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宇都宮で拙著発見、結構、新鮮に驚いてます。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_13424294.jpg宇都宮にもありました。
(←拙著です。)

市内都心部にある大きな本屋さんのうち、4軒中3軒で発見!
4打数3安打とは私ごときの著書としては、上々出来の成績で、我ながら・・・、正直に言って・・・、まったくもって・・・、結構、新鮮に驚いてます(笑)。

ところで・・・、かつて、大久保利通は「西郷隆盛は片方の頬を少し緩ませるだけで万人を魅力出来るが、私にはそういう力はない」という内容のことを言ったというように記憶しておりますが、実は私の友人にもそういうやつが一人おりまして…。

別に何をするというわけでも無いのに卒業する頃にはクラス中の人望を集めてましたし、卒業して後もわざわざ、こいつを指名で仕事が来るほどで、こいつの人気で会社はもってるとまで言われていたそうです。
で、かつて、一緒に机を並べた仲なのですが、今、色々あって、そいつと一緒に仕事しており・・・。
私から見ると気が利いたことの一つも言わないし、ろくに愛想も無いのにやはり、しっかり、人の心を掴んでいるようで、徐々にこいつの周囲に人が増えていくのを実感しています。
で、私にはどう頑張ってみても、こいつのような人に好かれる要素は製造の段階で配合されていないようで、(かつては何とか、こいつみたいになれないものかと努力してみたことはあるものの、人に嫌われることはあっても好かれることは皆無なわけで…)となれば、もう、出来もしないことはすっぱりと諦めて、大久保利通同様に、私には私にしか出来ないやり方で斬り込もうと思っております。
                                 平太独白
by heitaroh | 2011-04-16 17:42 | その他 | Trackback | Comments(0)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その8
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

事実がどうだったのかはともかく、もし、伊藤博文のケースが吉田東洋のそれと同じであったとしたら、日本の帝国主義者たちにしてみれば、目の上のたんこぶだった伊藤が消えてくれたことは歓迎すべき事態だったということは十二分に有り得る話だったでしょう。
だからこそ、伊藤は死に臨んで、自分を撃った相手が韓国人だと聞くと、「ばかなやつだ」と呟いた・・・と。
この最期の言葉を、「明治の人物誌」の中で星 新一氏は「自分を殺せば韓国のためにも、日本のためにもならないという意味ではなかろうか」と述べておられましたが、私には、「俺を撃ってどうする」・・・という意味と共に、相手への暖かみがある言葉に聞こえます。

そう考えれば、著者は同時に、「韓国人が伊藤博文を豊臣秀吉と並べて二大悪人と呼ぶのは、当然である。植民地支配への引き金となり、そのシンボルとなったのはたしかなのだ。しかし、日本人までが戦前の評価を裏がえしにし、大陸侵攻の元凶とし、責任を彼ひとりに押しつけてしまうのはどうか」と言っておられましたが、この点で思い出す話があります。
以前、伊藤の子孫の家に突然、韓国の国会議員を名乗る人物が訪ねてきて、何かの式典に出席し、安重根の子孫と和解するというセレモニーへ参加してくれと要請されたそうで、このとき、伊藤家側は困惑し、外務省に聞いたところ、「見送るように」と言われたので断った・・・という話でした。
これが何年前の話なのかは失念しましたが、今でもまだ、伊藤に対する嫌悪感が抜けていないことを考えれば、「和解」と言っても、下手をすれば壇上で吊し上げにあうことになった可能性もあり、外務省が止めたのもその辺を懸念してのことだったのでしょう。

もっとも、この辺の詳細についてイマイチわかりませんし、韓国側の思惑がどういうものだったのかも良くわかりませんので、これ以上、迂闊なことを申し上げる気はありませんが、一方で、同書には日露戦争のあと、伊藤が西園寺公望首相を始め、軍関係者に対して、「満州にあるロシアから譲渡された権益を保有することには、なんの問題もない。しかし、その地は清国の領土。戦いが終ったいま、軍をとどめておくことは許されない。その地方の行政および治安は、清国に一任すべきだ……」と言って、「窓ガラスがふるえるほどの大声でどなりつけた」という記述があります。
この点は、伊藤の師匠と言っても良い大久保利通も、台湾出兵による清国との交渉の後には、「実際の補償に当てた以外の賠償金は清国へ返還すべし」ということを言ったように記憶しておりますが、思えば、この師弟には共通点が多いですね。
共に近代日本に置いて大きな業績を為し、共に暗殺され、共に良く思われていない・・・、そして、共に、死後、あまり遺産を遺さなかった・・・と。

