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正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その9
親愛なるアッティクスへ

先日からの続きです。

伊藤博文という人物についてですが、彼が日露戦争開戦前夜、早期開戦を主張する福岡藩出身・頭山 満らに、「今は諸君らの名論卓説より、一発の砲弾が欲しい」と言って慎重姿勢を崩さなかったというエピソードから、これまで、「開戦に当たっての伊藤の逡巡は、『勝てる』という確信が得られないがゆえのそれであり、それゆえに、これは逆に言えば、当初から勝算さえ在れば戦争に賛成だった・・・ということであり、その現実感覚は、「安易に開戦した太平洋戦争開戦時の指導者たち」のそれと比較され、少なからず賞賛されてきました。
(現に、伊藤は一旦、開戦と決まると、同じく福岡藩出身・金子堅太郎をアメリカに派遣するなど、さすが・・・と思わせる手を次々と打っており、これ一つを見ても、彼が明治期を代表する政治家であったことは異論がないところでしょう。)

でも、考えてみれば、伊藤が対外戦争に反対したのは何もこのときだけではありませんで、日清戦争開戦時にも徹底して反対しており、陸奥宗光外相と川上操六参謀次長にはめられて開戦の憂き目に至ってしまったと言われており、さらにそれ以前の西郷隆盛による征韓論にも反対しており、その後の大久保利通による台湾出兵のときも参議兼工部卿として、やはり、強く反対しています。
もっとも、彼自身、高杉晋作功山寺決起の折には自ら、力士隊を率いて馳せ参じていますが、それ以外の戦闘では禁門の変にも参加しておりませんし、長州征伐時にも軍人としては目立った活躍はしていないことを考えれば、やはり、彼自身、早い段階で山県有朋などとは違い、自らは軍人ではなく、政治的人間であるということを自覚していたのでしょう。
(ちなみに、長州藩の四カ国連合艦隊との戦争の時には伊藤は英国留学中で不在でした。)

確かに、日清・日露の折は、相手は大国であり、結果から見るほど楽観視が許されるような状況でもなかったし、また、征韓・征台の時は内治や列強の思惑などの外的要因など、「時節が悪かった」・・・ということもあったでしょう。
しかし、伊藤はその生涯でことごとく、対外戦争を拒否し続けたということは紛れもない事実であり、そう考えれば、もしや、彼は時期や勝算などということではなく、本当に「平和主義者」だったのか・・・と思いました。
(あるいは、彼は「すべての条件がすべてに整った上で行動を起こす」主義者だったと言えるのかもしれませんが、まあ、この辺は幕末維新風雲を切り抜けてきた人ですから、勝算、外交、内治、経済、人心と、すべてにそうそう条件が上げ膳据え膳で整っている時・・・といのはあり得ないことは良く知っていたでしょう。)

星 新一「明治の人物誌」によると、父・星 一は、伊藤のアメリカ外遊時にその世話をした関係で、帰国してからもかなり目を掛けられたていたようで、盛んに役人になることを勧められたとか。
で、同書では、伊藤が絶命した後、「これまで折あるたびに伊藤を攻撃しつづけた新聞は、こぞって彼を英雄に仕上げた。(中略)伊藤の内心は不明だが、公的な資料でみる根りは、彼に合併の意図などなかった」としています。
結局のところ、真実を語れるのは伊藤本人のみかと・・・。

次回に続きます。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-02-12 08:49 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

机上山積みメモ紙処分の為の書き殴りシリーズ その1
親愛なるアッティクスへ

いよいよ、年末カウントダウンに入ってきましたね。
先週末申し上げたように、UPは進まない割にネタを書き付けたメモ紙は山積みになっておりまして・・・。
ということで、今日よりはしばらく、年末に向けた大掃除の一環としてメモ紙処分のための書き殴りシリーズとさせて戴きます(笑)。
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まず、時事ネタから行くと、結局、まったくの時間の浪費で終わったCOP15(気候変動第15回締約国会議)についてですが、あんなもの、いくら、各国共通の議題だからって、あれだけたくさん集めておいて、それで話がまとまるわけがないじゃないですか。
同じ事は、G20にも言えることで、面子が増えれば、それに比例して、思惑も違えば利害も錯綜するわけで、これでは、まとまりがつかなくなることは自明の理以外の何ものでもないでしょう。
その意味では、私は実効性の面はともかくも、G7・G8という枠組みは崩すべきではなかった・・・と思っています。
すなわち、G7・G8である程度まとめておいて、各国個別に交渉して押し広げていく・・・という形にしないとまとまらないでしょう。

