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博多駅前史 その20 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅶ
親愛なるアッティクスへ

つらつらと述べて参りました自己満足シリーズ、博多駅前史ですが、奇しくも、年の終わりの土曜日であり、また、20回目というきりの良さからも、とりあえず、ここで、打ち止めにしたいと思います。

で、その博多駅前地区土地区画整理によって、大きく変わった物に道路がありました。
区画整理での換地処分直後は、まだ、アスファルトも敷説されてなく、しばらくは、砂利道でした。
当時、自転車で、その砂利道を走るとハンドルを取られて、すぐに転んでましたが、転ぶと、当然、下は尖った砂利ですからケガだらけになってましたね。

e0027240_15143842.jpgさらに、昭和44年、実は、私、小学校二年のとき、その通学途中、区画整理によって新たに出来た大通りを渡っていて、タクシーにはねられました。
当時は、信号自体はもう、付いていたのですが、早朝は、節電の為か、信号灯りはともっていませんで、おまけに、朝、博多駅に客を拾いに向かうタクシーは、我先にと急いでいたようで、歩行者が立っていたからと言って、止まって、渡らせてくれたり・・・というのは少なかったです。
ところが、子供というのは、さすがに、順応性が早いというか、強引に渡ったら車の方が止まる・・・ということを学習したんですね。
だから、我々は、車が来ていても、「車の方が止まるさ」と言って、平然と渡ってましたよ。

ところが、ある日、私に気づかなかったタクシーがドカン・・・・。
あっ!と思ったら、見事に宙に舞って、地面にドスン・・・。
息が出来なかったのは覚えていますね。

で、私はそのまま、病院に担ぎ込まれたのですが、幸運にか、あるいは、咄嗟に自分でそうしたのかはわかりませんが、直接当たったところが、ちょうど、ランドセルでして、つまり、ランドセルがクッションの役目を果たしたおかげで、その後、意外に後遺症などもなく済んだのですが、この事件は、後日、聞いたところでは、単なる小学生の一事故ではすまなかったようです。
(でも、この頃を境にして、優秀だった私の成績は、見事に凋落の一途を辿りましたので、私としては、この際とばかり、成績低下は、すべて事故のせい・・・ということで(笑)。)

まず、慌てたタクシーの運転手さんが、私を抱いて、病院に駆け込んだようですが、一緒にいた友達が、そのまま戻って、うちに、私がはねられたことを告げたようですが、うちの両親としては、まず、私がどこに連れて行かれたかがわからない。
で、どこからか、相手が地場の鉄道会社が運営する西鉄タクシーだったということがわかったようで、当時、西鉄(西日本鉄道)に勤めていた私の伯父に電話をしたところ、伯父さんが駆けつけてきてくれたようですが、うちの隣の自治会長さんが、駆けつけてきた私の伯父を、西鉄の人間ということで、(伯父と知らず)こっぴどく絞り上げたようで、さらに、早朝とは言え、小学生が通学する時間に信号が付いてなかったということが問題になったようで、それから、福岡(日本?)の信号は24時間付くようになったのだそうです。
ちなみに、それから、35年後、うちの次男が車にはねられ、それ以来、そこにも信号が付くようになりました。
当家は二代に渡って、体を張って、日本の信号に明かりをともしたということで、日本信号史に名を刻んだということでご理解ください(笑)。

でも、そんなこんなで出来た現在の博多駅前の道路ですが、区画整理から、早、40年・・・。
当時とは、自動車保有台数交通量も比べものにならないほどに多くなっており、また、人々の考え方も当時とは違ってきており、様々な部分で不都合が出てきているように思えます。
実際、向こう岸へ渡るのに横断歩道がないところもあり、そういうところは、おそらく、皆、地下道を通っていくということを前提にしていたと思われますが、現在では、わざわざ、下に降りるのが面倒くさいと言う人もおります。
また、小さな信号が幾つも連なっているところもあり、おまけに信号同士の連携もよろしくなく、一度に渡り切れればいいのですが、一つ渡ると、次の信号は赤信号・・・の繰り返しという融通の利かなさで、その都度、ストップしなければならないと言うところもあります。
スクランブル交差点の導入も含め、一度、駅前の道路行政を見直さねばならない時期に来ていると思います。

という、提言でこの博多駅前史の稿を締めさせて頂きます。
お付き合い感謝!
                            平太独白
by heitaroh | 2006-12-30 17:09 | 地域 | Trackback(2) | Comments(2)

