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「農業をおろそかにする国は滅びる」にみる日欧の視線差
親愛なるアッティクスへ

少し前の話になるのですが、今年8月頃の新聞のコラムに実に興味深い一文が載っておりました。
それは、『欧州には「農業をおろそかにする国は滅びる」という考え方が根付いている』・・・というものです。
詳しい内容は忘れましたが、各国と日本との人口に対する農業生産高格差を呈示した後、「経済大国になるために、工業化を推進し、農業を切り捨ててきた日本」について触れ、続けて、「現在の世界的な経済危機食料危機を契機に、日本は農業を根本的に立て直すことに踏み切るべきだ・・・」というような内容でした。

この点で、私には常々、思うことがあるんです。
以前、テレビで、フランスで何代にも渡って昔ながらのやり方で「塩」を作っている親子・・・というのが映し出されてましたが、なんか、見ていて格好いいんですよね。
でも、フランスの製塩農家も、よく見ると、格好はジーパン(=向こうの作業着)泥だらけだし、やってることは日本の農家と大して変わりないような気がするんですよ。
まあこれは、製塩と農業と、少し、論点が違うのかもしれませんが、偏に、第一次産業・・・、特に、農業というものへの人々の視線の温度差・・・なのではないかと。
すなわち、欧州の農業には、「尊敬されている」・・・とまでは言わないまでも、もう少し、暖かい視線があるように感じられるんですよ。
その証拠に、一見、工業国に思えるドイツでも食糧自給率はしっかり84%ある・・・と。

それを端的に表すものが、先日、別のテレビ番組で見かけた、スペインフランスの間にまたがるピレネー山脈に政府が生態系を取り戻すために、絶滅したを放した・・・というものでした。
日本では、なかなか考えられない話で、言うならば、全滅したを、まるでトキのように中国から取り寄せて、再び、山に放すようなものですよね。
いくら、鳩山総理が「環境」を唱えても、そんなことしたら、林業農業の従事者から猛烈な抗議活動が起き、それに便乗したマスコミや野党は騒ぎ、次の選挙に影響を来すことになるわけで、到底、あり得ないでしょう。

しかし、ピレネーの羊飼いは、そのことを聞かれると、現実に、飼っている羊が熊に襲われる被害が出ているのに、「いやあ、羊がもう8匹も襲われて大迷惑さ」などと笑って答え、「しょうがねーよなー」って感じで、そこには、いささかの悲壮感も、政府を責める怒りの表情も見て取れませんでした。
つまり、彼らは政府が熊を放したことを受け入れているようにしか見えなかったわけで、それは、あるいは、戦前の日本の農民と同じように、「御上には逆らえねえ」という諦め感から来ているのかもしれませんが、やはり、そこには農民の側の「理解」というものがあるように思えるんです。
そう考えたとき、これはやはり、政府・国民の側からも、常日頃、農業という物への「理解」があるということであり、すなわち、両者に信頼関係があるように思える・・・と。
すなわち、農業に対する視線の温度差、それ自体が日本とは少し違うのではないかと・・・。

〈参考〉:平太郎独白録: 食糧自給率低下にみる農業立国というものの是非 その1
     :平太郎独白録: 食糧自給率低下にみる農業立国というものの是非 その2
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-11-18 18:30 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

19世紀型力の論理を普遍の法則と信じる事の危険 その2
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

まず、昨日、「19世紀型 力の論理」とでもいうような考え方を人類普遍の論理と思っている人が意外に多い・・・ということを申し述べましたが、これは特に、司馬遼太郎小説愛好者に特に言えることのようですね。
確かに、それが国家間の底流に流れるベースであるという点では私も異論はありません。
しかし、同時に人間世界という物は、その時々により形を変えていく物であり、今までが一定だったからと言って、これからも変わらないということでもないと思います。
ちなみに、この点は、かねてより、平太郎独白録 : 幕末のアイドル竜馬ならぬ坂本龍馬の実相などで、「司馬遼太郎という人の、あまりにも良い仕事をしすぎたがゆえの弊害」として指摘してきましたが、しかし、司馬さんが、その作品で舞台にした多くは19世紀以前の話であり、司馬さん自身にしても、主に健筆を振るわれたのは「東西冷戦」の時代ですから、その辺は、少し勘案してあげる必要があるのかな・・・と思います。

