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豊田泰光のチェンジアップ人生論に思う道具のALWAYS
親愛なるアッティクスへ

先日からの「ALWAYS」シリーズの続きですが、私的には、大体、昭和45年(1970年)頃、大阪万博の辺りから世の中がカラーになってきたように記憶してますね。
当時、小学校3年に上がってすぐに、初めて、母から、Tシャツなるものを着せられて、そのあまりの肌触りの良さに驚嘆したのを覚えておりますが、要はそういう物が割合、安価にて、庶民の手にも入る時代がやってきたということだったのでしょう。

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それを裏付けるかのように、確か、昭和43年頃のことだと思いますが巨人の星という野球マンガの中で、主人公が父の現役時代のスパイクを履いて巨人の入団テストを受けに行ったとき、ライバルから、「この物資豊富な時代に、あんなボロボロのスパイクを履いているとは・・・」と嘲笑されるというシーンがありました。
でも、私には昭和44年(1969年)まで近所に住んでいた私の友人が、毎日、ボロボロのグローブを大事に大事に磨いていたことを思い出しますね。
おそらく、親からやっとの思いで買ってもらったグローブだったんでしょう。

でも、そういう我が家も、誰かがどこからか拾ってきたような、汚いグローブでしたよ。
もっとも、我が家は家にグローブがあっただけマシな方だったんでしょう。
(それに比べて、私の愛用のグローブは今からちょうど30年前に入手した物なのですが、長年使い込んでいるから使いやすいのに、子供たちに「これを使え」と言っても、「汚い」とか「ボロっちい」などと言って誰も、使いたがらないんです。)
でも、当時はそんなもんで、グローブといえば、以前も申し上げました話ですが、昭和48年のプロ野球では、巨人の捕手だって、ひとつのプロテクターを使い回しにしていたわけですし・・・。
今から考えれば、巨人の選手でもプロテクターを使い回しにしていた時代なのに、一方では、「物資豊富な時代」と言う・・・。
いかに、その前の時代が物がなかったかということなのでしょう。

この点で、以前もご紹介した元西鉄ライオンズの強打者で、球界のご意見番である豊田泰光氏がそのもっと前の時代である、氏の現役当時はプロといえども、満足な道具をふんだんに与えられるような環境にはなかったようで、それについてその著書の中で以下のように述べておられました。

『いまでは副業禁止などといってうるさいのだろうが、私は道具を得るため、オフに勝手に二軍選手を集めた「日本代表」を編成し、国際試合をしたこともあった。福岡市板付(現在の空港付近)に駐留している米軍の相手をするのだ。対戦の報酬はステーキのごちそうと、こっちが勝ったら基地内の用具室を開放してくれること。部屋にはソフトボールの道具が多かったが、たまにいいバットを調達できた。新しいグラブの感触を楽しむだけでもよかった。
 今、用具事情は一変した。メジャーでも日本製バットが目につくし、グラブの性能も米国をしのいだ。
 だが、それを使う側の力量はどうか。道具の進化で自分の技量を錯覚しないことだ。』

古き良き時代・・・でしょうが、それにしても、プロ野球選手が、勝手に国際試合とは・・・。
豊田さんというじーさんは長生きしそうですねぇ(笑)。
                                平太独白                        
by heitaroh | 2008-11-29 20:34 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

ALWAYS 駅前三丁目の夕日8 聞かなくなった「戦友」
親愛なるアッティクスへ

e0027240_12284816.jpg先日、テレビで、映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」をやってましたよね。

私的には、初回版のときにも平太郎独白録 「古き良き「ザ・ヒットパレード」に想う、寂しい暗さに蔭が匂う。」などで申し述べましたように、このシリーズについてはどうにも、私の子供の頃の記憶とは何か違和感があるんですよ。
やはり、私のような、昭和三十年代というものを、はっきりと輪郭をもって記憶していない世代には、CGでもって、どんな映像でも作り出せてしまうということは、逆に、情報が多すぎるのではないかと。
だから、夜のシーンなどは割合、しっくり来るという・・・。

