」で、織田信長の伝記「信長公記」は「のぶながこうき」ではなく「しんちょうこうき」と読むのと同じ理屈で、偉人の名前を本来の訓読みではなく、敢えて音読みで読み表す、いわゆる有職読み(ゆうそくよみ)の例もあり、著者も、単に間違えたのか、それとも意図的に「せいしゅう」と読んだのかはわかりません。

ただ、この点で、個人的な事情で私は声を大にして言いたいことがあります。
「頼むから、はっきりしてくれ」・・・と。
その「個人的な事情」となったのが岩下の次に「明治の人物誌」に出てくる伊藤博文という人の名前についてです。
伊藤博文・・・、もちろん、言うまでもなく、明治の元勲の一人であり、昔はお札の顔にもなっていた人で、この人のことは、私などは、随分と長いこと「ひろふみ」と呼んでましたが、正式には「ひろぶみ」と読むのが正しいようですね。
ところが、これを、時々、「はくぶん」と読む人がいるんですよ。

実際、私が小学校の頃持っていた参考書には、「はくぶん」とふりがなしてあり、「え?ひろふみじゃなくて、はくぶんが正しいの?」・・・と思ったものの、あまりにもはっきりとそう書いてあるもので、翌日の授業で、「いとうはくぶんが・・・」と発表したら、先生が、「ん?はくぶん?ああ、それはひろふみね」と言われ、「ハクブンげな!」とクラス中の笑い物になりました。
「何だ?やっぱり、ひろふみで良いのか?制作者のミスか」と思っていたのですが、最近では、時々、識者を自称するような人などから、やはり、「いとうはくぶんが・・・」などという言葉が聞かれたりするんですよ。

でも、有職読みの理屈はわかるんですが、もし、試験に、「伊藤博文に読み仮名を打ちなさい」と出た場合、「はくぶん」と書いた人は不正解になるのでしょうか?
もし、それが正解と言うことになれば、徳川家康を「かこう」と書いても正解ですよね?
第一、その有職読みでさえも、すべての人に適用するわけでもありませんでしょ。
(あるいは「松陰」「南州」と言った雅号を持っていなかった人をそう呼ぶのか・・・とも思いましたが、「松菊」と号した木戸孝允は「たかよし」なのに「こういん」と呼ばれるけど、「甲東」と号した大久保利通を「りつう」と呼ぶ人は聞いたことがありません。)
であれば、少なくとも、先生は「あ、はくぶんでも必ずしも間違いではないのよね」くらいは言うように指導要綱を改めろよ・・・と。(←結構、根に持ってる?(笑)。)

ちなみに、岸 信介は「しんすけ」ではなく「のぶすけ」、平松政次は「まさつぐ」ではなく「まさじ」・・・で、更に言えば、星 一は「ほしはじめ」ですが時には「ほしぴん」とも呼ばれていたそうで・・・、嗚呼、「はくぶん」と読んだ小学生が救われる日は訪れるのだらうか・・・。

もやもやは解消されないまま、明日に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-01-26 19:44 | 社会全般 | Trackback | Comments(2)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その5
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

星製薬の成長を金融面で支援した岩下清周北浜銀行頭取も、「晩年は政争絡みによる失脚の標的とされ、ゴシップ紙の執拗なスキャンダル報道の結果、大正3年、北浜銀行は取り付けにあい、翌年、失脚に追い込まれ、その後は隠遁生活に入った」そうですが、岩下翁の失脚後には、星製薬はもう独り立ちしてやっていけるようになっていたそうで、随分、援助なども申し出たようですね。
ただ、「明治の人物誌」の著者で星製薬社長・星 一の実子である星 新一氏は「後に星製薬が同じような道を辿ることを考えれば・・・」というような内容のことを述懐しておられましたが、こういう企業の伸張と政争が絡みやすい・・・というのも、如何にも明治大正という、揺籃期ならではの時代を感じさせることだと思います。

もっとも、もちろん、現代でもそういうことがないわけではないわけで、一例を挙げれば、今、問題になっている小沢一郎民主党幹事長の疑惑がありますが、この問題について私見を述べさせて頂ければ、小沢氏及び民主党側は前政権時代にはこの疑惑に対して、「自民党が選挙に勝つための国策捜査だ!」ということを主張されてましたよね。
では、民主党政権下になっての一連の逮捕については何と言われるのかな・・・と。
「あれは、鳩山が私を追い落とすための陰謀だ」とでも言うのでしょうか。
まあ、検察の捜査というもの自体が、そもそもが人間がやっていることですから、それなりに恣意的なものが入るのは否定しようのないことでしょうが、少なくとも「検察は政権には左右されていない」ということを示したという点で、つまり、検察への信頼が保たれた・・・という点では是として良いのかもしれません。

