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古の九州探題は何処にありや!を推理する その7
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。
この際、何としても終わらせておきます(笑)。

e0027240_11114141.jpg南北朝の争乱による中央政府の弱体化により、九州に捨て置かれたような形になってしまった九州探題は、いつかの時点で姪浜城(鷲尾愛宕神社)を去り、渋川氏二代探題以降は現在の福岡市周縁部からも逐われて、主に肥前(佐賀県)に拠点を移していたようですが、そう考えれば、福岡市南区にある花畑小学校の地に探題舘があったというのもあり得ない話ではないように思えます。
(←伝探題舘からすれば、山を背にして、右側にある丘より舘方向を見た風景。現在は小さな神社になっているが、思えば、伝探題舘を三角形の頂点として間逆方向、つまり左側の丘にも以前述べたように神社が祀られており、舘を護る砦か何かがあったのではと思える。)

e0027240_1132222.jpg(←上の画像では林立する建物によって小学校校舎が死角になって見えないが、もう少し北側、丘の先端部分付近から見ると、左手奥に花畑小学校校舎が見える。)

ここは、当時の博多市中、探題博多舘があったとされる地よりは、大体、徒歩で2時間くらい・・・。

e0027240_1195598.jpgで、お気づきの方もあるかと存じますが、面白いことに、以前、鎮西探題が籠もった姪浜城から博多舘もほぼ2時間くらいと申し上げましたよね。
つまり、博多舘を軸に西から南へ80°ほどずらすとほぼ等距離なんです。
(←鷲尾愛宕神社より博多市中方向を臨む。)

つまり、要害ではあるが逃げ道がないという姪浜城の欠点を嫌った九州探題は、背後に山があり、それを越えれば肥前国へ抜けられるこの地へ拠点を移したということは十分に考えられるわけです。
(ここに行く道は今でも片側一車線の道路で左と右で高低差が5mくらいあるところもあり、私が子供の頃まではかなり、が残ってましたから、ましてや当時は丘と丘の間に池や沼が散在するような所だったと思われ、戦い方次第ではそれなりに防衛機能が果たせただろうと思います。)

その上で、石碑の言うとおり、ここに探題舘があったかと言われれば、私はその可能性は低いと思いますし、あったとしてもそれは極めて短期間のことであったと思います。
まず、この地に館を置いたという記述が見られないこと。
次に、「山城」ならともかく、平時でもないのにこういう所に「居舘」を築くとは思えないこと。
それから、石碑自体の記述の矛盾です。
そもそも、鎌倉時代に九州探題はありませんでしたし、「治めていた」とされる千葉胤鎮という人物も、絶頂期には肥前の小城・佐賀・杵島の三郡を領する実力者だったものの、わざわざ、国境から遠く隣国に突出した地に館を置くとは思えません。

e0027240_11453247.jpgちなみに、石碑の後半部分にはこう(←)あるのですが、これも私には首を傾げる所で、福岡藩二代藩主・黒田忠之が住んだ・・・と言っても、九州探題が筑前にいた時代からは少なく見積もっても150年以上は経過していたはずで、となれば、大名の隠居が修復して住むには基礎石くらいは再利用したかもしれませんがちと無理があるのではないでしょうか。
ただ、地形としては屋敷を構えるには比較的良い場所なので、地域の実力者か、あるいは博多豪商別荘など、何らかの建築物があったのは間違いないと思われますので、それに手を加えて使ったということは考えられるでしょうが。

ついでに、姪浜城がある鷲尾山に愛宕神社を勧請したのも、この忠之ですが、これも何かの偶然でしょうか。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-05-11 08:55 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