それから、事業仕訳についていえば、「密室で行われてきたことを白日の下にさらした」・・・という点は大いに評価して良いと思いますが、結局、財務相主計局主導である・・・ということが批判されてましたよね。
この点で言えば、かつての主計局がすべてを仕切っていた時代というのは、密室の中での官僚同士の話し合いで決められるという点で不透明な観がぬぐえなかった反面、主計局というのは「選挙区への利権誘導」のための政治家からのたかりに対して、一定の防波堤を為していたことも事実なわけです。
その意味では、政治主導というものを推し進める上では「透明性」というものが絶対に必要条件なのでしょうが、たとえ、透明性を確保したとしても・・・、いや、国民監視の目にさらされるからこそ、問題もあると思います。
それすなわち、どうしても、国民生活に直結してない分野は「票になりにくい」ということで、削減の対象にされやすいのではないか・・・ということです。
貧困に喘ぐ国民からすれば、10年先に実を結ぶかどうかわからない話よりも「今、何とかしてくれ」なわけで、そこを敢えて、「これは必要な物だから・・・」と言うのが本当は政治の仕事なんですが、現実には選挙というものがある以上・・・。

その観点から見れば、科学技術などというのは、真っ先に削減の対象になりそうな分野ですが、私はやはり、安易に削減すべきではないと思います。
なぜなら、「国力」とは、結局、「科学力」だと言って良いと思うからです。
19世紀大英帝国があれほどに隆盛を極められたのは、決して兵士の数が多かったからではなく、軍事面での技術革新を含む「科学力」であったことがその好例でしょうか。
(日露戦争当時、イギリスは日英同盟に鑑み、最新技術を日本海軍に供与し、これが日本海海戦での日本の勝利に貢献したわけで。「兵器の優越性=戦争」今のアメリカが良く体現していると思います。)
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-12-21 08:57 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

明治日本の裏切りと種芋まで食すの理
親愛なるアッティクスへ

以前、BS特集「世界から見たニッポン~明治編(2)-アジアの希望と失望-」という番組があったのですが、サブタイトルに有るとおり、当時、ひたすら、欧米列強蚕食されるばかりであったアジア諸国が、日露戦争での日本の勝利というものに対し「開放への救世主」的なものを期待し、やがてそれに裏切られていく・・・というような流れの物でしたが、これをみて、ちょっと思うことがありました。
「裏切りって言うけど、そもそも味方だったの?」・・・と。

実際、当時、日本がロシアに勝ったことは、欧米列強、特に帝政ロシアによって苦しめられていたアジアや東欧諸国にとっては現代の日本人が考える以上のものがあったようで、孫文は町を歩いていたら、いきなり、日本人と間違えられて胴上げをされたと言いますし、他にもポーランドでは未だに「アドミラル・トーゴー(東郷元帥)はビールの名前になるほどの英雄だそうです。

ただ、そのドキュメンタリーでは、具体的に、中国人ベトナム人の志有る若者や独立運動家が日本に留学して「裏切られる」までを描いておりましたが、一例として、ベトナム人の独立運動家は日本海海戦で日本がロシア艦隊壊滅させ、日露戦争に勝利したことを聞くと、勇躍、処罰を覚悟で渡海して来ます。
私的には、それ自体が、あまりにも物の見方が日本人の専売特許であるところの島国根性、つまり、過度の自分たちだけの世界観ではなかったかと思えます。
だって、日本がロシアに勝ったとは言え、それってギリギリのギリギリのやっとの判定勝ちですよ。

しかも、戦い終わったばかりでヘトヘトの日本に、「同じ黄色人種なのだからベトナムを助けてくれるはず」で、その為に、「ロシアばかりか、米英仏独までも敵に廻して戦ってくれ!」っていうのは、少々、首を傾げざるを得ないような気もします。
仮に彼らの言うとおりであったとしても、その通りにしたら、日本は間違いなく滅亡することになったと思われるわけで、とすれば、これって、「飢えた者ひもじさ(これも今や死語ですね。)のあまり、目の前の種芋にかぶりつく」ようなものだったんじゃないでしょうか・・・。

それに、ベトナム人は、「同じ黄色人種なのだから、日本人がベトナム人を助けるのは当たり前」と言いますが、日本が日露戦争で勝利する以前はベトナム人の、どの程度が果たして日本という国を知っていたの?・・・と。
同時期の日本人で朝鮮を知っていても、ベトナムを知っていた日本人も、あまり、いなかったのではないかと思うので、おそらく、ベトナム人も似たり寄ったりだったのではなかったでしょうか。
言ってみれば、世界チャンピオンになった途端に、突然、押しかけてきた「会ったこともない遠い親戚」みたいなもので、それで、「親戚には違いないんだから、巨額の負債保証人になってくれ」と言われても・・・。
日本側も、困惑以前の「・・・」だったでしょう。

