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我が聖地・篠栗八十八ヶ所霊場第四十番札所一ノ滝寺に涙
親愛なるアッティクスへ

唐突ですが、福岡県糟屋郡篠栗町という所をご存じでしょうか?
福岡市には直接、隣接はしていないものの、周縁部に当たるような地域で、最近では福岡市のベッドタウンとして随分と宅地化が進んだ所ですが、元々は、山間部が多いことから「篠栗八十八ヶ所霊場」がある地として知られています。
(「篠栗八十八ヶ所霊場」とは、本場の四国八十八ヶ所霊場とは別に小豆島四国、知多四国とともに「日本三大四国」とされているところだそうです。)
この地は、福岡市の都心からでも車で30分程度の所にありながら、夏でも涼しい風光明媚な地であり、空気は澄み、水は冷たく、まあ、夜に行けばどうか知りませんが、昼に行く分にはとても感じの良いところで、今もお遍路する人の姿をよく見かけるところでもあります。
ましてや、私が子供の頃などは、国鉄の駅もあり、その近くにお遍路目当ての旅館食堂がたくさん在って、結構な賑わいを見せてましたよ。

で、その八十八ヶ所のうちの四十番目、すなわち、第四十番札所というところに一ノ滝寺というところがあるのですが、ここは私の祖父母の時代には大変、懇意にして頂いていた所でして、従って、私も物心付いた時から良く連れて行かれていたところでした。
(本当に生後すぐから連れて行かれていたそうで、駅に着いたら祖母が乗り物酔いしてしまって、やむなく、祖父が私のおしめを取り替えたという話も聞いております。)
今は、JRになって、一本で行けるのですが、国鉄の頃は、博多駅鹿児島本線に乗り、ひとつ隣の吉塚駅というところで篠栗線に乗り換え、結構、この乗り継ぎが不便だったようで、バスで行っていた記憶もあり、さらに駅に着いてからも結構、坂道を登らなければならず・・・、体力のない町の子供には結構、辛く、ゼイゼイ言って登っていた記憶がありますが、それでも、ここで出されるところてん絶品でして、とにかく、ところてん食べたさに喜んで行ってました。
後にも先にも、食い物で辛さを忘れたのはこのときだけですね(笑)。
(数年前まで食すことが出来たのですが、やはり、今食べても絶品でした。私は、未だかつて、あれ以上のところてんは食べたことがありません。ちなみに、意外に美味しかったのが横浜三渓園のところてんでした。)

また、ここには、当時、祖父が福岡市下人参町自治会長だったこともあって、町内会有志に声を掛けて等身大くらいの、比較的、大きなお地蔵さんを奉納しており、台座には懐かしい名前に混じって祖父母の名前もありました。
つまり、ここは私にとっては思い入れ深い「聖地」でして、従って、我が子にもその想いをいささかなりとも受け継いでもらいたいという想いから、なるべく、折を見て、子供たちを連れて行くようにしていたのですが、先週、ここへ行って、愕然としました。
昨年夏に福岡県地方を襲った大雨山崩れに遭い、祖父母が奉納した地蔵も何も跡形を残さず、壊滅的被害を受けており、参道には行政名による「歩行者も通行禁止」の文字が・・・。
(普通に登れましたが、事故があったときに責任問題になるのが嫌なんでしょうね。)

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ちと、画像ではわかりにくいと思いますが、左側の土砂に埋まった川はかつては男滝、女滝という大小二つの滝が流れていた清流で、道の両端にはずらっとお地蔵さんが並び、中央付近にある主を無くした台座の上に下人参町奉納のお地蔵さんが鎮座していました。
私も、まさかこうなるとは思ってませんでしたので、特に写真などは撮ってなかったようで、慌てて探しましたがわかりませんで、もし、被害前の画像をお持ちの方は是非、分けて頂きたいのですが、とりあえずは被害前の風景の方はこちらをご覧ください。
     ↓
第40番札所 500以上の仏像があるお寺 一ノ滝寺
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-01-29 17:40 | 地域 | Trackback | Comments(6)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その6
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

