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講演前夜にみるツキというものとの付き合い方 中編
親愛なるアッティクスへ

「ツキ」という点で、昨日の続きです。
福岡ソフトバンクホークスの某捕手が、どうにも、ツキがない・・・
あの、城島健司捕手がメジャーに行った後に、ホークスの正捕手を務めると目されていたのに、サッカー日本代表の守護神、川口能活選手と同じで、「大変、よくやっているんだけど、どうにも、こいつが守ると勝てない」という観があり・・・。
リードの方は、折り紙付きなのですが、そういうツキの無さもあってか、本来、彼が座るはずだった正捕手の座には、若い選手が座った観がありました。

彼を見ていると、同じく捕手で、明るいキャラムードメーカーで、そして、城島の控えでもあった田口昌徳(現育成担当)氏と被るのですが、田口氏とは大きく違う部分があるように感じます。
それは、「顔」です。
顔が違うのは当たり前・・・と言われるかもしれませんが、そういうことではなく、田口のそれが、同じ控え捕手でも、屈託のないものであったのに対し、こちらは、顔が「泣き顔」になっているような気がするのです。
どちらも、城島という、強肩強打好リードで、しかも、放っておけば一年間、フルイニング出場してしまう捕手の陰に隠れ、共に忸怩たる想いをしてきたのでしょうが、田口氏に関しては、元々、日ハムでそれなりに実績があって移籍してきた選手でもあり、その意味では、最初から納得ずく・・・という割り切り感もあったのかもしれません。
その意味では、的場はきっと、大変な苦労をしたんだろうと思いますが・・・。

ツキのあるなしという意味では、森喜朗元総理はゴルフに行っているときに潜水艦の事故があるなんていうツキの無さだったのに対し、小泉純一郎氏は本当にツイていたという点ましたよねぇ・・・。
民主党偽メール問題などは、その最たる物でしたが、今のタウン・ミーティングでのやらせ問題も次の総理になってから出てくる・・・という(笑)。
安倍さんとしても、小泉さんが如何なる難問からも逃げなかったから支持率が高かったことを考えると、「そんなもん、前総理に言ってくれ」とも言えないでしょうし、それどころか、安倍政権になってからも、数回やっているみたいですし、何より、当時、安倍さんは、総理以上に舞台裏実務に関与する立場にあった官房副長官だったわけですから、どう考えても、言い逃れは出来ない問題ですよね。
まあ、安倍さんは、まだ、これからでしょうが、ツキとか運の善し悪しという点で、ここまで、きれいにコントラストが別れると、「ばかばかしい!ツキなんて」とばかり、一笑に付すこともできないような気もします。

で、ここからが本題です。
それでも、「ツキ」などと言うと、必ずや、「ツキなんて物、迷信だ!」とか、「そんな物、無いなんて言われても!」といったお叱りがあるかと思います。
しかし、これまでも触れてきましたように、現実には、同じ戦場に行って、生きて帰ってくる人と帰って来られない人がいるわけで、この点では、厳然として、「運」というものは存在するように思えます。

私は、本来、結構なペシミストです。
くじ運などは昔から、これでもか!というくらい悪いです。
従って、今でも、ギャンブルなどは一切しません。
当然、ホールインワンなどは一回もありません。
腕の問題はここでは却下します(笑)。)

ただ、私は、自分が一生、ツキまくっている人間だとは思っていませんが、「自分には流れを読む力」があるとは思っています。
「流れ」というのは、具体的にここで説明することは非常に難しいです。
他の人から見たら、何の説得力もない、独自の理論データと勝手な思いこみの世界ですから。
一言で言うならば、「感じ」です。
こういうときは、こうなれば、こうなる感じがする・・・という感じです(笑)。
よく、異常な記憶力を持つ人などが、「数字の2は暖かいオレンジの感じがする・・・」などと言いますよね。
それと同じ「感じ」です。

で、またまた、続きは明日のココロだ~。
                                   平太独白
by heitaroh | 2006-11-30 01:27 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

講演前夜にみるツキというものとの付き合い方 前編。
親愛なるアッティクスへ

以前、ちらっと申し上げておりましたが、先般、講演なるものをさせていただきました。
まあ、内容と出来については、思い出すのも恥ずかしい限りでしたが、それについては、とりあえず、ここでは触れないとして、実は、その講演前夜のことです。
私は明日に備え、酒も飲まず、いつも通り、12時にきちんと就寝しました。
ところが、2時間ほど経った頃、ノンレム睡眠の私の耳元へ「ブーン」というただならぬ音が・・・。
さすが、九州は南国、11月下旬になっても、まだ、がいたんですね。
などと、当日の私には感心している余裕はなく、明日に備え、眠らなければならない身の私としましては寝なければならないわけで、追い払って、また、寝ようとしたところ、何度、追い払っても、また、耳元に「ブーン」と・・・。
とうとう、「どこかにベープマットあったよな・・・」と起き出して、色々な物の奥深く眠っていたベープマットを見つけ出し、点火しました。
すると、ピタリと蚊は来なくなったのですが、今度は、それから眠れない・・・。
「何で、よりによって、今日なんだ!」と・・・。
夏ならまだしも、11月下旬ですよ。

