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バルトの楽園15 ドイツ人俘虜の人生観
親愛なるアッティクスへ

15回を数えてしまいましたこのシリーズですが、今回は前回の続きで、収容所内での経済活動についてです。
またまた、大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」よりの引用ですが、

「どの収容所でも、持っている知識、技能をお互いに分け合うための講習会、研修会が盛んに行なわれます。もちろん条件は違いますが、第二次大戦での日本人将兵の収容所と比較いたしますと、ずいぶん違います。
日本語の講習会はもちろんあります。英語の講習会もあります。中国語もあります。中国にいた人が召集されていますから、ちゃんと『論語』を中国語で読む読書会なんていうのまであります。電気工学の講習会があります。簿記の講習会があります。
さまざまな講習会を開き、お互いの知識・技能を持ちより、ドイツ人同士ときに有料で勉強し合っているのです。
音楽家は音楽を教えます。楽器を作れる人は「楽器製作所」なんていう看板を出してます。経済活動が成り立ちます。」・・・と。

e0027240_10142397.jpg(←当時、収容所にはお寺なども多く当てられたようです。ちなみに、こちらは太宰府の名刹、光明禅寺です。)

そして、それを成り立たしめていたものこそ、ドイツ人俘虜の人生観というものにあったようで、同書ではこの辺をこう語っています。

「俘虜期間中といえども、自分の人生を己れで築き上げよう、こういう精神があるかぎりくじけないわけです。
ドイツが負ければショックはあります。
けれども先ほどの手紙の主ですと毎日数時間ヴァイオリンのけいこをし、朝は自分が先生になって英語の講義を主催し、ヴァイオリンが終わったらオランダ語、やがてオランダの漁業会社に務めるかも知れないというのでオランダ語とフランス語の勉強をし、さらにボーナー神父について聖書の勉強もやる……一日中忙しくてしようがないのです。」

これらに対する日本側の評価として、「わが国の将兵であったならば、5年有余の俘虜生活の中でわが国民性のつねとして、このような状態では縮命者、自殺者が多数出るであろう。それに対して彼らドイツ兵は5年有余の中で、音楽を奏し、自ら楽しみ、自ら体育に励んで身体を鍛え、読書会を開いて勉学に努め、わずか数名の神経衰弱者を出したのみというのは、その成績きわめて良好なりと言わざるべからず」という所感が残っているといいます。

ちなみに、「旧大日本帝国陸軍の用語で『きわめて良好』というのは『これ以上ない』ということです。『おおむね可』で『合格』ですから。」ということだそうです。
ただ、収容所によっては、「ドイツ兵俘虜の精神があまり高揚しない方が、つまりくじけていた方が、わが方にとって有利である」などという所長の見解も出て来るそうですが、これなどは、私に言わせれば、やはり、帝国軍人特有の近視眼的な見方であるように思います。
今も昔も、地政学的に見れば、ロシア(ソ連)という大国の脅威が存在する以上、日独の関係というのは、互いに、衰退してもらっては困る関係だからです。
                              平太独白

by heitaroh | 2006-12-20 08:00 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

バルトの楽園14 労役と人権
親愛なるアッティクスへ

このシリーズ、今回は、収容所に置ける「労役」での記述についてです。

少し意外かもしれませんが、以前から触れてきましたように、収容中の俘虜は「労役」につくことができるんですね。
ところが、ひとくちに労役と言っても、賃金が発生する以上、「需要」もないのに「労役」につくことはできないわけで、となれば、収容所によって、「仕事がある地域とない地域」が出ることになったようです。

その辺を、またまた、大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」から要旨のみを拾ってみますと、曰く、
日当は払います。日本人労働者の日当より安くていいんです。使用者からすれば安い労働力が使えるわけです。場合によっては、専門職の労働者も使えるわけですから、双方ともに有益なわけです。
俘虜は俘虜で、その稼いだ賃金を、いくつか回り道をしてでしようが、自分の手元に移すことができたのです。一番の稼ぎ頭は名古屋収容所
その頃もう名古屋はある程度の工業が発達しておりましたから、いろんな工場に働きに行っております。」というものでした。