戦争を知っている世代の反戦論 前編
先日、撮りだめしている録画番組を見ようとテレビを付けたら、たまたま、アメリカ映画、「ステルス」というのをやっていました。
まあ、見るともなしにみてしまったのですが、何より、後半しか見てないので、偉そうなことは言えませんが、ストーリー自体は、取り立てて言うほどの物ではなかったように感じました。
ただ、なぜか、黒澤明監督作品の「蜘蛛の巣城」と似ているな・・・と感じたのですが、確かに、最近のCGは大変良くできており、戦場の恐怖というものを伝えるという共通軸と、科学が発達しても、所詮、「人工知能」という「物の怪」に人間が振り回されているという部分に、何らかの相似性を感じたのかも知れません。

e0027240_12301678.jpg(←宮城県石巻市にある漫画家・石ノ森章太郞氏のミュージアム、石ノ森萬画館ですね。氏の想像力が生み出した漫画の主人公たちが音楽と共に上から降りてきているところです。)

で、科学というものが生み出した現代の「物の怪」・・・というと、どうしても核兵器という物を避けて通ることができないように思います。
この点で、以前、湯川秀樹という人のドキュメンタリー番組を見たのですが、湯川秀樹とは、言うまでもなく、日本が誇るノーベル賞学者でしょうが、この方は、研究での成果と同じくらい核廃絶活動に力を入れた方であり、それはもう信念を通り越して執念と言っていいくらいのものを感じました。

徹底して、「核と人類は共存出来ない」ということで、強く、核兵器の廃絶を訴えかけた人だったようですが、「核抑止論」を唱える米ソの御用学者に対しても、「核が拡散していけば、それだけ、暴発する可能性は高くなる」ということを主張されていたようです。
私も、この点では、確かに、その通りだと思います。
しかし、では、「無くなるのか?」と言えば、残念ながら、これには、私は少々、悲観的です。
人類は、自ら、自分の首を絞める方向へ進んでいるのでしょうが、それが人間という生き物のサガなのであれば、「無くならない」ということを前提に考えるべきだと思います。

ちなみに、先年亡くなった私の祖母が言った言葉で忘れられない言葉が二つあります。
ひとつは、「原爆が落ちたとき、福岡では地響きか何かあった?」と聞いたとき、「あった」と答えたことです。
重ねて聞くと、「もの凄い音がした」と。
・・・ばあさん、呆けたかな?と思い、参考までに尋ねてみました。
「それは、どっちな?広島な?長崎な?」と。
すると、はっきりと、「長崎」と答えましたから、「ふーん・・・、呆けちゃあいないようだな」と。
でも、福岡と長崎の間にある佐賀の年配の方に聞いても、「ん?そんな音したかいな?」と言う返事だったのですが・・・。
でも、祖母は元々、長崎県は五島列島の出身ですから、長崎には当然、知己も多かったはずで、あるいはムシの報せというものだったのかもしれません。

で、もうひとつが、「もう、戦争は嫌。こりごり。」と言った言葉です。
私は、いたずらに、非戦・反戦論者ではありませんが、しかし、今の日本人は、もう少し、こういった現実を知った上で、つまり、覚悟を持った上で、主張するべきだろうと思います。

この点で、続きがあるのですが、またいつか・・・ですね。
                        平太独白

by heitaroh | 2006-12-29 08:52 | 社会全般 | Trackback | Comments(6)

年末的一年間お世話になりました的教えて下さい
親愛なるアッティクスへ

今年もいよいよ、残すところあと僅かとなってきましたね。
で、まことにもって、恥ずかしい限りなのですが、今年一年、疑問に思ったことを挙げてみたいと思います。
ご見識豊かな皆々様のお力を持って、迷える子ヤギをお導きの程を。
これがすっきりしないと年が越せません(笑)。

で、教えてください。

なぜ、カナダは独立国なのでしょうか?
東洋的な発想では、アメリカがカナダを併合してしまえば、アラスカまで地続きになるんですよね。
カナダは、一応、アメリカの弟分ってことになってるのでしょうが、カナダの国民感情としてはアメリカに対しては、ちょっとした対抗意識のような物もあり、アメリカの悪口を言うことで職を得ているような議員さんもいると聞いています。
それを考えれば、万一、遮断されたりしないように自国の領土としておいた方がいいんじゃないですか?
何より、カナダとアメリカは、宗教や民族が特に違うわけで無し、どうしても、別の国で有らねばならない理由があるようには思えないんですよ。
また、同様に考えれば、メキシコを始めとする中米の国も然りで、中国人や日本人の考え方だと、パナマ運河の領有を確実な物にする為には、パナマまでは自国の領土に組み入れてしまおうとするんじゃないですか?

