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オリンピック招致その5 候補都市決定日にみるアクセス問題。
親愛なるアッティクスへ

遂に、オリンピック国内招致都市決定しましたね。
まあ、なるようになったということでしょうか。
とにかく、東京に決まって良かったです(笑)。
福岡では、とにかく、荷が重かったですね・・・。

もっとも、元々、出来レースだっととは思ってたましたけどね(笑)。
だって、JOCの人たちって、どこに住んでるんですか?
愛着以前に、福岡に馴染みのある人なんて、殆ど、いないでしょうし、福岡市長にした所で、元々、市議上がりですから、中央への影響力なんて殆ど無いから、石原都知事からは、最後まで軽く見られてたし・・・。

ちなみに、8月30日は、あのクレオパトラが死んだ日だそうですね。
何とも、縁起がいい日です(笑)。
後は、まあ、頑張って下さい、東京都さん♡

まあ、福岡市の場合、福岡ソフトバンク・ホークスの本拠地、福岡ヤフードームもそうなのですが、アビスパ福岡の本拠地である博多の森球技場も、先日から、平太郎独白録 「オリンピック招致その3 その是非に見る日本のスポーツは見る物。」の中でも触れましたマリンメッセ福岡にしても、福岡国際センターも・・・、福岡市にある競技施設は、大半があまりアクセスが良いとはいえないんですよね。
(ドームなんかは、海沿いなので、道も限られてるから、大渋滞・・・。ドーム内の駐車場から出るだけで4時間かかったなどいう話も・・・。)
やたら、箱物を作ることには熱心なんですが、アクセスと言うことについてはあまり、思い至らないようで・・・。

そう言えば、以前、パ・リーグ会長さんが言ってましたが、「セ・リーグの球場は、どこも、結構、いいアクセスにあるのに、パ・リーグの球場は、どこも、アクセスがあまり良くない。大阪ドームの落成式に呼ばれたので、新大阪からタクシーに乗って、『大阪ドームまで』と言ったら、運転手さんから、『大阪ドームってどこにありまんの?』と・・・。で、地図見たり、色々、無線で探してもらったりして、やっと辿り着いたけど、『どうして知らないの?』と聞いたら、『わてら、そんなところ、行かしませんねん。』と。」だそうです。

e0027240_17195489.jpg思えば、上述の福岡ヤフードーム(←)でも、地下鉄降りてから15分歩きですよ。
(もしくはバスですね。)

それから、西武ドームだって、結構、遠いし、千葉マリンスタジアムも遠いですよねー!
札幌宮城は知りませんけど。

それに対して、セの球場はアクセスいいですよねー・・・。

東京ドームなんて、地下鉄JRも・・・って盛りだくさんだし、神宮、横浜、甲子園、広島・・・、皆、それなりに然りじゃないですか。
ナゴヤドームは知りませんけど・・・。

で、話は戻りますが、オリンピックと言えば、私も、社会人になったばかりの頃、「東京オリンピックを覚えていない」と言ったら、結構、絶句されたものです(笑)。
それが今や、大阪万博オイルショック・・・どころか、バブルも知らない世代がいるわけですから・・・。

ちなみに、東京オリンピックの時、私は3歳
東京にいたなら、覚えてもいるのかもしれませんが、地方にいる身としては、まったく、覚えておりません。

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by heitaroh | 2006-08-31 00:02 | 時事問題 | Trackback(3) | Comments(4)

バルトの楽園が福岡では・・・その4 久留米俘虜収容所編。
以前、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・前編。」と、同じく、平太郎独白録 「バルトの楽園が福岡ではザルデルン夫妻の悲話・後編。」で申し上げたことの続きなのですが、実は先般、第一次大戦中ドイツ兵捕虜収容所について書かれた大著、「板東俘虜収容所―日独戦争と在日ドイツ俘虜」を読み終えました。

e0027240_10363574.jpgちなみに、ザルデルン夫人殺害事件の現場となった簑島ですが、現代の住居表示では、福岡市博多区美野島になっており、簑島という名前は、わずかに廃線になった国鉄の駅跡(←)に残るのみです。

ちなみに、私は高校時代、これで通学していました。
当時の国鉄筑肥線です。

ちなみに、JR筑肥線自体は今でも残っているのですが、福岡市の中心部では、地下鉄が出来たときに廃止され、今では、福岡市西区から先のみで存続しており、一部は地下鉄に乗り入れております。