話を元に戻すと、明治も初期の頃には、明治5年(1872年)、山縣有朋らと昵懇だった山城屋和助陸軍省御用達となったことで巨利を得、さらに陸軍省の公金を生糸相場に投じ、さらなる巨富を得んとしたものの藩閥間権力闘争に巻き込まれ、一切の責任を押しつけられて割腹自殺に追い込まれた山城屋事件や、大久保利通・大隈重信・後藤象二郎らの後援を受けて、海運業で財を築いた三菱岩崎弥太郎も、大久保が暗殺され、大隈・後藤が政権を追われると、一転して政府からの弾圧を受け、抗争最中の明治18年(1885年)、憤死に追い込まれた・・・などということがあったわけですが、これら政権側と結んでの「政商」などでなかったとしても、「政敵の支援者」というだけで、いや、そう見なされるだけで、反対勢力が権力を握ると露骨な潰しに遭う・・・という、これは今日でも途上国ではよく見かけられる光景でしょうが、さすがに現代日本では「政権が変わると、支援者の企業が狙い打たれる」ということは一般的では無くなりましたよね。
(結果として三菱が残ったのは偏に弥太郎の跡を継いだ弟・弥之助の手腕かと。)

まあ、佐川急便リクルートなどがどうだったのかは知りませんが、仮にそうだったとしても、明治大正期はまだまだ資本の蓄積は小さく、企業に限らず、政治家に資金を供給できるルートは限られていたわけで、そう考えれば、この点は揺籃期のことだと言え、現代のそれと同じに考えるわけにはいかないでしょう。
ちなみに、「明治の人物誌」では、岩下清周の名前の読みは「せいしゅう」とありましたが、どうやら「きよちか」と読むのが正しいようですね。
この点では、ちと、言いたいのが岩下の次に出てくる伊藤博文です。

明日に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-01-25 08:42 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その4
先日の続きです。

中村正直・野口英世に続いて星新一「明治の人物誌」に登場するのが岩下清周という人物ですが、著者は、「おそらく、この人の名前は殆どの人は知らないのではないか?」と前置きしてありましたけど、私は知っていました。
以前、阪急の創始者・小林一三翁の伝記を読んだときに、翁の恩人というか、師匠というような位置づけで出てきたからです。
その後も、明治大正期の実業界の話の中で、結構、耳にする名前でもあり、何かでそれなりに読んだ記憶はありましたが、ただ、私にとっては、「小林翁を引き立てた人」以上の認識はなく、少なくとも、正面からこの人の伝記について読んだことはないはずで、それほど頭の中で具体的に「像」として形を為している・・・という人物ではありませんでした。

安政4年(1857年)生まれと言いますから、著者である星 新一の実父・星 一よりは16歳の年長であり、(ちなみに、他もすべて年長であることから、つまり、この人物誌に置いては野口英世だけが同世代だったということになるわけです。)三井物産パリ支店長、品川電灯社長、三井銀行本店副支配人等を経て、明治29年(1896年)同大阪支店長となり、大阪へ来る・・・と。
大阪では、その辣腕を買われ、翌年、設立されたばかりの北浜銀行を任されることになり、そこで銀行家として海のものとも山のものともつかぬ企業の将来性を読み取ると、そういう企業には積極的な融資を行ったようで、このとき、岩下の支援を受けた企業の中に著者・星 新一の実父・星 一が経営する星製薬があった・・・と。

今となっては考えられない融資手法ですが、この手の話は、この時代は割とあったみたいですね。
昭和電工が含まれていたことで知られる森財閥の創始者・森 矗昶が水力発電を始めるに当たって、当時の取引銀行に融資を申し込んだところ、融資係だった小川栄一(後の藤田観光創始者)から「担保は何ですか?」と聞かれ、そのまま、小川を山奥の滝に連れて行き、「担保はこれです。無尽蔵に落ちてくる水です」と答えたところ、さすがに、才人小川・・・、この型破りな行動に対して、事を理解したようで、周囲の反対を押し切り、融資に応じた・・・とか。

でも、岩下と一番似ているのは、第百三十銀行の創始者の一人にして、後に頭取となった松本重太郎のケースでしょう。
松本と岩下が共通するのは、有望と思われた企業や経営者にはリスクを承知で積極的に融資をする・・・という点であり、それはある意味、金融家の本分でもあるのでしょうが、見方を変えれば、彼らが担保としていたのは「自らの才気」だった・・・とも言えるわけで、当然、融資額も増えた分だけ、リスクも大きくなっていったわけで・・・。
結果、百三十銀行は明治37年(1904年)、日露戦争の最中に破綻・・・。
北浜銀行も、大正3年(1914年)、第一次大戦の最中、融資先の営業不振による債務焦付きなどもあって破綻に追い込まれ、岩下は逮捕の憂き目を見る・・・と。
ちなみに、松本が関わった企業としては、現在の東洋紡績、南海電鉄、JR西日本、日本火災海上保険、アサヒビールがあり、岩下が関わったものには阪急電鉄(阪急阪神ホールディングス)、近畿日本鉄道大林組などがある・・・と。

