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博多駅前史異聞 その4 字馬場
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。
珍しく、熱心に続けて書いております(笑)。

その上で、探題舘博多市中に存在した鎌倉時代、後に博多の南にに開削されることになる房州堀はまだ無く、代わって天然の堀の役目を果たしていたのが流れを変えられる前の比恵川(現御笠川)だったと考えられます。
(房州堀というのは、戦国時代に大友宗麟の家臣・臼杵安房守鎮続により掘られた堀だと言われていますが、研究者の間では江戸初期の掘削という説もあるようで、まあ、いずれにしても鎌倉時代はなかったわけです。)

現在の御笠川は博多の東を通り、そのまま、博多湾にそそいでいますが、本来は、現在の流れから突然、西に流れを変えて、今のキャナルシティの脇の低地へ注いでいたそうで、となれば、河口には現在同様、那珂川も存在していることから、一帯は大雨が降るたびに洪水に見舞われていたそうです。
これにより、中世に大規模な治水土木工事がおこなわれ、川の流れは現在のように変えられたそうで、その名残が私が子供の頃まで存在していた鉢の底川であると。
(ちなみに、キャナルシティ一帯は現在も排水の上では低地であり、今も傍にあるポンプ場からポンプで水をくみ上げて那珂川に排出しております。博多駅前史参照。)

e0027240_1132026.jpgただ、房州堀は比恵川の残存物とは角度的にも考えにくく、そう考えれば、比恵川の本来の流れは、房州堀よりはもう少し上流の地点、少なくとも現在の博多駅付近から流れを変えていたと考えるのが自然であり、つまり、こう(←)なっていたのではないか・・・と。

また、鉢の底川ですが、こちらも本来はもっとも無理のない形で延長したならば、それこそ、うちの馬場添の方向に流れることになり、事実、私が子供の頃はそこを流れていました。
(キャナルシティ脇の川の形は変わっていないと考えて良いと思います。)
これは那珂川の支流だったのですが、おそらく、農業用水として、クリークを引いたということはあったでしょうから、それを拡幅延伸して作ったということは考えられるでしょうね。
(実際、私が子供の頃には鉢の底川と平行して、幾筋もどぶ川が流れていました。もっとも、おかげで、大雨が降れば、すぐに床下浸水でしたけどね(笑)。)

結論を言えば、当時、字馬場は比恵川の北、つまり、博多市中の内側にあったことになり、となれば、ここは博多の南端にぷくっと膨らんだような場所で、城で言えばいわゆる出丸のような所でありながら、洪水が多いことから砦のような防御施設を構築することも出来ない場所だった・・・と。
その一方で、探題舘からここまでは何ら遮られる物なく行くことが出来たことを考えれば、平時は馬場にしておいて、有事の際にはすぐに駆け付け、比恵川を防衛線として戦うという戦略を採った・・・と。
すなわち、こここそが鎮西探題舘の馬場であった・・・と。
でもって、馬場はわかったのですが、ところで肝心の馬場添って何だったんですかね?
                                平太独白
by heitaroh | 2010-05-25 08:21 | 地域 | Trackback | Comments(20)

博多駅前史異聞 その3 馬場新町
先週末の続きです。

また、「犬射戌亥であり、犬を射るという意味を持たせるなら、本来は射犬にならなければおかしい」と言われる元寇研究会の会長さんの説についてですが、私見を述べさせて頂くなら、これは元々、きちんと命名された馬場ではなく、文字も読めない庶民(地元民)が、「犬ば射る馬場」から「犬射ん馬場」と呼び倣わすうち、「犬射馬場」になった・・・とも考えられると思うんです。
(事実、その後には、「犬射馬場」に変わって「犬馬場」という表現も文書には出てくるようですし、土地の者が呼び習わすうちに地名になる・・・、まさしく「人參畑」が良い例でしょう。)

e0027240_1374996.jpg(←現在の字馬場付近です。奥に見えるのがキャナルシティですが、その手前、つまり、今、工事中になっている場所から道路一帯がそうです。キャナルシティの手前に沿って鉢の底川の跡があります。今は道路になってますが、基本的な形は今も変わっていません。)

