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映画看板の神様に昭和を見た
e0027240_15122954.jpg先日、ちょっと所用があり、久しぶりに旧博多部(いわゆる本当の「博多」と呼ばれる所です。)に行って来ました。
わかりやすくと言うと、博多駅から博多港に向かう間の地域・・・といったところで、旧市街という点では、ちょうど東京で言えば神田みたいな感じでしょうか。
でも、この辺はまだ、私が子供の頃の世界、下人参町時代の雰囲気が残ってますねぇ。
で、所用が午前中で済んだので、昼飯がてら、ちょっと行ってみたい所があり、ちょいと行ってきました。

それが、ちょうどこの日まで「博多百年町家 立石ガクブチ店ギャラリーで開催されていた、「映画看板の神様」と呼ばれた城戸久馬之進画伯の作品展です。
まず、こちらの立石ガクブチ店さんは、如何にも、この地域らしい老舗で、築100年を超えるという店内にはまだ、昔の防空壕(↓)が残ってました。

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深さは当時の半分くらいになっているそうですが、この辺りは、元々、平安時代頃からの埋立地で、戦前までは井戸が使えず、飲料水は売りに来ていた物を買っていたというような地域ですから、当然、乾燥した土地柄とは到底考えられず、良くぞ朽ちもせずに残っていたなぁと感心。

でもって、本題ですが、ご承知の通り、昭和30~40年代の映画看板という物は基本的に使い捨てでしたから、今でも殆どが現存しておらず、(今残っていたら、結構な芸術作品扱いになるんじゃないでしょうか。)それは、この方とて例外ではなく、現物は残ってなくて、あるのは弟子が勉強の為に撮影していたという写真のみだそうです。
それでもこの世界では東京はおろか、アメリカからも視察に来たというほどに、日本一の呼び声高かった人のそれですから、 さすが!と思わせるものがありましたね。
(アメリカにもこういう物はあったそうですが、実にざっとした物だったそうで、それをここまで昇華させる辺りが如何にも日本人らしい・・・と。)
当時の日本人は4階建てビルに相当するスタイル抜群のブロンド美女の看板を見て、腰を抜かしたんじゃないでしょうか。
(あるいは、戦争に負けたことを実感したのかも(笑)。ちなみに、こういう、フレームから飛び出すようなことをやったのも、この人が日本で初めてだそうです。)

これらの映画看板については、ご興味お有りの方はこちらをどうぞ。
一見の価値在りと思いますが。
                  ↓
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kidomuseum/koukoku/index.html

親愛なるアッティクスへ
                                         平太独白
by heitaroh | 2013-01-24 07:56 | 文学芸術 | Trackback | Comments(2)

狭いようで結構広いぜ福岡市。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_1423664.jpg色々と頭を悩ませていた懸案事項にもどうにか目処が付き、ようやく、まともなことを書けるかな・・・と思っていたら、昨日は友人らと一献傾けてしまい・・・。
ご賢察の通り、本日はしっかり二日酔いです。

ちなみに、多分、私は1円も払ってないような気がします。(^^;)
気のせいですよね・・・(笑)。
なにぶん、すでに、記憶が途切れ途切れでしたので・・・。

で、昨日も申しましたように、私は最近、天気が良い日には少し足を延ばして遠方まで昼飯を食いに行くようにしているのですが、それで福岡市狭いようで結構広いなぁと実感していると・・・。

だって、私も、生まれてこの方、丸々半世紀近く住んでいるのに、少し足を延ばせば、まだまだ、初めて見る景色、見知らぬ土地などもあり、角を曲がると、突然、まったく見たこともないような街がそこに拡がっていたりして、改めて、新鮮なものを感じております。

で、昨夜集まったのは私を入れて3人、中央区の大名という所で飲んだですが、3人とも地元民であるにも関わらず、結構、ホームグランドの個性が違うんですよね。
まず、私は博多区博多駅前ですから、元々の下町「下人参町」が小学校一年生の時にある日突然、オフィス街になってしまい、以来、ドーナツ化現象で転出に次ぐ転出で子供の数が激減し、私が小学校を出るときは2クラスしかなかった・・・という経験をしております。
で、友人Aは南区博多華丸、森口博子、氷川きよしさんなどを輩出した小学校の卒業で、当時は下町御屋敷町が混在する所だった・・・と。
また、友人Bは中央区の閑静な高級住宅地出身ですが、今でこそ高級住宅街だけど、我々が子供時代にはまだ、あまり人が住んでなかったらしく、幼稚園時代は近所に友達は一人しかいなかったのだとか。