さらに、中国のような覇権主義的な体質を持つ大国が地球上から消えて無くなれば世界は平和になるかと言えば、この点は、これも同じく、平太郎独白録 : ムンバイ同時多発テロに見る木星と土星の効用で述べたように、「中国インドというのは日本にとっては、地球に置ける木星土星のようなものであり、木星土星という巨大惑星が太陽系の外周部にあることにより、地球に隕石が降り注ぐことを防いでくれているように、中国インド、それにロシアなどという大国は周辺の中小国家にとっては脅威であると同時に、一方では狂信的原理主義者からの防壁でもある」とも思うのです。

この点で、8月に放送された、NHKの「追跡!AtoZ」という番組の「ニッポンは勝ち残れるか 激突 国際標準戦争」という特集を見て、改めて、私なりに思ったことがあります。
1995年WTO発足以降、国際標準が輸出や政府調達の条件としてルール化されたことで、今や、国際標準は国家間の「特許」のような効力を持つようになっているのだそうですね。
国際標準にするかどうかを決めるのは、一応、各国の投票だそうですが、これに対し、欧州、特にドイツはこの標準化を独占することで莫大な利益を得ることを国策としているようで、事実上、この面でのヘゲモニーを握っており、露骨に、日本の国際標準獲得を排除しようとしているようでした。
その上で、私が注目したのは、国際標準化機構、すなわち、ISOの本部はスイスジュネーヴにあるという事実です。

これすなわち、ドイツは国際標準策定に当たっては地理的にも有利であるということを意味しており、であれば、そういう世界公的機関本部が主にどこに置かれているかを改めて考え直してみる必要があると思うのです。
そう考えれば、アメリカとヨーロッパは近く、アジアは遠いということなんでしょうが、であれば、全面的に依存しないまでも、場合によっては、日本は中国と組んでアジア発言力を高めていかなければならないという現実にも直面しているのではないでしょうか。
私にそう思わせたのは、この番組で採り上げられていた日本企業の国際標準審査が、最後はドイツまでが賛成にまわって取得に至ったことについて、「なぜ?」と問われたときの識者の言葉。
「中国が味方してくれたことが大きい。残念ながら、日本にダメという国はあっても中国にダメという国はないのが世界の現実です」・・・と。
                                         平太独白
by heitaroh | 2009-09-19 18:50 | 国際問題 | Trackback | Comments(4)

味気ない盆休みに読み終えた味気ない二階堂進氏の伝記
親愛なるアッティクスへ

盆休み終わりましたね。
いかがお過ごしでしたでしょうか。
これで、あっという間に、また、正月です(笑)。

私の場合、この4日間、どこにも行かず、終日、独りで家で酒飲んでDVD三昧で終わりました。
もう、女房も、里帰りには着いてきてくれるなと言うし、味気ないと言えば味気ないですね。
で、テレビ三昧だった私としては、盆というのは、まあ、必ずしも、日本だけの物ではないのかもしれませんが、日本の場合は、どうしても、終戦というものと重なってしまうことから、独特の悲壮感を持った季節になっているように思えました。
世界では、韓国「植民地解放の目出度い季節」・・・ほどではなくとも、多かれ少なかれ、大戦が終わった目出度い季節・・・でしょうか。
ドイツが無条件降伏したのは5月ですから、5月に感慨を持つことはあっても、8月には特に感慨深いモノはないでしょうね・・・。日本人も昭和20年の11月・・・と言われても、特にピンと来るものがないのと同じではないでしょうか。)

で、この手の話になると、また、面倒くさい反応をされる方が出てきますので置くとして(最近、敬遠気味です。)、盆休みの間で、元自民党副総裁の、故二階堂 進氏の伝記を読み終えました。
ちなみに、九州国立博物館って、二階堂氏が積極的に誘致したんだそうですね。

e0027240_20454766.jpg出来たときは、他の先生方が「自分が尽力した」みたいな顔しておられましたが・・・。
ま、どっちでもいいことですけどね(笑)。

(←太宰府天満宮九州国立博物館を繋ぐ、動く歩道です。周囲の色が変わります。)

e0027240_2111956.jpgこの人物に興味を持った動機は、以前、平太郎独白録 : 日本の中枢で現代も生き続ける長州閥で述べましたことと関連するのですが、氏は鹿児島県を代表する政治家でありながらも、薩摩閥とは無関係であり、その点で、改めて、出てきた経緯を知りたかったからでした。