星 一星製薬を金融面から支援した岩下清周ですが、その名前の読み方は星 新一の著書「明治の人物誌」には「せいしゅう」とありましたが、実際には「きよちか」と読むのが正しいようですね。
実は私も「せいしゅう」と読んでいたのですが、何かで「きよちか」と読むのが正しい・・・というようなことを目にした記憶があり、以来、私は「きよちか」と呼んでいたのですが、この点は、源 義経の伝記「義経記」は「よしつねき」ではなく「ぎけいき」で、織田信長の伝記「信長公記」は「のぶながこうき」ではなく「しんちょうこうき」と読むのと同じ理屈で、偉人の名前を本来の訓読みではなく、敢えて音読みで読み表す、いわゆる有職読み(ゆうそくよみ)の例もあり、著者も、単に間違えたのか、それとも意図的に「せいしゅう」と読んだのかはわかりません。

ただ、この点で、個人的な事情で私は声を大にして言いたいことがあります。
「頼むから、はっきりしてくれ」・・・と。
その「個人的な事情」となったのが岩下の次に「明治の人物誌」に出てくる伊藤博文という人の名前についてです。
伊藤博文・・・、もちろん、言うまでもなく、明治の元勲の一人であり、昔はお札の顔にもなっていた人で、この人のことは、私などは、随分と長いこと「ひろふみ」と呼んでましたが、正式には「ひろぶみ」と読むのが正しいようですね。
ところが、これを、時々、「はくぶん」と読む人がいるんですよ。

実際、私が小学校の頃持っていた参考書には、「はくぶん」とふりがなしてあり、「え?ひろふみじゃなくて、はくぶんが正しいの?」・・・と思ったものの、あまりにもはっきりとそう書いてあるもので、翌日の授業で、「いとうはくぶんが・・・」と発表したら、先生が、「ん?はくぶん?ああ、それはひろふみね」と言われ、「ハクブンげな!」とクラス中の笑い物になりました。
「何だ?やっぱり、ひろふみで良いのか?制作者のミスか」と思っていたのですが、最近では、時々、識者を自称するような人などから、やはり、「いとうはくぶんが・・・」などという言葉が聞かれたりするんですよ。

でも、有職読みの理屈はわかるんですが、もし、試験に、「伊藤博文に読み仮名を打ちなさい」と出た場合、「はくぶん」と書いた人は不正解になるのでしょうか?
もし、それが正解と言うことになれば、徳川家康を「かこう」と書いても正解ですよね?
第一、その有職読みでさえも、すべての人に適用するわけでもありませんでしょ。
(あるいは「松陰」「南州」と言った雅号を持っていなかった人をそう呼ぶのか・・・とも思いましたが、「松菊」と号した木戸孝允は「たかよし」なのに「こういん」と呼ばれるけど、「甲東」と号した大久保利通を「りつう」と呼ぶ人は聞いたことがありません。)
であれば、少なくとも、先生は「あ、はくぶんでも必ずしも間違いではないのよね」くらいは言うように指導要綱を改めろよ・・・と。(←結構、根に持ってる?(笑)。)

ちなみに、岸 信介は「しんすけ」ではなく「のぶすけ」、平松政次は「まさつぐ」ではなく「まさじ」・・・で、更に言えば、星 一は「ほしはじめ」ですが時には「ほしぴん」とも呼ばれていたそうで・・・、嗚呼、「はくぶん」と読んだ小学生が救われる日は訪れるのだらうか・・・。

もやもやは解消されないまま、明日に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-01-26 19:44 | 社会全般 | Trackback | Comments(2)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その5
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

星製薬の成長を金融面で支援した岩下清周北浜銀行頭取も、「晩年は政争絡みによる失脚の標的とされ、ゴシップ紙の執拗なスキャンダル報道の結果、大正3年、北浜銀行は取り付けにあい、翌年、失脚に追い込まれ、その後は隠遁生活に入った」そうですが、岩下翁の失脚後には、星製薬はもう独り立ちしてやっていけるようになっていたそうで、随分、援助なども申し出たようですね。
ただ、「明治の人物誌」の著者で星製薬社長・星 一の実子である星 新一氏は「後に星製薬が同じような道を辿ることを考えれば・・・」というような内容のことを述懐しておられましたが、こういう企業の伸張と政争が絡みやすい・・・というのも、如何にも明治大正という、揺籃期ならではの時代を感じさせることだと思います。