それから、以前、申し上げましたように福岡市というのは、元々、武士の町「福岡」商人の町「博多」が合併して出来たという経緯があることから、未だに福岡と博多には微妙な物があります。
中央区(≒福岡)の友人は絶対にもつ鍋などは未だに食べませんし、福岡側には福岡市の主要企業が集中していることもあり、博多側を見下しているような部分も時折、見受けられます。
また、博多区の博多駅前ではない、いわゆる、博多という所は山笠がありますから、そこら辺の小・中学校は山笠の季節になると、普通に早退、欠席が許されるんだそうで、高校で中央区の学校に行き、当たり前ように早退を申請したところ、「山笠で早退?ふざけるな!」と怒鳴られたとか。
つまり、福岡側には山笠などに対する配慮は一切無いということです。
福岡市のような小さな都市でも、結構、多様性があることがおわかり頂けたでしょうか?
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-05-15 17:20 | 地域 | Trackback | Comments(0)

バレンタインデーになると想いだす3月1日の年賀状
親愛なるアッティクスへ

今日はバレンタインデーですね。
もう、すっかり、そういうものとは縁遠くなりましたが、一応、「義理」ではあるものの、だけでは、まだ、息子に対し、父の面目を保っておりますことをご報告致す次第です(笑)。
もっとも、去年は、辛勝でしたし、しかも、年々、若い力の追い上げの前に防戦一方の観がなきにしもあらず・・・ですが(汗)。
抜かれるのも時間の問題でしょうか・・・。

ちなみに、私は今まで一度たりともホワイトデーお返しというものをしたことがありません。
(昔いた会社で、同僚が「義理チョコのお返しするので」と言って、ホワイトデーに集金に来たことがありますが、「こっちが欲しいと言ったわけでもないのに、何でそんなことをやらないといけないんだ」と言って、払わなかった記憶があります。)
そう言えば、8年ほど前の今頃、信号待ちしていたら、いきなり、街頭インタビューされたことがあります。
インタビュアー:「貴方がもらってみたいチョコは?」
平太:「等身大のチョコレート」
イ:「ホワイトデーのお返しはしますか?」
平:「一度もない」
イ:「どうして?」
平:「だって、欲しくもない物もらって、どうしてお返ししないといけないの?」

e0027240_10295375.jpg・・・この発言、結構目立ったみたいで、しっかりオンエアされたようです(笑)。

←で、こちらの画像は、博多チョコレート発祥の店「チョコレートショップ」の店内風景です。
(ちなみに、もてないオヤジがチョコがもらえないから、自分で買いに行ったわけではありませんよ(笑)。年末に、子供連れでたまたま、寄ったときのものです。)

で、このチョコレートショップさんについては、実は、毎年、この季節になると思い出す話があります。
私は、こことは、特に付き合いがあるわけではないのですが、以前、ここの社長さんから、一度だけ、年賀状をもらったことがあります。
驚いたのは、その、もらった時期でした。
何と、もらったのは元旦ではなく、三月になってからだったのです。
「???」と思って、文面を見ると、「突然の、時季はずれの年賀状で驚かれたことと存じますが、うちでは、クリスマスバレンタインデーが一年で一番のかき入れ時であり、従って、バレンタインデーが終わるまでは、正月どころではありませんので、毎年、自分で勝手に、3月1日を正月と決めております」という意味のことが書かれてありました。

なるほどなー・・・と。
結局、その方とは面識がないままに今日に至っておりますが、大変、印象深い年賀状でした。

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by heitaroh | 2008-02-14 10:28 | 社会全般 | Trackback(2) | Comments(6)