で、この本を読んで、私も初めて知ったのですが、映画「バルトの楽園」だけを見ていると、すべての収容所が、すべてにうまく円滑に運営されていたかのような印象を受けていましたが、やはり、現実にはそんなわけはなく、当時の捕虜たちが、後に、日本各地に設けられていた収容所のランキングを付けているそうなのですが、それによると、当然、ベスト1は言うまでもなく、「バルトの楽園」の舞台となった德島の板東収容所ですが、では、ワースト1は・・・というと、これは、堂々、我が福岡県の久留米収容所で、ここは、日本各地の収容所の中では、もっとも、人数が多く(次が板東収容所だったそうです。)、こちらは、「バルトの楽園」とは対照的に、後年、「日本のKZ」(ナチス時代の強制収容所)とまで呼ばれていたほどだったとか。
所長 真﨑甚三郞は所長自ら捕虜の将校に飛びかかり、これを殴り付けたとか。
この真﨑甚三郞という人は、後に、大将となり、2.26事件のときには、青年将校に対し、「骨は俺が拾ってやる!」などと、散々、たきつけておきながら、クーデターが失敗した途端、「あれは、あいつらが勝手にやったことだ。」と言った人ですから・・・。
まあ、何をか言わんやでしょう・・・。

また、久留米収容所の所長は、他にも、捕虜たちから「ひどく恐れられた」真野少佐、続いて、ドイツから帰国した林銑十郞中佐が任命されています。
ちなみに、林銑十郞という人は、後に総理大臣にまで登り詰めたものの、在任中は目立った功績もなく、「何にもせんじゅうろう」と揶揄されて終わっています。
もっとも、彼も若い頃は、いい悪いは別にしても、独断専行での果断な対応をし、罪に問われそうなるや、白装束で乗り込む・・・などという、伊達政宗張りのパフォーマンスを見せたこともあったんですけどね。

いかに、人間、地位の上昇と能力は反比例していくか・・・の見本だったのかも知れませんが、真﨑所長といい、真野所長といい、最後の林所長といい・・・、まあ、よくも、そういう所長ばかり、久留米に揃えたものだ・・・と。

で、このシリーズは、まだまだ、続く~のココロだ~♡
                              平太独白

by heitaroh | 2006-08-30 08:35 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

福岡市 車転落事故に想う、まさに好事魔多し、自重すべし。
親愛なるアッティクスへ

去る25日、同じく、この志賀島と人工島との間にある「海の中道大橋」で、家族5人の乗った車が追突されて、海に転落し、幼児3人死亡した事故がありましたよね。
まず、この点では、私は、以前から、シートベルトというものも善し悪しだな・・・とは思ってました。

昔、私は軽トラの屋根の上に材木を積んで走っていたことがあったのですが、信号で止まって、ふと、ミラーを見ると、材木を縛ってない・・・(汗!)。
つまり、材木は何も固定されず、車の屋根の上に、置かれたままの状態でそこまで走ってきたわけですね。
「あ!」と気づいて、信号で止まっているうちに直さなければ動き出したときに材木が滑り落ちて、後続の車を直撃するかもしれない・・・。
そう思った私は、慌てて、車から降りて、ロープで縛らなければ・・・と思ったのですが、慌てているから、簡単なはずのシートベルトが外せないんですよ。
カチっと押せばいいだけのことを、焦っているから、それをするよりも、すり抜けようとするんですね。
でも、当然、座った状態で、それをすり抜けようとするのは至難の技で・・・。
しばらく、悪戦苦闘した挙げ句、結局、すり抜けられずに、ボタンを押して外しましたけど、こういう経験があったから、「もし、車が海に転落した場合」や、あるいは、「運転中に車が突然、炎上した場合」など、果たして、自分でシートベルトを外せるだろうか・・・?ということは、常々、疑問に思っていましたよ。

次に、私が思ったのは、この事件は、新聞の一面や、NHK全国ニュースのトップでも、連日、報道が為されていたという、一事故とは言えないほどの異例の扱いについてでした。
(さらに、福岡市長自らが葬儀に訪れ陳謝し、オリンピック招致決起大会も中止に追い込まれほどの波紋・・・。)
無論、私も子供がいる身。
一番、可愛い盛りでの事故でもあり、被害者の方のお気持ちを考えると、まったくもって言葉もありません。
加害者は、あまりに高く付いた「若気の至り」だったでしょう。

ただ、被害者もそうでしょうが、加害者市職員の方も、一旦、タクシーで帰宅し、それから車で出かけたそうですが、その段階で、そのちょっと後に、自分がそれほどの大事件の主役になっているなんて、考えてもみなかったのではないか・・・ということです。
翌朝は、いつものように「いやあ、昨日は楽しかった」で、普通に目が覚めるはずだったのではないか・・・ということです。
まさに、好事魔多し
つまり、加害者の若者の行為は多分に必然的な物であったとは言え、私が・・・、あるいは、私の子供が、いつ、同じように、重大事件の加害者とならないとは言い切れないということです。
軽くやったことが、あるいは、それほど、深く考えずに取った行動が、悲惨な大事故を引き起こす・・・。