ま、本自体、特に、二階堂氏自身のことについて言えば、あまり、感じるモノがない・・・、少々、味気ない作品でしたけどね。
                     平太独白
by heitaroh | 2007-08-16 00:28 | その他 | Trackback | Comments(2)

20世紀はアメリカの時代だったのか?
親愛なるアッティクスへ

19世紀イギリスの時代、20世紀アメリカの時代と言われますが、果たしてそう断じきっていいのでしょうか?
パクス・ブリタニカの時代の19世紀、世界に冠たる大英帝国を追い上げる二つの新興勢力。
ひとつは、南北戦争を巨大なボイラーのようにものすごいエネルギーで推進しつつあるアメリカ
もうひとつは、ビスマルクのもと、オーストリア、フランスを立て続けに破り、プロイセン統一を成し遂げた日の出の勢いのドイツ
そして、結果的に二度の大戦でドイツの挑戦を跳ね返したアメリカは、イギリスの後継者としての超大国の地位を確定するわけですが、では、果たして、本当に今はアメリカの時代なのでしょうか?

かつて、西アジアにおいて、バーヤジィード1世によって建国され、日の出の勢いで中東を席巻しつつあったオスマン・トルコ
その前に立ちふさがったのがチンギスハンの再来を目指す、一代の英雄、ティムール
さしものオスマン・トルコも、ティムールの前には歯が立たず、一敗地にまみれ、バーヤジィード1世は捕虜となり、失意の内に死去ました。
では、その後ティムール帝国が、その世紀を代表する世界帝国となったのかといえばさにあらず。
ティムールが死ぬとすぐに、その帝国は後継者難から崩壊し、それとは対照的に、バーヤジィード1世の子孫により、オスマン・トルコは復興し、ビザンチン帝国を破り、未曾有の繁栄を謳歌することになったことは周知のとおりです。

そういう観点から見てみると、日の出の勢いを叩かれ、またしても頭を上げたところを、二度目の大戦で完膚無きまでに叩かれたことにより、武力による侵略をあきらめたドイツは、融和による拡張に切り替え、荒廃した国土から復興を果たし、分断されていた東西を統一し、フランスを抱き込み、EUとなり(EUもこのままトントン拍子に行くとは思っておりませんが)、着々と階段を登っているようにも見えます。
その意味で、今は果たして本当にアメリカの時代なのか?
それともオスマン・トルコと同じく、アメリカというのはティムールと同じように、長いドイツの時代の始まりを彩ったほんの一時的なものなのでしょうか・・・。

私もこの論の奇抜なことはよくわかっているつもりです。
まあ、こういう角度から見る見方も・・・というくらいのつもりで聞いて頂きたいにですが、昨今のG7でのアメリカの発言力の低下EUを背景にしたドイツの発言力の高まりを見ていると、あながち的外れでもなかったかなと思い始め、ご意見を頂戴しようと思い立った次第です。

ただ、アメリカの競争社会のすごさは認めざるおえないところであり、それに大国というものは衰えていくのに時間がかかる物でもあり、今すぐ、アメリカが没落するとは思えませんが、いずれにしても、先般から述べておりますように、アメリカは長い目で見たときには、下り坂に入ったとは思います。
では、それに取って代わる国がどこに?と考えたときに、まず中国が浮かぶでしょうが、これも以前書いたように、元来が、かなり、不安定な物であり、このまますんなりいくとは思えません。
その意味では、BRICSと呼ばれる諸国も似たり寄ったりでしょう。
そこで、世界を見回してみると、EUでヨーロッパを巻き込み、巨大な力を蓄えつつあるドイツが浮かんだわけです。
もちろん、こちらもそうすんなり行くとは思えませんが、国民の民度の高さという点を考え合わせたとき、うまくいけばアメリカをしのぐ、次の世界の中心となる可能性があると思います。
むろん、あくまで可能性であり、アメリカの衰退が前提でもあり、 又、アメリカという国は競争相手がいたら燃える国ですから、また復活するかもしれません。
しかし、19世紀から続くアメリカとドイツのイギリスの後継者争いの延長という見方をすると、EUというのはまた違った見方が出来るのではないでしょうか。
                             平太独白
by heitaroh | 2007-04-19 08:28 | 国際問題 | Trackback | Comments(16)