もっとも、もちろん、現代でもそういうことがないわけではないわけで、一例を挙げれば、今、問題になっている小沢一郎民主党幹事長の疑惑がありますが、この問題について私見を述べさせて頂ければ、小沢氏及び民主党側は前政権時代にはこの疑惑に対して、「自民党が選挙に勝つための国策捜査だ!」ということを主張されてましたよね。
では、民主党政権下になっての一連の逮捕については何と言われるのかな・・・と。
「あれは、鳩山が私を追い落とすための陰謀だ」とでも言うのでしょうか。
まあ、検察の捜査というもの自体が、そもそもが人間がやっていることですから、それなりに恣意的なものが入るのは否定しようのないことでしょうが、少なくとも「検察は政権には左右されていない」ということを示したという点で、つまり、検察への信頼が保たれた・・・という点では是として良いのかもしれません。

話を元に戻すと、明治も初期の頃には、明治5年(1872年)、山縣有朋らと昵懇だった山城屋和助陸軍省御用達となったことで巨利を得、さらに陸軍省の公金を生糸相場に投じ、さらなる巨富を得んとしたものの藩閥間権力闘争に巻き込まれ、一切の責任を押しつけられて割腹自殺に追い込まれた山城屋事件や、大久保利通・大隈重信・後藤象二郎らの後援を受けて、海運業で財を築いた三菱岩崎弥太郎も、大久保が暗殺され、大隈・後藤が政権を追われると、一転して政府からの弾圧を受け、抗争最中の明治18年(1885年)、憤死に追い込まれた・・・などということがあったわけですが、これら政権側と結んでの「政商」などでなかったとしても、「政敵の支援者」というだけで、いや、そう見なされるだけで、反対勢力が権力を握ると露骨な潰しに遭う・・・という、これは今日でも途上国ではよく見かけられる光景でしょうが、さすがに現代日本では「政権が変わると、支援者の企業が狙い打たれる」ということは一般的では無くなりましたよね。
(結果として三菱が残ったのは偏に弥太郎の跡を継いだ弟・弥之助の手腕かと。)

まあ、佐川急便リクルートなどがどうだったのかは知りませんが、仮にそうだったとしても、明治大正期はまだまだ資本の蓄積は小さく、企業に限らず、政治家に資金を供給できるルートは限られていたわけで、そう考えれば、この点は揺籃期のことだと言え、現代のそれと同じに考えるわけにはいかないでしょう。
ちなみに、「明治の人物誌」では、岩下清周の名前の読みは「せいしゅう」とありましたが、どうやら「きよちか」と読むのが正しいようですね。
この点では、ちと、言いたいのが岩下の次に出てくる伊藤博文です。

明日に続く。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-01-25 08:42 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その4
先日の続きです。

中村正直・野口英世に続いて星新一「明治の人物誌」に登場するのが岩下清周という人物ですが、著者は、「おそらく、この人の名前は殆どの人は知らないのではないか?」と前置きしてありましたけど、私は知っていました。
以前、阪急の創始者・小林一三翁の伝記を読んだときに、翁の恩人というか、師匠というような位置づけで出てきたからです。
その後も、明治大正期の実業界の話の中で、結構、耳にする名前でもあり、何かでそれなりに読んだ記憶はありましたが、ただ、私にとっては、「小林翁を引き立てた人」以上の認識はなく、少なくとも、正面からこの人の伝記について読んだことはないはずで、それほど頭の中で具体的に「像」として形を為している・・・という人物ではありませんでした。

安政4年(1857年)生まれと言いますから、著者である星 新一の実父・星 一よりは16歳の年長であり、(ちなみに、他もすべて年長であることから、つまり、この人物誌に置いては野口英世だけが同世代だったということになるわけです。)三井物産パリ支店長、品川電灯社長、三井銀行本店副支配人等を経て、明治29年(1896年)同大阪支店長となり、大阪へ来る・・・と。
大阪では、その辣腕を買われ、翌年、設立されたばかりの北浜銀行を任されることになり、そこで銀行家として海のものとも山のものともつかぬ企業の将来性を読み取ると、そういう企業には積極的な融資を行ったようで、このとき、岩下の支援を受けた企業の中に著者・星 新一の実父・星 一が経営する星製薬があった・・・と。