「詰め寄るも かばうも共に 親心」 平太郎

で、実は、この話は、私にとっても、あまり、他人事ではないのです。
先日、歩いて帰っているとき、信号を渡っている途中で、信号が赤になったのですが、それほど、大きな道でもないことから、走らずに歩いていたら、いきなり、バイクに乗った兄ちゃんから、大声で文句言われたので、こちらも、「何かぁ!」と言ったら、向こうも降りてきたので、その場で少し小競り合いになりました。
この男の、失礼を通り越して、その、あまりに無礼な態度に、未だに怒り覚めやらず・・・なのですが、ちょっと前に、そういうアメリカ映画がありましたよね。
二人の男が、ある日、交通事故をきっかけに、片方は会社をクビになり、その腹いせに、ネット犯罪で相手の預金を全額奪ったことで、奪われた方は特別な思い入れがある我が家が競売にかかり、その結果、家を無くした方がライフルで相手を狙う・・・という、どんどん、諍いがエスカレートしていくというストーリーでした。
(見てませんけど(笑)。)

私も、この男に対して、半殺しにしてやれば良かった・・・などという妄想が頭から離れないのですが、まあ、常識で考えて、それが、いい結果をうまないことはわかりきっているわけですよね。
一時の感情に流されて、すべてを無くすようなことになってもいいのか・・・と。
映画「仁義なき戦い」の第一作で、菅原文太演ずる主人公が、かつての仲間に言うセリフがあります。

「てっちゃん、わしら、どこで道、間違えたんかのぉ。」
当時、全共闘世代は、このセリフを聞くと、皆、自分たちに重ね合わせて、泣いたとか・・・。
これらの映画の主人公たちにしても、市職員の加害者にしても、全共闘世代にしても、私にしても、バイクの兄ちゃんにしても、皆然りです。
後になって、何で、こんなことになったんやろう・・・などと思っても、後悔先に立たず・・・です。
比較的、常識人のつもりだったんですが、少し、浮かれすぎてましたかね。
何事も、とかく、好事魔多し・・・。
軽はずみな行動はお互いに自重しましょう、御同輩・・・。

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by heitaroh | 2006-08-29 08:33 | 時事問題 | Trackback(2) | Comments(4)

ガラスのエース 平松政次投手に見る投手という稼業
親愛なるアッティクスへ

以前、朝のワイドショー見てたら、張本勲氏と大沢親分がコメンテーターとして出ておられました。
その中で、甲子園での早実駒大苫小牧決勝戦を見て、張本氏が、「投手というのは、それだけ孤独で大変な仕事ですよ。だから、あまり、性格のいい人はいませんけどね」とコメントしておられたのですが、この点では、元V9巨人のスター選手だった高田 繁氏も、「投手という人種の人たちとは、お付き合いしたいと思わない。ただ、例外は小林 繁君くらい」と言っておられたのを思い出しました。
(その小林投手でさえも、子供の頃、メンコで負けたら、下駄で相手の頭を殴っていたとか・・・(笑)。)

思えば、昭和30年代の投手という人種の人たちの中では、そういう強烈な個性を見せたのは金田正一氏くらいで、杉浦忠、稲尾和久、村山実・・・と、皆、性格面で、それほど酷そうな人は見あたらなかったのに対し、昭和40年代になると、エコノミック・アニマルと揶揄された時代の到来そのままに、江夏豊、堀内恒夫、東尾収、山田久志、星野仙一、外木場義郞、木樽正明・・・と、まさしく、張本氏や高田氏の言うような気性の人たちが増えてきます。
そして、そんな時代を代表する投手の一人が、元大洋ホエールズのエース・平松政次投手です。
平松投手は、 「カミソリ・シュート」と呼ばれた切れ味の鋭いシュートを武器に、通算201勝を上げた好投手なのですが、反面、すぐに「肩が痛い」と言い出すことから、「ガラスのエース」と陰口を叩かれた人でもありました。
(でも、当時は、大事を取って、登板を回避するようなことは、今では普通にあることですし、何より、それで投げて、選手寿命を縮めるのは本人であり、であれば、それは責められないのでは・・・というように私には思えました。)

ところが、後年、私は、「ガラスのエース」というあだ名の本当の意味を知ります。
この平松という人は、その、一見、優男風の容姿からは想像も付かないような危ない人(?)で、元巨人投手だった堀本律雄さんが大洋の投手コーチ時代に、「平松には投手コーチとして、本当に泣かされた」と、当時のことを回顧しておられたのですが、曰く、「観客も少ないような試合で5回を終わって15-0などで勝ってたりすると、(つまり、勝利投手の権利が出来ると)突然、「肩が痛い」と言って、そのまま家に帰ってしまう。こちらとしては、慌てて、四苦八苦して控え投手を継投して、終わってみれば、辛うじて2点差くらいで勝利しており、結局、「勝利投手平松」となっている」・・・と。
驚くべき、エゴイストですよね。
まあ、張本さんの言を待つまでもなく、投手という、一人で矢面に立たねばならないような立場は、こういう人でないと務まらないのかもしれませんね。