でもって、この「明治の人物誌」を読んで、もうひとつ、思ったのが伊藤は徹底した「平和主義者」だったのではないか・・・ということです。
彼が、日露戦争開戦前夜、大勢が「開戦」に傾きつつある中、独り、開戦を逡巡したことはよく知られてますが、それは平和主義などではなく、「勝てる」という確証が得られないがゆえの逡巡であり、その辺は、開戦を促す頭山 満に、「諸君らの名論卓説よりも、今は一発の砲弾が欲しい」と言ったことでも見て取れるように、現実主義政治家面目躍如たる話だとばかり思ってました。

明日に続きます。

                                         平太独白
by heitaroh | 2010-02-03 18:38 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

もし織田信長が本能寺の変で死ななかったら・・・
親愛なるアッティクスへ

e0027240_12542929.jpg「照りつけど
  素知らぬ顔の
    京のまち」


過日、京都に行ったときの物です。
この日も暑かった・・・。

ところで、織田信長本能寺の変明智光秀の謀反にあって横死したときが49歳・・・。

e0027240_13214611.jpgこれを聞いたとき、「信長も『人間五十年~』と謡っていた割には、一年足りなかったな・・・」と思ったのですが、まあ、遅いよりは早い分にはいいのかな・・・と(笑)。

また、信長と同様に私が敬愛する、大久保利通も、同じく49歳で暗殺されています。

その意味では、人間五十年の時代、50歳というのはひとつの到達地点であり、それ以降はまさしく、「余生」という感じで「生きていたら儲けもの」みたいな感覚だったのでしょう。
したがって、それ以前に巡ってくる「厄」ってやつは、必ずしも、迷信ばかりではなく、人間五十年の時代に、人が体調に変調を来しやすい年齢だったのだとか。
だから、男女厄年が違うわけで、おそらくは、「近所の何助さんが49歳で死んだ」、「うちの親父もが寝込んだのは42歳だった」・・・という自然のデータの蓄積が、「気をつける年齢」ということで「厄年」になったのではないかと思いますが、ただ、そう考えれば、信長も大久保利通も満で48歳だったわけですから自然死ではなかったとはいえ、まあ、平均寿命に近いところではあったわけですね。

ちなみに、「もし、織田信長が本能寺で死ななければ・・・」とは、よく、言われることですが、私はこういう人の運命なんてのにはあまり、大きな「もし」はないと思っています。
以前、ある方に、「私も、進路の選択時にそちらに行っておけば、今頃はそちらにいたんですよ・・・」ということを言われたことがあるのですが、それを聞いて私は、「いやぁ、たとえ、こっちに来られていたとしても、結局、曲折はあっても今と同じようなポジションに来ておられるものですよ。人間の運命なんて、そんなもんですよ」と言ったことがあります。
相手は怪訝な顔をされてましたが、その論で言えば、信長も、ここで死ななくても、案外にぽっくりいったような気がしますよ。
信長は、特に、健康状態に問題はなかったと言いますが、48歳と言えば、当時では、ぼちぼち、いつ逝ってもおかしくないような年齢であり、現に信長の父、織田信秀も数えの42歳(まさしく厄年(笑)。)で、突然、急死していますから、かならずしも、根拠のない話ではないでしょう。

所詮、人の世なんて、そんなもんじゃないでしょうか・・・、御同輩。
                           平太独白
by heitaroh | 2008-08-18 05:53 | 思想哲学 | Trackback(1) | Comments(8)

歴史の真実
e0027240_10581740.jpg昨日、を見ました。
なぜか、薄暗い古アパートに一人で住んでおり、弟を連れて帰宅してみると泥棒が入った形跡があり、よくみると、窓の鍵をかけ忘れてる・・・。
慌てて財布を探していると、弟が「あったよ」と言って、散らばった床から拾いあげました。