ま、前作は期待していたので、映画館で見たのですが、続編の方は、わざわざ映画館で見るほどではないな・・・と思い、今回、まあ、テレビを録画して見たのですが、画面が小さかったこともあるのでしょうか、前作よりはノスタルジーが感じられましたね。

で、この作品も、安易なストーリーで構成されている部分もあり、結構、早送りで見たのですが、一カ所だけ、思わず、グッと胸が詰まったシーンがありました。
それが、堤 真一さんが演じる登場人物の一人が戦前の軍隊時代同窓会に行き、下士官と覚しき後輩に会い、泥酔して、そのまま、家に連れて帰ってきて飲み直す・・・という場面でした。
(再会した第一声が、「おまえ、生きてたのか・・・」ですから、本当に隔世の感がありますよねぇ。)

思えば、気が付けば、いつの間にか「戦友」なんて言葉、本当に聞かなくなってしまいましたねぇ。
私の感覚では、つい最近まで、普通にテレビドラマなどでも、「戦友だ」などという言葉が出てましたし、うちにも、よく、祖父の戦友なる人たちが来てましたよ。
その意味では、「戦友」とか「兵隊」とか「満州」だとか「シベリア」だとか、そういう言葉、本当に市井の中で聞くことがなくなったことに気が付きました。

で、劇中、酔った登場人物が口にする、「俺だけ生きて幸せになるのは、死んでいったやつらに申し訳ない」というセリフも、私が子供の頃には、よく、近所のおじさんたちが泥酔するたびに口にしたもんです。
で、気が付けば、すっかり消え去ってしまっている往事に思いを馳せ、不覚にも厚くこみ上げる物があった次第ですが、ついでに言えば、私の認識では大正生まれというのはつい最近まで、社会の中では、まだ、中堅でしたよ。
明治老人たちからは「まだまだ」と言われ、台頭する昭和若造からは、「もう、我々の時代だ」と言われ・・・。
それが、いつの間にかもう、大正生まれは、皆、80代以上・・・ですからね。
光陰矢のごとし・・・
どうやら、短い年間の元号は油断していると、すぐに置き去りにされてしまうようです。
この点では、平成も何年まで続くかはわかりませんが、あまり長くはないだろうと言われていますので、平成生まれさんも、どうぞ、ご自愛ください(笑)。

「まだ先と 油断めさるな 平成人」  平太独白
                                        平太独白
by heitaroh | 2008-11-28 08:46 | 文学芸術 | Trackback(1) | Comments(8)

その時歴史が動いた「神様、仏様、稲尾様」補足編 その2
親愛なるアッティクスへ

先般、NHKの歴史番組、「その時歴史が動いた」の中で、元西鉄ライオンズの大投手、稲尾和久氏の奮闘ぶりが採り上げられてましたが、その件で、今更ながらの続きです。
番組は、昭和33年日本シリーズで、西鉄が稲尾投手の連投に次ぐ連投で、常勝巨人を「3連敗の後の4連勝」という奇跡の逆転で破って、三年連続日本一になる・・・という部分を中心に構成してありましたが、このとき、実は、相手方である巨人の藤田元司投手も、稲尾投手と同じ7試合中6試合に登板しているんですね。
まさしく、エース意地だったんでしょう。

また、もうひとり、稲尾投手の前に立ち塞がった、巨人の新人、長嶋茂雄選手との攻防についても述べてありましたが、実は、稲尾対長嶋はこのシリーズの前にも一度、対戦したことがあったのだそうです。
それがその年のオールスターで、ところが、そのときの捕手が、稲尾さんの宿敵、野村克也現楽天監督だったそうで、稲尾さんは対戦相手の長嶋さんよりも、女房役である野村さんに球質を盗まれないことに神経を使っていたそうで、従って、長嶋さんとの対決についてはまったく覚えていなかったのだとか(笑)。

