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またもや「ザ・ヒットパレード」中編、功績、異論、そして真実。
昨日の続きです。
なかなか、本題にたどり着けません(笑)。
(本当は昨日、書こうと思ったのですが、間がジョセフィーヌの命日でしたので、本日に回しました。)

で、その、南こうせつさんが言っておられた話ですが、彼らがデビューした頃までは、コンサートなどの興業は、すべて、何らかの形で暴力団などの興行師が介在していたらしく、それで、彼らが、自分たちのコンサートからは、そういうものは排除しようということになったのだとか・・・。
となれば、まず、警察に理解を求め、協力を要請しなければならず、その為には、それまで、かなり不透明だったコンサートの収益金についても、「会計処理も絶対にどんぶり勘定にしない」、「収支などもきちんと公開する」ということで、、税務署などとも周到に話し合い、その結果、「じゃあ、やりましょう。」ということになったそうで、以来、興業における興行師の関与が初めて排除された・・・と言う話でした。
つまり、それ以前の時代、(何年頃の話かは忘れましたが、おそらく、昭和40年代以降でしょうね。)芸能界というものには、こういう、胡散臭さがつきまとっていたことは否めず、だからこそ、財界からも、敬遠されるような風潮があったのかもしれませんが・・・。
でも、逆に言えば、そういう芸能蔑視の風潮が、なおのこと、基盤が不安定な芸人たちを、興行師の方へ押しやっていたのでしょうから、その意味での、渡辺氏の功績はやはり、否定出来ないと思います。

で、ようやく、本題です。
渡辺 晋という人の経歴を搔い摘んで眺めてみると、「昭和2年(1927年)、東京都出身。昭和30年(1955年)、妻・美佐とともに渡辺プロダクションを設立。昭和62年(1987年)1月31日、59歳の若さで急逝。」だとななっております。
(創業当時、渡辺氏は、まだ28歳だったんですね。)
渡辺晋という人に関しては、私も多くを知っているわけではありませんが、ただ、あのドラマにあったように、様々なアイデアで、「芸能界を変えた男」という点はやはり、否定出来ないと思います。
「出演者は全部、うちの連中でやる。ギャラは、一切、無料で結構!その代わり、番組の最後に『企画 渡辺プロダクション』というテロップを入れてくれ。」なんてのは、今でこそ、広告宣伝というものの価値というものは、確立されているのでしょうが、当時としては、驚くほどに斬新な経営判断だったのではないでしょうか・・・。
おそらく、それまでには、スカウトに行った先で、「渡辺プロ」という名刺を見せても、「人さらい」くらいにしか思われず、「大切なうちの娘を!冗談じゃない!」・・・なんてことが、多々、あったのではないでしょうか。
それ故に、彼は今後の活動という点で、少々の先行投資をしても、知名度不足というものの壁にぶち当たっており、その意味で、宣伝の大切さというものを、否応なく認識していたのだと思います。
ただ、渡辺プロが、芸能界きっての名門プロダクションに成り得たのは、人気スターを続々と輩出し得たと言うこともあったのでしょうが、それ以上に、レコードの原盤制作までも自社で手がけたことが大きかったようですね。

ただし、それゆえにこそ、渡辺氏の葬儀のとき、それを伝えるワイドショーなどで耳にした話では、「渡辺プロはナベプロ帝国と呼ばれ、政財界にも強力なコネクションを持っていたことから、渡辺社長は、一時期は、芸能界の帝王として君臨し、マスメディアがナベプロを批判することはタブーでさえあった。」というふうに言われていました。
さらに、続けて、「しかし、その後、ホリプロジャニーズ事務所などの他のプロダクションの台頭や、人気タレントの相次ぐ独立もあり、昭和50年代くらいから、もう、かつてのような影響力は失い始めていた。」とも・・・。
そして、「影響力の後退と歩調を合わせるかのように、渡辺社長自身も健康を害するようになっていた。」とも伝えられてました。

あ、またまた、続きは明日のココロだ~ということでご理解の程を・・・。
                          平太独白

by heitaroh | 2006-05-31 08:39 | 社会全般 | Trackback | Comments(2)