で、結局、二時間くらい、布団の中でゴロゴロしていましたが、ついに、開き直った私は、午前四時、枕元に秘蔵していたブランデーの瓶を手に取りました。
そのまま、ラッパ飲みで一口・・・。
「美味い!」と・・・。
となれば、もう一口・・・、いや、二口、三口・・・、で、ついに、「えーい!面倒でぇ!」で、ボトル半分弱・・・、見事に飲みきってしまいました。
当然、目が覚めたら、べろべろべろんべろん・・・。
で、この日は割と忙しかった為、早く酔いを覚まさなきゃ・・・と思い、風呂に入ろうと思ったら、カカアが一言、「今日はもう、風呂の水は抜いたよ」と・・・。
で、車に飛び乗って、仕事に向かったところ、工事渋滞・・・。
で、寸暇を惜しんで、パソコンのスイッチを入れたところ、この日に限って、フリーズ・・・。
で、食欲はまるで無いけど、こういうときは、「山かけうどん」・・・と、フラフラしながらうどん屋に行ったら、「すみません、お客さん、山かけが終わったんですよ」と・・・。
で、講演会場に着いて、その前にATMに行こうと思ったら、こちらも、もの凄い行列で、「すみません、もう、時間が・・・」と言われ、断念・・・。
何なんだ、このツキの無さは・・!と。
縁起でもない・・・と。

e0027240_1511592.jpgで、以前、サッカー・ワールドカップの時期に、平太郎独白録 「ワールドカップ日本代表にみる勝負事にツキはツキモノ!」の中で、サッカー日本代表の守護神、川口能活選手について述べたと思うのですが、覚えておられますでしょうか?
川口選手は、大変、よくやっていると思う・・・と。
でも、彼はゴールを守ってからは、ワールドカップでは日本は一勝もしていない・・・という点で、彼にはあまりにも「ツキ」がない・・・と。

(←アビスパ福岡の本拠地、博多の森陸上球技場です。先日、新潟人連れて行ったら、あっさり、グラウンドに入れましたね(笑)。)

で、こういうツキというのは、意外と大事で、智将と呼ばれ、合理的な思考法を球界に持ち込んだ故三原 脩氏は、自身が、戦場で、落とした物を拾おうと、かがんだ瞬間に隣の戦友の頭撃ち抜かれたという経験を持っていたことから、その采配においても、「ツキ」というものを重視したと・・・。

また、日産の創業者、鮎川義介氏は、その成功の秘密を聞かれて、「私は運が良かった。」と言ったというし、実際、私も、「あの人は、大変よく、やっておられるんだが、しかし、どうにも運がない」と言われるような人を知っている・・・というような内容でした。
ちなみに、残念ながら、日本代表は、この中で、私が危惧したとおりの結果に終わってしまったわけですね。

で、続きは明日のココロだ~ということで、宜しく、ご理解下さい。
                            平太独白
by heitaroh | 2006-11-29 01:07 | 社会全般 | Trackback | Comments(6)

初体験!ピアノ・ソロに想うニューヨークのため息の限界。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_15312181.jpg先日の日曜、知人から誘われていたこともあり、生まれて初めて、ピアノソロ・リサイタルなるものに行ってきました。
その音色の美しさから「ピアノの画家」とも形容される加古 隆という人物のものだったのですが、この人は、映画、「阿弥陀堂だより」(2002年)や「博士の愛した数式」(2006年)などの映画で、音楽を手がけられた方だそうですが、私はそれらの作品は見ても居ないし、当然、まったく知りませんでした。
どうにも私は、「血が流れない映画」には興味が湧かない人間でして(笑)。
(「阿弥陀堂だより」に関しては、以前、知己より、「大変良い映画だ」ということを聞きましたので、いずれ見ようと思って録画しておいたのですが、機械がぶっ壊れまして、結局、見ておりません。)

で、それがなぜ、知人に誘われたからとは言え、思い立ったかというと、加古 隆という人は、1995年にNHKで放送された(もう、一昔前なんですね・・・(汗)。)NHKスペシャル『映像の世紀』でのテーマ曲「パリは燃えているか」を手がけられた方だと聞いたからでした。
この曲だけは、まあ、映像ということもあったのでしょうが、それなりに印象に残っておりました。