無論、「字馬場」が「犬射馬場」と同一であるかどうかはわかりません。
「犬射」などというくらいですから、舘の敷地内に作られた比較的、小ぶりの馬場だったかもしれず、本格的な馬場とは別途、存在した可能性は否定できないからです。
(今日風に言うならば、アメリカの大富豪などが「自宅の隣にゴルフ場を持っていながら、それとは別に室内用の打ちっ放し練習場を持っている・・・ようなものでしょうか(笑)。)
それに、福岡市の地下鉄工事の際に出土した人骨が探題舘を襲撃し、犬射馬場で処刑された菊池一族の物だったとすれば、わざわざ、舘の近くまで持ってきて棄てるとも考えにくく、犬射馬場はやはり、その近くにあったと考えて良いのではないかと思います。

つまり、私が子供の頃に旧博多駅の前にあった馬場新町の馬場は「字馬場」の馬場ではなく、「犬射馬場」の馬場だったと・・・。
もっとも、昭和38年12月博多駅が現在の位置に移転して後は、そこに市内電車の馬場新町電停という電停(現在の大博通り沿い、地下鉄祗園駅入り口付近。)が出来、私などはむしろ馬場新町という名前はそっちで記憶しておりました。

ちなみに、会長さんも、講演の中で、「小字は鎌倉時代からあった」・・・と仰ってましたが、それで私もかねてよりの疑問の一つが氷解しました。
拙宅の一帯は博多駅前三丁目下人参町になる前、幕末から明治・大正にかけては「人參畑」と呼ばれていたにも関わらず、明治初期の小字調べには人參畑という小字が無いんですよ。
思えば、人參畑というのは江戸時代に福岡藩高麗人参の栽培を試みるべく足軽を入植させたことにちなむ地名ですから、人々には一帯は人參畑という名前で認知されていたとしても、小字が成立した鎌倉期には当然ながら、まだ存在してないわけですね。

明日に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-05-24 08:54 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

博多駅前史異聞 その2 犬射馬場
昨日の続きです。

「犬射馬場」という名前を聞いて、「武士が犬追物などの武芸の調練を行った場所?」と思ったら、やはり有識者もそう思われたようで、どなたかの著作にはそうあるそうです。
が、講師である元寇研究会の会長さんは、この説には異を唱えておられ、曰く、同名の馬場は肥前大村にもあるが、こちらは字が違って「戌亥馬場」であり、戌亥というのは西北の方角を表す言葉である・・・と。
で、大村の場合は大村城からして西北にある馬場だから「戌亥馬場」で、おそらく、「戌亥」の間違いであり、そうだとすれば、城に当たるのが探題舘で、そこからして西北にあったのが犬射馬場である・・・と。
さらに、本来、「犬射馬場」などというのは文章的におかしく、本来なら漢詩風に「射犬馬場」になるはずである・・・ということでした。

他にも、色々、言っておられましたが、その上で、私はそうは思いません。
学識者の言われることに素人が異を唱えるのは畏れ多いということは重々承知の上で、敢えて申し上げると、まず、昨日も申しましたように、我が下人参町、現在の博多駅前三丁目、正式には福岡市大字春吉字馬場添ですが、旧字図という法務局に保存してある地図を見ると、馬場添の隣の隣に「馬場」という小字があるんですよ。

e0027240_186021.jpgで、それを元に現在の地図と昭和39年の地図、その他をにらめっこして私が作りました。
(←これ作るのに半日費やしてしまいました。暇なやつだと嗤わないでください。実は今、結構忙しいんです。おかげでまた休日出勤確定です(涙!)。)

少しわかりにくいのですが、左下の川が那珂川、右上の川が石堂川(現御笠川)で、それを結んでいる明らかに人工的と思われる水路が通称、「房州堀」と呼ばれている物で、その下に拡がる赤い部分が「馬場」、それを囲むように走る川が「鉢の底川」、さらにそこから少し南にある色違いの場所が「馬場添」、でもって右端の縦の線が現在の博多駅、中央を縦に走る線が昭和38年までの鹿児島本線で、その途中にある緑のふくらみが旧博多駅、そこと探題舘の間にある色違いの部分が私が子供の頃まで馬場新町と呼ばれていた所です。