ナポレオン三世の真実・その2 深謀遠慮不撓不屈
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

こう言うと、「ジョセフィーヌの命日に、ナポレオン三世のことについて書く、いいきっかけになった・・・って、少々、こじつけ気味じゃないの?」と思われるかもしれませんが、実は、ナポレオン三世は、あの、ボナパルト=ナポレオン(以下、単に「ナポレオン」で統一します。)の、つまり、であると同時に、ジョセフィーヌのでもあり・・・、つまり、ナポレオン三世からすると、ナポレオン実の伯父ジョセフィーヌ実の祖母になるわけです。
なぜ、こういうややこしいことになったかというと、ナポレオンとの間に子が出来なかったジョセフィーヌが、自分の影響力を少しでも残そうと、先夫との間に出来た娘(つまり、連れ子)オルタンスをナポレオンの弟、ルイ=ボナパルトに嫁がせたことに起因します。

で、ルイ=ナポレオン、後のナポレオン三世は1808年に生まれていますが、、母、オルタンスも、祖母、ジョセフィーヌに似て、まあ、お世辞にも貞淑とは言えない男性関係だったようで、ルイの出生については、現在でもなお、様々に憶測する声があるとか・・・。
まあ、この辺の生々しい話には、昔は耳を逆立てて聞いた私も、最近では少々、辟易するようにもなってきたこともあり、ここでは一旦、置くとして、その後、ルイ少年は伯父ナポレオン失脚後の亡命先を母に従って、転々としながら、成長したようです。
その後、成長したルイは、28歳の時に最初のクーデターを起こし、以後、失敗、逮捕、投獄、国外追放、クーデター、失敗、投獄、脱獄、亡命、国会議員補欠選挙立候補、当選、大統領立候補、当選、クーデター、選挙、皇帝・・・という、まさに、七転び八起きの中、深謀遠慮不屈の闘志をもって、皇帝ナポレオン三世となるわけですが、

ここまでは、ナポレオン三世という人物が、決して、凡庸な人物ではなかった・・・ということだけを言いたかったが為に、昨日はくどくどと述べた次第だったのですが、ところが、日本でも、このナポレオン三世は、ルパン三世よりは知名度が低いように、本場、フランスでも、「アホで間抜けなまがい物」と言ったイメージが定着してしまっているのだとか・・・。

なぜ、そういうことになったかというと、一番、大きいのは、やはり、「終わりよければすべてよし」で、その最後が、「敵国、プロシアと戦って、その捕虜となってしまった」ということにあったでしょう。
が、それは、やはり、余りにも一面的な見方に過ぎると思います。
「なぜ、そういうイメージが定着してしまったか・・・」、それは、フランスの代表的国民的詩人にして、「レ・ミゼラブル」の作者、ヴィクトル・ユゴーの存在こそがもっとも大きな要因だったでしょう・・・。
なぜなら、ユゴーは、ナポレオン三世のクーデターにより亡命を余儀なくされた人物だからです。
ユゴーは、亡命中、徹底して、ナポレオン三世を貶める著作を書き続けたとか・・・。
それらの作品が、どの程度、実際に人々に読まれたかは別にしても、やはり、「あの、ユゴーが著作の中でこう言っていた」というのは、大きかったようですね。

しかし、私は敢えて、これに反論したいと思います。
というところで、またまた、次回に続く・・・。
                                         平太独白
by heitaroh | 2006-05-30 07:49 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

ナポレオン三世の真実・その1 おお、ジョセフィーヌ!
親愛なるアッティクスへ

今日、5月29日は、あの、ジョゼフィーヌが亡くなった日なんですね・・・。
改めて言うまでもなく、フランスの英雄、ボナパルト・ナポレオンの妻にして皇后だった人ですが、この人って、「社交界の花」って印象が強いので、てっきり、生まれも育ちもパリパリ(?)のパリジェンヌかと思っていたら、西インド諸島の出身だったんですね。
そう言えば、何か聞いたことがあったような・・・。

もうひとつ、意外だったのはジョセフィーヌって、ナポレオンより先に亡くなっていたんですね。
ジョセフィーヌが、亡くなったのは1814年で、一方、ナポレオンが幽閉先のセント=ヘレナ島で亡くなったのが、1821年・・・。
ちなみに、二人は、1809年に離婚していたにも関わらず、ナポレオンの最期の言葉は、「おお、ジョセフィーヌ・・・。」だったとか。
まあ、後世の劇作家の創作かもしれませんが、これが、あの、大ナポレオンの最期の一言かと思うと、華やかで、それでいて、何だか、物悲しいような・・・。
その意味では、ナポレオンらしい・・・と言えば、らしいようにも思えます。