で、まあ、感想というよりも結論から言うならば、やはり、私は門外漢だったようです(笑)。
酒が入っていたら、間違いなく、寝ただろうなと・・・(失礼!)。
ただ、初めてでしたから、それなりに、新鮮ではありましたよ。
私がまず思ったのは、アンコールなんかはどうするのかな・・・ってことでした。
普通のコンサートのように、「アンコール!アンコール!」合唱する雰囲気ではなかったし・・・。
そしたら、ピアニストが舞台袖に引っ込んでも、聴衆は声を一切出さずに拍手だけをし続けるんですね。
そしたら、また、出てくると・・・。
なるほどと・・・。

次に、曲が終わって、最後に挨拶をしているときに、「相の手」を入れるときなどは、小さな声で「見てますよぉ」なんて風に言うんですね。
小さなホールですし、シーンと静まりかえっているから、それでちゃんと聞こえると・・・。
なるほどと・・・。
でも、演奏中には入場出来ない、席にも着けない・・・のであれば、もっと、暗闇でも見えるように、席の番号を蛍光ペンで書くとか、入場前に、「あなたの席は前から何列目のどの辺りです」ってことくらい、ちゃんと教えろと言いたかったです。
真っ暗なのに、「早く席について下さい」とだけ言われ・・・。
とりあえず、この辺かな・・・ということで座って、当たってたから良かったけど、「ここ、私の席です」なんて他の人に言われたら、休憩で明るくなるまで席はわからないわけで・・・。
「うろうろしないで下さい」なんて言われた日にゃあ、係の兄ちゃん、怒鳴りあげてましたよ。

でも、見てるうちに、ふと、思いましたけど、この人たちも大変だよなーと・・・。
人間なんだから、体調の良いときもあれば、悪いときもあるんだろうし・・・と。
があって、意識朦朧としてても、その日のコンサートは、きちんとこなさなきゃならないんだろうし・・・。
スポーツ選手などと違って、割と年とってもやることはやれるんだろうけど、あと何年、あの指の動きが出来るのかなーなどと考えているうちに、去年だったか、ヘレン・メリルのステージをブルーノート福岡へ見に行ったときのことを思い出してしまいました。
あの世界中を魅了した妖艶な歌声を期待して行ったのですが、かつての「ニューヨークのため息」も、御年76歳・・・。
大変失礼ながら、寄る年波には勝てず・・・でしたね。
かなり、足元もおぼつかない様子でしたし、何より、声量が・・・。

加古さんも、ただ、演奏すると言うだけなら、ともかく、「ピアノの画家」と呼ばれるほどの指先の動きがあと何年出来るのか・・・と思った次第でした。
まあ、名演奏を聴いている最中に、こんなことを考えるやつにゃあ、所詮、文化って物は縁がないってことでやしょう・・・。

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by heitaroh | 2006-11-28 01:22 | 文学芸術 | Trackback | Comments(0)

バルトの楽園12 収容所誘致運動
親愛なるアッティクスへ

e0027240_14514429.jpg徳川家康という人は、織田信長豊臣秀吉のような残酷なことはあまり、しなかった人ですが、それでも、そこは戦国武将ですから、いくつかはやってます。
中でも、晩年、気に入って居城にしていた駿府城火事で焼けて、やっと再建したと思ったら、また焼けたときは、さすがの家康も、烈火の如く怒って、女中を何人か死刑にしています。
(←駿府城は現在、公園になっていて何もありませんので三河豊橋吉田城です。吉田城は、安藤広重東海道五十三次の中で、城の工事足場から職人が景色を見ている絵で有名なところですね。本当は、豊橋の話をしたときの為にとっておこう・・・と思ってたんですけど。時間も経ったし、もう、いいかなぁ・・・と。)

で、ここで言いたいのは、徳川家康が女中を殺したこと・・・ではなく、静岡と言うところは、元々、火事が多いところなんだなということです。

で、先般来、述べております大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」でも、静岡での火事についての記述がありました。
第一次大戦でのドイツ人俘虜が日本に来る少し前にもやったらしく、同書曰く、「火事の後、静岡市民の志気沈滞している。こういう時期こそ収容所を回していただければ大いに志気上がることと存じますという請願書を出し」たとか。
結果的に、その請願の通りに、収容所は静岡に来たそうなのですが、これは、少し意外でした。
米軍基地移転問題などを思い浮かべるまでもなく、原発ゴミ処理場など然りで、皆、その必要性は認めながらも、いざ建設地の選定となると、途端に総論賛成各論反対で、一向に進まないのですから・・・。