で、素朴な疑問なのですが、安くて質の高い労働力を使えると言うことになると、逆に言えば、日本人労働者の雇用を奪うという結果にはならなかったのでしょうか?
今だったら、すぐに、反対運動が起こったり、デモになったり・・・という気もするんですけどね。

同書は、それには答えてくれてませんが、一方で、
ケルト社東京支店長が代表になりまして、日本各地の収容所を回り、どの収容所には何が足りないか、何をほしがっているかを尋ね、集まってきた本国からのカンパ配分していました。そのお金は当然のことながら将校には分配されません。彼らは月給をもらっていますから。
下士官・兵卒にはその階級に従って、準士官にはいくら、下士官はいくら、兵はいくら・・・の分配があります。
ただしトータルしてもこの金額は大したものではありません。一番大きいのは召集兵たちの前の勤務先での月給相当額か、それよりやや少ない分が収容所に送金されてくるのです。
これは日本の戦争中もやっていたはずです。召集されたら直ちに切れるのではなく、月給の100%ではなくても何%かは留守家族に送金しているのです。こういう現象と思ってください。」という記述があります。

つまり、将校は労役には付けないし、収容期間中も月給が出ているから、カンパのお金ももらえない・・・と。
これには、少し驚きますね。
この時代にドイツ人は、きちんと、一兵卒に至るまで「ドイツ人としての平等」・・・ひいては、「人権」という意識をもってたんだと。
つまり、「軍隊の上では、指揮命令系統に従うけど、基本的には同じドイツ人だよ・・・」みたいな。
ナポレオンの国民軍から国土を守る為に、自発的に国民軍が生まれた国の伝統かと思います。
この辺が、国民の合意に寄ることなく、オカミ主導国民皆兵構想が進められた日本との大きな違いなんでしょう。
日本だったら、何だかんだ言っても、送られて来たカンパなどは、真っ先に高級軍人(お侍様)が懐に入れてしまうような気がします(笑)。

ちなみに、このようにして収容所に入ってきたお金については、こうも述べておられます。
「当時の日本は今日的言い方をすればまだ発展途上国です。ドイツ兵が撮った当時のいろんな写真がドイツ館にありますからご覧いただくとわかります。子どもたちはほとんど和服です。洋服などは着ておりません。和服に草履。貧しい姿をしております。
そういう時代にあって松山収容所の統計によりますと、一人頭平均25円の可処分所得。板東収容所ですと月28円くらいです。これはもう一大消費者団体です。」

なるほど、各自治体招致合戦をしたがるはずですね。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-12-12 08:21 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

バルトの楽園13 弱インフレと収容所運用の妙。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_11154446.jpg(←週末は、ここで飲んでました・・・。一週間ほど前に、天敵のワインなどを口にしてしまったことから、先週はずっと、具合が悪く、ようやく、復活した夜でした。で、二次会でここに入ったら、「本日のドリンクはワインのみとなっております」と・・・。仕方ないので、一人だけ、ずっと、ビールばっかり飲んでました(泣)。)

で、本題です。
昭和57年(1982年)、イギリスアルゼンチンの間で、フォークランド諸島領有をめぐる紛争が勃発しましたよね。
いわゆる、フォークランド紛争と呼ばれる物ですが、当時、私はまだ学生でしたが、かなり、はっきりと覚えております。

で、先般から取り上げております大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」の中で、これについて触れてあったのですが、曰く、「あそこでイギリス軍苦労したのは戦闘が勝利した後、フォークランド島に収容したアルゼンチンの兵隊の俘虜の食糧イギリスからどう運ぶかということでした。なんのことはない。第二次大戦中、日本軍50万人の大軍が米軍俘虜になってアメリカ食糧を食いつぶした方が戦略的効果大きかったはず」だと・・・。
なるほどと・・・。