で、ナポレオンと言えば当ブログでも、度々、取り上げております通り、コルシカ島に生まれ、フランス革命の混乱に乗じて皇帝にまで登り詰めたものの、ロシア遠征で大敗して以降は坂を転がるように凋落し、最期は孤島に幽閉されて生涯を終える・・・という、何とも、これほどに起承転結がはっきりした人も珍しいというくらいにドラマチックな一生を送った人物なのですが、実は、皇帝ナポレオンと呼ばれる人物は、もう一人います。
それが、大ナポレオンの甥、ナポレオン三世です。
と言っても、実は、私自身、この人物のことは知ってはいましたが、「ナポレオンの甥で、ナポレオン失脚後にクーデターによって、再度、ナポレオン家の帝位を回復した人物であるが、最後はビスマルクにいいようにやられた挙げ句に、皇帝自らが普仏戦争捕虜になると言う失態で終わった人物」という程度の認識でして・・・。
でも、その一方で、「クーデターで政権を奪取するくらいだから、それほど無能な人物ではないのだろうけど・・・。」とは思ってましたが、それでも、「何とも最後がねー。」と・・・。

で、一度、この評価定まらぬ人物のことについて書かれた本があれば読んでみたかったのですが、少し前に「怪帝ナポレオンIII世」という本を読み終えた際、恥ずかしながら、ルイ=ナポレオンという人物の生涯に、思わず、胸が熱くなりました。
さすがに、泣きはしなかったものの、「本を読んで、胸が熱くなった・・・」などというのは、ちょっと、ここ最近は記憶がない話でしたね。
この辺のことは、以前、少しだけ、平太郎独白録 キング・オブ・キングス・・・「皇帝」!や、平太郎独白録 「ナポレオン三世と小早川秀秋に見る歴史というものの無責任性について」の中でも触れておりましたが、いずれ、改めて、ちゃんと書こうと思っておりましたので、ジョセフィーヌ皇后の命日は、いいきっかけになったようです。

と、佳境に入る前なのに、ここから先は、またまた、明日のココロだ~♡
                               平太独白
by heitaroh | 2006-05-29 07:51 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

またもや「ザ・ヒットパレード」前編、女性は老いを忌まわしむ。
親愛なるアッティクスへ

渡辺プロ渡辺 晋社長を描いたドラマ、「ザ・ヒットパレード」前編の方に関しては、先日、平太郎独白録 古き良き「ザ・ヒットパレード」に想う、寂しい暗さに蔭が匂う。でも述べさせていただいたのですが、今回は、あのドラマを見た限りでの、渡辺 晋という人物に絞って、述べてみたいと思います。

ただ、残念だったのは、ご本人の年齢の経過がよくわからなかったこと。
できれば、時折、CM後の冒頭には、「昭和OO年 渡辺晋 OO歳」なんて、テロップを入れて欲しかったですね。
もっとも、この点では、柳葉さんを始め、男性俳優陣は、皆、年をとると、それなりに髪の毛を抜いたりして、老け具合で時の経過を、何とか醸し出していましたが、そうなると、逆に、夫人役の常盤貴子さんだけがまったく老けないというのも、いかがな物かと・・・。

この点では、女優さんに限らず、「女性は、とかく、老いという物を忌まわしい物」として捉えがちですよね。
これは、男性には、あまり見られない、女性特有の心理現象だと思いますが、でも、一般の女性ならともかく、それを生業としている、プロの役者さんであればリアリティが求められるような作品では、やはり、それなりに老けて欲しいんですけど・・・。
で、普段、ものすごーく綺麗な女優さんが、劇中では、もんのすごーく汚い婆さんを演じきったりしたときに、その落差に、思わず目を見張らせるのが「女優」としての「技量」いうものなんじゃないですか?
でも、まあ、泉下の渡辺晋氏がそれを聞いたなら、にこにこ頷きながら、「いいんじゃないのかぁ。」なんて言ったような気もしますけどね(笑)。