ならばと、他の貴重品を探しているところで・・・夢から覚めたのですが、今朝、玄関を見てみると、鍵を差し込んだままでした。
特に盗られた物はありませんでしたが、ちょっとびびりました。

ところで、唐突ですが、企業が自分の力の100%を発揮できているところは少ないと思います。
ひどいところは半分も力を発揮できていないのではないでしょうか?
そう考えると新規開拓するとか、新たに積み増すなどということをやるより、70%しか力を発揮していないところは80%になるように、80%のところは90%になるように、少しでも100%に近づけること、即ち、水の流れを妨げている様々な弊害を取り除くことを考える方が効果的なのではないか?と思います。
(かつて、明治の元勲、大久保利通「一利を為すは一害を除くにしかず」という徳川家康の言葉を好んで使ったといいます。西洋化政策を推し進める立場にあった大久保がこういう言葉を使ったというのは、少し意外でしたが、さすがに、大久保は何を導入し、何を導入すべきでないという基準が出来ていたということでしょう。もっとも、元はチンギス・ハーンの名宰相として知られる耶律楚材の言葉だそうですが。)

私が昔いた会社でも、こういう傾向が強く、私が売り上げを上げると多くの人が喜ばないという不思議な現象が多々ありました。
(つまり、これが、以前、申しました、「社長の利益と会社の利益は=の上下に点々だが、社員の利益と会社の利益は=に斜め線だ」ということです。)

その意味では、歴史とは何が真実で何が真実でないか、実際に世の中を生きているとよくわかるような気がします。
規模や時代に違いはあれど、人間模様に違いはないからです。
史書とは必ずしも真実が書いてあるとは限らない。
勝者、あるいは著者によって都合良く書き換えられるということもあるでしょう。
また、書き手の事実誤認ということもあるでしょう。
そんなとき、人は会社運営、組合活動、ビジネス、親戚づきあいなどの人間模様を通して、「史書にはああ書いてあったけど、意外に歴史の真実とはこんなもんだったのでは・・・」などという機微に触れることがあるように思えます。
会議の席でも「何を言ったかではなく、誰が言ったかが問題になる」ということをよく聞きますが、それなどは、その典型なのでしょう・・・。
                             平太独白

by heitaroh | 2008-05-17 08:34 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)

「季布の一諾その1 大久保利通・田中角栄に見る権威の淵源
以前、ある会の申込書を書いたことがあるのですが、その中に「信条」などという項目がありました。
事務局の方に、「信条なんか書くんですか?こんなの書かなくていいでしょう?」と尋ねると、「いえ、それが大事なんですよ」と・・・。

でも、突然、信条なんて言われても・・・。
当時、ニューヨークメッツに居た「新庄」と書こうかと思いましたが、また、「不真面目だ!」などと怒られてもかなわないし・・・と思って、しばらく考えた挙げ句に出たのが、昔見た、エリザベス・テーラーモンゴメリー・クリフトの映画、「陽のあたる場所」の中のセリフ、「率直さは美徳である」でした。
以来、この言葉は私の様々な信条欄に載るようになりましたが(笑)、もう一つ、私には、「座右の銘」的な意味合いで使っている言葉があります。
それが、「季布ノ一諾ニシカズ」です。

季布という人物に対しては、まあ、晩年は生身の人間らしいエピソードもあるようですが、ともあれ、「季布ノ一諾ニシカズ」とは、「彼が一旦、『諾!』と言ったことは、どんな物よりも価値がある!」と言われた・・・ということであり、言うならば、「約束を守りましょう・・・」的な意味なのですが、この点で私には思い浮かぶことがあります。

明治以降の日本の権力者で、とかくの批判はありながらも、知恵者・くせ者・切れ者・・・といった多くの政敵が、それぞれに、様々な手段で挑みながらも、誰も、どうにも倒せなかった不倒翁とでも言うべき人物が2人います。
私には、この二人の強さと言うものは、「実力」・・・というものを通り越して、もはや、ある種、運命的ですらあったようにさえ思えます。
それほどまでに、誰も排除することが出来なかった2人の人物、それが、大久保利通田中角栄です。