その意味では、第一次大戦中、ドイツ兵を俘虜として収容していた日本側にも、維持運営という点では、大変な負担が生じていたのだろうということに思い至りました。
その辺については、同書曰く、
「国際条約から始まって国内法に基づく俘虜取り締まり規則あるいは陸軍省・海軍省の省令による規則ならびに細則、そういうルールがつくってあります。しかし、所長の判断にゆだねられる裁量権があります。これをどの程度運用するかによってずいぶん違ってまいります。例えば第一次大戦中というのは、ある意味からいいますと弱インフレの時代です。
板東伴虜収容所内の製パン・製菓工場でケーキを作る場合、砂糖が何%上がった、卵が何%上がった……、200%以上値上がりしています。日本軍が収容者一人に対して一旦決めた予算ですからそんなに動きません。1人×下士官・兵卒の人数、これだけのカネは来ます。物価が上がります。それまでと同じ物は提供できないはずです。かどちらか必ず落ちます。それをどう工夫するか。
板東収容所(映画、「バルトの楽園」の舞台)では、残飯か何かでブタを飼います。ブタが今何頭になった、何頭つぶした、これを購入したとすればいくらいくらの節約になる・・・、ちゃんと計算して数字まで出しております。当然のことながら、そうした食事の材料ばかりでなく、炊く薪も値上がりしております。これだって、あてがいぶちで購入していたら薪の本数は減ってしまいます。
同じく、板東収容所の所長は何をしたかというと、土地の山持ちと相談いたしまして、一山買います。幸い労力はあります。全員とはいかなかったようですが、薪を切りに行ったのです。木を切り倒し、それをさらに小さく割って、運搬が大変です。手渡しで次々と渡していくわけです。このやり方で束ねた薪を収容所まで運んでしまったのです。これも、いくらいくらの節約になったと計算しております。こういう工夫をやったところは食糧一定の質・量以上をちやんと保証できるわけです。値上がりした分だけ質か量を下げざるをえないところでは、どんどん低下していきます。」・・・と。

なるほど、収容所の運営というのは、確かに、口で言うほど、簡単ではないですね。
収容所長は軍人でしょうが、むしろ、商人的な経営感覚が求められたようです。
その意味では、この板東収容所は、非常に上手くいったクチでしょうが、他のところは、おそらく、「武士の商法」ですから、かなり、待遇は悪化していったのではないでしょうか。
そうなると、不穏な空気も生まれ、それがまた、待遇の悪化に繋がる・・・という悪循環に繋がっていったということも、想像が付きます。
となれば、運営はともかく、三井三菱などの財閥にでも、運用だけは下請けに出した方が良かったんじゃないでしょうか・・・。
少なくとも、アドバイザーくらいは関与してもらうべきだったのではと思いますが・・・。
                            平太独白
by heitaroh | 2006-12-04 08:54 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

バルトの楽園12 収容所誘致運動
親愛なるアッティクスへ

e0027240_14514429.jpg徳川家康という人は、織田信長豊臣秀吉のような残酷なことはあまり、しなかった人ですが、それでも、そこは戦国武将ですから、いくつかはやってます。
中でも、晩年、気に入って居城にしていた駿府城火事で焼けて、やっと再建したと思ったら、また焼けたときは、さすがの家康も、烈火の如く怒って、女中を何人か死刑にしています。
(←駿府城は現在、公園になっていて何もありませんので三河豊橋吉田城です。吉田城は、安藤広重東海道五十三次の中で、城の工事足場から職人が景色を見ている絵で有名なところですね。本当は、豊橋の話をしたときの為にとっておこう・・・と思ってたんですけど。時間も経ったし、もう、いいかなぁ・・・と。)

で、ここで言いたいのは、徳川家康が女中を殺したこと・・・ではなく、静岡と言うところは、元々、火事が多いところなんだなということです。

で、先般来、述べております大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」でも、静岡での火事についての記述がありました。
第一次大戦でのドイツ人俘虜が日本に来る少し前にもやったらしく、同書曰く、「火事の後、静岡市民の志気沈滞している。こういう時期こそ収容所を回していただければ大いに志気上がることと存じますという請願書を出し」たとか。
結果的に、その請願の通りに、収容所は静岡に来たそうなのですが、これは、少し意外でした。
米軍基地移転問題などを思い浮かべるまでもなく、原発ゴミ処理場など然りで、皆、その必要性は認めながらも、いざ建設地の選定となると、途端に総論賛成各論反対で、一向に進まないのですから・・・。