年末的一年間お世話になりました的教えて下さい
親愛なるアッティクスへ

今年もいよいよ、残すところあと僅かとなってきましたね。
で、まことにもって、恥ずかしい限りなのですが、今年一年、疑問に思ったことを挙げてみたいと思います。
ご見識豊かな皆々様のお力を持って、迷える子ヤギをお導きの程を。
これがすっきりしないと年が越せません(笑)。

で、教えてください。

なぜ、カナダは独立国なのでしょうか?
東洋的な発想では、アメリカがカナダを併合してしまえば、アラスカまで地続きになるんですよね。
カナダは、一応、アメリカの弟分ってことになってるのでしょうが、カナダの国民感情としてはアメリカに対しては、ちょっとした対抗意識のような物もあり、アメリカの悪口を言うことで職を得ているような議員さんもいると聞いています。
それを考えれば、万一、遮断されたりしないように自国の領土としておいた方がいいんじゃないですか?
何より、カナダとアメリカは、宗教や民族が特に違うわけで無し、どうしても、別の国で有らねばならない理由があるようには思えないんですよ。
また、同様に考えれば、メキシコを始めとする中米の国も然りで、中国人や日本人の考え方だと、パナマ運河の領有を確実な物にする為には、パナマまでは自国の領土に組み入れてしまおうとするんじゃないですか?

教えて下さい。

ドイツが最大の被害を与えた国ポーランドに対して、戦後一貫して謝罪外交を行ってきたといいますが、これって旧東ドイツが行ったモノでしょうか?
旧西ドイツ?それとも、両方?一緒に?別々に?
考えてみれば旧西ドイツは当初は国交がなかったわけでしょうし、東西双方が別々にそういう結論に達していたとしたら、これは驚くべき事ですね。
ゲルマン民族の民族性の為せる技でしょうか・・・。
それとも、西ドイツにそういう動きがあったから、遅れてはならじと東西争って、ポーランドとの和平に邁進したという覇権争いの一面があったのでしょうか?

e0027240_12315847.jpg教えて下さい。

なぜ、日本人はゼネラル将軍と訳したのでしょうか?
翻訳されたと思われる明治日本では、将軍と言えば、前王朝の通称であった征夷大将軍のことだったのではないですか?
律令国家の称号をそのまま、踏襲したのかもしれませんが、少なくとも、江戸時代の翻訳者であれば、ゼネラルを将軍とは訳さなかったように思えるのですが・・・。

将軍と言えば、中国では、孫子などには、「将能ありて君御せざれば勝つ」等という言葉もあるとおり、司令官という位置づけでしたよね。

日本でも、古代は、「いくさのかみ」と読んで、将軍、つまり、軍事を司る司令官という意味だったように記憶しておりますが、ゼネラル=将軍とした時点で、旧幕府側の人間からの反発は起きなかったのでしょうか?

教えて下さい。

ジパングというマンガの中に、タイムスリップした自衛隊員が当時の日本人になりすまして、町を歩くことになったとき、麻のスーツと「帽子」を手渡されたのですが、隊員の一人がそれをかぶりながら、「照れるな」と言うシーンがありました。
で、私は帽子が好きなんですが、たまに、スーツに帽子を被っていくと、皆から、奇異な目で見られます。
日本人が、正装に帽子を被らなくなったのは、どういう理由だったのでしょうか?
いつの頃から日本人は帽子をかぶらなくなったのでしょうか?
昭和30年代の映画では、かぶっているのを見たことがあるんですけど、でも、それも考えてみれば、志村喬などの年配の人でしたね・・・。
                         平太独白

by heitaroh | 2006-12-28 08:10 | その他 | Trackback | Comments(15)

バルトの楽園16 日独機関誌比較
親愛なるアッティクスへ

前回、ドイツ人俘虜というものの収容所内での過ごし方、ひいては、人生観という物について触れましたが、これについては、大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」は、
「こういう生活態度、全員じゃないと思います。崩れた人もいると思います。しかし、こういった生活態度、人生観が機関紙を支えていたと思いますし、大半の人たちが崩れてしまわなかった理由であろうと考えられます。」とも述べておられます。