今となっては考えられない融資手法ですが、この手の話は、この時代は割とあったみたいですね。
昭和電工が含まれていたことで知られる森財閥の創始者・森 矗昶が水力発電を始めるに当たって、当時の取引銀行に融資を申し込んだところ、融資係だった小川栄一(後の藤田観光創始者)から「担保は何ですか?」と聞かれ、そのまま、小川を山奥の滝に連れて行き、「担保はこれです。無尽蔵に落ちてくる水です」と答えたところ、さすがに、才人小川・・・、この型破りな行動に対して、事を理解したようで、周囲の反対を押し切り、融資に応じた・・・とか。

でも、岩下と一番似ているのは、第百三十銀行の創始者の一人にして、後に頭取となった松本重太郎のケースでしょう。
松本と岩下が共通するのは、有望と思われた企業や経営者にはリスクを承知で積極的に融資をする・・・という点であり、それはある意味、金融家の本分でもあるのでしょうが、見方を変えれば、彼らが担保としていたのは「自らの才気」だった・・・とも言えるわけで、当然、融資額も増えた分だけ、リスクも大きくなっていったわけで・・・。
結果、百三十銀行は明治37年(1904年)、日露戦争の最中に破綻・・・。
北浜銀行も、大正3年(1914年)、第一次大戦の最中、融資先の営業不振による債務焦付きなどもあって破綻に追い込まれ、岩下は逮捕の憂き目を見る・・・と。
ちなみに、松本が関わった企業としては、現在の東洋紡績、南海電鉄、JR西日本、日本火災海上保険、アサヒビールがあり、岩下が関わったものには阪急電鉄(阪急阪神ホールディングス)、近畿日本鉄道大林組などがある・・・と。

来週に続きます。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-01-23 08:19 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

夢かうつつかに見た夢に先駆けて咲く梅の花を思う
親愛なるアッティクスへ

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今日の福岡県地方は曇り時々晴れ・・・と言ったところで、晴れたり曇ったり・・・なんですが、ここ数日と違い、寒の戻りで少々、肌寒いようです。

e0027240_14573248.jpgでも、(ろうばい?)は昨日だったか、「お、もう、蕾を付けている」・・・と思っていたら、今朝には、もう、しっかりと花を開かせて、良い匂いを当たりにまき散らせておりました。
私は、寒気にもめげず、梅の花が周囲に先駆けて咲く、とした姿を見ると、毎年のようにハッとさせられます。

 「先駆けに
    志見たり
     梅の花」

        梁庵平太 

ところで、今日は本当は先日からの「明治の人物誌」シリーズの続きを書くつもりだったのですが、ちと、思うことがあり、急きょ、変更します。

実は、私には、昔、随分長いこと一緒に仕事をやっていた職人がいたのですが、その人は如何にも昔の職人気質そのままに、一癖二癖・・・、なかなかに底意地の悪い人で、当時は少なからず辟易させられました。
ただ、その人はもう結構なお年で(それでも、一緒にやっている頃は私などよりは遙かに元気でしたけどね(笑)。)、最近は随分と弱って入退院を繰り返しているらしい・・・とだけ、風の便りに耳にしていました。
それが、今朝、ちと、夢を見まして・・・。

一夜の夢の中で、なぜか、ここ3日間ほど、その人に仕事を手伝ってもらったので、今日は私がその人の仕事を手伝いに行き・・・で、ここ数日、久々にその人と一緒に仕事をしたのですが、昔と違って、やたら良い人なんですよ。
それに、「随分弱ってる」と聞いていた割には、昔と変わらず元気で・・・。
で、「一服しようや」と言うので、そこら辺に腰を下ろして休憩した際に、私が「弱っとうて聞いとったばってん、昔と変わらんやないな」などと語りかけ、他にも、色々と話しているうちに、突然、その人の声が段々小さくなっていき、そのまま、話しながら倒れ込んで眠り始めたんですよ。
私は「え?寝ただけ?それとも、もしや、これが脳OOとか何とかいうやつなの?」と困惑を隠しきれなかったのですが、それでも誰かに報せなきゃ・・・と思っているところで目が覚めました。