大久保には、江藤新平、西郷隆盛らが、田中には福田赳夫、三木武夫ら、様々な個性が様々な手段で挑みましたが、結果的に誰も彼らを追い落とすことができませんでした。
で、しばらく経ってから、ふと、この二人に共通点があることに気づきました。
この二人の強さの秘密・・・、それこそが、「一諾を守る」ということだったように思います。
大久保は、OKの時は、「それは、御裁可になるでしょう」という言い方をし、田中は、一言、「わかった」と言ったといいます。
そして、二人が一旦、OKと言ったモノは、絶対に実現したと。
それこそが、単なる権力者とは違う、この二人の、運命的にまで強い権威というものの淵源となっていたように思えます。

田中は、選挙になると、各地の首長のところへ直接、電話をかけ、「以前、陳情があったあれだが、やることに決めた」とだけ言った・・・というのは有名な話ですよね。
「代わりに誰々を応援しろ。」などとは言わない。
ただ、「やる」だけで、事足りる・・・。
田中が「やる」と言うのは、絶対に「実行される」ということでもあり、空手形に終わる可能性がないという点で、他の権力者の「やる」とは、重みがまるで違ったわけで、これが、闇将軍と言われながらも、田中が求心力を持ち得た大きな要素だったと思います。

一方、大久保は、目を開けていたら、誰も、まともに顔を見ることが出来なかったと言われるほどに威厳があったそうですが、これなども、権威というものの本質をよく物語ってくれているように思えます。

権威というものは、権力を持てば自動的に付いてくるものではない・・・。
ということで、「今宵!」と言ったら今宵ですぜ、御同輩・・・。
                               平太独白
by heitaroh | 2008-01-19 08:59 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(4)

「もうこれで」で終えてはいけないの今年の年末ご挨拶
親愛なるアッティクスへ

e0027240_1841154.jpg一昨日は、毎年、恒例行事となっている年末も押し詰まってからの気心の知れた連中との、今年最後の忘年会でした。
で、年末の大掃除の際に、昔の宴席での「人様に見せることが出来ない写真」がたくさん出て、その宴席に、それを持って行って、皆で見たのですが・・・。

最初、「こんな写真、流出したら、訴訟モンだよな」とか、「まだ、携帯デジカメもない頃だよ」などと言いながら、大笑いして見てましたが、段々、皆、そのうちに、「こういうバカが出来たのが若さなんだよな」と・・・。
今思えば、よくもまあ、来る日も来る日も、大した理由もなく、こういうバカ騒ぎをやっていたもんだ・・・と。
否応なく、自分の年を思い知らせてくれたような気がした一夜でした(涙)。

で、本日の本題です。

「もうこれで・・・と言って幕を引いてはいけない」

この言葉は、ローカル岡という二年ほど前に亡くなったお笑い芸人の方の言葉だそうですが、ご存じでしたでしょうか。
実は私も存じ上げなかったのですが、この方は50歳で人気が出た遅咲きの芸人さんだそうで、つまり、ずっと鳴かず飛ばずだったことから、「もうこの辺で・・・」と言って、50歳前のどこかの時点で廃業していたら、この人の名前が歴史に残ることはなかったわけですね。
(ちなみに、その宴席でも、必然的に、「織田信長大久保利通49才で死んだんだよな」という話が出ました・・・。)

e0027240_18133144.jpgで、このブログも2年半を数えたこともあり、もう、ぼちぼちいいかな・・・という気持ちになってきました。
その理由は、これにとられているエネルギーです。
私の場合、自分の中で溜まっていった欲求不満のようなもの吐き出すという行為が文章なのですが、このブログを書いているせいで、それをチョコチョコと吐き出すことになってしまい、一向に欲求不満が溜まらないんですよ。

(あくまで、「欲求不満のようなもの」であって、欲求不満ではありません。ここのところ、ご婦人方におかれましてはくれぐれも誤解のないよう御願い致します・・・(笑)。第一、もう、そちらの方は欲求自体があまり・・・、いえ、何でもないです。)