それにしても、この番組中で言っていた、「長嶋茂雄という打者は打つ瞬間にしか気配を感じさせない特異な打者であった」という表現を聞いて、改めて、今のイチローや、少し前の落合博満さんなどよりも、あるいは前の時代の大下 弘氏などの誰よりも「天才」という表現が相応しい人物だったろうと思いましたね。
おそらく、西部のガンマン同士の決闘の場にいれば、無敵だったのではないでしょうか。
それを可能にしたのは、長嶋選手が極めて、特殊な「来た球を打てる」という能力を持っていたからでしょう。
この点は、稲尾投手の高校と西鉄の先輩である河村英文投手が、後に広島にトレードされた際に長嶋選手と対戦し、ツーストライクと追い込んでから、打たれるはずがない決め球のシュートを投げたら、見事に打たれたので、どうして打たれたかわからない河村投手は、本人に聞いたところ、「いやぁ、気が付いたら打ってたんです」と答えた・・・という話があります。
このとき、稲尾さんもこれまでの打者とは違う、長嶋分析に頭を悩まし、徹夜で考えて、ようやく、朝が白んできた頃に、「もしかして、深く考えずに感性で打つタイプなのでは」ということに気づいた・・・と、生前、言っておられました。

で、その長嶋さんも、昭和49年10月「巨人軍は永遠に不滅です!」の名文句と共に引退したわけですが、先日も、10月だったからか、二度ほどBSで特集されていました。
ちなみに、昭和49年といえば、当時、中学一年生だった私にとっても、やっぱり長嶋が引退した年なんですよね。
しかも、東京ならまだしも、まだ、周囲には西鉄ライオンズ余韻が強烈に残っていた時代の福岡の子供ですから、それほど、長嶋ファンでもなかった私なのですが、とにかく、それでも、この長嶋引退というのは結構、強烈な印象として残っています。
なぜか・・・、それは長嶋引退試合が、行われたのは10月だったでしょうが、その余波はもの凄い物があり、2ヶ月後の翌昭和50年の正月のテレビは長嶋引退特番ばかりだったからでした・・・(笑)。

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by heitaroh | 2008-11-27 18:08 | スポーツ | Trackback | Comments(4)

大相撲九州場所は博多で年末を知る風物詩
親愛なるアッティクスへ

先日の日曜日、ガキ連れて、大相撲九州場所千秋楽に行ってきました。

e0027240_14134798.jpgと言っても、自分で券を買ったわけではなく、以前、平太郎独白録 : 大相撲九州場所は博多に年末が来たことを知らせる風物詩。で述べたのと同様、福岡市が主催する「親子で相撲ご招待」という企画に申し込んで・・・、まあ、何とか、当選したわけです(笑)。

まあ、日本相撲協会としても低迷する相撲人気回復のためには、なんとか、少年ファン裾野を拡大したいという思惑があったのでしょうが、相撲離れが進む昨今、未来の顧客拡大を考えたならば、大いに良い企画だと思いますよ。

e0027240_1581825.jpgで、そんなこんなで、千秋楽の券が手に入ったわけですが、かなり空きが目立った九州場所も、さすがに千秋楽に限っては、「満員御礼」の垂れ幕がかかってましたね。

(まあ、青い座布団が目に付かなかったわけではありませんが(笑)。)

e0027240_1255434.jpgちなみに、この日は、モンゴル勢同士の優勝決定戦ということもあり、至る所にモンゴル人の応援団がいましたね。
今や、「やってる側も外国人なら、見てる方も外国人」という・・・。
もう、日本の相撲も外国人抜きでは成り立っていかない現実を見せつけれられたような気がしました。

で、千秋楽自体は私も初めてではなかったのですが、今年に限っては、私も初めての光景を目にしました。
それがこちら(←)。
すなわち、相撲の取り組みが終わった後にある弓取り式で誰も席を立っていないんです。
やってる方も、かなり、いつもと勝手が違ったんじゃないですか(笑)。

e0027240_1437359.jpg通常、平太郎独白録 : 負けてたら、すぐに席を立つ博多のファン!でも申しましたように、野球でも相撲でも、「終わったら外が混むから」といって、さっさと帰ってしまうのが博多人気質なんですよ。
それが、今年は結びの一番の後で白鳳安馬モンゴル勢同士優勝決定戦があったもんだから、その前に弓取り式があり、誰も帰ろうに帰れなかったんですね(笑)。
もちろん、私も優勝決定戦は初めて見ましたよ。