ちなみに、広島の達川光男捕手が、まだ、駆け出し時代、打席に入った平松投手に対し、「平松さん、打たせて下さいよ」とマスク越しに言ったところ、「うるせぇ!ザコ!」と一喝され、何も言えなかったとか・・・。
まあ、確かに、あまり、お近づきになりたい人たちではないようですね(笑)。
                     平太独白
by heitaroh | 2006-08-28 01:46 | スポーツ | Trackback | Comments(23)

博多駅前史 その6 戦前昭和編 東部区画整理組合
親愛なるアッティクスへ

さあ、このシリーズ、時代は、いよいよ、大正から昭和へと移ってきました。
そして、注目すべきは、この頃より、博多駅移転問題が俎上に上がり始めたことです。

まず、博多駅自体の流れを時系列的に著しておきますと、明治22年(1890年)に九州鉄道の駅として完成した博多停車場ですが、完成して10年も経たないうちに、早速、手狭になったようで、拡張の必要性が叫ばれるようになったとか。
で、明治42年(1909年)に、当時としては、天文学的とまで言われた12万円の大金をかけて一新され、拡張改築された二代目博多駅ですが、これまた、福岡市の発展に追いつけなかったようで、拡張から10年も経たない大正6年(1917年)には、博多駅移転拡張が新聞紙上にて提起されたのを受け、翌年には、当時の福岡市長らが門司鉄道局へ博多駅移転の為の陳情を行ったものの、国鉄側からは、あまり、色よい返事はもらえなかったようで、それ以上の進展はみられなかったようです。
が、ともあれ、これが、この後、戦争を挟んで、46年間に渡って繰り広げられる博多駅移転区画整理の嚆矢となります。

で、この動きは一旦、忘れられたかに見えたものの、水面下では止むことなく続けられていたようで、ついに、昭和3年(1928年)5月、博多駅移転の為の、東部区画整理組合創立が決議され、昭和7年より、移転を見越した有志らによる区画整理に着手したようです。

このとき、当地(現博多駅前三丁目地域)でも、この東部区画整理に呼応してのことか、区画整理着手の前年の昭和6年、下人参畑町のうち、拙宅を含む一帯が、下人参畑町より分離して、新たに、福岡市東林寺町となっております。
ただ、分離したとは言え、町内の行事などはすべて、下人参畑町と一緒にやっていたと言いますから、実態はそれまでと何も変わらなかったようです。

e0027240_12114055.jpg(←これは、東林寺町設立記念式典の際の横断幕です。発起人の中には、私の曾祖父の名前が見えます。)

その後、昭和9年に、同地では、土地の分譲が為されたと登記簿には記載されております。
あるいは、分譲を契機に町が分離したのかも知れません。

(当時の登記簿は今と違って、納税台帳の一部ですから、必ずしも正確とは言い難いようで・・・。)
ちなみに、先述しましたように、大正12年に同地に転居してきた当家ですが、当時は建物は自前でも、土地は借地だったようです。
これは、何も珍しいことではなく、当時は、日本では、住宅というのは借地が一般的だったそうで、これを劇的に変えたのが、関東大震災だったと・・・。
つまり、震災によって、家が倒壊すると、家ばかりか、借地権自体が消滅してしまうという事態に被災者が直面することになったからです。
このとき、分譲された理由の一つには、あるいは、そういった意識の変化があったのかもしれません。

で、その後、東部区画整理組合の関係者は、博多駅移転区画整理に向け、数多の陳情を繰り返し、その努力あって、ついに昭和18年、事業費774万円をもってする都市計画決定が告示されるに至るも、折からの太平洋戦争の戦局の悪化と共に、区域決定のみで、結局、事業認可は得られないままに終わりました。

ということで、続きはまたまた、来週のココロだ~♡
                             平太独白
by heitaroh | 2006-08-26 08:10 | 地域 | Trackback | Comments(0)

自民党総裁選候補に見る総理大臣論 その2。
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

自民党総裁選を争った三人のうち、安倍氏、麻生氏ときて、最後に、谷垣禎一氏ですが、見識的には、私は3人の中ではこの人が一番、適任だったろうと思います。
ただ、見識があれば適任かというと、これまた、難しいところで、かつて、故橋本龍太郞元総理は、「俺以上に実務に精通している奴はいない。」と豪語したと言いますが、しかし、総理大臣という物は、何も住民票の取り方にまで精通している必要はないわけですね。
つまり、総理大臣とは、「思考」の機関ではなく、「決断」の機関だということです。