なぜ、そう言うことになるかというと、俘虜収容所というのは、考えてみれば、そこに3000人の俘虜が収容されると言うことは、3000人の小さな町ができるのと同じなんですよね。
となれば、そこはちょっとした消費地なんですよね。
しかも、以前も触れましたとおり、彼らは、収容期間中も給与を受け取ることが出来、労役などの報酬も得られるわけで、となれば・・・。
で、日露戦争の経験で、どうも、彼らが来ると、彼ら相手に品物売れるし、受け容れ施設は「公定家賃」を受け取ることができる・・・ということを、市民も行政も知っていたようですね。
その為、第一次大戦により、チンタオで多くの俘虜が捕まったというニュースが流れるや、日本各地で県会議員、知事、市長が自ら招致運動に乗り出し、受け入れ施設などは首を長くして待っているような事態になったとか・・・。
まあ、原発ゴミ処分場・・・というよりも、サッカー・ワールドカップのときのような感じだったのでしょうか。
懸念は、治安だけでしょうが、その点は、日本の軍隊が守ってくれるとのこと・・・。
となれば・・・ですよね(笑)。

また、収容所内によっては印刷所があり、そこで機関誌なども発行していたようで、となれば、使っただけでも相当な量です。
そのほかいろんな物を作り、その材料も消費したとか・・・。
「もっとも、原始的な貨幣活動は収容所で派生する」とかいう言葉を聞いたことがあります。
最初は、物々交換が面倒くさくなって、タバコが貨幣の代わりをするとか・・・。
ところが、これまた、実際に、当時のドイツ人俘虜収容所では、国際条約によって一定限度であるとはいうもののタバコが免税で入ってきていたのだそうですね。
一定限度というところが、実にいい!
通貨供給量が入所者の自由にならないわけですから、品物さえ、ちゃんと供給されれば、インフレの心配もないでしょうしね(笑)。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-11-27 01:49 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

バルトの楽園その10 国境というもの 
親愛なるアッティクスへ

以前から、度々、取り上げております大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」の中で「国境」という概念について触れてありました。
まずは、同書曰く、
「国境というものはときに情勢によって移動します。(中略)
あのエルザス・ロートリンゲン (現仏領、アルザス・ロレーヌ)だけを考えてみましても、普仏戦争(明治3年(1870)~)でドイツ領。ドイツ語国語になります。
第一次大戦のときフランス領に戻ります。フランス語国語になります。
第二次大戦ヒットラーが占領いたします。ドイツ語国語になります。
第二次大戦フランス領に戻ります。今度またフランス語が国語です。
一人の人間が生涯の間でドイツ語、フランス語が国語になったり、なくなったり……」と。

確かに、四囲を海に囲まれている日本人には、知識の上ではわかってはいても、こういう、陸続きの国境というのは神代の昔からあまり縁がないな・・・と思われるかも知れません。
が、実は、日本も陸続きの国境があった時期があります。
それが、サハリン(樺太)北緯50度線です。
日露戦争後のポーツマス講和条約でサハリンの南半分が日本の領土となり、第二次大戦後で失くなるまで、国境として、存在していました。
元横綱・大鵬などは、少年の頃、このサハリンから、命からがら逃げ帰った一人だそうで、氏の回顧録によると、ソ連軍は、引き揚げの日本船を片っ端から砲撃し、少なからぬ犠牲者が出たとか・・・。