で、その後、延々と表彰式が続くのですが、表彰式が終わると、こんなこと(←)やるんですね。
私も初めて、最後まで見ました。
土俵上での行事胴上げですよ。

e0027240_1444354.jpg最後は優勝した白鵬のパレード(←)で、おしまい・・・。

で、博多では、例年、相撲が終わると、いよいよ、年末になります。
「相撲が終わったけん、もう、年末の来るばい」・・・と。

大相撲九州場所と言うのは、そういう意味では、博多の冬の風物詩として、人々の歳時記に溶け込んでいるもののようです。
ちなみに、昔はよく、通学時に博多駅で、ぞろぞろと相撲取りが出ててくるのを見て、「ああ、もう、そういう季節になったったい」と思ったもんですよ。


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by heitaroh | 2008-11-25 17:19 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(2)

摂津播磨の旅 その6 義経奇襲の真の狙い
親愛なるアッティクスへ

先週からの続きです。
このシリーズもぼちぼち、終わりにしなきゃ・・・と思いつつ、その5まで来てしまいました。

e0027240_81729100.jpgで、須磨浦公園展望台を出て、さて、どこに向かおうかと思ったところ・・・、ガイドブックに平家に拉致されていた幼少安徳天皇内裏跡なる物があることに気づきました。
で、少し離れてましたので、当初はそこまで行くつもりはなかったのですが、まだ、帰りの新幹線まで時間があったこともあり、やむなく、そこを目指したのですが、これがまた、地図ではわからない結構な上り坂でして・・・。
思えば、こんな大事なところが見晴らしが悪い低地に置かれるはずもなく・・・。
で、重い荷を背負い、遠き坂を登るがごとし・・・って、まるで徳川家康みたいな(笑)。
で、今ではすっかり、住宅街に取り込まれた一角に・・・ありました。

e0027240_820494.jpgで、横を見ると、なぜか皇女和宮の像が・・・。
ちょっと前に、山中から発見されて、ここに置かれているらしいのですが、おそらく、明治期に地元の資産家が学校などに置くようにいくつか作った物が戦時中接収されるのを恐れて、隠したのではないかということでした。

時節柄、大河ドラマ篤姫でもちょうど、話題になっているところでしょうから、ついでにカメラに納めてきましたが、この人って、最期は箱根斬り殺された・・・って説もあるんですよね。

で、話を本題に戻すと、ここに立って、なぜか私には、源 義経鵯越から平氏軍を奇襲したと言うけど、それとは別に、ここのもう少し上にある頂付近から、ここに押し寄せたのではないか・・・という気がしました。
ガイドブックにはここから先と、そして、鵯越との位置関係がわかるものが記載されていなかったのですが、なぜか、そんな気がしました。

で、そこを出て、最寄りの駅に着いて見てみると、鵯越駅というのがあり、何があるかわからないけど、まだ時間があったので、せっかくだから行ってみました。
おそらく、神戸市内なのでしょうが、まだ、片田舎の雰囲気を残す駅を降りて、鵯越史跡という看板の方向へ歩いたのですが、残念ながら、それはどこにあるかわからなかったのですが、坂を登り切ると、突然、この風景(↓)に出会いました。

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山も切りひらかれていますので、おそらく、義経の時代とは違うでしょうが、近づく前に神戸市内が一望できるじゃないですか。
当時は、こんな場所が他にもあったんじゃないかと・・・。
さらに、帰途、駅にあった観光地図を見ると、義経が部隊を鵯越から奇襲させた後、一隊を率いてさらに奥へと進み、逆落としに奇襲した場所は、まさしく、安徳天皇内裏跡の真上に当たり、であれば、おそらく、義経は、巷間言われているように敵を撃破することを目的にここから奇襲したのではなく、安徳天皇奪還のために少数でここを目指したのだと。
そして、その少数の義経一行に対し、安徳天皇を後方に下げようとして混乱した平氏軍はそのまま、崩壊してしまったのではないかと。

最近、雑兵物語という本を読んだのですが、この中に、雑兵がネズミを捕まえて遊んでいるうちに騒ぎが大きくなり、何万もの大軍が戦う前に潰走してしまった・・・という話も載ってましたから有り得ない話でもないでしょう。
                                平太独白
by heitaroh | 2008-11-20 08:49 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(4)