その上で、最初にお断りしておきますが、まず、これは、かなりアバウトな物です。
それは、この元になった旧字図というのも、おそらくは明治期に作られた物で、さらに、博多自体、戦国時代に何度も戦渦に巻き込まれ、原形を留めないほどに焼失しており、その後、豊臣秀吉によって行われた復興によって、それ以前とはまったく違う街になっているということがあります。
そう考えれば、房州堀が出来たのは戦国時代から江戸時代にかけて・・・と言われていますから、当時は、まだこの堀はなく(でも、面白いことに、馬場の北側はほぼ房州堀に合致するんですよ。)、代わりに御笠川が途中でいきなり西に曲がって那珂川に合流する、いわゆる比恵川の時代だったと考えられますが、その比恵川の名残なのではないかと言われているのが鉢の底川です。

来週に続く。
                          平太独白
by heitaroh | 2010-05-22 18:17 | 地域 | Trackback | Comments(2)

博多駅前史異聞 その1 鎮西探題舘
先日、元寇研究会会長氏による「元寇後の城郭都市 博多と鎮西探題」というセミナーを聞きに行ってきました。
元々、さして興味があったわけでもなかったのですが、先日来、鎮西探題九州探題について触れてたこともあり、出かけてみました。

e0027240_11594974.jpg(←旬ですね(笑)。)

で、会長さんは、おそらく、元は学識者なのでしょう、さすがになかなかの手練れだとお見受けしました。
(もっとも、元寇研究会なるものがあるのを初めて知りましたが(笑)。)
とはいえ、話自体は、まあ、私の認識と大差なく、そう改めて驚くような話は無かったのですが、一点だけ、興味深い箇所がありました。
鎌倉時代、博多市中にあったとされる鎮西探題の居舘、いわゆる「探題舘」ですが、私が興味を持ったのは、この舘に隣接してあったとされる「犬射馬場」というものの存在でした。

先日も触れましたが、元弘3年、肥後の菊池武時が、その探題舘を襲撃して破れた際、彼らが討たれた場所こそ「犬射馬場」だった・・・と。
で、なぜ、この名称に反応したかといいますのも、私が生まれた福岡市下人参町(現在の博多駅前三丁目)は、以前から、平太郎独白録 : 「博多駅前史」シリーズで変遷について述べてきました通り、実は正式名称ではなく、(なぜか、上人参町、中人参町は正式名称として町名登録されておりますが、下人参町だけは町名申請しなかったようで、あくまで、通称どまりとなっております。)正式には、福岡市大字春吉という地名でした。
(こちらもややこしいのですが、春吉という地名はすぐ近くに別に存在しており、こちらはあくまで大字春吉です。昔は本家の春吉の飛び地のような存在だったようです。)

で、その大字春吉には当然、大昔には小字が存在したようで、明治の地図には「字人參畑」という字も見えるのですが、おそらく、これは通称を小字と勘違いしたのだと思いますが、正確には、当地の小字は「馬場添」というものでした。
で、調べてみたら、近くには「馬場」という小字もあり、私が子供の頃には近くには馬場新町という町もあったことから、「その付属地?」とも思ったのですが、でも、同時に思ったのが、「馬の調練場なら、福岡城の近くに作るでしょ?」と・・・。
で、犬射馬場という名前を聞いて、もしかして、馬場添の馬場って、福岡藩の馬場ではなく、鎮西探題の馬場だったんじゃないの・・・!と思ったわけです。

自己満足シリーズは長くは続かないつもりだけど、とりあえず、明日に続く(笑)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-05-21 08:38 | 地域 | Trackback | Comments(0)

博多駅前史 その20 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅶ
親愛なるアッティクスへ

つらつらと述べて参りました自己満足シリーズ、博多駅前史ですが、奇しくも、年の終わりの土曜日であり、また、20回目というきりの良さからも、とりあえず、ここで、打ち止めにしたいと思います。