教えて下さい。

ドイツが最大の被害を与えた国ポーランドに対して、戦後一貫して謝罪外交を行ってきたといいますが、これって旧東ドイツが行ったモノでしょうか?
旧西ドイツ?それとも、両方?一緒に?別々に?
考えてみれば旧西ドイツは当初は国交がなかったわけでしょうし、東西双方が別々にそういう結論に達していたとしたら、これは驚くべき事ですね。
ゲルマン民族の民族性の為せる技でしょうか・・・。
それとも、西ドイツにそういう動きがあったから、遅れてはならじと東西争って、ポーランドとの和平に邁進したという覇権争いの一面があったのでしょうか?

e0027240_12315847.jpg教えて下さい。

なぜ、日本人はゼネラル将軍と訳したのでしょうか?
翻訳されたと思われる明治日本では、将軍と言えば、前王朝の通称であった征夷大将軍のことだったのではないですか?
律令国家の称号をそのまま、踏襲したのかもしれませんが、少なくとも、江戸時代の翻訳者であれば、ゼネラルを将軍とは訳さなかったように思えるのですが・・・。

将軍と言えば、中国では、孫子などには、「将能ありて君御せざれば勝つ」等という言葉もあるとおり、司令官という位置づけでしたよね。

日本でも、古代は、「いくさのかみ」と読んで、将軍、つまり、軍事を司る司令官という意味だったように記憶しておりますが、ゼネラル=将軍とした時点で、旧幕府側の人間からの反発は起きなかったのでしょうか?

教えて下さい。

ジパングというマンガの中に、タイムスリップした自衛隊員が当時の日本人になりすまして、町を歩くことになったとき、麻のスーツと「帽子」を手渡されたのですが、隊員の一人がそれをかぶりながら、「照れるな」と言うシーンがありました。
で、私は帽子が好きなんですが、たまに、スーツに帽子を被っていくと、皆から、奇異な目で見られます。
日本人が、正装に帽子を被らなくなったのは、どういう理由だったのでしょうか?
いつの頃から日本人は帽子をかぶらなくなったのでしょうか?
昭和30年代の映画では、かぶっているのを見たことがあるんですけど、でも、それも考えてみれば、志村喬などの年配の人でしたね・・・。
                         平太独白

by heitaroh | 2006-12-28 08:10 | その他 | Trackback | Comments(15)

カムイの五ツに常識の陥穽といじめ問題の原点を見る・後編
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

漫画、カムイ外伝の中で、フリー(?)の忍者「名張の五ツ」が呟いた言葉ですが、これを聞いて、私には違う意味「いじめ問題」が思い浮かびました。

当時、同時代に放送された手塚治虫の名作に、「どろろ」というのがあったのですが、この「どろろ」も、「カムイ外伝」同様、世の因習不条理、人間の醜さという物を隠し立てすることなく表現した作品でしたが、ところが、「子供の教育上よろしくない」ということで、途中で圧力が掛かり、結局、放送中止に追い込まれたやに聞いております。
この傾向は、昔話などにも見られ、「カチカチ山のたぬきさん」グリム童話にみられるような、本来、残酷な話、グロテスクな内容というものはすべて、皆、「最後は仲良し」みたいなハッピーエンド的な結末に書き換えられように記憶しておりますが、要は子供たちの目から、汚い物、醜い物というものを覆い隠してしまったわけですね。

が、しかし、子供というのは、本来、本能的にそういう残酷さというものを持っている生き物であり、何より、実際の世の中というのは、必ずしも綺麗な物ばかりではないわけで、むしろ、汚い物、不条理の方が多い物でもあるということを考えれば、それらを覆い隠してしまうのではなく、そういう残酷なことをすれば、こういう悲惨な結末が待っている・・・ということを教えなければならなかったのではないかと。
この点では、所ジョージという人がいいことを言ってましたね。
「いじめをルールで押さえ込もうとするのは間違いだ。イジメをするような人は、最初から、ルールなんか守らない。そういう子供には、損得で教えるべきだ」と。

私も、彼のこの意見には概ね、賛成です。
子供というものは、善というものだけを見せておけば善人に育つ・・・というのが、今の教育の教是になっているようですが、それは上述しましたように大きな間違いで、実際、私も、子供の頃、きれい事ばかり言う教育というものを心の底から軽蔑してましたよ。
現に、所詮、私のような者ひとり、善人に教育出来なかったわけですから、これが教育というものの限界なのではないでしょうか?
今の子供たちも、この「世の中には善人しか居ない」という教育の虚構足元を見透かされているように思います。

私なら、彼らに向かって、こう言います。
「君たち、日本という国をなめてはいけない。君たちが思っているほど、この国は優しい国じゃない。自殺する人に『俺の名前なんか、書くんじゃないぞ!』と言ったところで、その人は死んでしまえば関係ないんだから、書きます。
その結果、どうなるか。そこに名前が載ると、毎日、マスコミが家に押しかけてきます。名前は、どこからか、漏れて、毎日、昼も夜も、いたずら電話がかかります。それから、お姉さんがいる人は縁談がなくなります。
次に、バス停で立っていたら、誰かが、『あいつだよ』などと言ってると思ったら、見知らぬ人から、突然、蹴られます。次に、就職しても、そういう過去がばれたら会社には居づらくなります。日本は、そういう国なのです。」と言います。
後は、各人、自分で判断しなさい・・・と。