私は生まれてこの方、その人の夢なんて見たこともありませんし、もう、10年近くも会っていません。
この夢は、一体、何だったんだ・・・と思ったわけです。
もしかしたら、あの、おっさん・・・死んだのかな・・・と。
「おっさん、俺に別れを言いに来たのか?」・・・と。
それとも、私が年をとって、感傷的になっているのでしょうか?
別に今まで「会いたい」などとはまったく思いませんでしたが・・・。

とまあ、私のくだらない夢話に付き合わせて申し訳ありませんでしたが、ま、これも備忘録的な意味で・・・と。
「おっさん、まだ、生きてたらゴメン(笑)。」
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-01-22 08:36 | 私小説 | Trackback | Comments(2)

小林繁氏の急逝に振り返る「空白の一日」事件
親愛なるアッティクスへ

元プロ野球投手の小林 繁さんが急逝され、葬儀の模様がニュースで流れてましたが、この人は、やはり、我々の世代にとっては記憶に残る選手の一人でしょう。(合掌・・・)
昭和53年(1978年)11月に、あの「空白の一日事件」があったとき、当時、阪神ファンだった私が真っ先に思ったことは、「いずれにしても、巨人に批判の矛先が向かうことは間違いない」ということで、その後、世論の後押しもあって強行(?)されたドラフトで阪神が江川卓投手の交渉権を獲得し、さらに、コミッショナー裁定で当時、巨人のエース格だった小林氏との三角トレードとなったときには、「海のものとも山のものともつかぬ江川を獲るよりも、確実に15勝以上、うまく行けば22勝くらいはいけそうな小林が獲れた方が阪神にとっては効果的だ」と思いましたね。
(当時、江川投手は前年に我が福岡クラウンライター・ライオンズにドラフトで指名されたものの、それを拒否して、一年間、アメリカ野球留学しており、このブランクにより実績を残せないまま終わるのではないか・・・ということが言われてました。)

移籍一年目、小林投手は22勝を挙げ最多勝を獲得し、特に古巣・巨人には8勝0敗という大活躍だったんですが、この22勝というのは結構、凄いことなんですよ。
おそらく、私の記憶では、この時以来、22勝以上というのは出てないはずなんですよね。
(前年に、近鉄の鈴木啓示投手は25勝挙げてますが。)
一方で、阪神はこの年、掛布雅之選手が球団の本塁打新記録を更新する48本本塁打王に輝き、投打の主軸が最多勝と本塁打王という最高の結果を残しながらも4位・・・。
まあ、それも仕方がない話で、掛布さんも48本も打ちながら、打点はわずかに95で、やたらとソロホームランばかりの48本でしたからね。

ただ、翌年以降は江川投手との直接対決には見事に勝てなかったのですが、この組み合わせは明らかに小林投手には不利でしたよ。
小林という投手は2点くらいに抑えるものの、殆ど、完封というものがない投手で、つまり、完封できる能力を持った江川と対戦すると、いくら良い投球をしても打線が完封されてしまうと勝てない・・・という構図が出現するわけです。
(この点は、少し前の松坂大輔投手に対する和田 毅投手などがそうでしたね。)

ついでに言うと、あのときの阪神は、元々、江本孟紀、古沢憲司、上田次郎・・・と、主力投手陣がサイドスローの投手ばかりでしたから、小林投手の加入によりサイドスローの投手ばかりになってしまったんですよ。
こういうことは、時々、編成上、まれに起こるみたいで昭和56年(1981年)の大沢啓二監督に率いられてリーグ優勝したときの日ハムがそうでしたね。
高橋一三、間柴茂有、木田 勇、江夏豊・・・と左投手ばかりになってしまい・・・。
まあ、それでも皆、それなりの成績を残したわけですから構わないのでしょうが、相手チームからすると対策が立てやすかったことには違いないように思うのですが。