一方で、この陸続きの国境を利用したのが、有名な、昭和13年(1938年)の女優・岡田嘉子亡命逃避行です。
思いを寄せる杉本良吉と二人で、この国境を越えて、モスクワ亡命したことは、当時の日本人をも大きく驚かせたようです。
おそらく、皆、国境という物は海の真ん中赤い線が引かれているものだ・・・という認識だったのではないでしょうか(笑)。
日本人には亡命という選択肢自体、あまり、馴染みがあるものだったようには思えませんが、なるほど、逆に言えば、亡命という発想自体、陸続きの国境であればこそ、生まれてくるものなのかも知れません。
白村江の戦いの後、防衛の為に、対馬に連れて行かれた防人を例に挙げれば、わかりやすいでしょうか・・・。
国境のどちら側か・・・などと、そういう問題ではないという・・・(笑)。
                                平太独白
by heitaroh | 2006-11-16 08:08 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(0)

バルトの楽園その8 俘虜は勤務の一形態。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_10592384.jpg私の今週はここ(←)で始まりました。

東京は、日比谷公園の中の老舗、松本楼です。
モーニング代わりのハヤシライス食ってきました。

思わず、ゆっくりし過ぎて、危うく、飛行機に乗り遅れるところでした(笑)。

で、先日から、たびたび、取り上げております、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」という大著にみる第一次大戦の折りのドイツ兵俘虜についてです。
まず、俘虜というものの法的身分・・・についてですが、その根拠となるのが、先日も申し上げました明治32年(1899年)に調印されたハーグ条約だそうですが、ちなみに、昭和4年(1929年)には、第一次大戦の経験に照らして、ハーグ条約を改定したジュネーブ条約が調印されたそうですが、日本はこれに「調印」はしたものの、国内措置である「批准」をしていないのだそうですね。

従って、以後の日本軍将兵にとって、「ジュネーブ条約」は、身分ないし生命保証を求めるべき法的根拠を持っていなかったのだとか・・・。
何故そんなことになったのか・・・というと、これらの条約というものは、先日も触れました、「宣誓解放」にみられるような、ヨーロッパ諸国同士の戦争を前提としていたということがあり、この点で、当時の日本人には理解しがたい条約であったということが挙げられるようです。
ヨーロッパ諸国同士の戦争・・・とは、つまり、キリスト教国同士の戦争、価値観が共有される者同士の戦争と言うことですね。
そして、それを決定的にしたのが、俘虜という概念そのものの価値観が共有出来なかったことのようです。

第一次大戦当時、日本軍であろうと、ドイツ軍であろうと、将校は月給を受け取っていたそうですが、それが、俘虜になった場合、国際条約にどう書かれていたかというと、同著曰く、「俘虜の将校は捕まえた国の、それに相当する階級の将校が受け取るのと等しい額の俸給を、捕まえた国の通貨で受け取る」ということになっていたのだとか・・・。
つまり、「ドイツ将校が日本の俘虜になれば、仮にその人が大尉であれば日本陸軍の大尉の受け取るべき月給日本円で受け取る」のだそうです。
で、「戦争が終わった後、うちはおたくの将校にいくらいくら払った……と (相互に)貸借対照表で清算」をするといういふうになっていたと・・・。
ところが、大正8年(1919年)に締結された第一次大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約はそれを実行しなかったんですね。
まあ、ドイツ帝国自体が事実上、崩壊しているわけですから、したくても出来なかったのでしょうが・・・。

しかし、当時の日本はそれほど豊かな国ではありませんでしたから、日本側としては、「やってらんねーよ」ということになるわけで、陸軍省資料「俘虜取扱顕末」という陸軍省文書の中には、「このたびの戦争で収容所に対して日本側は五百何十万の巨費を使ったのに、これを回収できなかった」という、茶者曰く、「どこか、恨めしい雰囲気が漂う記述」があるのだとか・・・。