なぜ、そう言うことになるかというと、俘虜収容所というのは、考えてみれば、そこに3000人の俘虜が収容されると言うことは、3000人の小さな町ができるのと同じなんですよね。
となれば、そこはちょっとした消費地なんですよね。
しかも、以前も触れましたとおり、彼らは、収容期間中も給与を受け取ることが出来、労役などの報酬も得られるわけで、となれば・・・。
で、日露戦争の経験で、どうも、彼らが来ると、彼ら相手に品物売れるし、受け容れ施設は「公定家賃」を受け取ることができる・・・ということを、市民も行政も知っていたようですね。
その為、第一次大戦により、チンタオで多くの俘虜が捕まったというニュースが流れるや、日本各地で県会議員、知事、市長が自ら招致運動に乗り出し、受け入れ施設などは首を長くして待っているような事態になったとか・・・。
まあ、原発ゴミ処分場・・・というよりも、サッカー・ワールドカップのときのような感じだったのでしょうか。
懸念は、治安だけでしょうが、その点は、日本の軍隊が守ってくれるとのこと・・・。
となれば・・・ですよね(笑)。

また、収容所内によっては印刷所があり、そこで機関誌なども発行していたようで、となれば、使っただけでも相当な量です。
そのほかいろんな物を作り、その材料も消費したとか・・・。
「もっとも、原始的な貨幣活動は収容所で派生する」とかいう言葉を聞いたことがあります。
最初は、物々交換が面倒くさくなって、タバコが貨幣の代わりをするとか・・・。
ところが、これまた、実際に、当時のドイツ人俘虜収容所では、国際条約によって一定限度であるとはいうもののタバコが免税で入ってきていたのだそうですね。
一定限度というところが、実にいい!
通貨供給量が入所者の自由にならないわけですから、品物さえ、ちゃんと供給されれば、インフレの心配もないでしょうしね(笑)。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-11-27 01:49 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

博多駅前史 その15 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅱ
親愛なるアッティクスへ

e0027240_12385068.jpgついに、11月最後の土曜日となりました。
ということで、これまでも、色々と述べてきました博多駅地区土地区画整理ですが、昭和38年12月博多駅は現在地に、無事、開業に至りました。

(←博多駅前広場です。)

ちなみに、当時、私は2歳半ですから、当然ながら、このときのことはまったく覚えておりません。
つまり、物心着いたときには、もう博多駅ビルがあったということですね。

ただ、駅自体の移転は完了しても、周辺市街地の整備はまだ進行途中だったようで、現博多駅前3丁目一帯にあたる下人参町、中人参町、末広町、平松町、松田町、明治町などに換地処分が施行されたのは昭和43年春4月のことでした。
この日は、結構、鮮明に覚えています。
なぜなら、拙宅が換地処分により転居したのが、ちょうど、私が小学校一年に上がった日だったからです。
つまり、幼稚園までは旧宅から通い、小学校は新居から通ったと・・・。
ちなみに、この昭和43年4月を境に私の記憶はカラーになっております。

で、一夜にして町が変わったと言っていいほどに、この区画整理というのは地元民にとっては革命にも匹敵するような大事件だったわけですが、当時、私が子供心にも印象に残っているのが、この区画整理に伴って、新たに登場してきた公園という物の存在でした。
それまでは、まあ、区画整理が進行中と言うこともあったのでしょう、下人参町時代の私の周りにあったのは、「公園」ではなく、「空き地」でした。
でも、「公園」という新時代の空間は、空き地のように、でこぼこでもなく、水たまりもなく、草むらもない。
そこは、樹木はきれいに整備され、トイレはある、は出る、そして何より、ピカピカの遊具施設がありました。
「日本の未来は明るい!」と・・・(笑)。
もっとも、今となっては空き地が恋しい限りですけどね・・・。

そんな子供の心を沸き立たせた公園ですが、日本の近代公園の歴史は、明治6年太政官布告まで遡るそうで、この区画整理でも、地区内に新たに14の公園が設置されました。
これは、区画整理法により、「域内面積の3%を公園に宛てなければならない」となっていたからだそうですが、結果的に、3%は確保出来なかったようで、やむなく、近くに神社などの森林があるからいいか・・・ということになったと言います(笑)。