で、明年3月で当ブログも、まる三年に相成ります。
これも偏に、皆々様のお引き立ての賜ではありますが、上述のような理由で、三年を過ぎれば、ちと、歩みを緩めるかもしれませんが、何卒、宜しくご理解を賜りますよう御願い申し上げます。

ということで、今年一年、本当にお世話になりました。
どなた様もよいお年をお迎え下さい。

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by heitaroh | 2007-12-31 00:46 | その他 | Trackback | Comments(6)

偉人たちに見る各人各様の指示の要諦。
親愛なるアッティクスへ

織田信長という人は主語述語を余り述べない人だったようで、家臣たちにとっては、何を言っているかよくわからない困った上司だったとか・・・。
まあ、こういう、頭の回転が常人以上で、行動力もずば抜けた人であれば、さもありなんという気もしますが、頭の回転に口が付いていかず、また、それがわからなければ感情を行動に出してしまう、とんでもない上司ですから、家臣たちも迂闊に聞き返すことも出来ず、大変だったでしょうね。
で、これについて、思い出した話があります。

昭和30年代だと思うのですが、ある財界の大物社長がいらっしゃったそうですが、残念ながら何を言っているか、よく、聞き取れない人物だったそうです。
で、それがわかったのが、唯一、後にその会社の社長となった、ある人物だけだったそうで、この人は、「何で、アナタにだけわかるの?」と聞かれるたび、「そんなもん、スワヒリ語だと思えば簡単さ・・・。」と答えていたとか。
まさしく、木下藤吉郞だったのでしょうね。
結果、何かあると、「もういい!藤吉郞を呼べ!」となったわけで、以来、彼は社長の重要な腹心となり、その後も出世を重ねていき、最後はその会社の社長にまでなったとか・・・。
彼は、その社長が「何を言っているか・・・」だけを「解読」することに専念したことで、出世の糸口を摑んだのであり、これは、ある意味、着点を変えた・・・発想の転換だったとも言えるでしょう。

この点で、同じく・・・というか、違う意味で、徳川家康と言う人も何を言っているか、よくわからない人だったそうですね。
でも、この人の場合は、まあ、いかにもこの人らしいというか、部下に何か指示を与えようとするとき、始めはハキハキ言っているのに、途中から怪しくなっていって、最後は口の奥で「モゴモゴ・・・。」となってしまっていたとか・・・。
家臣の側からすると、よく聞き取れないもんで聞き返すけど、また、途中まで聞いたら、「モゴモゴモゴ・・・」となるそうで、こうなると、さすがに上司相手に、そう何度も聞き返せるものでもなく、後は自分なりに解釈して行動に移していたけど、それに対して、特に何も言われないので、ずっと、そうやっていたと・・・。
つまり、家康は物事を明確に指示しないことで、自ら、部下に考えさせようとしたわけですね。
中には、家康の意にそぐわないことになってしまったケースもあったでしょう。
しかし、家康は、その場合でも素知らぬ顔で、何も言わず、我慢したわけですね。
徳川三百年の基礎を作った徳川武士団というものは、こういった、家康の辛抱強い社員教育あってのことだったということがおわかりいただけると思います。

この点では、明治の元勲、大久保利通伊藤博文大隈重信ら、辣腕の若い部下から非常に人気があり、同じく明治の元勲の一人、木戸孝允は、あまり人気がなかったとか。
彼らが、木戸の元に行くと、事細かに指示されるのに対し、大久保は上申書に目を通すと、「これだけか?」と問い、「はい。」と答えると、「わかった。」とだけ言って、自由にやらせたとか。
彼らにとっては、まさしく、理想の上司だったでしょう。

もう一つ、太平洋戦争の名将・山本五十六元帥は、残業しないことで有名だったそうで、夕方、自室に戻ってくると、机の上に山と積まれた書類に、秘書官曰く、「スタンピング・マシーン」と呼ばれるほどのもの凄いスピードで決済印を押していくのだそうです。
でも、いいかげんな押印なのかと思えば、そうではなく、問題がありそうな箇所はピクッと止まって、じっと読み、また、もの凄いスピードで押印を始めるのだとか。
で、終わってみれば、きちんと振り分けは出来ているそうで、しかも、それで、殆ど問題も起き無かったと言います。
このマジックの種、それは、「どうやら、提出者の名前で見ていた」ようで、つまり、「こいつなら、任せておいていいだろう。」という人と、「こいつは、ちょっと。」という人を分けていた・・・と。
                             平太独白
by heitaroh | 2006-02-21 18:03 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

マンネルハイム元帥に学ぶ国家としての良寛の教え。
親愛なるアッティクスへ

良寬という人の名言に、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これが災難をのがるる妙法にて候」というのがあります。
この点は、国家においても、同じ事が言えるのではないでしょうか?