で、本題です。
前回も書いたのですが、渡辺プロダクション創業者、渡辺 晋という人物の特徴は、「自己」というものを明確に持つ一方で、やはり、何と言っても、あの「温顔」というものにあったのではないかと思います。
ただ、普通、「温顔」というものは、商売人や経営者という稼業を行う上においては、あまり、プラスには働かないもので、「温顔」を前面に出して成功し得たのは、やはり、理念、理想というものを共感してくれていた人が多かった・・・などというような、ある種、渡辺氏特有の特殊な事情があったのか・・・、はたまた、あのドラマでは描かれなかった「別の顔」があったのか・・・ということだったでしょうか。
その意味では、同じ芸能産業という点では、西の雄、吉本興業の事実上の創業者、林 正之助氏などは、対照的にかなりの強面だったと聞きいておりますが・・・。

事実、当時の芸能界というモノは子役で人気を博していた時代の美空ひばりさんを、山口組三代目田岡組長が肩車して街を歩いた・・・などという話に象徴されるように、興業というモノには、暴力団などの興行師というモノの存在が切り離せなかったと聞いております。
渡辺社長は、そこから、興業を切り離し、芸能プロダクションの収益にしようとしたわけですから、おそらく、その筋からの圧力は相当のものがあったのではないでしょうか・・・。
あのドラマでは、この辺のことに対しては、まったく、触れられておりませんでしたが、果たして、こんなときまで、「温顔」でいられたのかどうか・・・。

まあ、この点は、逆に言えば、それだけ、芸能人というモノの立場が、社会的に非常に不安定なものだったとも言えるでしょう。
日雇い労働者などでもそうでしょうが、立場が弱い者ほど、違法であろうが何であろうが強い者に守ってもらわなければ困るわけで・・・。
その辺が、義理人情なんてものと結びつくのかもしれませんね。
もっとも、この辺のことは、私も別に調べたわけではないので、渡辺社長の場合がどうだっのかについては何とも言えませんが、ただ、この点で、以前、歌手の南こうせつさんだったかが、税金関係の雑誌か何かで言っておられた話を読んだことがあります。

ということで、まだまだ、肝心の所に行き着きません(笑)。
これより先はまたもや明日のココロだ~♡
                               平太独白
by heitaroh | 2006-05-27 08:37 | 社会全般 | Trackback | Comments(2)

古き良き「ザ・ヒットパレード」に想う、寂しい暗さに蔭が匂う。
親愛なるアッティクスへ

以前、渡辺プロ社長渡辺晋氏を描いたドラマ、「ザ・ヒットパレード ~芸能界を変えた男・渡辺晋物語~」というのをやってましたよね。
柳葉敏郎さんの渡辺社長役って、あまり、期待はしてなかったのですが、よく出来てたように思えました。
もちろん、実物は知りませんが、「芸能界にかなり、大きな影響力を持っていた人・・・」と聞いていたので、もっと、強面(こわもて)の人かと思っていたらむしろ「温顔」・・・。
「新しく何かを作っていく人」・・・というのは、こんな感じの人なんだなと。

出演者も、なかなか、実際の人物の特徴を捉えていたし、ザ・ピーナッツなんて、やはり、今聞いても凄い!って思いますよ。
最初、聞かされたときの関係者は鳥肌立ったんじゃないですか。
単にハーモニーがうまいだけじゃなく、双子だなんて、「テレビの為に・・・」と言っても過言じゃないでしょう。
もっとも、青島幸夫役は、あんな石黒賢さんみたいな「男前」じゃなくてもよかったようにも思いますけど(笑)。

で、このドラマ、昭和30年代が舞台だったようですが、同じ年代を描いたモノとしては、映画、「ALWAYS 三丁目の夕日」が記憶に新しいところですが、この映画は、夜の場面は、割としっくり来る物があったんですが、どういうわけか、昼間のシーンでは、まるで実感が湧きませんで・・・。
それで思うのですが、夜というのは昼に比べて、余計な情報が入ってこないからではないかと・・・。
平太郎独白録 「ALWAYS 駅前三丁目の夕陽・・・本田宗一郎に見る過ぎ去りし日々。」
平太郎独白録 「またまたALWAYS 駅前三丁目の夕陽・・・名品は昭和と共に。」参照。)

当時は、夜も、今のように明るくなかった・・・ということもあって、なおさら、そういった印象が大きかったのかもしれませんね。
(それがまた、古き良き、往事を忍ばせてくれることになっているのでしょうが・・・。)
つまり、昼はCGにより、どんな映像でも作り出せてしまうことで、私のような、昭和30年代というものを、はっきりと輪郭をもって記憶していない世代には、逆に、情報が多すぎるのではないかと。