で、それら新公園の名称をつけるに当たっては、当時、区画整理と鉄道後退のために「町界町名の整理変更」が行われることになっており、従って、今まで親しまれてきた町名、字名が消えるのは、やはり、「一面さびしさも湧いてくるのは、人情のしからしむるところ」でもあり・・・で、これら旧地名を公園名として残そうということになったそうで、公園設置個所の町名、字名を取って公園の名称とすることとなったとか。
これにより、拙宅付近の公園は明治町にあったから「明治公園」となり、現博多駅前4丁目にある公園は「人参公園」という名前になったのですが、ただ、ここを「人参公園」とすることには、私としては甚だ違和感があります。
なぜなら、この人参公園がある場所は、上人参町・中人参町・下人参町とあった中で、上人参町の、それも、かなり町界の端にある、言うならば、人参町地区の中では、一番、辺境と言って良い場所でして、その為、ここをして、「昔、この辺は人参町と言ったんだよ」と言われるのは、下人参町の人間からすると、「ちょっと待てよ」と言いたくもなろうというものでして・・・。
まあ、今となっては、このこだわりを持っているのは私だけなんでしょうが・・・(泣)。
                                         平太独白
by heitaroh | 2006-11-25 08:38 | 地域 | Trackback | Comments(0)

伊吹大臣からの手紙と花神にみる教師としての吉田松陰。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_1336290.jpg←以前、伊吹文明文部科学大臣からお手紙が来ました。
噂には聞いてたけど・・・。
まあ、伊吹さんという人のお人柄が伝わるような暖かい文面だなと思いますね。
子供たちに、思いが伝わることを祈って止みません。

でも、これって、日本中の小中学生全員に配ったのなら、いくら少子化の時代とはいえ、紙代、印刷代だけでも、一体、いくらかかったんだという気も・・・。
まあ、子供たちの命には替えられないんでしょうけど。

e0027240_13364851.jpgちなみに、私は小学校1年の頃は、成績はまずまずでしたが、二年生からは通信簿には見事に「1」「2」しか並んでませんでしたね(笑)。

まあ、無理もないことで、当時(今も?)、学校教育という物にはなじまない人間でしたから。

一例を挙げると、小学校1年か2年かの時に、国語で、「書き順」をまったく覚えようとしないということで、先生から叱られたことがあります。
私は、「目的地に行くことが目的であって、どこを通っていっても目的地に行けばいいんでしょ」という意味のことを言った記憶があります。
でも、これって、今、ちゃんと書き順を覚えていれば、昔の古文が読めるんですよね。
昔は、今と違って、筆で書いていく続き字ですから・・・。
何で、あのとき、先生は「ふざけた子供」という烙印を押さずに、書き順を覚えることの意義を説明してくれなかったかな・・・と。

で、それを見て、少し思ったことがあるんですが、(ひょっとしたら、以前、言ってたらごめんなさいなのですが、)昭和52年放送のNHK大河ドラマ「花神」というのがあるのですが、ご存じでしょうか。
いつも、これを見終わると、毎回、「俺は一体、何をしているんだぁ!」という悔恨の念で、不覚にも落涙仕り候です。
「花神」とは中村梅之助主演で大村益次郞の生涯を描いたモノですが、それよりも、この中に出てくる篠田三郎演ずるところの吉田松陰絶品です!
何度見ても泣きます。
最近ではテーマ音楽だけで泣きます(笑)。
配役も桂 小五郎以外、実際の人物とよく似ている人を使ってますので、子供に教科書代わりに見せても良いくらいです。
ただ、中村雅俊高杉晋作だけはいただけません。
どうみても、新春隠し芸大会です。

で、私がここで言いたいのは、その「花神」の中で、初めて、高杉晋作が、志垣太郎扮する久坂玄瑞に伴われて松下村塾にやってきたときのシーンについてです。
高杉が名刺代わりに差し出した漢詩を見て、松陰は一言、「久坂君の方が優れています」と言います。
それを聞いて、食ってかかる高杉に対し、言うセリフがこれです。

「私も学問を学びつつある人間の一人です。が、何が本物で何が偽物であるかは、はっきり言える。貴方の持つ優れた直感力、独創性・・・、確かに本物です。
だが、学問の裏付けがなければ、ただの気まぐれ、独りよがり・・・。貴方は一個の乱暴者にすぎなくなる。
貴方が乱暴者で終わるか十年後に大を為す者になるか、それは貴方自身が選ぶべきことです・・・。

・・・こんなこと言われたら、学年有数の劣等生だった私だって、「勉強しよう!」って気になりますぜ。
もう少し、足元をごらんなせぇな、伊吹先生・・・。
                                      平太独白
by heitaroh | 2006-11-24 01:41 | 教育 | Trackback(1) | Comments(13)

松下電器のマネシタをやらない床屋の怠慢。
親愛なるアッティクスへ

あ ろんぐろんぐ あごー な話で恐縮すが、当時、まだ私が学生の頃だったと思うのですが、近所の床屋のオヤジが、「自分の髪は他所で切ることなく職人たちの練習台にさせている。俺は、ここまで、経営努力をしている」と言うのを聞いて、内心、「あほか!」と思ったことがあります。