昨今の日本外交の閉塞感に伴い、感情論ばかりが先走る国内世論・・・。
これらの人たちは、論拠の是非以前に、対中・対米などのすべての関係で、もしやするとすべてに勝とうと思っているのではないでしょうか?
すべてに勝つなどというのは、日本のような小国にとって、普通に考えれば出来得る話はないのですが、そう言うと、大体、返ってくるのは、「アジア諸国との連携を深めて中国牽制すべきだ」、「EUと結んで、アメリカに対抗するべきだ・・・。」などというような安直な意見です。

日清戦争後三国干渉の際も、ときの明治政府の選択肢としては、
拒否 
②列強のバランスオブパワーをうまく利用して回避 
受諾
・・・の三つがあったと言われていますが、この中で、もっとも厄介なのが②だと思います。
②は、一見、良さ気に見えますが、国家間の利害というものは、確かに、自国の利益の為に第三国を排除してくれることもありますが、逆に、「強きを助け、弱きをくじくことで利を得る」場合もあり、また、仮に排除してくれたとしても、その国も別にボランティアで排除してくれたわけではないのですから、その国が送り狼になってしまう・・・ということも無いわけではなく、実際に、そうなってしまったケースも決して少なくはなかったようです。

無論、ナポレオン戦争後の「会議は踊る」で有名なタレーランの例もないわけではありませんが、これは、極めて苦肉の策的なイレギュラーなケースであり、あまり、国家指導者が取るべき対応としては現実的だとは言えないでしょう。
(そもそも、日本は先の大戦に負けたときから、アメリカの軛の下に置かれているわけで、それから抜け出したいのなら、もう一度、戦争してアメリカに勝つか、アメリカの力が弱まるのを待つしかなく、だとすれば、嫌な目にあわされようが、信長に我が子の首を差し出した家康よろしく、とにかく、我慢するしかないように思います。)

そして、この点で、欧米列強の侵略に対して、独立を守ったタイの対応と並んで、好事例のひとつとして挙げられるのが、第二次大戦中のフィンランドの指導者、マンネルハイム元帥「勇気ある妥協」です。
以下、我が敬愛する大橋武夫氏の著書「ピンチはチャンス」から一部、抜粋しますと、
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1939年9月1日、第二次世界大戦勃発とともに、ソ連はフィンランドに対し以下の条件を強硬に要求してきた。
一、カレリア地峡の国境より40kmほどの部分の領土割譲。
二、フィンランド湾内の四島の譲渡。
三、ベツモア地区内の漁夫半島の譲渡。
四、ヘルシンキ西方120キロのハンコウ湾にソ連海軍基地設置。
これに対し、当時、フィンランド軍を指揮していたマンネルハイム元帥は「承知せよ」と進言したが、政府はこれを拒否。
そのため同年11月30日、ソ連は50万の大兵をあげて、フィンランドに侵攻してきた。
フィンランド軍13万は、マンネルハイムの指揮のもとに、雪と複雑な地形を利用して善戦し、ソ連軍に20万もの損害を与えて大いに苦しめたが、頼みにしたスウェーデンの援助もなく、国際連盟の仲裁も実効がなくて、漸次苦境に陥り衆寡敵せず、翌年2月、マンネルハイムの切なる進言を納れて、ついに無条件降伏した。

このときの、ソ連側の和平条件は、
一、カレリア地峡の割譲。
二、ラドガ湖北岸地帯の割譲。
三、ペツアモ地方の割譲。
四、ハンコウ半島の譲渡。
という、当時のフィンランド大統領が発狂したほどの苛酷な条件を押しつけられた。
結局は、無駄な血を流して、和平条件を厳しくしただけ・・・という結果に終わったわけで、開戦前に、マンネルハイムの進言に従うべきだったのである。