伝統継承的視点にみる無神論者の十日恵比須参拝 その3
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

私は神様など信じていないのに、この日、十日恵比須神社に参拝に行きました。
これはどういうことかというと、神様は信じないものの、先日も書いた若八幡神社同様、こういうのは「信仰の対象」としてではなく、地域の継承文化・・・、つまり、「風物詩」として遺して行かなくてはならない・・・と考えているからです。

日本中の風習、習俗というものは、煎じ詰めれば、大半が何ら合理性を持たないものでしょう。
お正月、年賀状、初詣、門松、注連縄、七五三、盆、彼岸etc・・・。

そもそも、私には、年始の挨拶というのが理解できませんでしたね。
年明け最初に顔を合わせるときは、皆、儀式的に、「明けましておめでとう御座います」と挨拶しなければならない・・・。
家庭や近所・親戚はまだしも、仕事始めの日に、大して親しくもない取引先などと会っても、絶対にあの挨拶をしなければならない・・・。
ああいう儀式めいた物が、大嫌いな性格でしたから、私的には、どうにも、違和感がありましたね。
ついでに言えば、私は未だに「花見」というものは理解できません。
あんなのは、江戸時代の娯楽が少ない時代の習慣であって、今時、あんな寒い中、わざわざ、そこで宴会しなくても・・・。

e0027240_10222423.jpgただ、最近は、少し考えが違ってきましたね。

これは、日本の文化、地域の文化だと思うんですよ。
それを、合理性だけで切り捨ててしまうと、日本人がこれまで守り育んできた「文化」というもの自体が成り立たないと思うのです。

年賀状なんて、今時、メールでやればいいジャン・・・と言えば、それは確かに、そうなんでしょう。
わざわざ、葉書を出すなんてのは、メールファックス・・・果ては電話もなかった時代の遺習以外の何ものでもないでしょうから。
でも、それを言って、すべての風習を否定してしまえば、やがて、「昔は、正月になれば年賀状が来たもんじゃったが・・・。近頃では、味気ないのう・・・」となるわけで。
(実際、今では、年始の挨拶などというのは、すでに、絶滅危惧種となっていることを思えば、ない話ではないわけで・・・。)
同様に、竹とんぼや祭りの出店なども、文化であり、風物詩でもあるのでしょうが、今時、そんな物必要ないわけですから、「消してしまえ!」と言って、簡単に消してしまった後に、「懐かしいから見たいな」って言っても、「紙芝居」と一緒で遅いんですよね。

だから、自分が神様を信じても信じなくても、「年末には、こうやって厄八幡に行く。若八幡と書いて厄八幡と読む。理屈ではない。それが、語り継がれてきた博多の文化だ」ということを子供に教え、子も、やがて、たとえ場所はどこに居たとしても、「そう言えば、昔は年末になると、毎年、親父があそこ行ってたよな」と思い出せる・・・ということが大事なんだと。
それが、父から子へ、子から孫へと伝えていくべき「文化」と、そしてそれが、郷土愛という名の「誇り」なのだと、最近、そう思うようになった次第です。

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by heitaroh | 2008-01-22 08:21 | 社会全般 | Trackback | Comments(10)

「喬木風に弱し」第二弾!博多の明太子に見る特許と商標
親愛なるアッティクスへ

ところで、チロリアン・・・って、知ってますよね?
博多のお菓子ですけど・・・。
別に、このお菓子の宣伝をするわけではないのですが、博多には、何故か、お菓子メーカーで有名どころがいくつか有ります。
聞いたら、結構、びっくりされるかもしれませんが、ひよこや、チロリアンの千鳥屋などもそうです。
(ひよこを東京銘菓と信じて疑わない方が、結構、多く・・・(笑)。)

あと、もうひとつ、どこだったか忘れましたが、それを併せて、博多の三大銘菓というらしいのですが、なぜ、博多にこういうお菓子メーカーが集まったかというと、かつて、福岡県では石炭が採れたので、その炭坑夫相手にお菓子を売っていたのが、その後、石炭が斜陽化したことで、博多の方に出てきた・・・ということだったとか。
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(炭坑夫というのは、肉体労働甘いモノが食べたくなる一方で、いつ、落盤があって死ぬかもしれないという危険な仕事だったから、給金は割りと良く・・・つまり、金回りがいい・・・ということで、昭和三十年代くらいまでは、この荒くれの炭坑夫という人たちが、福岡県の経済を動かしていたと言ってもいいほどだったそうです。)