他のアジア諸国にしても、日露戦争開戦時に日本に同調してロシアに対してゲリラ戦でも良いから共闘してくれたというんならまだしも、日本人が血を流して戦っている間、何もせずに模様を眺めていただけなのに、戦後、日本が勝ったら急に、「我々を助ける義務がある」・・・って言われても、ねー・・・。
                                平太独白
by heitaroh | 2008-06-24 08:52 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

バブル崩壊と「坂の上の雲」
親愛なるアッティクスへ

先日、テレビで、マンション市況の現状についてのレポートが為されていましたが、まさしく、バブル崩壊時の様相と酷似してきましたね。
以前、新潟に行ったときに、車中より、市内の工事現場を見て、「新潟もよく建ってるよな」と言ったら、運転していた新潟人が、「こんなにマンションばかり建ててどうするつもりなんでしょうね。新潟なんて、そんなに人居ないですよ」と答えたところ、同乗していた熊本人も、「熊本もそうですよ」と言い、それを受けて福岡人である私も、「福岡もまったく一緒だよ。明らかに、実力以上に物が建っている」と答えたことがありました。
あれほど、痛い思いをして、散々、懲りたはずなんですが・・・。

かつて、日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと呼ばれた時代、ある新聞のコラムに、「かつて、明治日本にとっては、欧米諸国坂の上の雲であったが、それが今や、坂の上に登り詰め・・・、それどころか、雲を突っ切って、その向こうに行ってしまった。これにより、目標を見失い、どうしていいのかわからなくなったのが、今の日本だ」という旨のことが書いてあったことがありました。
坂の上の雲とは、言うまでもなく、司馬遼太郎氏の小説、「坂の上の雲」のことですね。

e0027240_105781.jpg(←坂の上の雲です(笑)。)

・・・今からすれば、大バカ野郎もいいところのような内容にも見えますが、まあ、あの時代の空気が読み取れるような気もしますね。
何だか、国民までが、日本が世界を切り従えているかのような錯覚を覚えていたような・・・。
明らかな、「ジャパン・アズ」と「ジャパン・イズ」の勘違いだったのでしょうけどね(笑)。

でも、その意味では、あれが、たとえ一時的な物だったとしても、経済的成功だったからまだよかったんで、軍事的成功によるものだったとしたら、少し、ゾッとします。

そういえば、日露戦争直後、「日本は一等国なんだから」という言葉が流行ったとか。
路面電車の乗客のマナーがなっていなかったので、「乗客の皆さん、行儀良くしましょう。それでは一等国の国民として恥ずかしいですよ」という具合に(笑)。
大国ロシアを破ったことで、欧米列強と並び、一等国になったということだったのでしょうが、太平洋戦争での破局に向かう素地は、この頃に出来てたんでしょうね。

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by heitaroh | 2008-06-23 08:57 | 思想哲学 | Trackback | Comments(4)

日露戦争開戦にみる福岡縣人・頭山満と堺利彦の是非 4
親愛なるアッティクスへ

続きです。

堺 利彦翁が筆をふるった8ページの週刊平民新聞は、創刊とともに、8,000部を売りつくしたといいます。
これは、現代で言うならば10万部以上に匹敵する数字だそうで、まるで、戦争熱に取り憑かれたような観があった日露戦争開戦前夜の日本でも、その実は、まだまだ、かなりの反戦論者、支持者がいたことを示しているように思えます。

以下、その後の、堺翁の行動を、読売新聞西武本社編 「福岡百年」という古い書物の中から抜粋すると、
【 しかし、ほとんどの国民は威勢のよい開戦論に走り、耳をかそうとしない。〝先人世にいれられず″のたとえそのままの状態。それでもなお筆は号を迫ってさえわたった。
開戦直前の明治37年1月17日発行の10号では「非戦論特集」、14号では「戦争の結果予測特集」、開戦直後の同年3月27日号では「ああ増税」と相ついで非戦、反戦の論陳を謳っている。
 増税特集では「戦争のための六千万円の増税を、なぜ国民は苦痛に耐えてまで忍ばねばならないのか。もし国家が国民を拘束し、過酷な税金をしぼり取るものなら、国家などないほうがましだ」と激しい調子で初めて国家権力へ真っ向から対決をいどんだ。
 挙国一致をうたい、戦勝めざして必死の政府が、この挑戦をだまって見のがすわけがない。たちまち新聞は発禁、堺は責任者として二か月の入獄となった。しかし、出獄と同時に論戦は再開。
 手を焼いた政府は、平民新聞を目のかたきにしての弾圧にのり出し、都内三千人の反戦論者をしらみつぶしに調べあげ、二人だけ前科者が含まれていたことを材料に、反戦論者・社会主義者即前科者のレッテルをはり、国民の反目をあおった。地方の読者にももれなく官憲の手がのぴ、家族を通じて購読中止と転向を迫る。きかない者には地方人を扇動して〝非国民″ 〝露探″とののしらせ、村八分扱いした。そして弾圧の手はついに新聞印刷機の没収となり、発刊わずか一年余、六十四号で廃刊となった。】