以前、平太郎独白録 「幻の都 安土をゆく その2 SAGA滋賀♪って違うか・・・。」の中でも触れたことですが、かつて、高崎達之助翁(元通産大臣)が大阪に赴任してきたとき、阪急の小林一三氏の知遇を得たことから、折角だから・・・ということで、職場の近くで阪急が分譲していた住宅の購入を申し出たところ、氏から、「君は存外バカだね。」と言いわれたと。

曰く、「初めて大阪で仕事をするからには、大阪の空気を知らなければならん。それなのに、大阪の北郊に住み、北区の工場に通勤していて大阪がわかるかね?君の仕事場が大阪の北なら、君の住居は南におき、朝夕の通勤に大阪を知るくらいの頭がなくては仕事ができないよ」というものでしたが、その論で行けば、この床屋も、自分の髪は、勿体ないなどと言ってないで、他所の床屋に行け・・・と。
行って、他所の床屋がどういうことをやっているか、技術的なことはもとより、店の作り、気配り、システムなど、しっかり見てこいと。
組合などで、が割れているのであれば、電車賃使ってでも知らない町の床屋に行くべきであり、あまりにジロジロ見るのもおかしいなら、商売人なんだから、目をつぶっていてもわかるだろうと・・・。
要は、参考にしたいと思うテーマを持って臨んでいればいいだけの話であって・・・。

ついでにいえば、視察旅行なども、ただ、漠然と行くのではなく、具体的に、「こういうところはどうしているのだろうか?」というテーマを持って行くべきだといいますよね。
思えば、戦後、高度成長を支えたのは、「どうしてもここから先がわからない」と苦しんだ挙げ句に視察に行った経営者たちだったわけで、本田宗一郞さんなどは、ポケットに、思い切り、ビスなどの部品を詰め込んで帰ってきた為、現地の空港で、重量オーバーを指摘されたとか。
(当時は、まだ、ハイジャックが起きる前で、金属探知器などはない代わりに、一人当たりの重量制限があったようですね・・・。)
本田さんは、このとき、太ったおばさんを指さし、「あのおばさんは、荷物を持って無くても俺より重い!」と主張し、無事、日本にそれらの部品を持ち帰ることに成功したといい、このとき、持ち帰った部品が、その後のホンダ発展に大きく寄与したといわれています。

で、話を本題に戻すならば、昔、ソニーなどが新製品を出すと、松下幸之助率いる松下電器は、すぐに、これを入手し、すかさず、分解して、どういう技術を使っているかを解明し、自社の製品に応用したといいます。
マスコミなどは、 この松下電器の姿勢を「マネシタ電器」と揶揄しましたが、しかし、これは、むしろ、やるべきことの最低限のことをやっていたというべきで、むしろ、それさえもやらないことの方が怠慢だと思います。
私に言わせれば、自社にはない他社製品が出れば、特許の絡みなどがない限り、松下電器のように、すぐに自社製品に反映するのが当たり前であり、「よそがどういうサービをやっているのか知りません」というのは、どこやらの床屋と変わらぬ怠慢レベルだなと思いますが、如何でしょうか、御同輩。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-11-22 08:02 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)

意思を的確に伝える手段としての牧野の声の巻
実は、私は声が特徴的なようで、(自分ではまったく、そうは思わないんですが)いわゆる、「声が通る声」のようで、おかげで、迂闊に悪口も言えません。
一度、ある業界紙の老編集長さんを囲んで一席・・・ということがあったとき、話が長いので、隣の人に、ぼそっと、「長い」と呟いたところ、いきなり、その編集長さんから、「すみませんねぇ!若い人!」と声を掛けられました(笑)。
目の前が真っ暗になりました。

ということで、本日は「声」についてです。
スポーツ選手と声というのは、一見、何も関係がないようですが、実は大ありです。
昭和60年の日本シリーズのとき、普段、ガラガラの静かなところで試合をしている西武の選手は、阪神ファンの地鳴りのような応援に不慣れで、石毛宏典選手は打ち上げたショートフライを捕ろうとして、他の選手と激突!
チームリーダーのケガもあり、そのシリーズを落としてしまいました。
「オーライ!」と言っても聞こえない現実への対処ノウハウなど無かったんでしょうね。

そんな状況の中で集団競技というのは、意思や指示を的確に仲間に伝えなければならないわけですから、「声」というのは思っている以上に見逃せない要素なわけです。
その意味で、特筆すべきが、V9巨人を支えた名参謀、牧野茂コーチです。
牧野さんという人は、V9期間中は、すべて、実際の指揮を執っていたというほどに、智将として知られた人でしたが、一方で、独特のをしていたことでもしられていたそうです。
満員の観客の応援の中、他のコーチが外野に指示を出すのに拡声器が必要だったときに、牧野コーチだけは、普通に指示が出来たと言います。
牧野氏の声は、独特の声だそうで、あまり、横に拡がらないで、一直線に対象物へ届くのだとか・・・。

e0027240_11553310.jpgそう考えれば、戦場などでは、歓声どころか、鉄砲や大砲、ドラや太鼓などのもの凄い、騒音だらけなんですから、兵隊に的確な指示を伝えるのは大変だったでしょうね。
いくら、素晴らしい作戦指導ができても、それを実際に部隊に伝えられなければ意味がないわけですから・・・。