で、ここで、出てくる「機関誌」こそが、松山収容所などで発行されていた「ラーガーフォイヤー」のことです。
同書では、これを仮に「陣営の火」と訳しておられましたが、雰囲気からして、それに近い物があるように思います。

で、この機関誌については、
「そういう週刊の新聞を発行しました。輪転機、当時の最新鋭機だろうと思いますが、それを銀行かどこかから借りてきて、五号までつまり五週間発行します。
第五号が出たところで所長前川中佐がその新聞を発行停止処分にいたします。
(中略)
印刷機はありません。どうしたか。タイプライターはあります。カーボン紙を挟みます。
もちろん電動タイプではありません。たたき(手動)ですから(カーボン紙を挟んでも)5枚か10枚しかとれないと思います。
それを束ねて(購読)会員を募集します。ただし一人に一部は渡せません。回覧方式です。
入会金1円。購読料月当たり50銭。ちよっと高いような気もしますが、そこが契約です。
やがて平和がきたならば、回覧で回したのをきちんとした印刷で渡すという約束をしております。」というものだったようですが、この点で、思い出したことがあります。

第二次大戦後、敗残日本兵たちは、ソ連によってシベリアに抑留されたわけですが、このとき、シベリアには日本人だけではなく、ドイツ人ルーマニア人など他の敗戦国の兵士たちも多数、抑留されていたそうで、生殺与奪の権を持つソ連というものへ媚を売るというのは、どこの国の収容所でも、多かれ少なかれ致し方ないことであったと言えるでしょうが収容所内で「同士スターリン大元帥閣下お誕生日おめでとうございます!」などと書かれた新聞まで発行したのは日本人の収容所だけだったと言います。

それを考えると、この第一次大戦のときのドイツ人俘虜の機関誌は、発行停止後は回覧物ですから、日本側はまるで気づいていなかったということもあり、割と自由に書かれているそうですが、同じ印刷物を発行しながらも、自分たちの為に秘匿しながら印刷したドイツ人と、権力者の心証を良くする為に発行した日本人というのは、随分と趣が違うなと・・・。
まあ、この点は、同著も、
「この(第一次大戦時の)ドイツ兵たちの心情がずっと続いていたわけではありません。
ときの条件によって、わが日本人も日露戦争のときの将兵は立派だったと思います。上がったり下がったりいたします。
ナチス時代ドイツ将兵とは直接比べられません。」と述べておられるとおり、シベリア抑留とバルトの楽園を同じように比べるわけにはいかないでしょうがね。

ちなみに、ドイツ人俘虜は、講和後、「本国へ帰る船の中にも輪転機とワラ半紙を持ち込んで、週刊新聞を発行している」そうで、この点でも、面白い日独比較を展開しておられました。
曰く、「あらかじめ紙の計算をします。一号で16ページ。予約購読者数150人と予想。印刷ミスの予想枚数%もたてて、必要な枚数の紙を船に積み込みます。
やがて船内で予約募集を始めます。ところが予約数が予想を上回ります。
(こんな場合)われわれ日本人だったらどうするでしょうか。
たぶん皆さんに行きわたるように、16ページを12ページとかに減らして、購読料もそれに応じて下げ、印刷すると思います。
彼らが何をやったかといいますと、150部で打ち切り。あと(の予約購読者)は名簿に残しておく。そしてあのマラッカ海峡を渡ってスマトラ島の北端に港がありますが、そこに船が寄るので、その港で紙の入手を計る。
もし紙が入手できたならば、一号からさかのぼって名簿に記載された人に配布する」ことにしたとか。
なるほど、面白い考察だと思いますね。
平太独白
by heitaroh | 2006-12-25 08:39 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

バルトの楽園15 ドイツ人俘虜の人生観
親愛なるアッティクスへ

15回を数えてしまいましたこのシリーズですが、今回は前回の続きで、収容所内での経済活動についてです。
またまた、大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」よりの引用ですが、