悪評高い、太平洋戦争の時と違い、良いことずくめだったような言われ方をしている日露戦争のときでも、政府の国民への対処の実態はあまり、違っていなかったんですね。
勝ったから、あまり、問題にならなかっただけで・・・。

で、この頭山・堺両翁の主張を聞いた上で、私なりに、日露戦争開戦の是非を考えてみたならば、私見としては、「開戦は是」である・・・です。
つまり、開戦やむなし・・・と。
世界に日本だけしか存在していないのならともかく、一方に、帝政ロシアという野心的超大国が存在した以上、開戦は避けられなかったと・・・。
あの時点で、ロシアが満州、朝鮮だけの支配で満足してくれたとは思えないと・・・。

こういうと、また、けしからん!というご意見もお有りかと思いますが、ただ、一方で、堺翁のような意見も必要だということです。
「右」ばかりでもいけない、「左」だけでもいけない・・・と。
右と左の意見をよく聞いて、自分なりに、斟酌勘案して、「これはやはり、どう考えても、こちらの意見の方が無理があるぞ」と感じた上で・・・、あるいは、両案ともに利害に大差はないということであれば、より、助長補短策が容易な方はどちらか・・・ということを考慮して、結論を出すべきだと思うのです。
ここで大事なことは、自分と意見が違う相手を、うるさいからと、抹殺してしまわないことです。
とるに足らない意見であっても、採り上げなければ良いだけで、決して、反対意見を排除してはいけない・・・ということですね。

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by heitaroh | 2007-05-10 17:04 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

日露戦争開戦にみる福岡縣人・頭山満と堺利彦の是非 3
親愛なるアッティクスへ

続きです。

「ロシア討つペし!」

そんな空気が国内にみなぎりはじめていた明治36年、時流に逆らうかのように、敢えて、非戦論を振りかざす週刊平民新聞が東京有楽町の小新聞社から発行されました。
これを企図したのが、のちに明治天皇暗殺を計画、準備した疑いで死刑となった、いわゆる「大逆事件」の首謀者となる幸徳秋水と、もう一人、福岡県出身の堺 利彦・・・。
日露開戦前夜、開戦をあおり、国民を戦争への道へ駆り立てる中心者となったのが、福岡県出身、頭山 満翁であったのに対し、戦争前・戦争中を、一貫して非戦論を主張し続けた堺翁もまた福岡県出身者・・・。

堺翁は、明治3年の生まれといいますから、安政2年生まれの頭山翁より16歳年若になります。
頭山翁が、明治政府によって唯一、お取りつぶしになった筑前福岡藩の貧乏士族の子に生まれたのと同様に、堺翁は、会津陥落以前に高杉晋作によって落城の憂き目を見ていた豊前小倉藩の貧乏士族の家に生まれました。
ただ、頭山翁が、16歳の時、高場 乱(たかばおさむ)という男装の女性が開いた興志塾(人参畑塾)に入門した後、萩の乱に連座し、投獄されるなどの政治活動に傾斜していったのに対し、堺翁は、小・中学校ともに首席で卒業した秀才であり、17歳で立身出世を夢みて上京。
見事、一高に合格したものの、酒と遊びをおぼえて身を持ちくずし、中途退学。
その後、大阪で小学校教師をしたり、郷里福岡で福岡日日新聞の記者として勤めるなどしながら文学の世界で身を立てるべく小説の執筆を始め、時には、その文才を買われ、同郷の末松謙澄に招かれ、東京に設けられた毛利家編纂所『防長回天史』の編纂にも従事したこともあったとか。
さらに、『萬朝報』の記者として活躍し、社会改良を主張する論説の普及を図る一方で、社主の黒岩涙香、同僚の内村鑑三、幸徳秋水らと理想団を結成、この時期に、社会主義に開眼。
その後、週間平民新聞の発行に至るわけですが、これ以上は、割愛するとして、で、日露戦争開戦前夜の二人の主張ですが、早期開戦論者である頭山翁の主張は、前回述べましたので、今回は、反戦非戦論者である堺翁のそれを採り上げてみたいと思います。