古の九州探題は何処にありや!を推理する その6
親愛なるアッティクスへ

他に書くことは山積しているのですが、いい加減にこのシリーズも終わらせなきゃ・・・という思いから、先日の続きです。

e0027240_15124489.jpg九州に落ちてきた足利尊氏は筑前(福岡県)多々良浜(←)で大勝し、一気に上洛反転作戦に転じるも、このとき、鎮西探題に変わって新たに九州探題を置き、これを受け、当初は鎮西探題が籠もっていた姪浜城(鷲尾愛宕神社)に入る・・・と。

e0027240_1373484.jpg←ここは今でこそ、樹木の下辺りに海側(北側)から上る立派な車道が走ってますが、私が子供の頃まではそういう物は無く、登り口と言えば南側に細く曲がりくねった急坂の参道が一本あるだけでした。
(左端に東洋一だったかの大観覧車が見えます。)

e0027240_13192264.jpgここを、父が車でガンガン登っていくのを見て、子供心にも、「良く、こんな所、車で入って行けるなぁ」と感心してましたが、まさしく、その意味では要害ではあったのでしょう。
ただ、周囲を海と断崖(←)に囲まれた岩盤というのは、逃げ道がないんですよね。
前回も申し上げたように、援軍の宛てもないのにこういう所に籠もるというのはあまり感心しません。

で、鎮西探題に代わって新たに置かれた九州探題ですが、そもそも、この探題というのは結局の所、中央の威光次第なんですよね。
中央の支配から脱却したいと願う在地の武士団からすれば、中央政府のお目付役なんてのは余計な物以外の何ものでもないわけですから。

その点では、九州探題というのは中央が南北朝の争乱に巻き込まれていったことから、なかなか力を発揮できなかったようで、その後、三代将軍足利義満により起用された今川了俊の辣腕により盛り返すも、了俊失脚後は再び、盛り返すことなく、天文3年(1534年)、戦乱の中で最後の探題・渋川義長が周防(山口県)の大内軍によって肥前朝日山城(佐賀県鳥栖市)で自害に追い込まれ、ここに名実共に九州探題は滅亡することとなる・・・と。
ここで、鍵となってくるのが「肥前」というワードです。

今川了俊以降、代々、探題を務めることとなった渋川家ですが、渋川家二代探題・義俊は博多を攻められ肥前山浦城に逃亡し、三代満直よりは代々肥前守護を兼務、四代満直は肥前神崎で戦死、六代万寿丸は居城としていた肥前綾部館(佐賀県鳥栖市)を攻められ筑前で死亡、七代尹繁は肥前白虎山城を居城とするもこれを失い、八代義長のときに肥前朝日山で滅亡したわけですから、それらを勘案すれば、当初、姪浜城に入った九州探題も義俊の時代に肥前へ逃れ、以後、筑前(福岡県)への帰還を望みながらも遂に果たせず、肥前で滅んだ・・・ということなのでしょう。
となれば、かつて、「ここに九州探題があった」という石碑が建つ福岡市南区の花畑小学校は距離こそあるものの、山を挟んで向こうは、まさしく、佐賀県の鳥栖や神崎という所でして・・・。

やはり、終わりませんでしたので、もう一回くらい続きます。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-05-10 08:47 | 地域 | Trackback | Comments(0)

古の九州探題は何処にありや!を推理する その2
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

福岡市南区に在する花畑小学校には、かつて、九州探題があった・・・という石碑の文面についてですが、まず、私が疑問に思ったのは、「鎌倉時代に九州探題があった」という表記自体についてでした。
というのも、私の記憶では、確か、鎌倉幕府によって設置されたのは鎮西探題であり、九州探題を設置したのは室町幕府だったからでした。
で、そこら辺を少し整理しておきますと、まず、「探題」というものについて言えば、源 頼朝によって創建された鎌倉幕府ですが、同時にそれは当時の日本の国土的に見たならば、京都に比べ、極めてに偏重した政権が成立したということでもありました。
となれば、当時は、電信設備は愚か、宿場さえもろくに整備されてない時代であすから、中央政府に決裁を仰いでも、返事が来るのに数ヶ月はかかってしまうわけです。

e0027240_12293350.jpgこれでは元寇などの緊急時に対応できないということで、ある程度の権限を持たせた出先機関を設置する必要性に迫られたことから設置された機関が探題で、一手に当地の行政・裁判・軍事などを管轄した・・・と。
(←元寇防塁・・・ではないかと言われている物です。)

e0027240_1226296.jpgで、この鎮西探題について言えば、こちらの方は割とどこにあったかがわかっていて、舘は当初、交際上の必要からか博多市中の一等地にあったようですが、博多市中は便利ではあっても、防衛上は堅固とは言い難く・・・。