来週に続きます。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-01-23 08:19 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その3
続きです。

これら、「明治の人物誌」の登場人物についてですが、まず、著者の実父が、著書を通して影響を受けたのみで実際の面識はない中村正直は置くとして、次に登場するのが野口英世博士・・・です。
言うまでもなく、千円札の顔になった大正期を代表する世界的細菌学者であり、幼少の頃に負った火傷のハンディを抱えながらも苦学して偉業を成し遂げ、最期はアフリカの人を伝染病から救おうとして、自らも斃れた・・・、まさしく、少年が模範とするような偉人の中の偉人で、とにかく、私が子供の頃などは二宮金次郎の銅像と同じような感じで、うんこもおしっこもしない人・・・という感じだったのですが、近年では決して、そんな聖人君子などではなく、借金に乱行に婚約不履行に・・・と、かなり、いい加減な面もあったということが言われるようになってきましたよね。

まあ、そのいい加減さも、四角四面の現代と違い、如何にも明治期のそれらしく大胆かつ、おおらかな話で、当時、野口清作といったその若者は、恩師に貸してもらった善意の遊学費用を放蕩生活で使いきってしまうと、あちらこちらから借金し、さらに放蕩生活を続け、それが坪内逍遥の小説「当世書生気質」に、「弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る野々口精作」という人物として登場したことから、「これはまずい」と改名を決意。
で、「世にすぐれる」という意味で「英世」とした・・・と。
確か、改名するには郵便配達上の問題で同一集落の中に同姓同名がいる場合のみ認められる・・・か何かの特例があったため、敢えて、同名の清作という人を騙くらかして(←博多弁?「騙す」よりは、少し罪がない感じなのですが、これに相当する表現が標準語にはないもので・・・。)近所の野口さんちに養子に入れさせて、むりやり、同姓同名を創り出した・・・と記憶しております。

ところが、驚くのはそんなでたら目な生活を送っていても、彼にはこれでもかと言うほど援助者が湧き出てくることです。
郷里の恩師・小林 栄に、畏友・血脇守之助然り・・・。
(やはり、この人はでたらめな生活をしていても・・・、また、決して、モラル的には褒められた生活はしていなくとも、何かしら人に好かれる人だったんでしょうね、私の友人にも一人、そういうのがいましたから、何となく、わかるような気がします。)
そして、その点では、「明治の人物誌」の著者、星 新一氏の実父・星 一もその一人・・・どころか、金額だけならおそらく一番出した人でしょう。
それなのに、野口英世伝には星一の名前は殆ど出て来ない。
わずかに、「凱旋帰国する際の渡航費を出した」という1行しか出て来ないそうで、つまり、実父と英世との親密な交流が知られていないことに実子である著者としては結構、忸怩たる想いがあったのでしょう。

それだけに、他稿と違い、この稿にのみ関しては、それなりに押さえてはあるものの、かなり、その辺の不満というか、「是正」に対する想いが伝わってきましたね。
二人は同郷で、年も近く、かつ、身体にハンディを負っていたことも共通していたらしく、アメリカという異郷の地で過ごす者同士、「親友」と呼んで良い間柄になり、それゆえに、事業で成功した星は高額の帰国費用を出し、英世は星製薬の顧問に名を連ねた・・・と。

明日に続く。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-01-19 17:26 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その2
昨日の続きです。

その、星新一「明治の人物誌」ですが、手にとってすぐに思ったのが、まず、「何でこの顔ぶれなの?」ということです。
この辺は、末尾に書評を寄せた城山三郎氏も同様のことを思ったようで、曰く、「本書を手にしてまず感じるのは、とり上げられている人々についての不統一というか、多様さである。野口英世、伊藤博文など高名な人もあれば、一般的には無名に近い人もある。私のような仕事をしている者でも、その姓名(後藤猛太郎)だけでは、すぐに思い当たらぬ人もある。職業も学者、政治家、実業家、政治浪人などさまざまであり、そこにエジソンまで加わることで、この人たちを集めた意図がいよいよ読めなくなる」・・・と。