このときの堺翁の主張を要約するならば、概ね、「戦争は支配階級私利私欲によるもの。たとえロシアに勝っても、後に残る物は子孫の代まで負担が続く公債の償還、過酷な重税、軍国主義、物価値上がりばかりだ」というものだったようです。
この翁の主張は、現実に、日露戦争後の日本の疲弊と、その後の右傾化路線を考えると、これはこれで、一理あることだったように思います。

ただ、当時は、命知らずの国士、浪人といった人たちが、うようよしていた時代で、反戦論を主張することは命がけだったようですね。
中には、「堺を切って出陣せよ!」とまで扇動する新聞まであらわれ、「国賊、非国民、露探 (スパイ)」などの誹謗中傷が集中したとか。
しかし、それでも、翁は主張を変えず、訴え続けたといいます。

ということで、堺翁のその後は、また、続きます。
                               平太独白
by heitaroh | 2007-05-09 17:03 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

日露戦争開戦にみる福岡縣人・頭山満と堺利彦の是非 2
親愛なるアッティクスへ

で、続きです。

e0027240_9175854.jpg頭山 満翁は、日露開戦に先立ち、ロシアが満州を占領したとき、近衛や犬養毅らとともに国民同盟会を結成、対露強硬外交を主張して全国運動を起こしています。
このときは、ロシアが満州の兵力を一部撤退させたことで、間もなく解散したものの、その後、再び、大々的な世論動員を展開。
世論を沸騰させる一方で、開戦を逡巡する政界の大御所、伊藤博文をたずね、言外に生死をかけた威圧で開戦決意を迫るという実力行使にもでたとか。

(このとき、伊藤からは、「今は、君たちの名論卓説よりも、一発の砲弾が欲しい」という言葉が出たのは有名な話です。)

しかし、現代なら、テロ行為の一種とも言って良いようなこの行動も、当時の世論からは英雄視され、拍手で迎えられたとか。

では、日露戦争開戦を積極主張した頭山翁の主張とはどういうものだったのか?
曰く、「ロシアは、日清戦争で日本人が血と肉であがなった新領土・遼東半島を強大な力でおどしながら、もぎとるように清国に返還させた。日本の遼東半島領有は東洋平和の害になるとして、日本を追い出しながら、自分のやったことはなにか。ひそかに清国に手を回し、満州鉄道敷設権を手に入れたり、平和を口にしながら軍艦を派遣して日本から取り上げたものを自分で占領、25年間の租借権を獲得してアジア侵略の足場を固めた。これはカをかさにきて日本、清国をみくびった切り取り強盗そのままの無法なやり方だ。連理の上からも許しておけない。ドイツ、フランス、イギリスまでが、ロシアにならってそれぞれ清国の領土をもぎ取り、各地を租借、アジアは白色人種に食い荒らされて亡国一歩手前の状態。どこに白人のいう正義があるのか」と。
そして、頭山翁の心配を裏付けるように、ロシアは、満州に続々と軍隊増派する動きを見せ始めます。
となれば、「日本の受けた屈辱をそそぎ、東洋人の手で東洋の平和を守る為には、ロシアを討ち、西洋列強をアジアから追い出すしかない」と。

頭山翁の行動を受け、燃え上がった世論の中で、慎重論が強かった政府も、もはや、開戦不可避とみて、明治37年1月、ついに、開戦の方針を決定します。
これにより、一気に、挙国一致、国をあげて、取り憑かれたように戦争へと走り始めた世情の中で、敢えて、強硬に反戦論を唱えた人物が出てきます。
その代表的な人物の一人が、福岡県出身 堺 利彦でした。
日露戦争をめぐって、開戦・反戦両極端の運動の先頭に立ったのは、いずれも、福岡県人だったという・・・。
日露戦争における福岡人の活躍に関しましては、以前から、平太郎独白録 「日露戦争と福岡人の奮闘に見る、男装の女傑と人参畑!」などの中で触れてきましたが、思えば、維新後、鳴かず飛ばずだった福岡県人も、この頃から、ようやく各界の一線に立つようになってきた・・・ということだったのでしょうか。

明日に続きます・・・続くと思います。
                          平太独白
by heitaroh | 2007-04-25 08:01 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