であれば、教育というものは、きれい事ばかりで飾り立てず、世の中の因習、不条理というものを、ありのままに見せていくべきではなかったかと。
擁護のしようもないような話には、むしろ、「こういう忌まわしい現実も厳然として存在している。何とか、君たちの世代で変えていってくれ」と教えるべきではなかったかと。
その上で、「働かなかったキリギリスさんは、助けを求めたさんに殺されて食べられてしまいました。そうなりたくなかったら、皆さん、一生懸命、働きなさい」・・・と教えるべきでしょう。
子供には、それをきちんと把握する能力があると思いますから。

あ、「私が言うようにすれば世の中から一切、悪人がいなくなる」・・・なんてことは言ってませんからね。
最近、こういう短絡的な誤解が多いもので・・・。
                                   平太独白
by heitaroh | 2006-12-27 08:17 | 教育 | Trackback(1) | Comments(4)

カムイの五ツに常識の陥穽といじめ問題の原点を見る・前編
親愛なるアッティクスへ

以前、私の友人に、鹿児島の有名な温泉どころ、指宿からきていた人物がいたのですが、彼が、福岡に来て、2つ驚いたことがあったと言ってました。
ひとつは、居酒屋に入って、「お酒下さい」と言ったら、日本酒が出てきたこと。
(鹿児島では、酒と言ったら、普通に焼酎が出てくるんだそうです。)
二つめは、アパートに入って、風呂に入ろうと思い、蛇口をひねったら、いつまで経っても、お湯が出ない・・・。
家主に言いに行ったら、「ガスつけましたか?」と言われ、「ガス?」と言ったとか・・・。
(指宿は温泉どころだから、普通に蛇口をひねれば、お湯がでるのだそうです。)
嘘のような本当の話ですが、まったく、人間の常識とはおそろしいものですね。

で、この「常識」という点で、少し、思うことがあります。
昭和44年(1969年)、私が小学校二年の頃、テレビで、巨匠、白土三平作 カムイ外伝というアニメが放送されていました。
が、アニメとは言え、当時の世相を反映してか、かなり、大人向けの劇画調の物で、子供としては、あまり、面白い物ではありませんでした。
ところが、その当時というのは、昭和43年「ウルトラセブン」が終わってから、昭和46年「宇宙猿人ゴリ」が始まるまで、どういうわけか、子供向けのテレビ番組の不毛時代でして、従って、見る物がないから仕方なしに見ていた次第でした。

で、そのカムイ外伝ですが、この中で、私には忘れられない一話があります。
それが、第五話 「五ツ」です。
(Wikipediaで調べたら、案の定、タブー扱いされているようですね。)

あらすじを簡単に述べてみますと、組織を抜けたことでかつての仲間より命を狙われる身となった忍者、カムイの前に不思議な術を使う忍者が現れます。
彼の名は、「名張りの五ツ」
銃を構えた相手から「両手を挙げろ!」と言われ、そのまま、両手を挙げると、不思議なことに銃を構えたはずの相手が倒れている・・・と。
ラストの方で、その「五ツ」は、極めて、抽象的な表現ではあったものの種を明かすわけですが、それこそが、彼には、生まれながらに手がもう一本あった・・・というものでした。
つまり、「奇形」だったということです。
人間というものは、無意識に、「人は、手は二つ、足も二つ」という常識に縛られて居るもののようで、このとき、リアルタイムで見た時点では、私には、何が何だかさっぱりわかりませんでした。
最近になって、ようやく、そのとき、何が起きていたかを、いや、何が表現されていたかを理解した次第でした。

e0027240_10415662.jpg最後に、その、名張の五ツは、こう呟きます。

「俺は、こいつのおかげでこの世界で生きなくてはならなくなり、こいつのおかげでこの世界で生きて来ることが出来た」

何とも、考えさせられる一言です。

で、この名張の五ツの呟きに現代のいじめ問題の本質が垣間見えたような気がしたという私見は明日のココロだ~。
                                 平太独白
by heitaroh | 2006-12-26 08:33 | 思想哲学 | Trackback(1) | Comments(4)

バルトの楽園16 日独機関誌比較
親愛なるアッティクスへ

前回、ドイツ人俘虜というものの収容所内での過ごし方、ひいては、人生観という物について触れましたが、これについては、大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」は、
「こういう生活態度、全員じゃないと思います。崩れた人もいると思います。しかし、こういった生活態度、人生観が機関紙を支えていたと思いますし、大半の人たちが崩れてしまわなかった理由であろうと考えられます。」とも述べておられます。