1941年6月22日、今度は独ソ開戦となるや、フィンランドは進攻してきたドイツ軍とともにソ連を攻撃することになり、フィンランド軍は8月末には1940年に失った領土を回復。
マンネルハイムは将来のことを考え、「ここで停止する」と強硬に主張したが、ドイツ軍はこれを許さず、フィンランド軍は東カレリアを攻略してムルヤンスク~レニングラード鉄道に迫るという有利な態勢となった。
1944年1月、ドイツ敗退に伴いソ連軍は逆襲に転じ、6月、カレリア地峡の国境を突破したため、フィンランド軍は苦戦に陥り、8月1日、リーティ大統領は辞任し、後を受けたマンネルハイムは9月14日、ソ連と停戦協定を結んだ。
主なる条件は、
一、ポッカラ地区(ヘルシンキ西南万)地区を50年間ソ連に租借させる。
二、オーランド諸島(フィンランド湾出口)を非武装化する。
三、ペツモア地区をソ連に割譲する。
四、3億ドルの賠償金を6年以内に支払う。
五、1940年の国境を認める。
9月19日、フィンランド国会は200人中108人の賛成をもって、涙をのんでこの降伏条件を受諾し、マンネルハイムは「神よフィンランドを救い給え」の末文で終る停戦命令を発した。

フィンランドは勝てなかった。
しかしマンネルハイムの「善戦バックとする勇気ある妥協」によって、ソ連軍による軍事占領を辛くも避け、ともかく息の根をとめられることだけは免れた。
小国のとるべき国家戦略として学ぶべきものが多い。
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マンネルハイム元帥は、出来ないことをやらずに、出来ることの中で精一杯のことをやったと言えるのではないでしょうか。

以前、平太郎独白録 「薩英戦争にみる外交交渉」で出てきた「天皇の世紀」というドラマの中で、薩英戦争後の御前会議において、強硬派の面々は、敗戦を認めることについて、「されば、薩摩の面目は如何する!薩摩の威信は地に落ちるぞ!」と迫る場面がありました。
これに対しての、劇中での大久保利通の言葉こそが、すべてを総括しているように思えます。
「威信が地に落ちても良かとやごわせんか。最後に勝てば良かとやごわせんか・・・
これこそが、「敗北を免れる妙法にて候」ではないでしょうか、御同輩。
                        平太独白
by heitaroh | 2006-01-12 08:51 | 国際問題 | Trackback | Comments(4)

江藤新平の蹉跌にみる論理と力のパラドックス
親愛なるアッティクスへ

e0027240_1710895.jpg九州データブックというのが本屋にあったので、つい買ってしまいました。
笑ってしまったのが県民性の欄で、福岡県は「真実曲げても面白ければそれでいい」と書いてありました(笑!)。
マジですよ。
ちなみに佐賀県は、「普段の生活を切り詰めて、お金や財産を残したい。」が全国で二番目に多かったそうです。て言うか、あの佐賀が二番目って、一位はどこ???

で、先日、友人の秋田在住横浜人が来たので、その佐賀まで観光に行ってきました。

吉野ヶ里遺跡から大隈重信記念館へ行き、その後、佐賀城に行ったところ、佐賀城では、中に入ると、ボランティアのガイドとして初老の方がおられ、色々と説明を受けるうち、私が「江藤新平が打ち首になったところはどの辺りだったんですか?」と聞くと、その方は、「あの城門の前のNHKの辺りですよ」と懇切に教えてくださいました。
帰途、城門を出て、江藤新平が斬首されたという辺りを横目に見て、駐車場に向かっていると、私にはある感慨が湧いてきました。
それは、他ならぬ、その江藤新平という人物についてです。