(↑川中島古戦場跡に建つ上杉謙信武田信玄一騎打ちの銅像。ま、創作だそうですけどね。)

ちなみに、私も似たような声をしてますが、ガラガラの神宮球場ではよく通りましたが、満員の福岡ドームではまったく届きません。
嗚呼、無情・・!
                             平太独白

by heitaroh | 2006-11-21 08:11 | スポーツ | Trackback | Comments(2)

瀬島龍三にみる 10のものを10発揮する努力。
以前、どこかで述べたかも知れませんが、いつもの手前勝手な持論を言わせて頂くなら、「私の拙い経験の中での話で恐縮だが、企業の中で、10の力10発揮しているところは少ない。多くが、10のうちくらいの力しか出し切れていないように思う。であれば、10のものを12にしようと努力するよりも、のものをにしようとする努力の方が、よほど、実現が用意なのではないだろうか・・・」というものがあります。
平たく言えば、「10のうち、7しか力を発揮してない組織に9の力を発揮させようとする努力」だと言えるでしょうが、そういうと、「じゃあ、具体的にどういうことを言うんだ!」とお叱りを頂戴するかも知れません。
で、具体的に、その一例として挙げるのが、元帝国陸軍大本営参謀から、伊藤忠商事最高顧問に転身し、土光臨調の参謀長にまで登り詰めた瀬島龍三という人がいますよね。
この人を「偶像化」したのが、山崎豊子氏の小説『不毛地帯』で、その主人公のモデルに擬されたことだと、保阪 正康著 「瀬島龍三―参謀の昭和史」などでは言われています。
つまり、現実の瀬島龍三という人物は、必ずしも、「不毛地帯」に出てくるような君子ではなく・・・ということが書いてありましたが、私も、この本を読んだ当時、(もう20年以上前のことですけどね。)「ここに書かれていることの方が真実なんだろうな」という気がしたのを覚えています。

この人は、伊藤忠入社後、帝国陸軍参謀本部を模した「瀬島機関」と呼ばれる部署を作り、自ら、それを率いて、伊藤忠を総合商社に育て上げていったことは周知の通りでしょうが、一方で、私が学生時代に大いに影響を受けた元陸軍参謀で兵法評論家として知られる大橋武夫氏は、当然ながら、氏とも交流があり、「不毛地帯」で描かれたところの第三次中東戦争における情勢分析について、その圧巻として述べておられました。
曰く、「①イスラエルが勝つ ②短期間で終わる ③スエズ運河は閉鎖される」と。
当時、大方の予想は、すべて、その逆であったにも関わらず、瀬島氏はこれをすべて的中させたそうですが、中でも特に人々を驚かせたのが、③を的中させたことだったそうです。
①と②は、ある程度、軍事的な知識を持った人なら、まあ、わからないでもないと言いますが、③は、さすがに、誰も予測出来なかったとか・・・。
瀬島氏に、それが予測出来た秘密こそ、この稿の本旨なのですが、それはむしろ、「人の気持ちなどわからない」と言う観があるエリート参謀の出で、伊藤忠入社後も、企業内参謀本部を作った男の発想とは思えない着眼点でした。

氏は、伊藤忠商事に入ってすぐに、トントン拍子で出世していったわけですが、副社長だったかになったとき、彼は、自ら、世界中の伊藤忠の支店、営業所を廻ったのだそうです。
中には、アフリカなど、あまりに辺鄙な場所で、存在自体、忘れられたかのような営業所などもあったそうですが、瀬島氏は、ちゃんと、そこの駐在員を訪ねて廻ったと言います。
でも、訪ねて来られた方としては、突然、そんなところへ、本社のお偉いさんが訪ねてくるなんて、「何かあるんじゃないのか!」と、当初、疑心暗鬼になって、これを迎えたそうですが、粗末な駐在所で共に夜を徹して話し込み、日本から持ってきたを酌み交わすうち、段々と、皆、心を開くようになったとか。