で、ここで、出てくる「機関誌」こそが、松山収容所などで発行されていた「ラーガーフォイヤー」のことです。
同書では、これを仮に「陣営の火」と訳しておられましたが、雰囲気からして、それに近い物があるように思います。

で、この機関誌については、
「そういう週刊の新聞を発行しました。輪転機、当時の最新鋭機だろうと思いますが、それを銀行かどこかから借りてきて、五号までつまり五週間発行します。
第五号が出たところで所長前川中佐がその新聞を発行停止処分にいたします。
(中略)
印刷機はありません。どうしたか。タイプライターはあります。カーボン紙を挟みます。
もちろん電動タイプではありません。たたき(手動)ですから(カーボン紙を挟んでも)5枚か10枚しかとれないと思います。
それを束ねて(購読)会員を募集します。ただし一人に一部は渡せません。回覧方式です。
入会金1円。購読料月当たり50銭。ちよっと高いような気もしますが、そこが契約です。
やがて平和がきたならば、回覧で回したのをきちんとした印刷で渡すという約束をしております。」というものだったようですが、この点で、思い出したことがあります。

第二次大戦後、敗残日本兵たちは、ソ連によってシベリアに抑留されたわけですが、このとき、シベリアには日本人だけではなく、ドイツ人ルーマニア人など他の敗戦国の兵士たちも多数、抑留されていたそうで、生殺与奪の権を持つソ連というものへ媚を売るというのは、どこの国の収容所でも、多かれ少なかれ致し方ないことであったと言えるでしょうが収容所内で「同士スターリン大元帥閣下お誕生日おめでとうございます!」などと書かれた新聞まで発行したのは日本人の収容所だけだったと言います。

それを考えると、この第一次大戦のときのドイツ人俘虜の機関誌は、発行停止後は回覧物ですから、日本側はまるで気づいていなかったということもあり、割と自由に書かれているそうですが、同じ印刷物を発行しながらも、自分たちの為に秘匿しながら印刷したドイツ人と、権力者の心証を良くする為に発行した日本人というのは、随分と趣が違うなと・・・。
まあ、この点は、同著も、
「この(第一次大戦時の)ドイツ兵たちの心情がずっと続いていたわけではありません。
ときの条件によって、わが日本人も日露戦争のときの将兵は立派だったと思います。上がったり下がったりいたします。
ナチス時代ドイツ将兵とは直接比べられません。」と述べておられるとおり、シベリア抑留とバルトの楽園を同じように比べるわけにはいかないでしょうがね。

ちなみに、ドイツ人俘虜は、講和後、「本国へ帰る船の中にも輪転機とワラ半紙を持ち込んで、週刊新聞を発行している」そうで、この点でも、面白い日独比較を展開しておられました。
曰く、「あらかじめ紙の計算をします。一号で16ページ。予約購読者数150人と予想。印刷ミスの予想枚数%もたてて、必要な枚数の紙を船に積み込みます。
やがて船内で予約募集を始めます。ところが予約数が予想を上回ります。
(こんな場合)われわれ日本人だったらどうするでしょうか。
たぶん皆さんに行きわたるように、16ページを12ページとかに減らして、購読料もそれに応じて下げ、印刷すると思います。
彼らが何をやったかといいますと、150部で打ち切り。あと(の予約購読者)は名簿に残しておく。そしてあのマラッカ海峡を渡ってスマトラ島の北端に港がありますが、そこに船が寄るので、その港で紙の入手を計る。
もし紙が入手できたならば、一号からさかのぼって名簿に記載された人に配布する」ことにしたとか。
なるほど、面白い考察だと思いますね。
平太独白
by heitaroh | 2006-12-25 08:39 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

博多駅前史 その19 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅵ
親愛なるアッティクスへ

e0027240_8465841.jpgすっかり、年も押し詰まりましたね。
(←拙宅に残る下人参町の提灯です。昔は、ちょうど今頃の季節になると、町内会の役員がこの提灯を持って、「火の用心!」と声を掛けながら町内を練り歩いたわけですね。やはり、暖房といえば「火」だった時代ですから・・・。夏もやっていたのかもしれませんが、夏は余り聞いた記憶がありません。ちなみに、当然、「火の用心」と言えば、これにツキモノの拍子木もありました。ていうか、何で、うちにこんなものがあるんだと・・・(笑)。)

で、19回を迎えた、この自己満足シリーズも、ちょうど、年内20回でキリが良いので、そこを以て、終わりにしようと思います。
もうしばらく、お付き合いの程を(笑)。

で、この博多駅前土地区画整理以降、当時、子供ながらに、私が一番参ったのは、友達が減っていくことでした。
そうそう、私は、昔も今も、性格が不自由な人ですから・・・・・・って、オイ!(笑)。(←ココ、思いっきり声を出して突っ込んで下さい。大事なところです。)