その点で、改めて思ったのが、同じく、何度も触れさせて頂いております、「イキのいい奴」という昭和20年代の東京下町を舞台にしたNHKのドラマなのですが、こちらは、放送されたのが、昭和時代ですので、当然、CGなどはなく、すべて、セットでしたが、それでも、昭和30年代後半生まれの私が見ても、思わず、唸りたくなるほどに映像に何とも言えぬリアリティが漂っていました。
特に、その初回、つまり、第1話において主人公の小林薫さんが親方を務める寿司屋店内が、今と違って「薄暗い」という表現がぴったりな感じの寂し~い暗さ・・・
柔らかい暗さなんかじゃなく、何だか、痛いような、ヒリヒリするような暗さ・・・なんですよね。
確かに、私が子供の頃の寿司屋って、こんな感じだったんですよね、御同輩・・・。
行ったこと有りませんけど(笑)。
                         平太独白
by heitaroh | 2006-05-26 08:17 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

日本で一番速い球を投げた男、森安敏明。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_1495518.jpgいつだったか、福岡ヤフードーム福岡ソフトバンクホークスVS横浜ベイスターズの交流戦(←)を見に行ってきました。

この日は、まあ、試合自体はいいところがなくソフトバンクが負けてしまいましたが、それでも、こんな間近で、横浜の最速投手、クルーンも見られましたし、まあ、いいかと・・・。
(連れは、誰かに電話して、「テレビ見てくれ!今、映っているから!」と言ってましたが、あっさりと、「今、家にいない」と返事されたようでした(笑)。)

で、そのクルーン。
確かに速かったですね。

最近見た中では、デビューした年の寺原隼人投手なんかも速かったですけど、やはり、もう一段、速かったように思いました。

e0027240_17121945.jpgで、クルーンの剛速球を見ているうちに、私はある、一人の投手のことを思い出しました。
東映フライヤーズ投手、森安敏明・・・。
この名前は、昭和30年代に生を受けた人なら、ある意味、「知る人ぞ知る」名前でしょう。

以前、平太郎独白録 「CM契約にみる毀誉褒貶、その2 伝説の名投手 池永正明。」でも述べた話ですが、昭和45年(1970年)、当時の球界を、いや、日本を揺るがせた事件に暴力団によるプロ野球選手の八百長(敗退行為)事件、通称、「黒い霧事件」が発覚、このとき、これに関与していたとして、何人かの選手が日本プロ野球機構から処分を受けました。

中でも、当時、大投手の道を着実に歩んでいた西鉄ライオンズのエース、池永正明氏が永久追放処分に処されたことで、何だか、池永氏ひとりが処分された事件だったかのような観がありますが、実際には、このときには、あの、江夏豊氏を始め、桑田武、鈴木隆、坂井勝二、成田文男、土井正博、船田和英、基満男、田中勉、葛城隆雄・・・と、当時を知る人が聞いたら、唸らんばかりの、そうそうたる顔ぶれが、大なり小なり何らかの処分を受けています。
しかし、何と言っても、最も重い永久追放処分となったのは、池永氏も含め6人。
中には、中日のエースで背面投げで有名だった小川健太郎氏のような人もいますが、これらの中で、35年という歳月と引き替えにしたとは言え、名誉が回復されたのは池永氏のみ・・・。
それは、さておき、このとき、その「永久追放」の中に名を連ねていた一人が、この森安敏明投手でした。

以前、あの、大投手、金田正一氏の実弟で、同じく、プロ野球投手だった金田留広氏(我々が子供の頃は、結構、有名だったんですけどね。)の著書を読んだことがあるのですが、その中で、「私も若い頃は、スピードにはそれなりに自信があったが、森安と並んで投げたら、まるで話にならなかった。今まで、色々な投手を見てきたが私が見た中では、間違いなく森安が一番速かった」と述べておられました。
同書によれば、森安氏は、当時、東映フライヤーズの大番長だった、あの張本勲氏より、「先輩より、先に風呂に入った」という理由で、ぶん殴られたことがあったとか。
曰く、「さすがの森安も、張本さんには何も言えなかったが、翌日、張本さんが風呂に行くと、また、森安が普通に風呂で鼻歌を歌っていた・・・。」と・・・(笑)。