かつて、中曽根退陣後に総裁の座を争った安倍、竹下、宮沢・・・、つまり、安竹宮の中で、誰が一番適任か?と聞かれたある評論家は、「それはもう、宮沢さんですよ。三人の中では、一番の政策通ですから。」と答えてました。
このとき、私は、それを聞いて、「そうかぁ?」と思いました。
宮沢さんは、政策通であり、もの凄く頭の良い人とは聞いてましたが、自民党の四十日抗争のときも、一人だけ、修羅場を脱けて出張に行ってしまうような人でしたから、「政策通」であっても「胆力に欠ける」・・・というのが私の認識であり、であれば、そういう人が総理の座についても、「良い政策」を披瀝することは出来ても、それを実行することは出来ない・・・というのが、私の判断でした。
で、結果は・・・、どなた様もご記憶の通りで・・・σ(^_^;)。

ついでに言うと、宮沢さんが「平成の高橋是清」などと呼ばれて、総理経験者でありながら、再び、大蔵大臣に就任したとき、私の友人は、「これで景気はよくなる。」と言いましたが、私は、言下に、「それは有り得ない。」と否定しました。
このときの結果も、また、記憶に新しいところで、住専の処理公金を投入することを表明したものの、国民からの猛反発をくらうや、急にトーンダウン・・・。
あのとき、宮沢さんが言った方法は正しかったと思いますよ。
納得は出来なかったけど、処理としては、一番、安上がりだったでしょう・・・でも!・・・という好例ですね。

この点で、小泉純一郎氏は、それが正しいかどうかは別にして、任期中、とにかく、決断してきましたよね。
だから、「好き」という人も多かった反面、「許せない」という声もそれなりに耳にしました。
しかし、決断を先送りし、自分の任期を何事もなく終えることも可能なのです。
かつて、ある任期切れ間近の防衛庁長官は、自衛隊機が民家に墜落したとき、「あと少しというのに・・・。次の長官になって落ちてくれれば・・・」と口走ったことがありました。
「好き」も「嫌い」もいないというのは、何もしてこなかった証拠ですよ。

谷垣さんのことは、余り知らないけど、私的には、宮沢さんと同じ臭いがするんですよね。
まあ、地位は人を育てると言いますし、また、地位と能力は反比例するとも言いますから結局は、その人の資質次第・・・ということになるのでしょうが。
谷垣さんに限らず、どなた様も、なお一層の飛躍をお祈りしたいものです。

余談ですが、地位と能力という点では、かつて、明治時代の医界の重鎮の言葉だったと思うのですが、「私も医者として、色々な人を看てきたが、地位が上がるに連れて能力も上がるという人は稀で、むしろ、大半が地位が上がると反比例して能力が低下する人が多い。ただ、二人だけ例外があった。陸奥宗光児玉源太郞の両氏である。この二人だけは、地位の向上に比例して、能力も高まった。」とか。
地位が上がると、人間、「失いたくない!」として、守りに入ってしまうんでしょうね・・・。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-08-25 08:14 | 政治 | Trackback(5) | Comments(0)

自民党次期総裁候補に見る総理大臣論 その1。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_14354655.jpg実は、ここ数日、家族は里帰りしてまして・・・。
で、これまでだと、久々に独身に戻り、悪い遊びを・・・(笑)と行きたいところだったのですが、今年から、部活があるので居残りの長男と二人で夕食しなければならず・・・。
で、一昨日は回転寿司、で、昨晩はこれ(←)でした。

そう、夏と言ったら、やっぱり、冷や麦でしょう。
友人曰く、福岡で一番美味しいという話でしたが、金額の方も、一昨日の回転寿司より高かったという・・・(^_^;)。

で、気を取り直しまして、本題です。
先日、次期自民党総裁候補者らによるポスト小泉に向けた所信表明があったそうですね。
今のところ、安倍晋三官房長官、麻生太郎外相、谷垣禎一財務相が出馬を表明しており、他にも河野太郎副法相、鳩山邦夫元労相も出馬に意欲を見せているとか・・・。
とは言え、ほぼ、安陪晋三さんで決定していると言われているようですが、この点で、主要三候補に対する私なりの感想と総理大臣論というようなものについて述べてみたいと思います。

まず、大本命のアベさんですが、私は彼の出馬には、ちょっと否定的です。
時期尚早というのが正直な感想でしょうか。
それは、かつての三角大福中安竹宮などの時代、こういった総理大臣候補と呼ばれる人たちは、そこに来るまでに、外務・財務・経産などを含めた閣僚経験に、幹事長などの主要党ポストの一つくらいは、きちんと経験していましたよね。
この点では、小泉さんにしても、総裁選に初出馬するまでには、大蔵政務次官を1回と、主要閣僚ではないにしても、大臣ポスト2回を経てきており、何より、ここまで、小泉さんには23年の議員キャリアがあったのに対し、安倍氏はわずか13年の議員経験に官房副長官のポストと、多分に客寄せパンダ的に抜擢された感のある幹事長ポストを短期間と今の官房長官のポストを、「駆け足」で経験したにすぎないわけで・・・。
であれば、どうして、今、わざわざ、田中角栄元総理を抜いての「戦後最年少での総理総裁」にする必要があるのか?ということです。
どうしても、ムリヤリ、周りから持ち上げられたという感が否めないのですが・・・。