多母神論文の本質は・・・もしかしてご祝儀・・・???
今朝、テレビを見ていたら、突然、ニュース速報が流れたので、何事かと思って注視したところ・・・、「福岡市に今冬初の雪!」だったとか。
確かに寒いけどぉ、それって速報で流すほどのことか???と。
外見ればわかることなんじゃないの???と。
昔はもっと、「え!」と驚くようなニュースだけだったような気がするんですけどねぇ・・・。

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で、本題です。
先般から、田母神俊雄航空幕僚長(当時)が「日本は侵略国家であったのか」というタイトルの論文を「アパグループ」主催のコンクールに応募していた件で、色々と物議を醸しているようですね。
私は、あの論文に関しては、新聞に載っていた抜粋だけしか読んでませんが、ただ、私が見た限りでは、大半がこれまで語られ尽くしてきた内容であり、これといって斬新な主張もなく、特に唸るほどの物ではありませんでした。

その意味では、内容の是非はさておき、私には何で、あの論文が大賞を獲ったのかが理解できないんですよ。
実際、審査委員を務めた議員秘書などの人は、あの論文には0点を付けたと言ってましたし、そう考えれば、なおさら、一人でも審査員が0点を付けた物が大賞を獲るということは、他の審査員の大半が150点くらいつけなければならないような話であり、普通、有り得ない話なんじゃないですか?
まあ、審査委員長には論客として有名な、渡部昇一上智大名誉教授がおられたわけですから、私ごとき者にはうかがい知れない何かがあったのでしょうが、この点は疑問といえば疑問です。

で、そういう目で見てみると、これって、もしかして、田母神氏と縁が深い小松基地金沢友の会会長を務める「アパグループ」の元谷外志雄代表(つまり、タニマチ)が、かねてより懇意の田母神氏があと1年ほどで定年を迎えるに当たり、定年前に何か花を持たせてやろうと企画した単なるご祝儀のやりとりだったんじゃないの・・・って気がするんですよ。

だから、田母神氏も自分の論文が、出来るだけ多くの人の中から選ばれたようにするために、部下の自衛隊員を動員したんじゃないかと・・・。
そういえば、田母神氏の論旨に共鳴している評論家か何かの人も、「こういう懸賞があることは知らなかった。知ってれば、私も応募した・・・」とコメントしてましたよ。
その辺も考え合わせれば、最初から出来レースだったんじゃないの???って気が。
それなのに、愛すべき人柄の田母神氏が、張り切りすぎて、あんな論争が起きるような内容のことを書いちゃったもんだから、思想問題から、自衛隊ぐるみの問題にまで発展してしまって、後に引けなくなってしまった・・・のではと思うのは勘ぐりすぎですかね、御同輩・・・。
                       平太独白
by heitaroh | 2008-11-19 08:26 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

摂津播磨の旅 その5 須磨浦高地から見る戦線の是非
親愛なるアッティクスへ

先週からの続きです。

そんなこんなで、須磨寺を出て、山陽電鉄にて須磨浦公園駅へ。
ガイドブックを見る限りでは、もう少し、一ノ谷合戦の史跡が有るようになっていたのですが、行ってみると、敦盛塚と呼ばれる塚があるだけで、しかも、どうやら、後世建てられた物であるとのことで、やむなく、ケーブルカー須磨浦公園展望台へ向かいました。
ところが何と、ここは、遊園地なんですね。
親子連れカップルばかりの中、明らかに場違いなオヤジが一人・・・。
でも、ひるむことなく、山頂の展望台へ・・・。
で、そこから見た風景がこれでした。

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↑まず、ここから東側の神戸市内を見た風景。

e0027240_1522305.jpg←次に、この須磨浦公園から直角に真下を見た風景。
わかりにくいのですが、海岸線に沿って、JR山陽本線、山陽電鉄本線、それから、一番狭い部分では片側一車線となった国道二号線が走っています。

e0027240_15231792.jpg←そして、こちらが西側の明石方面を見た風景。
明石海峡大橋が見えます。)