ちなみに、小林投手と巨人で同僚だった高田 繁現ヤクルト監督は「投手という人種はあまり、付き合いたくない人が多いが、唯一の例外が小林 繁」と言ってましたが、その小林さんでも、子供の頃はメンコで負けたら、下駄で相手をぶん殴っていたそうですから・・・(笑)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-01-21 08:32 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(4)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その3
続きです。

これら、「明治の人物誌」の登場人物についてですが、まず、著者の実父が、著書を通して影響を受けたのみで実際の面識はない中村正直は置くとして、次に登場するのが野口英世博士・・・です。
言うまでもなく、千円札の顔になった大正期を代表する世界的細菌学者であり、幼少の頃に負った火傷のハンディを抱えながらも苦学して偉業を成し遂げ、最期はアフリカの人を伝染病から救おうとして、自らも斃れた・・・、まさしく、少年が模範とするような偉人の中の偉人で、とにかく、私が子供の頃などは二宮金次郎の銅像と同じような感じで、うんこもおしっこもしない人・・・という感じだったのですが、近年では決して、そんな聖人君子などではなく、借金に乱行に婚約不履行に・・・と、かなり、いい加減な面もあったということが言われるようになってきましたよね。

まあ、そのいい加減さも、四角四面の現代と違い、如何にも明治期のそれらしく大胆かつ、おおらかな話で、当時、野口清作といったその若者は、恩師に貸してもらった善意の遊学費用を放蕩生活で使いきってしまうと、あちらこちらから借金し、さらに放蕩生活を続け、それが坪内逍遥の小説「当世書生気質」に、「弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る野々口精作」という人物として登場したことから、「これはまずい」と改名を決意。
で、「世にすぐれる」という意味で「英世」とした・・・と。
確か、改名するには郵便配達上の問題で同一集落の中に同姓同名がいる場合のみ認められる・・・か何かの特例があったため、敢えて、同名の清作という人を騙くらかして(←博多弁?「騙す」よりは、少し罪がない感じなのですが、これに相当する表現が標準語にはないもので・・・。)近所の野口さんちに養子に入れさせて、むりやり、同姓同名を創り出した・・・と記憶しております。

ところが、驚くのはそんなでたら目な生活を送っていても、彼にはこれでもかと言うほど援助者が湧き出てくることです。
郷里の恩師・小林 栄に、畏友・血脇守之助然り・・・。
(やはり、この人はでたらめな生活をしていても・・・、また、決して、モラル的には褒められた生活はしていなくとも、何かしら人に好かれる人だったんでしょうね、私の友人にも一人、そういうのがいましたから、何となく、わかるような気がします。)
そして、その点では、「明治の人物誌」の著者、星 新一氏の実父・星 一もその一人・・・どころか、金額だけならおそらく一番出した人でしょう。
それなのに、野口英世伝には星一の名前は殆ど出て来ない。
わずかに、「凱旋帰国する際の渡航費を出した」という1行しか出て来ないそうで、つまり、実父と英世との親密な交流が知られていないことに実子である著者としては結構、忸怩たる想いがあったのでしょう。

それだけに、他稿と違い、この稿にのみ関しては、それなりに押さえてはあるものの、かなり、その辺の不満というか、「是正」に対する想いが伝わってきましたね。
二人は同郷で、年も近く、かつ、身体にハンディを負っていたことも共通していたらしく、アメリカという異郷の地で過ごす者同士、「親友」と呼んで良い間柄になり、それゆえに、事業で成功した星は高額の帰国費用を出し、英世は星製薬の顧問に名を連ねた・・・と。

明日に続く。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-01-19 17:26 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

大河ドラマ「龍馬伝」に見る時代劇というものの心得
本日は、先週からのシリーズの続きで行くつもりだったのですが、ちと、訳あって、少々、そういう気分になりませんで、従って、再放送を録画してみてしまった大河ドラマ「龍馬伝」についての方が書けるかな・・・みたいな感じですので、急きょ、予定変更で昨日の龍馬伝を見ていて思ったことについて、書いてみたいと思います(笑)。