日露戦争開戦にみる福岡縣人・頭山満と堺利彦の是非 1
親愛なるアッティクスへ

e0027240_8522936.jpg最近、白州次郎という人がもてはやされていますよね。
しかし、私はこういう、すべてに渡って、ケチの付けようがない、素晴らしい人・・・を額面通りに受け取ることには、少し、首をかしげます。
少しマイナスの評価もあって、それを勘案して、初めて評価を下すべきではないのかと・・・。

実際、会田某という人の古いの著書の中には、白州次郎のことを、「戦後のどさくさに紛れて、広畑製鉄所英国資本に格安で払い下げようとした売国奴」などと書いてあるものもありました。
これが、事実なのかどうかは別にして(私も、この点に関しては、かなり、誤解ではないかと思いますが・・・。)、こういう、悪いことの一つも言われ、その上で、それらを勘案して、自分なりに評価するべきだと思うのです。
つまり、悪い評価がない、良い評価だけの人・・・というのは、ある意味、偏った見方になってしまう・・・ということですね。

その意味では、最近、「周恩来秘録」という本が出ているそうですね。
聖人君子化された中国の周恩来元総理の虚飾を暴く、つまり、悪い部分に触れた本だそうで、私もまだ読んではいないのですが、是非、読んでみようと思っています。
もっとも、それを読んでも、私の周恩来という人物への評価は変わらないと思いますけどね。
「やれもしないことをやるよりも、やれることの中で最善を尽くす・・・ということの方が結果的には成し遂げられる成果は大きい」というのが私の考えですから。
ただ、往々にして、この手の話には、「やれもしなかったことをやろうとしなかったことへの批判」というのがつきまとうようですが。

で、左右両極の異なった意見を聞いて、ことの是非を判断するという意味で、日露戦争開戦前夜の二人の福岡県人の動きを採り上げてみたいと思います。
まず、一人目は、以前、平太郎独白録 「日露戦争と福岡人の奮闘に見る、男装の女傑と人参畑!」でも、紹介しましたが、日本の右翼を作った人・・・とも言える、筑前福岡藩出身、頭山 満翁です。

で、頭山翁の日露戦争に対する考え方と行動については、明日以降(?)に続きます。
                          平太独白
by heitaroh | 2007-04-24 08:51 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 後編。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_13462751.jpg今日の博多は、桜も終わり、すっかり春爛漫です。
今年初めて、車の窓を開けて走り、ちょっと気が早いけど、アイスコーヒーを作りました。
こういう空を見ていると、今も世の中のどこかで争いごとが起きている・・・なんていうのが、何だか哀しい気分になってきます。
ということで、柄にもなく、平和主義者になったところで、明石元二郎シリーズ完結編です。

ここから先は、戦争終結後の明石に絞って述べてみようと思うのですが、元々、明石が工作資金として使った金は、公に出来ない機密費であり、ごまかそうと思えば、いくらでも、ごまかすことが出来る金であったわけですが、にも関わらず・・・。
明石は帰国時に機密費の使用使途について、きちんとした明細を、わずかな釣り銭と共に参謀本部に提出したそうで、その中には、明石が私的に流用した金、個人の遊興の為に使われた金は殆どなかったとか。
気にしない身なり、明晰な頭脳、動じない胆力・・・、そして、高潔な人柄と言うものが見えてくると思います。
(「身なりなど、顧みないのが筑前武士だ。」とうそぶいていたとか・・・。)

日露戦争終結後、帰国を命じられた明石に対し、ロシア革命運動の同士らは、「大佐、アナタハ、帰国シテハイケナイ!」と、共に戦うことを迫ったと言います。
明石が、この時点で、単なるアジテーターに留まっていなかった・・・、体を張って革命運動を支援していたということの、まさしく、アカシだったのではないでしょうか・・・。
彼は、その要請に対し、「私は、日本の軍人だ。」と拒絶し、帰国します。
この、「日本の軍人・・・。」という考え方は、この後も彼の生涯を貫くものとなりますが、惜しむらくは、明石は日本人としては、生まれてくるのが、40年・・・、いや、20年遅かった・・・。
やはり彼は、20年早く生まれてきて徳川幕府を相手に、勤王の志士として、腕を振るうべきで、日本にとっては、人材の浪費になった可能性が高かかろうとも、彼にとっては、その方が幸せだったような気がします。
(もしくは、同時代人であれば、ロシア人か中国人として生まれてくるべきだったと・・・。)