そうじゃなくって、以前も言いましたが、区画整理前までは典型的な下町で、住民の数も多かった現博多駅前地区ですが、区画整理以後は、オフィス街化の波に呑まれ、急速に人口が減っていったこともあり、子供の数も激減しました。
当然、私の仲の良かった友達も次々と転校していき、特に、私の住んでいた博多駅前三丁目地区は、中でももっともオフィス街化されたこともあり、同町内で、私と同学年の子供は幼なじみの女の子一人だけ・・・。
当然、「男女七歳にして席を同じうせず」の時代ですから(←ここ、突っ込むところね。ご協力感謝!(笑)。)、その女の子と遊ぶわけはないし、完全に一人でしたよ。
こうやって、私の屈折した性格が形作られていったわけですね。

あ、屈折した性格と言えば、そういうわけで、拙宅は見事なまでにビルの谷間にあったもので、毎日、昼間でも真っ暗で朝起きても晴れているかどうかわからない・・・。
20歳くらいのとき、朝起きて、「いくら何でも、こんなに暗いんだから、今日は寒いよな・・・」と思って、一杯着込んで、玄関を開けたら、思いっきり晴れてた・・・なんてことがありましたね。
こんな環境で、性格が屈折しないわけがない・・・という(笑)。

ちなみに、そんな私の唯一の憩いの場所だったのが、うちの前のビルの屋上でした。
よく、ここの屋上に上がって、空を見てましたよ(笑)。
昔は、今からは信じられないくらい眺望が利きましたね。
それが、平成になって、久方ぶりにここに上がったら、その、あまりの景色の変わりようにびっくりしました。
福岡市と言うところは、元々、空港が近い為に高いビルが建てられません。
従って、20階建て、30階建てなどというのは、片手で数える程度で、多くが高くて12~13階建て程度のビルばかりです。
となれば、上に上げられない以上、有効に利用しようと思えば横に拡がるしかなく・・・。
私が久々に、そこで見た風景は、10階建て程度のビルが、まるで、屏風を幾重にも重ねて立てたように林立しているものでした。
元々、昔から、ビルは多かったけど、昔はもう少し、隙間があったよな・・・と。
嗚呼無情・・・。
                          平太独白
by heitaroh | 2006-12-22 08:49 | 地域 | Trackback | Comments(2)

エルネスト・チェ・ゲバラ 昭和3年生まれの肖像。
先日、平太郎独白録 「預言者は己が里にて喜ばれず・・・、言い得て妙の年末。」の中でも、ちらと触れましたが、映画、「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見に行った折、そこの売店で購入したチェ・ゲバラの写真集「CHE チェ・ゲバラ 情熱の人生」という写真集を先日、ようやく、読み終わりました。
今頃かよ!と呆れられそうですが、これも、先日、述べましたように、同書は、まず、写真集と言うよりも、「写真がふんだんに使われた伝記本」という方が相応しい物で、そのくせ、著者も訳者も外国人だからか、かなり直訳の感がある部分が多く・・・。
だからなのかわかりませんが、ご紹介申し上げようと思ったら、なぜか、アマゾンでは取り扱いがなかったようです。

で、これを見て、まず、思ったのが、エルネスト・チェ・ゲバラという人は、1928年6月生まれと言いますから、日本で言えば昭和3年生まれなんですよね・・・。
ちなみに、昭和3年6月と言えば、日本では、悪名高き改正治安維持法が施行され、同年同月生まれの有名人には、ドクター中松こと中松義郎氏がいらっしゃいます。
もし、ゲバラが生きていたら、あの方くらいの年齢になっているわけですね。
(ちなみに、他の同年生まれには、スタンリー・キューブリック、渥美清、アンディー・ウォーホルといった人たちがいるようですそうです。)

で、昭和3年生まれ・・・ということになれば、私の父の世代と、ほぼ、同世代ということになると思うのですが、この点で思うのが、まず、第一に、子供の頃から写真が豊富だな・・・ということでした。
私の父の場合は、無いわけではありませんが、これほど、生まれたときからふんだんにはありませんよ。
まあ、その点は、昭和初期の日本とゲバラが生まれた頃のアルゼンチンとは、かなり、状況を異にしていたことがあげられるでしょう。
昭和の初めと言えば、日本は中国との泥沼の戦争と貧困に喘いでいたのに対し、アルゼンチンは第二次大戦中も、戦乱の外に居たことから、戦争に喘ぐ日本や欧米などを尻目に、かなり、豊かだったと聞いています。
ただ、ゲバラ家は家柄はよかったものの、決して、豊かではなかったといいますが、それでも、同時期の日本人家庭から比べれば、これほどに子供の頃の写真がたくさんあるということは、かなり、恵まれていたのではないでしょうか。
まあ、日本の場合、空襲で焼けてしまったということも、少なからず、あるのでしょうが・・・。