さらに、俘虜に対する日本側と欧米諸国の考え方の違いは、太平洋戦争での日本側の「生きて虜囚の辱めを受けず」で決定的になるのでしょうが、それ以前に、欧米諸国には「俘虜は勤務の一形態」という考え方があるようです。
従って、ドイツ側では、驚くことに、俘虜になっている間に昇進したりすることさえあったそうです。
実際、チンタオ総司令官であり、総督であったワルデック大佐は、俘虜期間中に昇任して少将になっていると言います。
まあ、ドイツ側としては、「辛い俘虜生活をよく耐え抜いてくれた」・・・というところなのでしょうが、この現象も、「宣誓解放」同様、おそらく日本側からすれば、「勤務なんてしてないじゃないか。」・・・ということになるわけで・・・。
(ただし、本国政府は「中尉を大尉にした」というような通達を相手国に伝える義務を持たないとかで、だから、日本側は「ワルデック大佐」のままにしておいて一向に構わないのだとか・・・。)
日本側は、どうにも、このことは釈然としなかったようで、ドイツ人俘虜に、100%の月給を支払うところを、休職給として60%を支払っていたといいます。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-11-01 08:52 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

バルトの楽園その7 脱亜入欧しきれなかった日本。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_15132350.jpg←こちらは、先般から取り上げております、第一大戦中現職ドイツ海軍大臣博多で殺され、俘虜として収容されていた夫が自死した、博多版バルトの楽園、「ザルデルン夫人殺害事件」があった住吉・簑島側から、対岸の旧柳橋遊郭方向を見たものです。

ちなみに、左に写っている木造三階建ての建物は、決して、遊郭などではなく、博多では有名な高級料亭三光園です。
ちなみに、私も一度だけ行ったことがあります。
(参照:平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編。」及び、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・後編。」

で、先日から申しておりますとおり、先般、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」という本を読んだのですが、同時期に、塩野七生女史の「ローマ人の物語XIV キリストの勝利 」も読んでおりました。
これは、特に意味のあることではないのですが、昔と違い、なかなか、読書にいそしむ時間がない身としては、寸暇を惜しまねばならず、となれば、至る所へ、本を置いておかねば成らず、車の中、カバンの中は言うに及ばず、私が入る可能性があるあらゆるトイレにも置いてあります。
つまり、はええ話が、こっちのトイレかあっちのトイレかという違い・・・ということですね(笑)。

で、以前から感じていたことなのですが、この二つの本を読んで、改めて、思ったことがあります。
明治期、日本は脱亜入欧を宣し、近代化への道を歩み出したのでしょうが、そのとき、アジアを出て欧米に入る・・・と言ったのであれば、その為には、欧米文明の基礎知識となっている、「古代ギリシャ・古代ローマ文明」「聖書」くらいは、最低限、知識として、広く識っておかなければならなかったのではないか・・・ということです。

にも関わらず、日本人は技術的な物、制度的な物を取り入れることばかりに汲々とし、本質のところで、欧米人と価値観を共有することはできなかったと言え、それが、第一次大戦後講和会議で、「サイレント・パートナー」などという蔑称を頂戴する遠因になったと思われますが、この点で、この第一次大戦によって、当時、日本に俘虜として抑留されていたドイツ人たちに対する日本人との比較が、その辺を解き明かしてくれるかも知れません。

同著曰く、最初の国際条約であるハーグ条約を読み解くと、「ああ、ヨーロッパ人同士の戦争を想定しているな」ということがわかるそうで、それを端的に表している部分として、「宣誓解放」という制度があるそうです。
即ち、ドイツ兵俘虜が、「私はに誓って、このたびの戦争に二度と参加いたしません」と誓うと、その俘虜は解放されるのだとか・・・。
国内法制定されていれることが前提だそうですが・・・。)
実際、大正時代に、俘虜情報局というところが発行したドイツ人俘虜名簿には、ところどころ、線が引っばってゴム印が押してある部分があるそうです。
それが即ち、「宣誓解放」で解放された者の名前だとか・・・。
でも、これは、現代でも日本人には、なかなか、なじめない制度ではないでしょうか?
「こんな誓いで解放して良いの?」、「本当に守るの?」、「どれほどの拘束力をもつの?」・・・、ていうか、「そもそも、日本人は何に対して宣誓すればいいの?」・・・と。

つまり、この条約は「明らかにキリスト教徒同士、つまり欧米諸国間の戦争を前提とした条約である」・・・ということになるわけです。
なるほど・・・と。
この一事だけを採っても、日本人は、スーツを着て、ネクタイを締めて、脱亜入欧を宣したものの、根本的なところでは決定的に異邦人であったと言えるでしょう。