で、博多と言えば、もうひとつ、忘れて成らないのが明太子です。
こちらは、元々、ふくやというところが始めたのですが、ここは、驚くことに、特許登録商標もとらなかったのだそうです。
それどころか、逆に作り方を聞きに来た人には教えてあげたとか・・・。
その結果、博多の明太子は、専門メーカーは元より、寿司やから料亭・・・、果ては一般家庭などでも自由に作ることが出来たことから、一気に明太子店が拡がり、本家本元のふくやの前にさえ、別の明太子の店が出来るほどだったとか。
そこへ、新幹線が博多に乗り入れることになって、一気に、全国ブランドになったとのことでしたが、これって、まさに、驚嘆すべき発想!端倪すべからざる卓見!ですよね。
この辺は、まさしく、平太郎独白録 「桿木風に弱し!」でも西武の創業者、堤康次郞至言としても申し上げた、まさしく、「喬木風に弱し」ではないですか!
もし、これを、専売特許登録商標などでがんじがらめにしていたなら、果たして、明太子は今ほどの隆盛を見ていたでしょうか・・・。

それに、特許などは、口で言うほど絶対的な物ではないようで、中小企業が苦労して取得しても、大企業は中小企業の側に訴える能力がないと見て取れば、平気でこれを侵害してくると言います。
さらに、訴えたところで、膨大な手間時間コストがかかり・・・。
そう考えれば、この明太子の戦略というモノは、ちょっと前の「阪神優勝」「ホリエモン」商標問題のように、今や特許登録商標を取るのが、一種の社会現象のようにさえなりつつある観がある現代、一考の余地があるように思えます。
登録商標も、今や、膨大な順番待ちだとか。
さもありなん・・・と思いますよ。
少し、こういうものは、見直した方がいいのではないでしょうか?
住友の家訓でしたっけ?
「浮利を追わず」と言ったのは・・・。
                               平太独白
by heitaroh | 2008-01-12 08:29 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(4)

もつ鍋と言えば博多たいにみる悪貨は良貨を駆逐するの理
e0027240_13455713.jpg少し前になるのですが、先日、久しぶりにもつ鍋に行ってきました。
で、このモツ鍋ですが、以前は東京の友人などが博多に来た際に連れて行くと、皆、「えー、もつ鍋ですかぁ・・・」と大体、嫌な顔をしました。
で、「いいから」と連れて行くと、「え?これがもつ鍋?」と。

「今まで、オレが東京で食ってたやつとはまるで違う・・・」と。
そりゃあそうでしょうね、猫も杓子も「ブーム」だからって、一斉に始めればまがい物が出回りますよ。
東京でも、最近では、随分、もつ鍋がブームになってきたようですが、私からすれば、むしろ、正式に認知されるまでに随分、時間がかかったなーという印象がありますね。

平成元年頃、バブルの頃、私は、周囲に、「もつ鍋は絶対に全国区になる!」と公言していました。
で、予想通り、それから間もなく、第一次もつ鍋ブームが起き、私の読みが当たるかに見えたのですが、直後に、ブームは終息に向かい、結果的には、今頃・・・、つまり、正式に全国区として認知されるには20年の月日を要することになったわけです。

そもそも、もつ鍋が人気を博した理由の一つに、低価格ということがありました。
「もつ」というのは、本来、日本人は食さない臓物の部分であり、これは、捨てられていた部分だったんで、安価で仕入れることが出来ていた・・・んですね。
で、その後、もつ鍋は、博多の一郷土料理程度の位置づけで推移してきたのですが(もっとも、発祥は福岡市の外れ付近みたいですが)、時あたかも、バブル高額商品が売れる一方で、あまり、バブルに縁がない一般サラリーマンにとっては、低料金腹一杯飲んで食って出来るもつ鍋が歓迎されたという側面があったようです。
しかし、もつ鍋ブームとなり、猫も杓子ももつ鍋やを始めた結果、もつの需要が増加して、もつの価格が上昇・・・、しかも、にわかに始めたもつ鍋やは、供給ルートを持っていないから、「もつ鍋」と謳えば、何だっていい・・・で、相当に、まがい物が出回りました。
この点は、博多でも然りで、当時、「なんじゃこりゃ?」というもつ鍋屋も、相当、ありましたね。
つまり、「悪貨は良貨を駆逐する」の理のもつ鍋版なわけです。