「どの収容所でも、持っている知識、技能をお互いに分け合うための講習会、研修会が盛んに行なわれます。もちろん条件は違いますが、第二次大戦での日本人将兵の収容所と比較いたしますと、ずいぶん違います。
日本語の講習会はもちろんあります。英語の講習会もあります。中国語もあります。中国にいた人が召集されていますから、ちゃんと『論語』を中国語で読む読書会なんていうのまであります。電気工学の講習会があります。簿記の講習会があります。
さまざまな講習会を開き、お互いの知識・技能を持ちより、ドイツ人同士ときに有料で勉強し合っているのです。
音楽家は音楽を教えます。楽器を作れる人は「楽器製作所」なんていう看板を出してます。経済活動が成り立ちます。」・・・と。

e0027240_10142397.jpg(←当時、収容所にはお寺なども多く当てられたようです。ちなみに、こちらは太宰府の名刹、光明禅寺です。)

そして、それを成り立たしめていたものこそ、ドイツ人俘虜の人生観というものにあったようで、同書ではこの辺をこう語っています。

「俘虜期間中といえども、自分の人生を己れで築き上げよう、こういう精神があるかぎりくじけないわけです。
ドイツが負ければショックはあります。
けれども先ほどの手紙の主ですと毎日数時間ヴァイオリンのけいこをし、朝は自分が先生になって英語の講義を主催し、ヴァイオリンが終わったらオランダ語、やがてオランダの漁業会社に務めるかも知れないというのでオランダ語とフランス語の勉強をし、さらにボーナー神父について聖書の勉強もやる……一日中忙しくてしようがないのです。」

これらに対する日本側の評価として、「わが国の将兵であったならば、5年有余の俘虜生活の中でわが国民性のつねとして、このような状態では縮命者、自殺者が多数出るであろう。それに対して彼らドイツ兵は5年有余の中で、音楽を奏し、自ら楽しみ、自ら体育に励んで身体を鍛え、読書会を開いて勉学に努め、わずか数名の神経衰弱者を出したのみというのは、その成績きわめて良好なりと言わざるべからず」という所感が残っているといいます。

ちなみに、「旧大日本帝国陸軍の用語で『きわめて良好』というのは『これ以上ない』ということです。『おおむね可』で『合格』ですから。」ということだそうです。
ただ、収容所によっては、「ドイツ兵俘虜の精神があまり高揚しない方が、つまりくじけていた方が、わが方にとって有利である」などという所長の見解も出て来るそうですが、これなどは、私に言わせれば、やはり、帝国軍人特有の近視眼的な見方であるように思います。
今も昔も、地政学的に見れば、ロシア(ソ連)という大国の脅威が存在する以上、日独の関係というのは、互いに、衰退してもらっては困る関係だからです。
                              平太独白

by heitaroh | 2006-12-20 08:00 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

バルトの楽園14 労役と人権
親愛なるアッティクスへ

このシリーズ、今回は、収容所に置ける「労役」での記述についてです。

少し意外かもしれませんが、以前から触れてきましたように、収容中の俘虜は「労役」につくことができるんですね。
ところが、ひとくちに労役と言っても、賃金が発生する以上、「需要」もないのに「労役」につくことはできないわけで、となれば、収容所によって、「仕事がある地域とない地域」が出ることになったようです。

その辺を、またまた、大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」から要旨のみを拾ってみますと、曰く、
日当は払います。日本人労働者の日当より安くていいんです。使用者からすれば安い労働力が使えるわけです。場合によっては、専門職の労働者も使えるわけですから、双方ともに有益なわけです。
俘虜は俘虜で、その稼いだ賃金を、いくつか回り道をしてでしようが、自分の手元に移すことができたのです。一番の稼ぎ頭は名古屋収容所
その頃もう名古屋はある程度の工業が発達しておりましたから、いろんな工場に働きに行っております。」というものでした。

で、素朴な疑問なのですが、安くて質の高い労働力を使えると言うことになると、逆に言えば、日本人労働者の雇用を奪うという結果にはならなかったのでしょうか?
今だったら、すぐに、反対運動が起こったり、デモになったり・・・という気もするんですけどね。

同書は、それには答えてくれてませんが、一方で、
ケルト社東京支店長が代表になりまして、日本各地の収容所を回り、どの収容所には何が足りないか、何をほしがっているかを尋ね、集まってきた本国からのカンパ配分していました。そのお金は当然のことながら将校には分配されません。彼らは月給をもらっていますから。
下士官・兵卒にはその階級に従って、準士官にはいくら、下士官はいくら、兵はいくら・・・の分配があります。
ただしトータルしてもこの金額は大したものではありません。一番大きいのは召集兵たちの前の勤務先での月給相当額か、それよりやや少ない分が収容所に送金されてくるのです。
これは日本の戦争中もやっていたはずです。召集されたら直ちに切れるのではなく、月給の100%ではなくても何%かは留守家族に送金しているのです。こういう現象と思ってください。」という記述があります。