で、その博多駅前地区土地区画整理によって、大きく変わった物に道路がありました。
区画整理での換地処分直後は、まだ、アスファルトも敷説されてなく、しばらくは、砂利道でした。
当時、自転車で、その砂利道を走るとハンドルを取られて、すぐに転んでましたが、転ぶと、当然、下は尖った砂利ですからケガだらけになってましたね。

e0027240_15143842.jpgさらに、昭和44年、実は、私、小学校二年のとき、その通学途中、区画整理によって新たに出来た大通りを渡っていて、タクシーにはねられました。
当時は、信号自体はもう、付いていたのですが、早朝は、節電の為か、信号灯りはともっていませんで、おまけに、朝、博多駅に客を拾いに向かうタクシーは、我先にと急いでいたようで、歩行者が立っていたからと言って、止まって、渡らせてくれたり・・・というのは少なかったです。
ところが、子供というのは、さすがに、順応性が早いというか、強引に渡ったら車の方が止まる・・・ということを学習したんですね。
だから、我々は、車が来ていても、「車の方が止まるさ」と言って、平然と渡ってましたよ。

ところが、ある日、私に気づかなかったタクシーがドカン・・・・。
あっ!と思ったら、見事に宙に舞って、地面にドスン・・・。
息が出来なかったのは覚えていますね。

で、私はそのまま、病院に担ぎ込まれたのですが、幸運にか、あるいは、咄嗟に自分でそうしたのかはわかりませんが、直接当たったところが、ちょうど、ランドセルでして、つまり、ランドセルがクッションの役目を果たしたおかげで、その後、意外に後遺症などもなく済んだのですが、この事件は、後日、聞いたところでは、単なる小学生の一事故ではすまなかったようです。
(でも、この頃を境にして、優秀だった私の成績は、見事に凋落の一途を辿りましたので、私としては、この際とばかり、成績低下は、すべて事故のせい・・・ということで(笑)。)

まず、慌てたタクシーの運転手さんが、私を抱いて、病院に駆け込んだようですが、一緒にいた友達が、そのまま戻って、うちに、私がはねられたことを告げたようですが、うちの両親としては、まず、私がどこに連れて行かれたかがわからない。
で、どこからか、相手が地場の鉄道会社が運営する西鉄タクシーだったということがわかったようで、当時、西鉄(西日本鉄道)に勤めていた私の伯父に電話をしたところ、伯父さんが駆けつけてきてくれたようですが、うちの隣の自治会長さんが、駆けつけてきた私の伯父を、西鉄の人間ということで、(伯父と知らず)こっぴどく絞り上げたようで、さらに、早朝とは言え、小学生が通学する時間に信号が付いてなかったということが問題になったようで、それから、福岡(日本?)の信号は24時間付くようになったのだそうです。
ちなみに、それから、35年後、うちの次男が車にはねられ、それ以来、そこにも信号が付くようになりました。
当家は二代に渡って、体を張って、日本の信号に明かりをともしたということで、日本信号史に名を刻んだということでご理解ください(笑)。

でも、そんなこんなで出来た現在の博多駅前の道路ですが、区画整理から、早、40年・・・。
当時とは、自動車保有台数交通量も比べものにならないほどに多くなっており、また、人々の考え方も当時とは違ってきており、様々な部分で不都合が出てきているように思えます。
実際、向こう岸へ渡るのに横断歩道がないところもあり、そういうところは、おそらく、皆、地下道を通っていくということを前提にしていたと思われますが、現在では、わざわざ、下に降りるのが面倒くさいと言う人もおります。
また、小さな信号が幾つも連なっているところもあり、おまけに信号同士の連携もよろしくなく、一度に渡り切れればいいのですが、一つ渡ると、次の信号は赤信号・・・の繰り返しという融通の利かなさで、その都度、ストップしなければならないと言うところもあります。
スクランブル交差点の導入も含め、一度、駅前の道路行政を見直さねばならない時期に来ていると思います。

という、提言でこの博多駅前史の稿を締めさせて頂きます。
お付き合い感謝!
                            平太独白
by heitaroh | 2006-12-30 17:09 | 地域 | Trackback(2) | Comments(2)

博多駅前史 その19 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅵ
親愛なるアッティクスへ

e0027240_8465841.jpgすっかり、年も押し詰まりましたね。
(←拙宅に残る下人参町の提灯です。昔は、ちょうど今頃の季節になると、町内会の役員がこの提灯を持って、「火の用心!」と声を掛けながら町内を練り歩いたわけですね。やはり、暖房といえば「火」だった時代ですから・・・。夏もやっていたのかもしれませんが、夏は余り聞いた記憶がありません。ちなみに、当然、「火の用心」と言えば、これにツキモノの拍子木もありました。ていうか、何で、うちにこんなものがあるんだと・・・(笑)。)