で、その後、ブームが去ると同時に、そういうまがい物のもつ鍋屋はいつの間にか消えていったのですが、次に、残った本来のもつ鍋屋を襲ったのが狂牛病問題でした。
当時、私の身近でも、取引先の一つが廃業しましたから、しゃれにならんな・・・と思いましたよ。
その点で、今、残っているもつ鍋屋は、何だかんだ言っても、そこいらを切り抜けてきているわけで、今度こそは、悪貨に負けない良貨の・・・、つまり、全国区として認知されることになるのではないかと思っています。
             平太独白

by heitaroh | 2007-09-13 08:43 | 社会全般 | Trackback | Comments(8)

なぜ福岡市?という提言。
親愛なるアッティクスへ

いつだったか遠い昔にひょんなことから、ある提言書を書いてくれと言われたことがあります。
結局、この提言書は日の目は見なかったのですが、先日、別の資料を探していたら、たまたまそれが出てきました。
私も、この存在はすっかり忘れていたのですが、当時は、まだパソコンはなく手書きで書いた下書きをワープロ清書するような感じだったようで、手書きでB5のレポート用紙に表紙も含めて19枚書かれていました。
改めて、我ながら、よう書いたよな・・・と。
無論、内容に・・・ではなく、手書きで・・・という意味ですね(笑)。

で、スキャンして、ここに張り出そうかなと思ったら、手書きゆえにまるで機能しない・・・。
(まあ、ちゃんと設定すれば手書きでも対応できるのでしょうが、元来、それが、面倒くさい人間なもんで・・・(笑)。)

e0027240_161152.jpg当時、これを書いているとき、その暴論的な論旨に何度も筆を止め、「やっぱ、やめておこうか・・・」と思いつつ書き終え、それを見せた人からも、「そんな論点、無理だよ」と言われ・・・だったのを思い出しました。
そこまで、私を躊躇させたその内容・・・。

それが、「なぜ、福岡市なのか?」という提言でした。

まず、「福岡市」というのは、以前、平太郎独白録 「博多祇園山笠に見る、福岡・博多、三都物語・その1。」の中でご説明申し上げましたとおり、古来からの商人の町「博多」と、江戸時代以降に成立した武士の町「福岡」とが併存していた町であり、それが、明治21年の市制発足時に、官選知事「福岡市」と命名されたのですが、それに納得できない博多人たちは、その翌年、「市名変更」の動議を市議会に提出。
結果、福岡士族らの妨害工作などもあり、市議会での開票結果は同数となり、ついには議長(福岡人)の一票で「福岡市」となり、その反動で、国鉄の駅は「博多駅」となったという経緯があります。

しかし、私が学生の頃、県内の他の市町村から来たやつらから、「家どこ?」と問われ、「福岡」と答えると、相手は、一瞬、怪訝な顔をして、「ああ、博多ね」ということがままありました。
私にしてみれば、住所は「福岡市」となっているわけですから「福岡」と答えるのですが、向こうも、「福岡県」在住者であることから何とも微妙なとまどいがあったわけです。
(言うならば、「出身どこ?」と聞かれて、真面目な顔で「日本」と言っているようなものでしょうか。)
まあ、この辺は、福岡以外の県でもそういうところは少なくないのでしょうが、「福岡」と言ったときに、それが、「福岡市」を表しているのか、「福岡県」を表しているかが、瞬時にわからないということが問題なのです。
「神戸」と言えば「神戸市」のことじゃないですか。)