つまり、これらを見て明らかなとおり、ここは東に拡がる大阪平野と西に拡がる播磨平野 との分岐点なんですね。

従って、現在でもこの狭い海岸線にひしめくように電車や道路が走っているわけで、おそらく、ここは明治以前は旅人を難渋させた交通の難所だったのではないかと思われます。
つまり、この須磨浦公園の高地を占拠すれば、東西、どちらから来た敵にも対処できるわけで、そう考えれば、楠木正成湊川などで足利尊氏の大軍を迎え撃たずに、この須磨浦高地迎撃するべきではなかったかと。
あるいは、正成はここを目指して進軍中に、間に合わずに湊川辺りで遭遇してしまったということだったのでしょうか。
あるいは、ここに籠もってしまっては、敵は押さえの兵力だけを残して、主力は京都へ向かうということを懸念したのかもしれませんが、でも、それはどうせ同じ結果に終わるだけの話であり、だったら・・・と。

また、であるからこそ、正成と違い、それなりの兵力を集め、乾坤一擲源氏軍を待ちかまえていた平氏軍は、大兵力が展開しやすいここの東の大阪平野の末端部分に展開していたのだと。
つまり、平氏軍としては、南は海、西と北は山地で守られているわけですから、敢えて西北南の防衛戦には目をつぶり、思い切って、兵力の大半を正面の東側防衛戦に結集することで、ここで雌雄を決しようとしたわけですね。
これはこれで、平氏側の兵力配置は計算上は間違っていなかったでしょう。
ただ、惜しむらくは平氏側には我が世の春謳歌しすぎたのか、これは多分に机上の戦闘計画だったように思えます。

私がそう思う理由・・・、それは、北と西はともかく、南側の海に、いつでも逃げられるようにを浮かべていたことです。
後の、戦国時代になってくると、こういう場合、少なくとも、名将と名が付く人であれば、船など浮かべずに背水の陣で敵に当たったでしょう。
だから、源 義経率いる源氏の別働隊が北側の山を踏破して鵯越から攻めかかると、あっけなく、敗走しちゃったんじゃないかと。
「いざとなったら、船に乗って逃げればいいさ・・・」では戦いには勝てないよと。

もう一回くらい続く・・・でしょう。
                               平太独白
by heitaroh | 2008-11-18 15:08 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

オバマ氏の大統領就任はアメリカ復活の最後の希望と危機
親愛なるアッティクスへ

私と同級生のオバマくん(?)、ついに大統領の座をものにしましたね。
ただ、私は、彼の生命が任期中、危険にさらされる可能性は50%くらいあるのではないかと思っています。
そして、彼の身に万一のことが有れば、もう、アメリカ復活再生への道は完全に道が閉ざされてしまう・・・、なぜか、そんな気がしてなりません。

オバマ氏の生命が危険にさらされることについては、多くの方が、同様の危惧を持っておられるようですが、それは主として、オバマ氏が合衆国史上初有色人種大統領となることを挙げられておられるようです。
が、私は、単に肌の色の問題だけにとどまらないと思っております。
KKKのような、単なる白人民間組織だけの行為なら、政府権力からすればいくらでも押さえ込む術はあるでしょう。ケネディの時も、単なるマフィアだけの恨みであれば、世界に冠たるアメリカ大統領暗殺されるということはなかったはずです。)

おそらく、オバマ氏は大統領就任後、まずはブッシュのこれまでのデタラメな政策見直しに着手することが予想されますが、それは、言い換えれば、これまでブッシュを操って莫大な利益を得てきた人たちにとっては容認し難い暴挙に映るでしょう。
で、その人たちがオバマの排除を画策するのに、KKKなどは自分の手を汚さずに目的を達成できる、実に都合が良い存在なわけです。
となれば、実行犯はその連中にやらせ、彼らが取り組むのは、自分たちの権益擁護し、オズワルド単独犯行にしてしまうことができる人物を政権に据えることでしょう。
(ちょうど、ケネディのときに置けるジョンソン副大統領のような存在ですね。)
それだけに、もし、オバマ氏の身に万一のことが有れば、それは単に彼個人の災厄というだけにとどまらず、アメリカは再び、ブッシュの時代に逆戻り・・・どころか、今後も、ブッシュ路線を突き進むことが既定路線になってしまう可能性が高いと・・・。

思えば、古代ローマ帝国でも、時代が進むにつれて、セプティミウス・セウェルスというアフリカ出身の皇帝が登場しています。
セウェルス家は、元々、何百年も前イタリア本土から移住したローマ人だったといいますが、彼自身は、何代にも渡って、現地人との混血が進んだ北アフリカ系ローマ人であり、また、彼の母は生粋のローマ人だったといいます。
(確か、オバマ氏の母は白人でしたよね?)