で、読み始めてしばらくしてやっとわかったのですが、そこに採り上げられている、中村正直/野口英世/岩下清周/伊藤博文/新渡戸稲造/エジソン/後藤猛太郎/花井卓蔵/後藤新平/杉山茂丸という人たちは、著者である星氏の実父、星 一氏と皆、何らかの形で関わりがあった人だということで、つまり、この明治の人物誌というのは形を変えた父への追悼文だったわけです。

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星 一という人については、新一氏がその著書、「人民は弱し 官吏は強し」で述べているように「有能な経営者でありながらも、政府の干渉と圧迫によって経営する星製薬を頓挫させられた悲劇の人で、新一氏も東大を卒業してすぐに亡父の跡を継いで社長になったものの未熟さは誰の目にも明らかであり、ついに事業は破綻し、氏も随分と辛酸をなめた」・・・という程度のことは私も知ってましたが、残念ながら、同書はまだ読んだことがなくそれ以上は知りませんでした。
(それでなくても、うちの本棚は、まだ、積ん読状態の物が100冊くらいあり・・・。家人からは、「今、読む物だけを図書館から借りてこい!」と・・・叱責されている始末でして(涙z)。)

で、改めて、そういう目で見ると、この本はちょっと驚きでしたね。
なぜなら、これらの顔ぶれのうち、新一氏の実父が面識がないのは著書を通して影響を受けた中村正直だけであり、後はすべて実際の面識がある人ばかりなんですよ。
伊藤博文とも、エジソンとも、野口英世とも・・・、無論、親密の度に差はあるにしても、皆、それなりに親交があった・・・ということでしょ。
これって凄くないですか?
自分の父親が、生前、吉田 茂アインシュタイン湯川秀樹なんかと親交があったようなもんですよ。
これが、「長州閥の人たちとの付き合いの中で伊藤博文とも面識があった・・・」とか言うんなら、まだ、わかるんですよ。
でも、伊藤博文とエジソンと野口英世は少なくとも彼ら自身には、あまり接点があったようには思えませんからね。
まあ、その辺は当時としては貴種と言っても良い、「海外留学」を経験しているということが大きかったのでしょうが・・・、ともあれ、週明けよりは、もう少しその辺を突っ込んで採り上げてみたいと思います。

ということで、次回に続く。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-01-16 08:18 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その1
親愛なるアッティクスへ

e0027240_17212437.jpg今年もたくさんの方から年賀状を戴きました。
私は昔から年賀状を書くのはまったく苦にならない子供でしたので、今も出す方も同じくらい出してますね。
(残念ながら、我が家には、誰も私のスピリットを受け継いだ者はいないようです(涙)。)

ただ、それらとは別に、今年は今頃になって、喪中寒中見舞いのハガキが立て続けに届きました。
皆さん、ご高齢の方ばかりだったのですが、年末になって、急にお亡くなりになったとのことで、喪中ハガキどころではなかったようです。
思えば、私も今年で数えの五十ですから、気が付けば、私の子供の頃に廻りにいた大人の人たち・・・というのが本当に少なくなってきた感があります。
ますます、昭和は遠くなりにけり・・・でしょうか。
そういうことで、今日も今からお悔やみに行かなければなりませんので、急ぎ、本題です。

昨年の年末、帰宅すると、テーブルの上に一冊の文庫本が置いてありました。
図書館のシールが貼られたその本のタイトルを見ると、「明治の人物誌」とあり、著者は星 新一とありました。
星 新一といえば、言わずとしれたショートショートの名手ですから、あるいは堅苦しい題名とは裏腹にそういう明治の人たちを題材にした柔らかい内容の物なのかな・・・と思い、手に取ってみると、柔らかいどころか、題名に偽りのない、見事な明治という時代を生きた人たちの人物誌でした。
内容からして、子供にはちと無理でしょうから、となれば該当者は一人しか居ず・・・。
ただ、我が家では、そのような類の本を読むのは私だけでして、「一体、どういう風の吹き回しだ?」・・・と思っていると、何と、借りてきたのは小学生のガキ・・・で、聞けば、星新一の名前だけでショートショートと思い、中身を見ずに借りてきたとのこと。
ならば・・・とばかり、私が思い立ったのですが、聞けば、借りているのは冬休み中だけ・・・とのことで、結果、久しぶりに、今年の正月は読書三昧となりました。

で、読むに当たって、まず思ったのが、そこに紹介されている人物たち・・・。
中村正直/野口英世/岩下清周/伊藤博文/新渡戸稲造/エジソン/後藤猛太郎/花井卓蔵/後藤新平/杉山茂丸と・・・千差万別多種多様
(私も、割と知ってると自負している方なんですが、中村正直・後藤猛太郎・花井卓蔵という人は知りませんでしたね。)

ということで、折角乗ってきましたが、今からお悔やみに行かねばなりませんので、続きは明日・・・ということで。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-01-15 18:04 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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