また、同じく学生時代、友人らと名古屋で、「どこから来たの?」と聞かれ、「福岡」と答えたところ、「それどこ?」と。
私が機転を利かせて、「博多」と言うと、「ああ、博多ね」と・・・。
実際、これに限らず、「出張で来福した人が混乱した」>などという話は枚挙にいとまがないようで、まあ、それらを考慮すれば、本当は「博多市」・・・、もしくは、「福博市」にでも変えるべきだと思うんですよね。
明治の市名制定から、すでに、100年以上経っているわけですから、もう、いい加減、いいでしょう・・・みたいな。
                                 平太独白
by heitaroh | 2007-06-08 17:05 | 地域 | Trackback | Comments(2)

江戸時代の福岡ゴミ事情にみる環境循環型社会の現実
親愛なるアッティクスへ

e0027240_102789.jpg←先日の日曜はここに居ました。
もっと天気が良ければよかったんですけどね。

で、そのせいか、翌日の明け方、寝ていたら、突如、もの凄く足がつりました。
中学生くらいの頃、よくそういうことがありましたが、「それは背が伸びている証拠」と言われてました。
今更、背が伸びてるようには思えないんですけどね・・・(笑)。

ところで、江戸時代、江戸エコロジーならぬ、エドロジーと言われるほどに環境循環型社会がうまく機能していたと言われていますが、少し、よく言われすぎのような気もします。
元来が、埋め立て地だけに、井戸から飲料水がとれず、水源地からはるばる木製の水道を引いて、井戸の下を通し、飲料水にしていたとかで、驚くほどに近代的な発想ですが、逆に言えば、それだけに、一旦、床下浸水するようなことになると、飲料水汚水が混じり、伝染病が発生する元になっていたとも言います。
現代では、世界に冠たる衛生大国・日本も、当時の衛生感覚は、この程度の物だったということでしょうか。

この点では、江戸時代の福岡市・・・、つまり、福岡博多もまた、同様で、博多も井戸水が出ないので、大正以前、まだ、水道が普及する前は、「水売り」が水を担いで売りに来ていたそうです。
今でも、博多は人口の割に、安定した水源が無い為、雨が降らないと、すぐに、渇水になってしまいます。
ゴミもまた然りで、紙でも布でも使えなくなるまでリサイクルして、初めて、捨てていたと言います。
(私が子供の頃までは、我が家も近い物がありましたけどね。)
しかし、それほどに、うまく循環し、機能していたはずの江戸時代も、時代が下り、江戸中期頃になってくると、ゴミ問題が浮上してきたと言われています。

筑前福岡藩の領主、黒田家は、関ヶ原後、筑前に入国すると、博多に入らずに、その東、福崎の地に城を築き、ここを福岡としたわけですが、(平太郎独白録 「博多祇園山笠に見る、福岡・博多、三都物語・その1。」参照。)同時に、博多の東隣にある石堂川(現御笠川)を防衛線に想定し、この川の西側(博多側)に、たくさんの寺院を配置しました。
当時、お寺というのは、広い敷地をもっていた為、兵隊集結都合が良く、さらに、戦闘になった場合には、墓石などが防御の役に立ったといいます。
まあ、いかにも、小銃程度しか想定していない時代らしいなと・・・。

で、この石堂川ですが、江戸時代には、二本の橋が架かっていたと言われています。
当時、橋の修理費用藩の負担だったそうですが、清掃を始め、洪水の監視など、橋の管理自体は博多の町方がやっていたそうで、ところが、この頃になると、橋のたもとには博多の人々が捨てる、たくさんのゴミが溜まるようになっていたとか。
ゴミは、普段はともかく、川が増水したときなどは、ゴミに堰き止められた水流が橋ごと押し流してしまう危険性がある為、『博多津要録』によると、享保19年(1734年)、付近の10町は連名で、「石堂口の橋の周辺にゴミを捨てないこと」を誓約した・・・などという記録が見受けられると言います。

これは、何もこの石堂川だけのことではなく、上述の『博多津要録』によると、享保4年にも、博多の西隣、つまり、福岡と博多の間に流れる那珂川でも、藩より、「川筋、不行儀にこれあり。川へちりあくた(塵芥)を捨てざるよう・・・。」という達示があったそうで、ここでも、町役人たちは連署して、ゴミを捨てないことを誓っているとか・・・。 
しかし、状況はあまり改善されなかったようで、元文4年(1739年)、問題解決の為に、当時、あまり、人も住んでなかった、いわゆる、「中洲」南端付近にゴミ処理場を作ったと言います。
ところがところが、寛保3年(1743年)には、川に捨てられたゴミが、水流をせきとめるための川柵(川に杭を打ち、木や竹を渡したもの)を壊す恐れが出てきたことから、藩はゴミを取り除くよう命じた記録が見受けられるとか。
今も昔も、博多人に公徳心というものはないようです(笑)。