で、19回を迎えた、この自己満足シリーズも、ちょうど、年内20回でキリが良いので、そこを以て、終わりにしようと思います。
もうしばらく、お付き合いの程を(笑)。

で、この博多駅前土地区画整理以降、当時、子供ながらに、私が一番参ったのは、友達が減っていくことでした。
そうそう、私は、昔も今も、性格が不自由な人ですから・・・・・・って、オイ!(笑)。(←ココ、思いっきり声を出して突っ込んで下さい。大事なところです。)

そうじゃなくって、以前も言いましたが、区画整理前までは典型的な下町で、住民の数も多かった現博多駅前地区ですが、区画整理以後は、オフィス街化の波に呑まれ、急速に人口が減っていったこともあり、子供の数も激減しました。
当然、私の仲の良かった友達も次々と転校していき、特に、私の住んでいた博多駅前三丁目地区は、中でももっともオフィス街化されたこともあり、同町内で、私と同学年の子供は幼なじみの女の子一人だけ・・・。
当然、「男女七歳にして席を同じうせず」の時代ですから(←ここ、突っ込むところね。ご協力感謝!(笑)。)、その女の子と遊ぶわけはないし、完全に一人でしたよ。
こうやって、私の屈折した性格が形作られていったわけですね。

あ、屈折した性格と言えば、そういうわけで、拙宅は見事なまでにビルの谷間にあったもので、毎日、昼間でも真っ暗で朝起きても晴れているかどうかわからない・・・。
20歳くらいのとき、朝起きて、「いくら何でも、こんなに暗いんだから、今日は寒いよな・・・」と思って、一杯着込んで、玄関を開けたら、思いっきり晴れてた・・・なんてことがありましたね。
こんな環境で、性格が屈折しないわけがない・・・という(笑)。

ちなみに、そんな私の唯一の憩いの場所だったのが、うちの前のビルの屋上でした。
よく、ここの屋上に上がって、空を見てましたよ(笑)。
昔は、今からは信じられないくらい眺望が利きましたね。
それが、平成になって、久方ぶりにここに上がったら、その、あまりの景色の変わりようにびっくりしました。
福岡市と言うところは、元々、空港が近い為に高いビルが建てられません。
従って、20階建て、30階建てなどというのは、片手で数える程度で、多くが高くて12~13階建て程度のビルばかりです。
となれば、上に上げられない以上、有効に利用しようと思えば横に拡がるしかなく・・・。
私が久々に、そこで見た風景は、10階建て程度のビルが、まるで、屏風を幾重にも重ねて立てたように林立しているものでした。
元々、昔から、ビルは多かったけど、昔はもう少し、隙間があったよな・・・と。
嗚呼無情・・・。
                          平太独白
by heitaroh | 2006-12-22 08:49 | 地域 | Trackback | Comments(2)

博多駅前史 その18 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅴ
親愛なるアッティクスへ

先週の続きで、ビルの屋上から・・・シリーズです(笑)。

この現博多駅前地区においては、革命にも等しい出来事であった博多駅前地区土地区画整理ですが、それから2年後・・・、当時、子供心に「日本の未来は明るい!」と思わせる出来事がもうひとつありました。
それが、万国博覧会・・・、つまり、「大阪万博」です。
万博自体は、当時、国中を沸き立たせたものであり、別に博多とは関係ないんですが、まあ、国中が万博一色だったわけですから、万博開催以前から、「万博」という物は、少年誌にも紹介されてましたし、テレビでも連日、特集が組まれてましたから、万博開催以前から、子供でも知っていたわけですね。
区画整理以降は私の記憶はカラーになったと言うことを申し上げたと思いますが、その点では、この大阪万博でより鮮明なカラーになったと感があります。
いわゆる、「くいんとりっくす」です(笑)。
(ここで笑えるのは、40代以上でしょうか・・・。)

で、小学校二年のあるとき、いつものように、近所のビルの屋上にあるブランコから、一人で周囲の風景を見ていたとき、ふと、ビルが林立し始めた博多駅前という町の風景が、大阪万博のように思えてきたことがありました。
当時、それを、一編の詩にしたのですが、うろ覚えですが、ちょっとだけ披露しますと、