セウェルスは、皇帝に就任すると、度重なる皇帝暗殺と各地の軍団指揮官たちによる勝手な皇帝就任宣言により、混乱の極みにあった当時のローマ帝国を、瞬く間に統一
さらに、ローマの混乱につけ込み、勢力を伸ばしていた隣国、パルティアに攻め込み、首都陥落させると、ローマの安全保障上重要な地域であった北メソポタミアをローマ属州に組み込み、帝国に安定をもたらす。
次に、政敵を支援したとして多くの元老院議員粛正し、権力を盤石の物にすると、次いで、軍事費の負担を軽減するために軍制の改革を行い、ローマ軍の質的な向上を図るなど、見事な手腕でローマ立て直しに邁進するも、彼が遠征先であっさりと部下に暗殺されると、ローマは再び衰退の坂を転がり落ち始めた・・と。

世界のためにも、オバマくんが任期と生命を全うすることを切に望んで止みません。

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by heitaroh | 2008-11-14 19:35 | 国際問題 | Trackback | Comments(6)

摂津播磨の旅 その4 キンダチ!カエシタマエ!
親愛なるアッティクスへ

先日からの続きです。

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平 敦盛と言えば哀話・・・と呼ばれるほど有名な話で、だから、古今の文人たちの興味を惹いたのでしょうが、それもあってか、須磨寺というのは、とにかく、こちら(↑)の銅像にも有るとおりで、敦盛一色なんですね。

敦盛については、私もおおよそのことは知ってましたが、簡単に説明すると、一ノ谷の戦いにおいて、平氏軍は源 義経の奇襲を受け敗走。
その敗走する平家軍の中に見るからに人品賤しからぬ若武者を見つけた源氏軍の武将、熊谷次郎直実は大音声で「キンダチ!カエシタマエ!」と呼びかける。
キンダチ・・・、つまり、公達のことですね。
まあ、「貴公子殿!君に勇気があれば逃げずに俺と戦いたまえ!」というところでしょうか。

それを聞いて貴公子は馬首を返し、戦いを挑むも歴戦の勇者、直実の前にあっさりと、ひねり倒されて、さあ、御首を頂戴・・・と刀を首筋に当てたところ、見れば、ちょうど自分の息子と同じぐらいの年頃であり、これを見て、思わず直実、「我は熊谷次郎直実なり。公達、名乗りたまえ」と言うと、若武者は、「名乗るに及ばず!首実検すればわかる!」と吐き捨てる。
この気丈な言葉を聞いて直実は、「キンダチ、オチタマエ」と言い、逃がそうとするも、若武者は「敵に情けを受けるには及ばず!」と言い、「トク、ワガクビウテリ!」と叫ぶ。
つまり、「ぐずぐず言ってないで、さっさと、俺の首を切れ!」と・・・。
これを聞いて直実、やむなく、若武者の首を切り取り、首実検の結果、その貴公子が平 清盛の甥、平 敦盛だったと判明する・・・と。

e0027240_1773756.jpgで、この戦いの後、直実は人生の無常を感じ、武士を辞めて僧侶となる・・・というものだったと記憶しております。
(←敦盛の首塚。)

で、直実の最初の言葉、「公達、返したまえ!」ですが、これを本日の表題としたのにはそれなりに想いがあってのことでした。

このとき、敦盛17歳、直実43歳・・・。
これはまさしく、現代でも、ほぼ、父子年齢差と言っていいでしょう。
つまり、私にとっても、直実の行動は他人事とは思えないんですよ。
私も、気持ちの上では、息子と同級生くらいのガキが因縁付けてきたら、その場でひねり潰してやる・・・くらいの気持ちはありますよ。
(実際には、こっちはもう、ろくに体動かないんでやられちゃうでしょうけどね(笑)。)
まさしく、「キンダチ!返したまえ!」なわけです。
直実も、顔を見た瞬間、「やった、手柄だ!」・・・と思ったんじゃないですか。