で、「御町ちり捨所」が作られて12年後の寛延4年(1751年)、このゴミ処分場はすでに、満杯になっていたのか、この時点では、もはや、ゴミ捨て場ではなく、材木置き場になっていたようで、中洲中島町の商人が相応の地主銀を上納して拝領したという記録が残っているそうです。

つまり、現代のように無機物ゴミなどない、理想の環境循環型社会と思われていた江戸時代でも、実際には、しっかり、ゴミ問題が存在したと言うことですね。
平太独白
by heitaroh | 2006-08-23 08:11 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

博多祇園山笠に見る、福岡・博多、三都物語・その1。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_102365.jpg7月ですね。
7月になると、博多はこの(←)季節になります。
言うまでもなく、博多祇園山笠ですね。
でも、「博多祇園山笠」って、「福岡」にあるんじゃなかったっけ?といったお話も耳にします。
ここで、今更ながらの説明で恐縮なのですが、よく、当方が地元の話題を取り上げますときに、「福岡」「博多」というのが出てきていると思いますが、あるいは、事情がおわかりにならない方の為に、念のため、簡単に触れておきます。
まず、これは、逆に現代の感覚で言うとわかりやすいのですが、福岡市の都心と呼ばれる地域は福岡市中央区の北半分と福岡市博多区の同じく北1/4くらいでしょうが、ほぼ、その地域が「福岡」と「博多」と呼んでいいように思います。

(わかりやすく言うと、雰囲気的に「福岡」は「山の手」、「博多」は「下町」というところでしょうか。福岡ドームなどがある辺りは早良区の北のほんの一部になりますが、こちらは感覚的には副都心の一つでしかありません。)

両者の間には那珂川という川が流れており、この河口にあるのが九州一の歓楽街、中洲で、言わば、両者は中洲を挟んで対峙するような形になっております。
で、この那珂川ですが、江戸時代にはあまり橋もなく、福岡と博多を行き来する人も殆ど無かったとか。
で、なぜ、こういうことになったかというと・・・。

福岡市は古来から天然の良港として栄えた港町でして、古くは「那ノ津」と言われ、現在の「福岡」には、筑紫館、鴻臚館などの迎賓館が存在しており、ある時期からここが衰退し、代わって「博多」が勃興してくるのだそうですが、以後、博多は国際貿易港として大いに港湾整備され栄えますが、戦国時代になると、逆に群雄の取り合いになって焦土と化したとか。
で、豊臣秀吉島津征伐の帰途、博多に立ち寄った際、そのあまりの荒廃を嘆き、即座に博多の復興を腹心の石田三成、黒田如水、増田長盛らに命じ、それで、出来上がったのが、現代でも面影を残す「碁盤の目」の区画、「太閤町割り」なわけです。

ところが、今度は秀吉が死ぬと間もなく、石田三成と徳川家康の間で天下分け目の合戦と言われる「関ヶ原の戦い」が起こり、これにより、上述の黒田如水の息子にして、隣国、豊前国の領主であった黒田長政が新たに筑前国の領主となります。
黒田家は、筑前国に入国すると、博多の隣、かつて鴻臚館があった所に城を築き、それまでの「福崎」という地名から、黒田家発祥の地である福岡(岡山県)という名前に変え、ここに福岡が誕生しました。