  万国博 ~ビルの上から~

   ビルの上から 辺りを見ていると 
     みんな 万国博のパビリオンに見えてくる

   **ビルは 松下電器館
    ##ビルは 日立館
     ◎◎ビルは 住友館

   博多駅は 太陽の塔だ
      まるで 形は違うけど 
    みんな 万国博のパビリオンに見えてくる


・・・とか何とか、まあ、こんな感じの物でした(汗!)。
実際には、この三倍くらい長かったんですけどね。

ちなみに、このとき、この詩を見た担任が感心し、それをまた、校長先生が感心し、特別に校内報に載せられました(笑)。
ちなみに、それを見た父は、一言、「バカタレ!こんなもん上手でも大工には何の足しにもならん!算数でも勉強しろ!」と宣いました・・・(泣)。

で、くだらない自虐ネタはさておき、本題です。
福岡市は、ご承知の方も多いかとは存じますが、市街地空港との距離が近く、そのため、日本一便利な空港として知られていますが、その反面、その為、規制により高いビルが建てられず、それでなくとも、狭隘な福岡平野ですから、「この利便性を崩すべきではない」という意見があると共に、「発展を阻害している」という意見もあるようです。

e0027240_11312934.jpgで、最近でこそ20階、30階などというのがちらほら在るようですが、かつては12~3階建てばかりであり、となれば当然、有効利用しようと思えば縦に伸ばせない以上、横に拡げるしかなく・・・。
これは福岡の景観上の特徴として、よく言われることですが・・・。

で、平成になって、久しぶりに、うちの前のビルの屋上に上がってみたところ、その風景にびっくり!
元々、ビル街ではありましたが、バブルを経て、ビル街は、林立から乱立へと様相を変えており・・・、つまり、ビルとビルの間のわずかな隙間を惜しむように、同じような横広のビルがびっしりと「敷き詰める」という表現が的確かどうかはわかりませんが、そういう感じになってました。
何じゃこりゃ・・・と、結構、啞然としたのを覚えています。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-12-16 08:26 | 地域 | Trackback | Comments(0)

博多駅前史 その17 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅳ
親愛なるアッティクスへ

これまでも述べて参りましたとおり、昭和43年4月区画整理換地処分が施行され、それまでの下町から、一転して、現在のオフィス街へと変わっていった現博多駅前地区ですが、それに伴って、周囲には、ビルがどんどん建ちだし、それらのビルには、それまで、デパートに行かなければ乗れなかった「エレベーター」なる物まで付いてました。
これにより、私たちの遊び場所も変わっていきました。
で、新たな私たちの遊び場所となった物・・・、それが「ビルの屋上」でした。

空き地に変わって、新たに登場してきた公園でしたが、馴れてみると意外に使い勝手が悪く・・・。
その一番の理由は、下が砂利だったことです。
運動場や空き地と違って、転べばケガするし、野球すればバウンドが変わるし、第一、公園には「ここでキャッチボールなどをしてはいけません」などと書いてあるわけで・・・。
また、公園や、空き地だと、誰が通りかかるかもわからないわけで、子供には結構、危険な世界だったんですよ。
一人で、ぼーっとベンチにでも座って居ようものなら、博多駅に行った数人が通りかかり、取り囲まれて、「おまえ、どこのモンや?」と・・・(汗)。
こちらは、区画整理以降、急速にオフィス街化が進み、住民の数が激減したことから、絶対数で、もう、歯が立たない・・・。
こんな状態じゃぁ防衛戦争なんて戦えっこないわけで・・・。
(当時の経験から、「負ける戦はしない」という、私の鉄則が形作られていったわけですね(笑)。)
それに対し、ビルの屋上というのは、安全でしたね。

e0027240_14213436.jpgまた、その当時から新しくできたビルの中には、入居者の子供向けに遊具なども据え付けてあるところもあり・・・、となれば、これはもう、それまで有り得なかった世界であり、あっちのビル、こっちのビルと、エレベーターを自在に操り、来る日も来る日も探検して廻りました(笑)。