明石が去った後、ロシアの革命運動は一旦、頓挫し、レーニンらは、国外への亡命を余儀なくされます。
当時、ヨーロッパにおいて台頭していた新興国ドイツは、明石の活動を含め、かなり綿密に日露戦争というものを研究していたようで、日露戦争から10年後に勃発した第一次大戦では、タンネンベルヒ会戦での大勝利と、保護していたレーニンらを秘密裏にロシアに送り返すことで、ロシアを大戦から撤退させることに成功します。
その後、レーニンは、ついにロマノフ王朝を倒し、ソビエト社会主義共和国連邦・・・、通称、ソ連を成立させることに成功します。
ちなみに、昭和20年(1945年)の第二次大戦の日本降伏直前に、満州へなだれ込んできたソ連軍の快進撃に対し、スターリンは「これで日露戦争の仇はとった!」と言ったそうですが、しかし、レーニンは、革命成就後、「明石には感謝状を出したいくらいだ。」と語ったとも言います。

一方、明石は、戦後、一旦帰国したものの、それから間もない明治39年(1906年)、今度はドイツ大使館付武官となり、再び渡欧します。
が、夫人の病状よろしからず・・・ということで、歩兵第七連隊長を命ぜられ帰国。
(夫人は、明石の帰国を待つことなく他界。)
その後、明石は寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官警務部長を兼務し、韓国併合の過程では、「日本の軍人」として、ロシアの時とは逆に革命勢力を弾圧する側にまわります。
このため、歴代の朝鮮統監と並んで、明石の朝鮮での悪名は高いとか・・・。

大正2年(1931年)、任陸軍中将、翌3年、参謀次長として、参謀本部に復帰、7年、台湾総督を命じられ渡台。陸軍大将
台湾時代の明石は、朝鮮在任中とはまるで別人のような感が私にはあります。
こちらの方が、本来の明石なんだな・・・と。
水力発電所設置し、華南銀行設立
さらに、日本人台湾人均等教育を受けられるよう法を改正し、その飾らない性格で、部下からも愛され、現地人の評判も悪くはなかったとか・・・。

大正8年(1919年)10月、特別大演習陪観の為の、東京への船旅の途中、船中において重態となった明石は、急遽、郷里の福岡下船し、治療に専念したものの、この、存命中から、「総理の器」という呼び声も高かった男は同年10月24日、脳出血により、生家にほど近い大名町松本健治郎宅で逝去
遺言により、遺体は台湾に埋葬されたものの、その後の歴史の中で、あまり、良い状態にはなかったようですが、平成12年(2000年)、現地有志の手により改葬されたと聞いております・・・。

世界を股にかけた男が、最後は生まれた地で死ぬ・・・。
彼が望んでそうしたわけではないにしても、これもまた、ある意味、福岡人らしい・・・と。
                            平太独白
by heitaroh | 2006-04-20 18:34 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 中編。
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

私は、今から、二十年くらい前に「情報将軍 明石元二郎―ロシアを倒したスパイ大将の生涯」という本を読んだのですが、その中で、明石元二郎レーニンと初めて、相対するシーンが出てきます。
レーニンは、最初に、労働者が吸う安い煙草に火をつけながら、こういったそうです。
「われわれの運動を支援したいという申し入れですが、戦争相手の日本政府から金をもらっていたことがわかったら、民衆は私のことを何というでしょう?レーニンの民衆革命不純な動機からはじまったのだ、と私を非難するでしょう。」
レーニンの言い分は、レーニンの立場に立ったなら、至極、当然のことであり、この話を聞いたとき、まだ、20代半ばだった私は、思わず、ぐっと詰まってしまったことを覚えています。
しかし、これは逆に言えば、「誰からも非難されない大義名分があれば協力したい・・・。」と言ってるようなもので。

もとより、こういう話に議事録などあるわけもなく、話がどの程度、真実なのかはわかりませんが、これを読んだ限りでは、まさしく、国際舞台で相手を説得する上で、教科書となるような会話だったように思えました。
(以下、少し長いのですが、この大著より一部、抜粋致します。)

-------------------------
明石は、「レーニン君、私は君を見損なった!」と一喝し、こう続けたと言います。
「そうじゃありませんか。私は共産主義には詳しくないが、共産主義の始祖・マルクスは過去の制度や社会組織、風習を打ち破って、新しい秩序を作ろうとした……。ところが、あなたはいまだに祖国だの皇帝だの同一民族だのと、古い考え方にこだわっている。いいですか?お互いに目的は一つです。あなたはロシアの帝国主義に侵略された人々を糾合して、ロシアに革命を起こして社会主義の国を建設しようとしている。私は日本の自衛のためにロシアに対する戦争を支援しようとしている。どちらもペテルブルクの政府を倒すという目的では同じではありませんか?他人がどういおうと、革命が成功すれは、それは民衆の幸福であり、レーニンの名は民衆の組織者として永久に残るでしょう。しかし、小さな道徳論にとらわれて失敗すれば、レーニンの名は忘れられる。