この点で、同著は、「日本では、裁判の場合の証言でさえ、ちゃんと誓っているはずなのに例の有名な『記憶にございません』という返答になるわけですから、(日本人の場合の)宣誓は (欧米人のそれとは)まったく違った意味を持つのだろう」と結んでおられました。
「例の・・・」という辺り、どうやら、ロッキード事件当時に書かれた論文だったようです。
平太独白
by heitaroh | 2006-10-30 18:12 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

バルトの楽園シリーズその6 健康保険組合
親愛なるアッティクスへ

先般、申し述べました大戦中のドイツ兵俘虜(捕虜)収容所について書かれた大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」について、まず、一番、驚いたのは、この板東収容所に幽閉されたドイツ人捕虜たちは、収容所内で健康保険組合を作っていたそうですね。
そのおかげで、大正7年(1918年)、当時、折から、世界中に猛威を振るったインフルエンザ、通称、スペイン風邪が日本にも上陸したとき、日本人を始め、他収容所などでも死者が多数出たのに対し、板東収容所での死亡者はわずか、3~4名だったとか。
で、単に健康保険組合と言いますが、驚くべきは、その財源の確保方法です。

その前に、少し、説明が必要になると思いますが、ドイツでは、「俘虜は勤務の一形態」ということで、俘虜になっている間も給料は出るし、それどころか、昇進さえするそうですね。
さらに、俘虜は労役に着き、当然、日当をもらうこともできたそうで、直接ではないにしても手元に置くことが出来たとか。
すでに、工業が発達していた名古屋収容所などでは、需要があったこともあり、俘虜たちは結構、稼いでいたそうで、そうなると、もう、それだけで、そこに一つの消費地域があるようなもので・・・。
今の感覚なら、こんな収容所を我が町に持ってくるとなると、総論賛成各論反対で、反対運動が起こりそうな気もするのですが、当時は、反対どころか、誘致合戦だったそうです。
つまり、軍隊が守ってくれて金を落としてくれる・・・ということでしょう。

で、つまり、そういう風で、俘虜たちは、金はある・・・ということでなども買うことが出来たことから、当初、健康保険組合を運営するに当たっては、そこで買ったビールに消費税を掛けて、財源としようとしたようですが、そうなると、貧しい兵隊から不公平だとの不満の声が相次いだそうで(いわゆる、貧富の格差ですね。)、その結果、何と、以後の負担額は「自分で出せると考えた額を自己申告する」としたとか・・・。
つまり、「申告者を信じる」・・・というわけです。

ちなみに、日本で健康保険法が実施に移されたのは昭和2年(1927年)のことだそうですから、如何にそれが革新的なことだったかがおわかり頂けると思います。
もっとも、状況の過酷さには雲泥の差があったとは言え、日本人は、その後、シベリアで抑留されたときにも、健康保険組合を作ろうなどとは発想も出て来ておりませんし、それどころか、平太郎独白録 「二日酔いにみる撤退と転進の大本営的考察」で申し上げましたように、抜け駆けで異常に働いて、自分だけ食糧にありつこうとする者が続出し、結果、過労死が続出したなどと言いますから、まあ、「申告者を信じる」以前の問題だったでしょうか・・・。

で、この収容所内健康保険組合ですが、さらに、芝居、音楽会などのチケット販売益、さらには、宝くじの販売益なども財源としたと言います。
そして、スペイン風邪の流行に当たっては、「うがいの奨励」や、「治った後の音楽活動の不可」などという健康啓蒙活動にも力を入れたとか・・・。
これが、スペイン風邪の被害を最小に抑える上で、大いに効果が上がったそうです。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-09-14 18:06 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

バルトの楽園シリーズその5 傑作!嗚呼、脱走兵!
親愛なるアッティクスへ

で、バルトの楽園シリーズの第三弾です。

先日から、触れております、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」ですが、これによると、第一次世界大戦当時の日本のドイツ兵捕虜収容所が、すべてに「バルトの楽園」と言われた板東収容所のように上手くいっていたわけではなく、先日の平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡では・・・その4 久留米俘虜収容所編。」の中で触れた、日本の「ナチス強制収容所」と酷評された久留米収容所のような存在もあったことがわかると思います。
さらに言えば、「バルトの楽園」では見えてこなかった事象の一つに脱走者の存在が上げられるようです。