ちなみに、当時は、屋上への出入りも、まだ、そんなにうるさくはなく、我々子供も割と自由に出入り出来たのですが、あるビルの屋上へ上がったところ、特にその屋上には何もなく、見ると、隣のビルの屋上との隙間が50cmくらいしかなかったので、「ここを乗り越えて、隣のビルに移ろう」という話になりました。
幅的には、子供でも、簡単に乗り越えられる幅でしたが、高さは10階くらいはありますから、落ちたら真っ逆さまです。
で、そこを乗り越えて、首尾良く、隣のビルへ移ったものの、今度は、そちらのビルには扉が2つあり、どちらが降り口なのかがわからない・・・。
ドアに耳を付けても何も聞こえない・・・で、思い切って、その片方をじわーっとと開けてみたところ・・・、そこは管理人さんの自宅で、今まさに夫婦ゲンカの真っ最中・・・。

一瞬、夫婦ゲンカが中断して、けげんな顔で、「何ね?」と。
「階段はどちらですか?」と私。
「階段はそっちのドアだけど、あんたたちはどこから入ってきたとね?」と。
「隣のビルから・・・」とだけ言うと、一目散退散・・・。
我々が、夫婦ゲンカを収めてあげたという、少しいい話ですね。(←違うか!(笑)。)
                                 平太独白
by heitaroh | 2006-12-09 08:26 | 地域 | Trackback(1) | Comments(0)

博多駅前史 その16 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅲ
親愛なるアッティクスへ

お待ちかね(?)の自己満足シリーズです。

私が子供の頃、毎年、ちょうど、今頃の季節になると、とても、困ったことがありました。
年賀状の「住所」です。
昭和43年博多駅地区土地区画整理以降、それまでの慣れ親しんだ「福岡市下人参町」から、長ったらしい「福岡市博多駅前三丁目O番地」となったわけですが、住所変更はこれで終わったわけではなく、その後も、やっと覚えたと思った住居表示がコロコロ変わり、しかも、短くなるならまだしも、やたらと長くなっていきました。

小学校入学時は、福岡市下人参町だった住所が、区画整理と共に上述した住所になり、その後、翌昭和44年福岡市博多駅前三丁目O番O号となり、昭和47年には、区政施行に伴い福岡市博多区博多駅前三丁目O番O号となり、さらに、今度は、それに、「郵便番号」という数字まで付けなければならず・・・。
当時は、私も小・中学生でしたから、当然ながら、年賀状を出す相手も同じ校区内にいることが多く、となれば、これまた同じような住所のやつばっかりであり・・・。
「福岡市博多区博多駅前O丁目*番△△号」と自分も相手も住所を書かねばならないわけですから住所を書くだけで、手がもの凄く疲れました(泣)。
(当時は、まだ、ワープロプリントゴッコなどは有りませんでしたから、すべて、手書きです。)

おまけに、それに、「何とかマンション」だとか、「OO様方」などと書かねばならないときもあり・・・。
(さらに、つい最近まで、何か住所を書く用紙には役所でも郵便局でも、すべて、OO市OO町という具合に、用紙には最初から市と町・村が表記してあり、従って、町でも村でもない我が家は、そのたびに係の人を呼んで「町が付きませんが」と聞かなくてはならなかったという・・・。)
まあ、福岡市の発展そのままに住所も変わってきたということが言えるのかもしれませんが、私たち子供も年賀状を書くのが大変だったのですが、大人はもっと、大変だったでしょう。

e0027240_1557398.jpg当時、下人参町で、もっとも多かった人種は職人でしたが、次に多かったのが自営業者の人たちでした。

(←当時の下人参町にあった唯一のアーケード市場は、ちょうど、こんな感じでした。時々、夢に見ます(笑)。ちなみに、ここは、博多駅前地区ではありませんが、今や、数少ない昭和30年代を感じさせてくれる場所です。)

私の周辺でも・・・、ざっと思いつくままに挙げるだけで、鍛冶屋、自転車屋、寿司屋、定食屋、駄菓子屋、建築屋、下駄屋、酒屋、米屋、こんにゃく屋、不動産屋、たばこ屋、床屋・・・、それに、お寺、神社、保育園・・・etc。