君は祖国を裏切ることは、革命の同志やロシア人に具合が悪いというようなことをいう。しかし、君はロシア人ではない。タタール人ではないのか?タタール人の君がロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに、日本の力を借りたからといって、何が裏切りなのかね? 大体、いまのロシアのはとんど全部が、十六世紀までは君たちタタール人の国だった。君たちはいうまでもなく、かのチンギスバン大王子孫なのだ。それが十五世紀の終わりにロシア人のイワン三世モスクワ大公国を立て、イワン四世(雷帝)のとき、全ロシアのツァー(皇帝)を宣言するころからタタール人に対する圧迫が激しくなり、やがて各地で敗北したタタール人は、母国のモンゴルに帰り、一部がカザフを中心とする一帯に残ったのだ‥…。私のロシア史の認識は間違っているかね? レーニン君、君がどこかの国の援助を受けて、イワン雷帝の子孫であるロシアの宮廷を倒しても、それは当然の権利回復であって、なんら道義にもとるものではない。そうではないかね? レーニン君。

どうです? 必要なだけの資金を回しましょう。返却は無用です。見返りの代償は不要、私の方は政府の、いや参謀本部の作戦用の機密費です。
謀略は秘密作戦です。そう秘密です。秘密に君に金を融通して、秘密にロマノフの背中を衝くのです。もちろん、一枚領収書も、誓約書もいりません。いかがですか? 秘密ということは、全面的に相手を信頼するということです。男と男の約束です。私は絶対に金のことは口外しません。もちろん、必要に応じて参謀本部に報告しますが、当然、参謀本部も自国の機密費の内容を公開するなどというばかなことはやらないでしょう。」
-------------------------

まずは、古い考えを捨てろという、よくある一般論から入って、お互いにお互いを必要としている、目的は同じだ!という現実論に始まり、民衆の幸福、レーニンの名誉というタテマエと本音を並べ、それでも、レーニンが納得してないとみるや、一転、日本人が知るはずもないようなタタール人にとってのロシア史観を語り、チンギスハンの名前を出して奮い立たせ、ここで、おもむろに金の話を出し、最後に、ばれないことを言って聞かせて安心させる・・・。
一切の無駄を省いた・・・、それでいながら、言うべき事を言うべき順番で述べ、掘り下げるべき所は余すことなく掘り下げて語った、惚れ惚れするような見事なトークだと思います。

日露戦争後陸軍内部では、「明石一人で陸軍10個師団に相当した。」と言われたそうですが、司馬遼太郞氏に言わせると、「10個師団どころか、日本軍全体相当したのではないか・・・。」となるようですが、その点では、私も概ね、司馬史観に同意です。
あ、誤解のないように申し上げておきますと、無論、明石独りでロシアに勝てた・・・などとは露ほどにも思っていませんよ。
誰より、明石本人が思ってなかったのではないでしょうか?

即ち、日露戦争ほどの近代戦になってくれば、桶狭間織田信長今川義元を討ち取ったようなものとは、戦争自体の質が同じ戦争とは言えないほどにまるで違っており、つまり、近代国家における戦争とは、個人の能力の優劣で決まるものではなく、国家という大きな組織同士の「総合戦略」の優劣でこそ決まってくるものだと思うからです。
そして、先述しました日本側の6つの戦略というものこそが、それをよく体現していると思いますが、(ただ、このうちの殆どが、当初から成算があってのことではなかった・・・という点こそが、この戦争の勝利が如何に際どいものであったを現しているのでしょう。)一面で、これらは、それぞれがそれぞれで健闘しているうちに、有機的相乗効果を増していったが故の勝利であったと言え、即ち、どれか一つでも欠けてはならない勝利であったともいえるでしょう・・・。
具体的に言うならば、満州義軍の存在や明石の謀略工作が軍事的成功を助け、軍事的勝利が資金調達を容易にし、資金調達がまた軍事的成功に繋がり、それがアメリカ和平仲介意欲を高め、それがまた、「いけるぞ!」ということになって明石の革命工作も盛り上がる・・・といった具合に・・・。

明日に続きます。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-04-19 08:27 | 歴史 | Trackback | Comments(4)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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