彼が今、出馬する理由としては、彼の父、安倍晋太郞氏が総理総裁まであと一歩!というところまで行きながら、病に倒れたという記憶もあるでしょう。
また、彼自身、衆議院議員に当選後、再起不能と言われる大病を患い、長期に入院したという経験を持っているからかもしれません。
しかし、次の次でだめだったら、それはやはり、縁がなかったというだけのことなのではないでしょうか?
さらに言えば、総理になるのはいいけれど、総理になってから後のこと、日本国のことを考えるなら、今回は見送って、その間に、もう少し経験を積んでから挑むべきだ・・・と言うのが私の考えです。

次に、麻生氏ですが、この方は、選挙区は違うものの私と同じ地元福岡県の選出ですが、福岡県からの総理候補・・・ということについては、何か、微妙なところがあります。
と言いますのも、福岡県は、総理大臣ということでは呪われた地域でして・・・。
これまで、隣の山口県が歴代最多の総理大臣7人(アベさんで8人目?)を輩出しているのに対し、福岡県は戦時中のドサOサの時に1人出したものの、一転、戦後の東京裁判では文官として唯一の絞首刑になってしまうという運の悪さ・・・。
さらに、戦後、岸信介もこの人が居たら総理になれなかったとまで言われた、大物、緒方竹虎緒方貞子国際協力機構(JICA)現理事長は三男の嫁)や、鈴木善幸内閣の成立に辣腕を振るい一時は総裁候補の一人と言われた田中六助、さらには、週刊誌の記事以来、すっかり芽がなくなった観がある今の山崎拓元副総裁・・・。

どうです!
まるで、「バミューダ・トライアングル」みたいな地域でしょ・・・(^_^;)。
と言うことで、私としては、地元と言うこともあり、これ以上の論評は差し控えさせて頂きます(笑)。

ということで、続きはまた、明日のココロだ~。

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by heitaroh | 2006-08-24 08:18 | 政治 | Trackback(1) | Comments(0)

江戸時代の福岡ゴミ事情にみる環境循環型社会の現実
親愛なるアッティクスへ

e0027240_102789.jpg←先日の日曜はここに居ました。
もっと天気が良ければよかったんですけどね。

で、そのせいか、翌日の明け方、寝ていたら、突如、もの凄く足がつりました。
中学生くらいの頃、よくそういうことがありましたが、「それは背が伸びている証拠」と言われてました。
今更、背が伸びてるようには思えないんですけどね・・・(笑)。

ところで、江戸時代、江戸エコロジーならぬ、エドロジーと言われるほどに環境循環型社会がうまく機能していたと言われていますが、少し、よく言われすぎのような気もします。
元来が、埋め立て地だけに、井戸から飲料水がとれず、水源地からはるばる木製の水道を引いて、井戸の下を通し、飲料水にしていたとかで、驚くほどに近代的な発想ですが、逆に言えば、それだけに、一旦、床下浸水するようなことになると、飲料水汚水が混じり、伝染病が発生する元になっていたとも言います。
現代では、世界に冠たる衛生大国・日本も、当時の衛生感覚は、この程度の物だったということでしょうか。

この点では、江戸時代の福岡市・・・、つまり、福岡博多もまた、同様で、博多も井戸水が出ないので、大正以前、まだ、水道が普及する前は、「水売り」が水を担いで売りに来ていたそうです。
今でも、博多は人口の割に、安定した水源が無い為、雨が降らないと、すぐに、渇水になってしまいます。
ゴミもまた然りで、紙でも布でも使えなくなるまでリサイクルして、初めて、捨てていたと言います。
(私が子供の頃までは、我が家も近い物がありましたけどね。)
しかし、それほどに、うまく循環し、機能していたはずの江戸時代も、時代が下り、江戸中期頃になってくると、ゴミ問題が浮上してきたと言われています。

筑前福岡藩の領主、黒田家は、関ヶ原後、筑前に入国すると、博多に入らずに、その東、福崎の地に城を築き、ここを福岡としたわけですが、(平太郎独白録 「博多祇園山笠に見る、福岡・博多、三都物語・その1。」参照。)同時に、博多の東隣にある石堂川(現御笠川)を防衛線に想定し、この川の西側(博多側)に、たくさんの寺院を配置しました。
当時、お寺というのは、広い敷地をもっていた為、兵隊集結都合が良く、さらに、戦闘になった場合には、墓石などが防御の役に立ったといいます。
まあ、いかにも、小銃程度しか想定していない時代らしいなと・・・。