江藤新平とは、明治初期の佐賀藩出身の政治家で、明治日本の法律関係を殆ど一人で整備したと言われている人ですが、江藤は自分が作っただけに、「法律」というものを誰よりも知悉していたわけで、それだけに、最大の政敵、大久保利通に対してさえも「大久保は(自分から見れば)子供よ!」と言い放ったといいます。
ところが、実際には揺籃期にあった明治政府は、まだまだ、法律よりも特定の個人の意向が反映される部分が大きく、絶大なる権限を握る大久保は、開戦挑発の後、反乱の口実を得るや、自ら軍隊を率いて乗り込み、力でもって佐賀の乱を鎮圧し、「たとえ、罪人でも法廷で裁かれるはずだ!」と主張する江藤をお構いなしにさらし首にしてしまいました。
これが、江藤と大久保という論理のパラドックスの結果です。
論理の上で正しい江藤が逆に「子供のような」結果になってしまったわけです。
でも、こういうことというのは、往々にしてあることなんですよね。
完璧に理論武装していても、相手の強大な力によって押しつぶされてしまうということが・・・。

これらの話は、少々、法治国家を過信している現代の日本人には、まさしく警鐘なのではと思えてならないのですが、如何でしょうか?

      ・・・・平太独白
by heitaroh | 2005-06-14 18:03 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

意識朦朧 魑魅魍魎 宗教界の怠慢にみる新興宗教の台頭
親愛なるアッティクスへ

初めて著書を出版した折、年末押し迫っての打ち合わせ依頼で、久々、上京した時に機中で書いた物です。
「さらば見慣れた街よ。僕は機上の人となる」

ついでに、そのとき、東京紀尾井坂の、大久保利通殉難の地での一句をもう一つ。
「上見据え 風に煽られ 気負い坂」 梁庵平太

で、何の関係もなく、本題です(笑)。

以前、テレビでブッダというのがあってましたけど、それを見て、少し思ったことがあります。
タイでは心に迷いや悩みが生じたとき、一生のうちに何度でも、修行僧として修行にいっていいらしいですね。
エイズに感染した人も、悩んだあげくそこに行く人もいると言います。
で、日本と違うなーと思うのが、修行に行って、帰ってきてからも、机が無くなったりするどころか、逆に尊敬されるのだそうです。

タイのこのシステムは良い。
本当の「人に優しい」制度慣習ですよ。
だからでしょうか、以前、テレビで「大金を拾った」というドッキリを4ケ国で仕掛けたとき、他の国は皆、「やった!ネコババしよう」と大喜びだったのに対し、タイのお父さんだけが、「警察に届けなさい」と言い、渋る家族に対して、「これは、我々のお金ではない!落とした人が困っているはずだ!」と言って、強い口調で言いつけていました。
まあ、テレビのバラエティ番組でのことですから、どこまで真実なのはわかりませんし、たまたま、タイ人がすべてそうというわけでもないでしょう。
しかし、少なくとも、タイ人の気質の中にそういう部分があることは認めて良いことで、それはすなわち、敬虔な仏教徒としての信仰に裏打ちされた物だろうと思います。

それに引き替え、今の日本の宗教界は本来の役目を忘れていると思います。
本来、人の心を救うのが宗教であるはずですが、皆、それを忘れ、目を向けなければならないところを見ようとはしない。
典型的なのが、お布施のことばかり考えているお寺・・・。
前にオウムの事件があったとき、「坊さん百人に聞きました」という番組があってましたけど、その中の一人が、「自分たちは昔ながらの父ちゃん母ちゃんがやっている個人商店だが、オウムなどの新興宗教はコンビニなんだ。どういうことかと言えば、オウムなどは24時間365日、心に痛手を受けた人はいつ行っても、すぐに修行を受けられるが、こちらは突然来られても困る。布団などのような、受け入れる設備も用意もノウハウもないからだ」と言っていました。

確かに、もし社員の中に業務が不能なくらい心が病んでいる者がいて、お遍路さんでも滝行でも、そういう修行に行きたい・・・と言い出したら、 一定期間休ませてもいいのではないか・・・とも思うのですが、現実には受け入れる側にも、送り出す側にも、システム以前に、準備配慮もない以上、オウムなんかに引き入れられる人たちが増えてくるのはやむを得ないことだと思えます。
日本の本当の宗教人は今 東光で最後だったんじゃないでしょうか。
そんな気さえします。
                                            平太独白
by heitaroh | 2005-05-11 19:03 | 思想哲学 | Trackback | Comments(2)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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