でも、それが、いざ、その首を獲るとなると、自分の息子と変わらないようなあどけない顔をしているのを見ると・・・と。
敦盛の哀話がいつの時代にも文人墨客に好まれるというのもわからないでもないですね。

・・・ていうか、いつの間にか、私もそういう年になってしまっていたんですねぇ。

次回に続きます。
                           平太独白
by heitaroh | 2008-11-13 18:04 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

レッド・クリフで描くのは無理があったんじゃないの三国志
親愛なるアッティクスへ

過日、映画「レッド・クリフ」を見ました。
まあ、結論から言えば、「子供だましやな・・・」と。
あれなら、以前、平太郎独白録 : こういう環境にある皇帝に映画・「始皇帝暗殺」を想う年末でちらっと触れた映画・「始皇帝暗殺」の方が良かったですよ。

さらに、映像表現ばかりかストーリーも、あの、血湧き肉躍る傑作、「三国志」が何でああなっちゃんだろうみたいな・・・。
CGに頼らない方が良かったんじゃないの・・・みたいな。
さらに、ある程度、背景に対する予備知識がある人はいいけど、まったく無い人は殆どジャッキー・チェンの世界を見に来ているんじゃないのって気が・・・。
(私的には、丁々発止ジャッキー・チェンよりも、一撃必殺ブルース・リーの方が好きでしたので、あるいは、そういう嗜好性の問題もあるのかもん。)

この、映画の元となった三国志は、王朝側の史観を元に、面白おかしく物語化した三国志演義を元にしているようですが、それはそれで物語的には良いとは思うんですよ。
であるならば、もっと、敵である曹操という物の存在がいかに凄い物であったか・・・ということを前面に出さなきゃいけなかったんじゃないか・・・と。
曹操こそが、三国志の陰の主人公であると言われる所以ですね。
曹操といえば、若き日に易者に見てもらうと、「乱世の梟雄、治世の能臣」と言われたとか、お尋ね者になった曹操を匿ってくれた人を誤解して殺し、それが誤解だったと知ったときに、悪びれもせず、「たとえ、我が天に背こうとも、天が我に背くことは許さず!」と宣言した・・・などという、三国志演義で創作された「巨悪曹操」と、その圧倒的な悪の前に前にひれ伏していく、小悪党ども・・・というものを打ち出すべきでなかったかと。

そう考えると、やはり、ストーリー的に言えば、「三国志」を赤壁の戦いから始めたことに無理があったんじゃないかと思うんですよ。
私のまったく勝手な私見ですが、古代中国文明躍動感が失われていくのが、ちょうど、この三国志の時代であり、その三国志に敢えて「起承転結」をつけるならば、「起」後漢末期の宮廷内部における外戚宦官との権力闘争に求められるのでしょうが、他の三つ、すなわち、「承」弱者曹操が群雄中、第一の勢力を持っていた大敵袁紹を破った官渡の戦いであり、「転」が赤壁の戦い、「結」にあるのが蜀の皇帝となった劉備が、呉の将軍、陸遜の前に大敗した夷陵の戦いだと思います。
(「結」に関しては、多くの方が蜀の名軍師、諸葛亮が陣中で没した五丈原の戦いを挙げられるかもしれませんが、私は劉備、曹操没して以降は物語的に言えば、後の顛末を伝える「付属章」のようなものだったと思っています。)

そう考えれば、レッド・クリフも最初からパート2まで続くのならば、1は曹操を主人公としてそのスタートから、覇者への階段を駆け上がらせる契機となった官渡の戦いまでを描き、2はその曹操による覇権が目前に迫ったところから始め、それがひっくり返ってしまった赤壁の戦いまで・・・とするべきではなかったかと。
まあ、詰まるところ、長編作品である三国志を映画の中の短い時間で描こうとすること自体が無理があるんでしょうがね。
                                平太独白
by heitaroh | 2008-11-12 08:50 | 文学芸術 | Trackback | Comments(4)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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