まず、現代日本を代表する二枚目俳優・福山雅治さん演じる坂本龍馬ですが、顔の方が男前になるのは娯楽番組の主役ですから仕方がないことでしょうが、ただ、同じ長身ではあっても小顔と体の薄さにはやはり、違和感を覚えますね。
あの八頭身と手足の長さは、哀しいかな、平成の人の物ですよ。
昭和の時代でも、芸能人でもあまり見かけませんでしたからね。
ましてや、実際の龍馬という人は結構、剣術や水練で鍛えていたようですから、もっと体の厚みがある人で、実際、残された写真を見る限りでもそういう気がします。
もっとも、ドラマを見る限りでは、その部分はそれほど気になるものでもありませんし、むしろ、ストーリー的には「龍馬」といえば、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の呪縛から逃れられない作品が多い中で、岩崎弥太郎を絡ませるなど、なかなか、ユニークなものが出来ていると思います。

ただ、明らかに、いただけないのが広末涼子さん・・・。
地元出身だけに土佐弁は上手いのかもしれませんけど、明らかに、普段、着物を着たことがない人が着物を着ている。
歩き方はたどたどしいし、それ以前に着物が体に馴染んでない・・・、まるで、人形がクレープの生地にくるまれているようで、どう見ても、「アナタ、今、初めてこれ着たでしょ」・・・みたいな。
龍馬伝というのは現代劇ではなく、江戸時代が舞台なのですから、着物を着てぎこちないということは、もう、それだけであり得ないわけですよ。

もっとも、この点は、広末さんだけを責めるわけにはいかないのでしょう。
かつて、巨匠・黒澤 明監督は名作「七人の侍」を撮るに当たって、出演者すべてに前もって衣装を渡し、「自宅でも普段からそれを着て、よく、体に馴染ませておいてくれ」・・・と言ったそうですね。
ましてや、黒澤さんの時代と比べても、生まれながらに着物なんて着たことがない役者さんが大半になってるわけで、そう考えれば、ある程度、彼女にも「せめて、家にいるときくらいは出来るだけ着物を着ておいてください」くらいのことは言うべきだったでしょう。
(私も、今年の正月、初詣に出かけた際に、男はともかく、とにかく女性の着物姿がとにかく少ないのに驚きました。)
ただ、本来で言えば、プロの役者さんというのは、いつ、そういう役が来るかもしれないわけですから、一般の人と違い、機会が有れば普段からそういう物に袖を通すように習慣づけておくべきで、もしくは一切、そういう役は受けないようにするか・・・だと思います。
その論で言えば、少なくとも、広末さんは女優としてのプロ意識が欠如していると言われても仕方がないのではないでしょうか。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-01-18 19:02 | 文学芸術 | Trackback | Comments(4)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その2
昨日の続きです。

その、星新一「明治の人物誌」ですが、手にとってすぐに思ったのが、まず、「何でこの顔ぶれなの?」ということです。
この辺は、末尾に書評を寄せた城山三郎氏も同様のことを思ったようで、曰く、「本書を手にしてまず感じるのは、とり上げられている人々についての不統一というか、多様さである。野口英世、伊藤博文など高名な人もあれば、一般的には無名に近い人もある。私のような仕事をしている者でも、その姓名(後藤猛太郎)だけでは、すぐに思い当たらぬ人もある。職業も学者、政治家、実業家、政治浪人などさまざまであり、そこにエジソンまで加わることで、この人たちを集めた意図がいよいよ読めなくなる」・・・と。

で、読み始めてしばらくしてやっとわかったのですが、そこに採り上げられている、中村正直/野口英世/岩下清周/伊藤博文/新渡戸稲造/エジソン/後藤猛太郎/花井卓蔵/後藤新平/杉山茂丸という人たちは、著者である星氏の実父、星 一氏と皆、何らかの形で関わりがあった人だということで、つまり、この明治の人物誌というのは形を変えた父への追悼文だったわけです。

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星 一という人については、新一氏がその著書、「人民は弱し 官吏は強し」で述べているように「有能な経営者でありながらも、政府の干渉と圧迫によって経営する星製薬を頓挫させられた悲劇の人で、新一氏も東大を卒業してすぐに亡父の跡を継いで社長になったものの未熟さは誰の目にも明らかであり、ついに事業は破綻し、氏も随分と辛酸をなめた」・・・という程度のことは私も知ってましたが、残念ながら、同書はまだ読んだことがなくそれ以上は知りませんでした。
(それでなくても、うちの本棚は、まだ、積ん読状態の物が100冊くらいあり・・・。家人からは、「今、読む物だけを図書館から借りてこい!」と・・・叱責されている始末でして(涙z)。)