つまり、将校は労役には付けないし、収容期間中も月給が出ているから、カンパのお金ももらえない・・・と。
これには、少し驚きますね。
この時代にドイツ人は、きちんと、一兵卒に至るまで「ドイツ人としての平等」・・・ひいては、「人権」という意識をもってたんだと。
つまり、「軍隊の上では、指揮命令系統に従うけど、基本的には同じドイツ人だよ・・・」みたいな。
ナポレオンの国民軍から国土を守る為に、自発的に国民軍が生まれた国の伝統かと思います。
この辺が、国民の合意に寄ることなく、オカミ主導国民皆兵構想が進められた日本との大きな違いなんでしょう。
日本だったら、何だかんだ言っても、送られて来たカンパなどは、真っ先に高級軍人(お侍様)が懐に入れてしまうような気がします(笑)。

ちなみに、このようにして収容所に入ってきたお金については、こうも述べておられます。
「当時の日本は今日的言い方をすればまだ発展途上国です。ドイツ兵が撮った当時のいろんな写真がドイツ館にありますからご覧いただくとわかります。子どもたちはほとんど和服です。洋服などは着ておりません。和服に草履。貧しい姿をしております。
そういう時代にあって松山収容所の統計によりますと、一人頭平均25円の可処分所得。板東収容所ですと月28円くらいです。これはもう一大消費者団体です。」

なるほど、各自治体招致合戦をしたがるはずですね。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-12-12 08:21 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

バルトの楽園11 日独戦後比較
親愛なるアッティクスへ

e0027240_13232827.jpg先日、太宰府に行った折り、光明禅寺というところに行ってきました。

ちょうど、西鉄太宰府駅から九州国立博物館への通り道にあり、この日は、紅葉にはまだ少し早い時期だったのですが、庭園(←)を見ようと、結構、人が詰めかけてましたね。

e0027240_13293989.jpgで、先般来、述べております大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」の中で、第二次大戦後日独悲惨さの比較についても述べておられたのですが、この点で、私は、以前、「戦後間もない頃に、西ドイツ技師として派遣された」方から、直接、話を聞いたことがあります。
(当時は、ドイツまでプロペラ機で行ったそうです。)

私が、「戦後、イギリスは、戦勝国でありながら、食糧が配給制にまでなるほどにまで凋落し、敗戦国のドイツよりもひどいことになったと聞きましたが、やはり、ドイツの戦後というのは、日本のような酷いことにはなっていなかったのですか?」と聞いたところ、その方は、「確かに、ドイツにはハムもあったし、パンもあった。日本のように、悲惨なことはなかったな」と答えられました。
で、てっきりドイツの戦後は、日本ほどに酷くはなかっただろうと思っていたのですが、やはり、そんなことはなかったようです。

同書曰く、「敗戦直後両国は同じ敗戦国でも条件はずいぶん違っております。
第一にドイツは国土全部が戦場になっております。わが日本の場合、沖縄が戦場になりました。国土の一部です。ドイツとは被害の程度がずいぶん違います。
第二には、(敗戦後)直接、軍政となったかどうか。わが国の場合、間接的であった占領軍による直接的軍政ではなかった。少なくとも日本政府および日本の議会存続しえた。
もうひとつ気象条件です。国土を荒され、食糧乏しく、燃料にすべき材料もない状態で、ドイツ人は1945年冬越しをしなければなりません。おそらく豊橋鳴門でしたら、わらであろうとボロであろうと、とにかくあるかぎりの物を身にまとっていれば、この冬越しくらい多少ヒビ、アカギレを生ずるかも知れませんが、なんとかしのげます。ドイツの場合、冬はマイナス20数度壊れた石造りの家屋瓦礫の中ではとうていできない相談です。
敗戦後の苦しみを我々とドイツで比較してみれば、やはりドイツ側の方が一枚も二枚も苦しいめに遭っております。」と・・・。