子供心に、すぐにこれだけ思いつくわけですから、如何に自営業者が多かったかと言うことでしょう。
ということは、この人たちは、印鑑はまだしも、社判(ゴム印)や印刷物、登記から、バイクや車、免許証、果ては銀行口座の住所まで変えねばならなかったわけで、まあ、猶予期間はあったでしょうが、それにしても、その費用、手間は大変だったでしょう。
ただ、当時、時代は高度経済成長へと向かっていたこともあり、そんな中で、これらの物が特需を作り出したという側面もあったわけですから、子供心にも、皆、表情は明るかったですね。

あ、そう言えば、私の愚弟がOO屋の息子を殴り上げたことがあったのですが、聞けば、うちの親父も、子供の頃、そこの父親を殴って大けがをおわせていたのだとか・・・。
そのOO屋だけは、表情が明るくなかったのは気のせいでしょうか?(笑)。
                           平太独白
by heitaroh | 2006-12-02 01:36 | 地域 | Trackback | Comments(0)

博多駅前史 その15 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅱ
親愛なるアッティクスへ

e0027240_12385068.jpgついに、11月最後の土曜日となりました。
ということで、これまでも、色々と述べてきました博多駅地区土地区画整理ですが、昭和38年12月博多駅は現在地に、無事、開業に至りました。

(←博多駅前広場です。)

ちなみに、当時、私は2歳半ですから、当然ながら、このときのことはまったく覚えておりません。
つまり、物心着いたときには、もう博多駅ビルがあったということですね。

ただ、駅自体の移転は完了しても、周辺市街地の整備はまだ進行途中だったようで、現博多駅前3丁目一帯にあたる下人参町、中人参町、末広町、平松町、松田町、明治町などに換地処分が施行されたのは昭和43年春4月のことでした。
この日は、結構、鮮明に覚えています。
なぜなら、拙宅が換地処分により転居したのが、ちょうど、私が小学校一年に上がった日だったからです。
つまり、幼稚園までは旧宅から通い、小学校は新居から通ったと・・・。
ちなみに、この昭和43年4月を境に私の記憶はカラーになっております。

で、一夜にして町が変わったと言っていいほどに、この区画整理というのは地元民にとっては革命にも匹敵するような大事件だったわけですが、当時、私が子供心にも印象に残っているのが、この区画整理に伴って、新たに登場してきた公園という物の存在でした。
それまでは、まあ、区画整理が進行中と言うこともあったのでしょう、下人参町時代の私の周りにあったのは、「公園」ではなく、「空き地」でした。
でも、「公園」という新時代の空間は、空き地のように、でこぼこでもなく、水たまりもなく、草むらもない。
そこは、樹木はきれいに整備され、トイレはある、は出る、そして何より、ピカピカの遊具施設がありました。
「日本の未来は明るい!」と・・・(笑)。
もっとも、今となっては空き地が恋しい限りですけどね・・・。

そんな子供の心を沸き立たせた公園ですが、日本の近代公園の歴史は、明治6年太政官布告まで遡るそうで、この区画整理でも、地区内に新たに14の公園が設置されました。
これは、区画整理法により、「域内面積の3%を公園に宛てなければならない」となっていたからだそうですが、結果的に、3%は確保出来なかったようで、やむなく、近くに神社などの森林があるからいいか・・・ということになったと言います(笑)。

で、それら新公園の名称をつけるに当たっては、当時、区画整理と鉄道後退のために「町界町名の整理変更」が行われることになっており、従って、今まで親しまれてきた町名、字名が消えるのは、やはり、「一面さびしさも湧いてくるのは、人情のしからしむるところ」でもあり・・・で、これら旧地名を公園名として残そうということになったそうで、公園設置個所の町名、字名を取って公園の名称とすることとなったとか。
これにより、拙宅付近の公園は明治町にあったから「明治公園」となり、現博多駅前4丁目にある公園は「人参公園」という名前になったのですが、ただ、ここを「人参公園」とすることには、私としては甚だ違和感があります。
なぜなら、この人参公園がある場所は、上人参町・中人参町・下人参町とあった中で、上人参町の、それも、かなり町界の端にある、言うならば、人参町地区の中では、一番、辺境と言って良い場所でして、その為、ここをして、「昔、この辺は人参町と言ったんだよ」と言われるのは、下人参町の人間からすると、「ちょっと待てよ」と言いたくもなろうというものでして・・・。
まあ、今となっては、このこだわりを持っているのは私だけなんでしょうが・・・(泣)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2006-11-25 08:38 | 地域 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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