で、改めて、そういう目で見ると、この本はちょっと驚きでしたね。
なぜなら、これらの顔ぶれのうち、新一氏の実父が面識がないのは著書を通して影響を受けた中村正直だけであり、後はすべて実際の面識がある人ばかりなんですよ。
伊藤博文とも、エジソンとも、野口英世とも・・・、無論、親密の度に差はあるにしても、皆、それなりに親交があった・・・ということでしょ。
これって凄くないですか?
自分の父親が、生前、吉田 茂アインシュタイン湯川秀樹なんかと親交があったようなもんですよ。
これが、「長州閥の人たちとの付き合いの中で伊藤博文とも面識があった・・・」とか言うんなら、まだ、わかるんですよ。
でも、伊藤博文とエジソンと野口英世は少なくとも彼ら自身には、あまり接点があったようには思えませんからね。
まあ、その辺は当時としては貴種と言っても良い、「海外留学」を経験しているということが大きかったのでしょうが・・・、ともあれ、週明けよりは、もう少しその辺を突っ込んで採り上げてみたいと思います。

ということで、次回に続く。
                                         平太独白

by heitaroh | 2010-01-16 08:18 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その1
親愛なるアッティクスへ

e0027240_17212437.jpg今年もたくさんの方から年賀状を戴きました。
私は昔から年賀状を書くのはまったく苦にならない子供でしたので、今も出す方も同じくらい出してますね。
(残念ながら、我が家には、誰も私のスピリットを受け継いだ者はいないようです(涙)。)

ただ、それらとは別に、今年は今頃になって、喪中寒中見舞いのハガキが立て続けに届きました。
皆さん、ご高齢の方ばかりだったのですが、年末になって、急にお亡くなりになったとのことで、喪中ハガキどころではなかったようです。
思えば、私も今年で数えの五十ですから、気が付けば、私の子供の頃に廻りにいた大人の人たち・・・というのが本当に少なくなってきた感があります。
ますます、昭和は遠くなりにけり・・・でしょうか。
そういうことで、今日も今からお悔やみに行かなければなりませんので、急ぎ、本題です。

昨年の年末、帰宅すると、テーブルの上に一冊の文庫本が置いてありました。
図書館のシールが貼られたその本のタイトルを見ると、「明治の人物誌」とあり、著者は星 新一とありました。
星 新一といえば、言わずとしれたショートショートの名手ですから、あるいは堅苦しい題名とは裏腹にそういう明治の人たちを題材にした柔らかい内容の物なのかな・・・と思い、手に取ってみると、柔らかいどころか、題名に偽りのない、見事な明治という時代を生きた人たちの人物誌でした。
内容からして、子供にはちと無理でしょうから、となれば該当者は一人しか居ず・・・。
ただ、我が家では、そのような類の本を読むのは私だけでして、「一体、どういう風の吹き回しだ?」・・・と思っていると、何と、借りてきたのは小学生のガキ・・・で、聞けば、星新一の名前だけでショートショートと思い、中身を見ずに借りてきたとのこと。
ならば・・・とばかり、私が思い立ったのですが、聞けば、借りているのは冬休み中だけ・・・とのことで、結果、久しぶりに、今年の正月は読書三昧となりました。

で、読むに当たって、まず思ったのが、そこに紹介されている人物たち・・・。
中村正直/野口英世/岩下清周/伊藤博文/新渡戸稲造/エジソン/後藤猛太郎/花井卓蔵/後藤新平/杉山茂丸と・・・千差万別多種多様
(私も、割と知ってると自負している方なんですが、中村正直・後藤猛太郎・花井卓蔵という人は知りませんでしたね。)

ということで、折角乗ってきましたが、今からお悔やみに行かねばなりませんので、続きは明日・・・ということで。
                                         平太独白
by heitaroh | 2010-01-15 18:04 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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