ということで、武士の町「福岡」商人の町「博多」が併存する状態が出来上がったわけですが、今度は明治になって市制施行が導入されることとなったき、当時の議会は市名の命名を巡って大紛糾したそうで、当然、博多部出身の議員は全員「博多市」を主張し、福岡部出身の議員は全員「福岡市」を主張。
ケンケンガクガク紆余曲折の挙げ句、遂に再裁決となり、衆人の見守る中、投票となるも結果は同数・・・。
で、やむなく投票に加わってなかった議長の一票で決まる!と言うことになり、福岡部出身の議長の一票で「福岡市」に決定・・・。
当然、この結果に納得出来ないのが博多人・・・。
博多人の怨念はその後も長く続き、福岡人も結構、これには辟易していたようで(今でも・・・?)、その後、今度は「国鉄が駅を作る」となったときは、「市名は福岡になったっちゃけん、駅名くらい博多にしてもらわんと!」という意見が強かったようで、割とすんなり「博多駅」で決着したのだとか(笑)。

続きは、明日のココロだ~・・・と思う。
                                   平太独白
by heitaroh | 2006-07-04 07:57 | 地域 | Trackback | Comments(0)

七百年前の港湾都市の現実と年越しそばの起源 前編
親愛なるアッティクスへ

今年の年末までは、まだ先のことだけど、どうせ誰も見てないでしょうからやっちゃうことにしました(笑)。

博多というところは、これまでにも、度々、述べてきましたように、古くから国際貿易都市として拓けていたことから、「博多発日本初!」という物がいくつかあります。
建久6年(1195年)(現在の中国)から帰国した僧、栄西は、日本最初禅寺・聖福寺を創建すると同時に、日本に初めて、お茶の種子をもたらしました。
さらに、それから半世紀近く経った仁治3年(1242年)、日本で初めて「国師」の称号を授けられた聖一国師が承天寺を開山。
承天寺の建立にあたっては、NHKの大河ドラマ「北条時宗」北大路欣也が演じたことでも、ご存じかと思いますが、宋国の人・謝国明の支援があったと言われています。

謝国明という人物について、少し、述べておきますと、彼は、自前の船団を持ち、宋と博多を行き来する日宋貿易を成した綱首(船主)であり、その後、日本に帰化し、綱首謝太郎と名乗り、日本で没しています。
つまり、華僑ってやつの元祖ってところでしょうか。
実は、謝国明と言う名前は、私にとっては、割と昔から馴染みがある名前でした。
なぜなら、家から、歩いて10分くらいのところに、「謝国明の墓」と言う看板があったからです。
ただ、謝国明という人物が何者なのか・・・ということはまったく知りませんでした。
ていうか、知らない以前に、先日ご紹介申し上げた「頭山満」と一緒で人の名前?って世界でした(笑)。
まあ、当時は、まさか、中国人とは思いませんでしたからね・・・。

彼の墓は、墓石の横に植えられた(だったと思うのですが・・・。)が長い年月で成長し、成長の過程で、墓石呑み込んでしまったとかで、昭和の初め頃までは、幹の中に、少しだけ墓石の頭の部分が見えていたと言います。
その後、この楠は、太平洋戦争中の米軍による空襲で枯れてしまい、今では、一抱えもあるような太い幹だけが、「伝 謝国明の墓」として存在しています。

話を元に戻しますと、承天寺というところには意外に知られていないのですが、二つの石碑が建っています。
(こういう物は地元ほど知らないもので・・・。以前、中国に行ったときに、ガイドしてくれた方のお母さんは北京生まれ、北京育ちだけど、まだ、「万里の長城」に行ったことがないと言ってましたし、京都伏見の知人に「寺田屋」について聞いたら、「行ったことがないから知らない」と言われました(笑)。)

e0027240_15485218.jpgで、一つは、「山笠発祥之地」で、もう一つが、「饂飩蕎麦(うどんそば)発祥之地」の碑(←)です。

山笠については私は出てないので関係ないですから、さらっと流します(笑)。
で、本題のうどんについてですが、国師が宋から持ち帰った製粉技術を記す図面「水磨の図」というものが現存しているそうで、これによって、うどん、そば、さらには、まんじゅうなどの粉食文化が広まったのだとか・・・。

ちなみに、なぜ、年末にこだわったかというと、それは「年越しそば」も博多が発祥の地だからです。
さらに、特に話には関係ないように思える謝国明のことを述べたのも、その前振りでした(笑)。

また、来週末辺りに続きます。
                               平太独白
by heitaroh | 2005-12-03 17:18 | 地域 | Trackback | Comments(6)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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