「戦には破れたくないものよ!」
これは、映画、「風林火山」の中で、武田信玄正室が、ヒロインの佐久間良子演ずる諏訪の姫に向かい言うせりふですが、本当に「戦には敗れたくない物よ!」ですよ、御同輩。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-11-17 17:21 | 歴史 | Trackback(2) | Comments(2)

バルトの楽園その8 俘虜は勤務の一形態。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_10592384.jpg私の今週はここ(←)で始まりました。

東京は、日比谷公園の中の老舗、松本楼です。
モーニング代わりのハヤシライス食ってきました。

思わず、ゆっくりし過ぎて、危うく、飛行機に乗り遅れるところでした(笑)。

で、先日から、たびたび、取り上げております、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」という大著にみる第一次大戦の折りのドイツ兵俘虜についてです。
まず、俘虜というものの法的身分・・・についてですが、その根拠となるのが、先日も申し上げました明治32年(1899年)に調印されたハーグ条約だそうですが、ちなみに、昭和4年(1929年)には、第一次大戦の経験に照らして、ハーグ条約を改定したジュネーブ条約が調印されたそうですが、日本はこれに「調印」はしたものの、国内措置である「批准」をしていないのだそうですね。

従って、以後の日本軍将兵にとって、「ジュネーブ条約」は、身分ないし生命保証を求めるべき法的根拠を持っていなかったのだとか・・・。
何故そんなことになったのか・・・というと、これらの条約というものは、先日も触れました、「宣誓解放」にみられるような、ヨーロッパ諸国同士の戦争を前提としていたということがあり、この点で、当時の日本人には理解しがたい条約であったということが挙げられるようです。
ヨーロッパ諸国同士の戦争・・・とは、つまり、キリスト教国同士の戦争、価値観が共有される者同士の戦争と言うことですね。
そして、それを決定的にしたのが、俘虜という概念そのものの価値観が共有出来なかったことのようです。

第一次大戦当時、日本軍であろうと、ドイツ軍であろうと、将校は月給を受け取っていたそうですが、それが、俘虜になった場合、国際条約にどう書かれていたかというと、同著曰く、「俘虜の将校は捕まえた国の、それに相当する階級の将校が受け取るのと等しい額の俸給を、捕まえた国の通貨で受け取る」ということになっていたのだとか・・・。
つまり、「ドイツ将校が日本の俘虜になれば、仮にその人が大尉であれば日本陸軍の大尉の受け取るべき月給日本円で受け取る」のだそうです。
で、「戦争が終わった後、うちはおたくの将校にいくらいくら払った……と (相互に)貸借対照表で清算」をするといういふうになっていたと・・・。
ところが、大正8年(1919年)に締結された第一次大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約はそれを実行しなかったんですね。
まあ、ドイツ帝国自体が事実上、崩壊しているわけですから、したくても出来なかったのでしょうが・・・。

しかし、当時の日本はそれほど豊かな国ではありませんでしたから、日本側としては、「やってらんねーよ」ということになるわけで、陸軍省資料「俘虜取扱顕末」という陸軍省文書の中には、「このたびの戦争で収容所に対して日本側は五百何十万の巨費を使ったのに、これを回収できなかった」という、茶者曰く、「どこか、恨めしい雰囲気が漂う記述」があるのだとか・・・。

さらに、俘虜に対する日本側と欧米諸国の考え方の違いは、太平洋戦争での日本側の「生きて虜囚の辱めを受けず」で決定的になるのでしょうが、それ以前に、欧米諸国には「俘虜は勤務の一形態」という考え方があるようです。
従って、ドイツ側では、驚くことに、俘虜になっている間に昇進したりすることさえあったそうです。
実際、チンタオ総司令官であり、総督であったワルデック大佐は、俘虜期間中に昇任して少将になっていると言います。
まあ、ドイツ側としては、「辛い俘虜生活をよく耐え抜いてくれた」・・・というところなのでしょうが、この現象も、「宣誓解放」同様、おそらく日本側からすれば、「勤務なんてしてないじゃないか。」・・・ということになるわけで・・・。
(ただし、本国政府は「中尉を大尉にした」というような通達を相手国に伝える義務を持たないとかで、だから、日本側は「ワルデック大佐」のままにしておいて一向に構わないのだとか・・・。)
日本側は、どうにも、このことは釈然としなかったようで、ドイツ人俘虜に、100%の月給を支払うところを、休職給として60%を支払っていたといいます。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-11-01 08:52 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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