で、この石堂川ですが、江戸時代には、二本の橋が架かっていたと言われています。
当時、橋の修理費用藩の負担だったそうですが、清掃を始め、洪水の監視など、橋の管理自体は博多の町方がやっていたそうで、ところが、この頃になると、橋のたもとには博多の人々が捨てる、たくさんのゴミが溜まるようになっていたとか。
ゴミは、普段はともかく、川が増水したときなどは、ゴミに堰き止められた水流が橋ごと押し流してしまう危険性がある為、『博多津要録』によると、享保19年(1734年)、付近の10町は連名で、「石堂口の橋の周辺にゴミを捨てないこと」を誓約した・・・などという記録が見受けられると言います。

これは、何もこの石堂川だけのことではなく、上述の『博多津要録』によると、享保4年にも、博多の西隣、つまり、福岡と博多の間に流れる那珂川でも、藩より、「川筋、不行儀にこれあり。川へちりあくた(塵芥)を捨てざるよう・・・。」という達示があったそうで、ここでも、町役人たちは連署して、ゴミを捨てないことを誓っているとか・・・。 
しかし、状況はあまり改善されなかったようで、元文4年(1739年)、問題解決の為に、当時、あまり、人も住んでなかった、いわゆる、「中洲」南端付近にゴミ処理場を作ったと言います。
ところがところが、寛保3年(1743年)には、川に捨てられたゴミが、水流をせきとめるための川柵(川に杭を打ち、木や竹を渡したもの)を壊す恐れが出てきたことから、藩はゴミを取り除くよう命じた記録が見受けられるとか。
今も昔も、博多人に公徳心というものはないようです(笑)。

で、「御町ちり捨所」が作られて12年後の寛延4年(1751年)、このゴミ処分場はすでに、満杯になっていたのか、この時点では、もはや、ゴミ捨て場ではなく、材木置き場になっていたようで、中洲中島町の商人が相応の地主銀を上納して拝領したという記録が残っているそうです。

つまり、現代のように無機物ゴミなどない、理想の環境循環型社会と思われていた江戸時代でも、実際には、しっかり、ゴミ問題が存在したと言うことですね。
平太独白
by heitaroh | 2006-08-23 08:11 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

オリンピック招致その4 無駄金にならない的視点。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_10162093.jpg気が付けば、子供たちの夏休みも終わりが見えてきましたね。
盆を過ぎたら、あっという間に正月だと言いますが、まったく、早い物です。

まさに、
光陰矢のごとし 少年学成り難し
  一寸の光陰軽んずるべからず
、・・・・・後悔先に立たず(笑)。

で、いよいよ、2016年オリンピックへの、日本代表候補地決定まで、後、1週間余りになりましたが、今朝の朝刊には、「東京有利!」と大きく出てました。

でも、私的には、「実は最初から、東京に決まってた」ような気もしますけどね(笑)。
平たく言えば、出来レースだったような感がなきにしも非ず・・・で。
なぜなら、今の福岡市長は、九州大学卒市会議員上がりの人ですから、中央での影響力という点では・・・だったでしょうし、まあ、国会議員などを担ぎ出していたようですが・・・。
この点では、前市長(故人)は事務次官上がりでしたから、それなりに、中央での政治力はあったんですけどね・・・。

もっとも、福岡の招致という点は、私は、現実には、開催条件である7万人収容スタジアム建設一つをとっても、3万6千人程度しか収容できない福岡ソフトバンク・ホークスの本拠地、ヤフージャパンドームが、連日、超満員でもないことを考えると、やはり、その後の維持という意味で、かなり、無理があるように感じていました。(過去形!(笑)。)
ぜひ、東京都さん、このまま、がんばってくださいね。

で、そのオリンピックですが、東京になろうが福岡になろうが、実際にオリンピックが日本に来る可能性は極めて低いんだそうですね。
やはり、ああいう物の市場としては、アメリカという物は無視出来ない存在であり、何回かに一回はアメリカでやらないといけない・・・という風に暗黙で決まっており、アトランタから数えたら、次はアメリカで決定しているという話も聞きました。
(全回の候補地決定の時が、本来は、ニューヨークの順番だったそうですが、番狂わせロンドンが勝ってしまったのだとか。)
しかも、北京の次の次でしょう?
そうそう続けて、アジアに来るとも思えませんし、何より、石原都知事安陪晋三さんなど、近隣諸国から、あまり、いい印象を持たれていない人たちが、今後の招致活動仕切っていくことを考えたならば、到底、彼らが日本を応援してくれるとは考えられないなどとも言われていますよね。