彼らにしてみれば、一番、耐えられないのが、「自分は忘れ去られている」と思えることだったでしょう。
本社にどんな情報を送っても本社からは何も言っては来ないし、来るはずの交代要員も来ない・・・。
これでは、「俺は忘れられて居るんじゃないか・・・」という気持ちにもなろうというもので、それは即ち、商社にとって命綱とも言うべき情報の末端神経機能不全を起こすことを意味するわけです。
瀬島氏は、彼らに、「何を言ってるんだ!会社は、おまえを頼りにしているんだぞ!」と言い、あるいは、「心配するな!本社に、この瀬島が居る限りは・・・。」みたいなことも言ったでしょう。

これで、奮い立った、これらの営業所から送られてきた情報を基に、瀬島氏は第三次中東戦争を分析し、伊藤忠に莫大な利益をもたらしたわけです。
10のものを10発揮させる努力・・・、おわかり頂けたでしょうか。
                                           平太独白

by heitaroh | 2006-11-20 01:19 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(4)

博多駅前史 その14 博多駅移転区画整理想い出編 Ⅰ
親愛なるアッティクスへ

ここしばらく、この自己満足シリーズを休んでおりました。
決して、終わったわけではなかったという・・・。

なぜ、飛ばしたのか・・・。
そうです。
ご賢察の通り、またまた、せっかく書いたのが消えちゃいました。
それも、想い出編ⅠとⅡの2つも・・・。
いいモノ書き上げてたんですけどねぇ・・・(泣)。

e0027240_11103861.jpgで、ご承知の通り、なーんか、モチベーションあがんない時期でしたから、記憶も甦らないし、面倒くせえなぁ・・・で、翌週・・・。

でもって、また、空いちゃうと、もう、なんだかなぁ・・・って感じで、また翌週・・・で、それが、二回、三回、四回と・・・(汗)。

ま、どうせ、自己満足シリーズですから・・・。
で、ぼちぼち、気を取り直して、今日からは、私が実際に見てきた博多駅地区土地区画整理事業というものについて、触れてみたいと思います。

まず、この区画整理について、私が語らなければならないのが床下浸水です。
元々、この地方は、平太郎独白録 「博多駅前史 その9 昭和 博多駅移転区画整理編 Ⅱ」の中で触れましたように、中世以前は那珂川・四十川(現、薬院新川)という二本の川が注ぎ込む入江だったようで、その後、陸地となってからも、すり鉢の底状の地形であることは変わらなかったようで、私が子供の頃などは、ちょっと、大雨が降ると、すぐに床下浸水になっていました。
床下に、ゴウゴウと流れ込んでいく水量は、子供心には、とても、魅力的で、中に入りたい!と思うのですが、そのたびに、大人から叱られてました。

e0027240_119581.jpg←現在の博多駅前の地層
明らかに上の方は、砂利石が入れられているのがおわかり頂けると思います。
それから、少しわかりにくいのですが、下の方には割れた陶器片などが見えるかと思います。
底までの深さは、80cmだそうですから、つまり、場所にも寄りますが、かつての下人参町時代の地盤は、現在の地面より、80cm下にあるということで、逆に言えば、これだけの高さ、土を入れた・・・つまり、盛り土をしたということですね。

先年、博多駅水没した映像は記憶に新しいと思いますが、あのとき、幸いにして、うちは浸かりませんでしたが、それは、元々、これだけ、盛り土を入れ、嵩上げした部分だからのようです。
その辺を、端的に表す数字があります。
区画整理区域内で、その最も低かったところが、西部に位置する鉢の底川(今のキャナルシティ脇)付近で標高約2.5m
域内で最も高い南東部が約5.5mですから、高低差は3mもあったわけで、降雨出水のたびに浸水を見ていたのもむべなるかな・・・という感じですね。
うちの辺りは、床下浸水で済んでいたからいいようなものの、もっとも低い、河口付近は生命の危険さえあったでしょう。

その為、この低地をどうするかということになったとき、全面盛土して嵩上げする方法と、現況のままにしてポンプ排水する方法とが検討されたようです。
さすがに、河口から離れた当家付近では、「盛り土」ということになったのでしょうが、河口付近では、このとき、既に区画整理に先立つ昭和29年向島ポンプ場が設置されており、これを強化することで、十分、将来の都市排水には対応出来るという判断が下されたことから、これを利用する案が一番、有力となったとか。
ところが、このポンプ場は、区画整理の区域外であった為、区画整理の一環としてのポンプ施設の改良強化可能かと言うことが問題として浮上してきたとかで、実際、建設省区画整理課からは「都市改造の範囲を逸脱している」という指摘も出たと言います。
結局、色々と福岡市側が働きかけた結果、建設省も折れ、このポンプ場が強化されることになったとか。
ちなみに、このポンプ場は、私も何度か仕事で立ち入ったことがありますが、現在でも、立派に稼働しておりますです。
平太独白
by heitaroh | 2006-11-18 08:15 | 地域 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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