ちなみに、日本国内の収容所からの脱走者は6名。
そのうち、5名が、我が、福岡収容所からの脱走であり(残る1名は静岡収容所よりの脱走。出国に至らず。)、これら5名は、そのすべてが大陸に渡ることに成功し、うち4名中国に到達、さらに、そのうち1名は実際に、ドイツまで帰り着き、再び西部戦線に身を投じたとか・・・。
まあ、もちろん、福岡の場合、大陸に近いという特殊な事情があるのだろうとは思いますが、どうにも、福岡らしいと言えば言えるような・・・。

この辺のことを具体的に記しておきますと、うち、モッデ少尉は朝鮮半島で逮捕されたものの、ザクセ少佐シュトレーラー中尉は、偶然、上海で出会い、アメリカに渡り、ニューヨークから、ノルウェー船に潜り込んで渡欧しようとしたところを巡検中の英国海軍に発見され、マン島英国収容所に収容。
また、ヴェンクシュテルン少尉スコットランドの島の港に居るところを逮捕され、同じく、マン島の収容所で終戦を迎える。
5人のうち、ケンペ中尉のみが、上海、シベリア、ノルウェーを経て、ドイツ本国にたどり着いた・・・というわけですね。
さらに、脱走に失敗したものの、ドイツ側資料には「脱走王」と記されたアルテルトなる人物もいたようですし、逃亡幇助>までいれると、実際には、40人を超える処罰者がいたようです。

e0027240_1038994.jpg以前、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編。」と、同じく、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・後編。」で触れたザルデルン夫人も、このとき、脱走兵を手引きしたという嫌疑を掛けられ、憲兵より尋問を受けています。

(←往事、ザルデルン夫人が住まいした簑島土堤の雰囲気を、唯一、現代に伝えてくれそうな場所です・・・。)

で、まず、それら脱走兵の脱走目的ですが、「苦戦を強いられている祖国の為に、再び、戦線に参加することを欲した」という脱走兵と、「柵外での散歩遊興の為」の脱柵兵とがあったそうです。

前者の方に関しては、上述した以前に、俘虜の法的立場や、日独の俘虜に対する価値観の相違・・・などといったものについても言及しないといけませんので、これら重たい物は、これ以上は、また、別稿に譲るとして・・・後者です。
俘虜の中には、なかなかに豪の者もいたようですね。
九州に置かれた収容所の一つ、大分収容所は、たびたび、脱柵する者が多かったようで、同書によると、その中には、こういう事例もあるとか・・・。

「大正7年2月9日夜、少尉ゲオルク・キュールポルン(29歳)は、従卒ナーゲール (26歳)、ダウデルト(30歳)と共に収容所を脱出して、カンタン遊廓春日楼に登楼した。
三人は、みごとな手跡で、「高松市本町 長野正(22歳)、高山留一(20歳)、中山信一(30歳)」と記帳するや、小福、美代吉、秀勇を相娼に、一人5円20銭を支払って、愉快の最中、憲兵に捕らえられた事件はおよそ傑作であった。
少尉は謹慎、従卒2人は営倉30日は高い春宵一刻の夢代であった・・・」と。

ていうか、普通、気付けよ!と(笑)。
いくら字が達筆でも、顔もしゃべり方も違うだろ・・・と。
ま、何人でも、金を払ってくれる以上、客は客・・・というところでしょうが。

ていうか、どうして、ダウデルトだけ、年がそのままなんだ・・・と(笑)。
自分ともう一人の従卒は、サバ読んで若く書いておいて、ダウデルトだけ、思いっきり実年齢やないですか。
つまり、「ダウデルト、おまえは老けとる・・・」と(笑)。
                                 平太独白
by heitaroh | 2006-09-08 08:35 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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