となれば、東京が勝っても、福岡が勝っても、日本に来る可能性が少ないとしたら・・・、それは、まず、招致しないというのがベストでしょう。
しかし、こういう物は、諫早湾干拓工事然りで、いくら市民が反対しようとも、一旦、動き出すと、誰も止められないもののようです。
(実際、福岡市は、環境団体等の反対を押し切って博多湾に人工島を作りました。当時から、その先行きを危ぶむ声だらけだったにも関わらず・・・です。で、今、現実には、「ほら、言わんこっちゃない・・・。」ってことになってます(笑)。)
であれば、「東京と福岡、どちらが勝っても、オリンピックは日本には来ない」と仮定したならば、日本という視点から考えて、「より、ダメージが小さくて済むのはどちらか?」、つまり、「どちらが無駄金に成らずに済むか?」ということです。
そういう視点から見た場合、「巨費」を投じる以上、これはもう、宣伝広告費以外の何ものにもならないでしょう。
であれば、世界に冠たる国際都市「TOKYO」には、今更、その必要性は少ないように思いますが、その意味では、日本のイチ地方都市、「FUKUOKA」は多少、違ってくるでしょう。

かつて、プロシア(ドイツ)陸軍に、名将モルトケが登場してきたとき、諸外国の反応は「フー?モルトケ?」だったと言いますが、今、「フクオカ」オリンピック候補都市の中で名前が読み上げられたとなら、おそらく、世界の反応は、まさに、「フー?フクオカ?」、正確には、「Where is FUKUOKA?」でしょう。

私が、以前から、平太郎独白録 「オリンピック招致の是非に見る日本のスポーツは見る物。」の中などで、「福岡のオリンピック招致に関しては、大反対とは言わないけれど、どちらかというと反対」と言っていたのは、この意味です。
「トーキョー」と違い、宣伝広告というメリットは決して、少なくないと思います。
(招致出来れば、もっと、大きいのでしょうが、ただ、その場合は、出ていく物も、今の試算の比ではないでしょうね。明らかに、今の試算は、「このくらいだったらいいなぁ。」という希望が入った金額ですよ。)

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by heitaroh | 2006-08-22 08:14 | スポーツ | Trackback(4) | Comments(6)

博多駅前史 その5 大正編
親愛なるアッティクスへ

e0027240_10505846.jpg←これ、私の毎日の通勤路であり、私の子供の頃からの原風景です。
この手前の部分が、東領、奥の方、右手にあるひとつだけ高いビル辺りからが人参畑(上人参町)です。

ちなみに、実は、この一枚、もの凄いタイミングで撮れた物なんです。

どういうことかというと、これ、平日の、それも通勤時間帯なんですよ。
しかも、この場所、博多駅前の旧道でして、普段、この時間は、いつも、結構、渋滞しているところなんです。
特に、このときは、車の渋滞も激しく、人も自転車もあふれかえっていたのですが、私がシャッターを押した、まさに、この瞬間だけが、ご覧の通り、まるで時間が止まったかのように、人も車もキレーに消えた瞬間でした。
ということで、当然、この数秒後には、時間が動き出し、また、人と車が溢れかえる現実が戻ってきましたことを付け加えさせて頂きます(笑)。

ということで、土曜に平太郎独白録 「またまたワタクシゴトのタワゴトのご報告と告知です。」が急遽、割って入った関係で、この自己満足記事が本日になってしまいました次第です(笑)。
で、本題です。

大正12年に、あの、関東大震災が起こります。
このとき、福岡市では、「大字春吉」「人参畑町」に代表されるように、「役所上の住所」と、増殖を続ける「実際の住所」との相違、それに、増加する一方の人口ということを考えたならば、もし、福岡で同様の大震災があったなら、大変なことになる・・・という危機感を持った有志らにより、「福岡市住宅調査会」というのが組織され、住民把握の為の「福岡市民録」というのが作成されました。
そこには、町名ごとに分別された上で、番地と氏名ばかりか、職業、電話番号までもが記載されました。

で、現存するその市民録を見ると、上人参町78所帯、中人参町155所帯、下人参畑町68所帯となっており、職業では農業というのが少なく、殆どが米屋、大工、駄菓子屋、床屋・・・などの自営業者だったようです。
(この辺の構成は、私が子供の頃とあまり、大差ないように思います。)
ちなみに、なぜ、上と中は人参町で、下だけが人参畑町だったのかと、なぜ、南から順に、また、博多駅から遠い順に上中下なのかは謎です。
この後も、結構、上と中は同じ動きをしますが、下だけは一線を画したような動きがあるようにも思えます。
私の記憶では、決して、仲が悪かったとか、そういうことはなかったように思うんですけどねぇ・・・。

ちなみに、当家も、この年、市内中心部の方から、この、下人参畑町に移り住んできており、福岡市民録には私の曾祖父の名が記されております。
当時は借家だったといいますから、やはり、市内の高い家賃を嫌って、こちらの方へ移り住んできたものと思われます。

で、この頃より、ついに博多駅移転問題が俎上にのぼり始めることになります。
で、その後はまた、来週のココロだ~♡
                           平太独白
by heitaroh | 2006-08-21 08:49 | 地域 | Trackback | Comments(2)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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