その後、青年期になると、なるほど、私の父の写真にも、同じような物があったな・・・と思わせられるような写真が、結構、出てきます。
この辺りになると、日本とアルゼンチン・・・というよりも、同時代の若者の姿というのは、地球の裏表でも、あまり変わりはなかったのでしょうね。
で、ゲバラがアルゼンチンでの青年期という「起」を経て、カストロと出会い、キューバ革命で名を馳せる「承」、キューバ政府高官となるも、本来の志とは違うことを実感し、カストロと袂を分かつ「転」、そして、ボリビアの山中で政府軍により処刑される「結」まで、直訳気味でわかりにくかったとは言え、かなり、ゲバラという人物のことについては知ることができました。
驚いたのは、よくTシャツなどにもなっている、あのゲバラの代表的な一枚、「遠くを見つめ、放心したような顔写真」は、一枚の、たまたま撮れたスナップ写真の一部だったんですね。
その背景をカットし、顔をアップにしたため、その分だけ、ピンぼけになったものが、逆に神秘さを醸し出すことになった・・・と。
本来の写真を見て、びっくりしましたよ。
まるで雰囲気が違う写真ですから。

ちなみに、同書では、ゲバラが処刑されたとき、遺体の周りをボリビア軍将校たちが囲んで撮った写真もありましたが、その横に、有名なレンブラント作の名画、「ニコラース・テュルプ博士の解剖学講義」が出てました。
まあ、人間というのは、こういうときは、どうにも同じような構図になってしまうもののようですね。
遺体を指し示す者、じっと遺体を凝視する者、あらぬところを見ている者・・・。
他にも、ゲバラの遺体写真がキリストの遺体を描いたモノと似ている・・・などという理由から、「実はゲバラの死は偽りではないのか・・・」という説が、まことしやかに囁かれていたと言いますから、ゲバラが死んだことを世界に知らしめる為に、ゲバラを貶める為に撮られた写真が、逆に、ゲバラの死を信じがたいものに、そして、ゲバラを「神」にしてしまうことになる・・・。
何とも皮肉なものですね。

続きはまたいずれ。
                              平太独白

by heitaroh | 2006-12-21 17:53 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

バルトの楽園15 ドイツ人俘虜の人生観
親愛なるアッティクスへ

15回を数えてしまいましたこのシリーズですが、今回は前回の続きで、収容所内での経済活動についてです。
またまた、大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」よりの引用ですが、

「どの収容所でも、持っている知識、技能をお互いに分け合うための講習会、研修会が盛んに行なわれます。もちろん条件は違いますが、第二次大戦での日本人将兵の収容所と比較いたしますと、ずいぶん違います。
日本語の講習会はもちろんあります。英語の講習会もあります。中国語もあります。中国にいた人が召集されていますから、ちゃんと『論語』を中国語で読む読書会なんていうのまであります。電気工学の講習会があります。簿記の講習会があります。
さまざまな講習会を開き、お互いの知識・技能を持ちより、ドイツ人同士ときに有料で勉強し合っているのです。
音楽家は音楽を教えます。楽器を作れる人は「楽器製作所」なんていう看板を出してます。経済活動が成り立ちます。」・・・と。

e0027240_10142397.jpg(←当時、収容所にはお寺なども多く当てられたようです。ちなみに、こちらは太宰府の名刹、光明禅寺です。)

そして、それを成り立たしめていたものこそ、ドイツ人俘虜の人生観というものにあったようで、同書ではこの辺をこう語っています。

「俘虜期間中といえども、自分の人生を己れで築き上げよう、こういう精神があるかぎりくじけないわけです。
ドイツが負ければショックはあります。
けれども先ほどの手紙の主ですと毎日数時間ヴァイオリンのけいこをし、朝は自分が先生になって英語の講義を主催し、ヴァイオリンが終わったらオランダ語、やがてオランダの漁業会社に務めるかも知れないというのでオランダ語とフランス語の勉強をし、さらにボーナー神父について聖書の勉強もやる……一日中忙しくてしようがないのです。」

これらに対する日本側の評価として、「わが国の将兵であったならば、5年有余の俘虜生活の中でわが国民性のつねとして、このような状態では縮命者、自殺者が多数出るであろう。それに対して彼らドイツ兵は5年有余の中で、音楽を奏し、自ら楽しみ、自ら体育に励んで身体を鍛え、読書会を開いて勉学に努め、わずか数名の神経衰弱者を出したのみというのは、その成績きわめて良好なりと言わざるべからず」という所感が残っているといいます。