(←当時の博多。)

実際、鎌倉幕府が揺らぎ初めた元弘三年(1333年)には、肥後の菊池武時が探題館を襲撃しており、このときは、少弐・大友といった在地勢力の協力を得て、これを退けたものの、改めて、博多市中に居館を置くことの危険性を痛感したと思われます。
(私がまだ高校生だった昭和53年(1978年)の夏、中洲から博多駅へと向かう地下鉄の工事現場から、無数の人間の頭骨が発掘されたことがあり、研究者の見解によると、この、探題舘襲撃のときに撃退された菊池勢のものではないかということでした。)
それがあったからか、いつの頃からか、探題舘は現在の福岡市西区愛宕にある愛宕神社がある地に移ります。

次回に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-04-21 08:21 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

古の九州探題は何処にありや!を推理する その1
親愛なるアッティクスへ

e0027240_175787.jpg昨日今日と、福岡県地方は少々、ぐずついた天気となっておりますが、最近は随分と気候も良くなってきましたので、私、運動不足解消を兼ねて、昼飯を食いに少し遠くまで行っております。

で、先日、福岡市南区にある花畑というところまで行ったところ、花畑小学校の一角になにやら石碑を見つけました。
で、石碑(←)を見てみてびっくり。
この小学校のあったところに、あの「九州探題」があったというではないですか。
「え?こんなところに?」と意外感を隠しきれなかったのですが、なぜなら、ここは南区の中でも、比較的、「奥地」にあるところでして、と言っても、地元の皆さんの反感を買うのも困りますので少々、フォローしておきますと、当地は、結構な密集住宅街でして、それも、私が子供の頃にはすでに、ほぼ、今のような感じでしたから、割と早くから開けた住宅街なのだろうと思います。
ただ、それでも、現在の我々の感覚では「なぜ、こんな所に?」と思うような場所であることには違いないわけで・・・。

e0027240_18394852.jpgで、考えました。
まず、鎌倉時代であれば、おそらく、当時の海岸線は今よりも、かなり内陸にあったであろうと。
今、南区役所が置かれている塩原というところは、名前の通り、海から塩を取る所だったと言いますから、その意味では、当時は必ずしも奥まった所ではなかったのだろう・・・と。
その一方で、見回せば、背後には福岡市民憩いの油山という山があり、いざとなったときは、そのまま、そこへ非難することが出来る・・・と。
さらに、周囲には小高い丘があり、左の方の丘に登ると五社神社という神社になってました。

(←背後の山との位置関係がおわかりいただけるでしょうか。)
今ではこれらの丘はかなり、ぶつ切りのような形になってますが、当時はもっと、丘らしい丘、つまり、丘陵帯だったのではないかと・・・。

e0027240_1931931.jpgそう考えれば、背後に山、左右に丘陵帯という、これは如何にも当時の武士が居館を構えるには好みそうな地形ではないか・・・と。
(←上記画像と反対側を臨んだ風景。小丘にも関わらず、ご覧の通り、かなり眺望は利きます。見張り砦には最適だったでしょう。)
ただ、それでも、ここを九州探題の舘があったとするのは、少し無理があるんじゃないかというのが私の結論です。

(知ってるつもりのような所でも結構、面白いですねぇ(笑)。飯食いに行った先で聞いてみたら、この奥地の住宅街に、なぜか、昭和40年代は鮨屋が密集していたそうです。海が近いわけでもないのに「何で?」と聞いてみたけど、「わからない」と(笑)。)

明日に続きます。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-04-20 18:50 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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