ちなみに、「旧大日本帝国陸軍の用語で『きわめて良好』というのは『これ以上ない』ということです。『おおむね可』で『合格』ですから。」ということだそうです。
ただ、収容所によっては、「ドイツ兵俘虜の精神があまり高揚しない方が、つまりくじけていた方が、わが方にとって有利である」などという所長の見解も出て来るそうですが、これなどは、私に言わせれば、やはり、帝国軍人特有の近視眼的な見方であるように思います。
今も昔も、地政学的に見れば、ロシア(ソ連)という大国の脅威が存在する以上、日独の関係というのは、互いに、衰退してもらっては困る関係だからです。
                              平太独白

by heitaroh | 2006-12-20 08:00 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

年末にナポレオンとシェークスピアで嗤う年忘れ!
親愛なるアッティクスへ

私が物心ついた頃の人気アニメに「トムとジェリー」というものがありました。
今でも、時々、ケーブルテレビでやってますし、レンタルビデオなどでもみかけますが、名作中の名作だと思います。
で、我が子も、3~4歳くらいの時に、果たして、同じように腹を抱えて笑うものか、是非、見せてみたいと思い、見せたことがあります。
結果、30年の時を経ても、同じように、笑える物なんだな・・・ということを実感しました。
その意味で、親子二代(いや、下手すれば三代!)で楽しめる逸品でしたね。

でも、子供の頃、このアニメで見た「アメリカの豊かさ」というものは、同じ、地上の世界にある物とは思えませんでしたね。

e0027240_15191447.jpg特に、トムとジェリーが目の色を変えて奪い合う「脂身の付いたステーキ肉」というのは、ある意味、あの時代、「アメリカの豊かさ」というものの象徴だったように思います。

(←これを見ていた時代の私の周りは、こういう世界でした。)

で、いつもそのアニメを見るたびに、「よくぞ、あの時代に、猫とネズミというありふれた題材を種に、ここまで完成度の高い物を作ったな・・・」という感を強くしてました。
と同時に、「俺が物心付くか付かないかの時に日本でやっていたと言うことは、アメリカで放映されていたのは、そのずっと前だろうから、これを作った人たちは、もう、アメリカのアニメ界では伝説上の人物となっているだろう。まあ、生きてはいないだろうけどな・・・」と思ってました。
で、昨日、その作者、ジョゼフ・バーベラ氏が亡くなったそうですね。
享年95歳だったそうですが、むしろ、生きてたのにびっくり・・・。
ちなみに、氏は、「1911年、ニューヨーク生まれで、銀行勤務などを経て、アニメーション作家として1937年に映画会社MGMに入社し、5年前に亡くなったウィリアム・ハンナ氏と、ネコとネズミのコンビを描いた人気アニメ『トムとジェリー』シリーズを共同製作、アカデミー賞7回受賞した」そうです。
謹んで、この偉大なる才能のご冥福をお祈り申し上げる次第です。

で、今年も昨年に引き続き、年末恒例、嗤う年忘れシリーズです。
絶頂期のフランス皇帝ナポレオンが、「誰か、このパリで、余の名前を知らぬ者があれば、連れてこい。褒美を取らせよう!」と言ったところ、たちどころに一人の浮浪者が連れてこられたとか・・・。
「誰だぁ?ナポレオン?おら、そんなやつは知らねぇ。」
本人を前に言い切る浮浪者に、さすがの皇帝ナポレオンも苦い顔だったとか。
ていうか、部下も本当に連れてくるなよな・・・って(笑)。

次に、大英帝国華やかなりし頃のイギリスロンドンでのお話。
ある商人が、友人を食事に誘ったところ、その友人は、「すまない。今日は、妻とシェークスピアへ行く約束があってね。」と返事をしたそうです。
すると、その商人は、「シャークスピア?いいじゃないか。ついでに、そいつも連れて来いよ。」と言ったとか・・・。
この商人、この時代のイギリス人でありながら、シェークスピアを知らなかったんですね・・・。
二つとも、人間、興味がない話にはとことん、興味がないというお話でした(笑)。

ちなみに、昔、私の知人にも、「宜保愛子」華やかなりし頃、宜保愛子を知らないやつがいました。
で、もう一人の同僚に、「おい、こいつ、宜保愛子知らねえんだぜ!」と言ったら、そいつも、「誰?宜保愛子?知らない・・・」・・・と。
ついでに、そいつらは、「シャロン・ストーン」も知りませんでした・・・。
一瞬、私一人、宇宙にいるような気がしました。
                        平太独白

by heitaroh | 2006-12-19 17:43 | その他 | Trackback | Comments(2)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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