さらに、今のように、投手にローテーション制などが確立されていた時代ではありませんから、投手は連投などは当たり前だった頃に、ちょっと連投>させると、「あのコーチは、俺を潰しにかかっている・・・」などと言うので、コーチが遠慮して、中5日などで投げさせると、今度は、「俺は干されている」とまた、ブツブツ・・・。
本人曰く、「俺は中3日がちょうど良い」んだとか。
今の時代に、中3日で投げる投手なんかいませんよ(笑)。
成績自体はまあ、池永氏などと比べるとそれほど大した物は残してませんが、その球威はやはり魅力で、おそらく、これから伸びていく投手だったのでしょう。
(同期には、あの、200勝投手にして、巨人の前監督でもある堀内恒夫氏もいますが、堀内投手も、何だかんだ言って、この時点までは、あまり大差ない数字です。)

で、本題に戻ると、この森安投手、事件後、永久追放処分となるまでの間に1試合だけ登板したことがあったそうです。
このとき、審判をやった人が、後年、たまたまテレビのインタビュー番組に出ておられてたのを見たことがあったのですが、「今まで色々な投手を見てこられたと思いますが、誰が一番速かったですか?」との問いに、間髪を入れず、「あ、それはねぇ、東映にいた森安ですよ」と。
「特に森安が、永久追放になる直前に謹慎が解けて出てきたときなんて、もう、投げられる喜びで、球が速すぎてまるで見えない。審判に見えないんだから、もう、全部、ストライクですよ。」と。

やはり、今の日本のプロ野球選手に欠けている物こそ、これではないかという気がするのです。
今のプロ野球選手たちは、「一球入魂」という言葉の意味に、もう少し、想いを馳せるべきではないでしょうか。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-05-25 08:58 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(3)

西鉄ライオンズの帽子に想う、ノムさんの覚悟とマスコミの怠慢。
親愛なるアッティクスへ

実は、先日、たまたま入った食堂で、西鉄ライオンズの帽子を被ったお年寄りをお見かけしました。

e0027240_15341898.jpg(←これです。モデルはもちろん、私です(笑)。私も愛用してます。)

「懐かしいのを被ってありますね。」と言うと、店の人が、「この人は、元、西鉄の選手だったんだから。」と。

元西鉄の選手ったって、知りもしない人もたくさん居たんだろうから、「ああ、そうですか?」と軽く聞き流して席に着こうとしたら、店の人が聞きもしないのに、その方のフルネームを教えてくれました。

で、それを聞いてびっくり!
何と、私と、昔、同じ町内会だった人じゃないですか!
向こうは、当然、年代も違いますし、私のことは知らなかったでしょうが、私が子供の頃はあちらは有名人でしたから、こちらは、当然、知ってました。
でも、私が子供の頃は、もう、選手は引退されていて、西鉄の後身である太平洋クラブ・ライオンズ打撃コーチをしておられたように記憶しております。
それでも、こんな奇遇もあるもんだと・・・。

e0027240_15505599.jpgで、現在のプロ野球の方は、ホークス4連勝2位浮上・・・てよりも、楽天イーグルス、また、負けましたね。
まさに泥沼・・・。

(←こちらは、今年から、福岡ヤフードームにお目見えしたフィールドシートです。フェンスの外ファールゾーンに席が張り出しています。)

去年の今頃より成績悪いみたいで、ノムさんも、「こんなチームじゃ、すぐに結果を出すのは無理だ。」とか、「いい選手を獲得してくれなきゃ、どうしようもない・・・。」ってことを言っておられますけど、でも、私に言わせれば、今更、それはないでしょ!って言いたいですよ。
以前、私が監督に就任する前の野村さんのセミナーを聞きに行ったときも、「私に楽天の監督やらせてくれないかなー。田尾よりはマシですよ。」って、はっきりと言っておられましたから・・・。

でも、同じく、そのとき、ノムさんが言っておられたことで、気になるセリフがありました。
曰く、「私も、もう、70歳ですよ。同級生が段々、いなくなってしまって・・・。私の同級生で、球界に残っているのは、長島と今、オリックスの監督やっている仰木の二人だけ・・・。それが、長島は、ああなっちゃったでしょう。」と・・・。
で、ご承知の通り、それから間もなく、仰木さんが監督退任後、すぐに亡くなられたわけですが、これについては、その前年、仰木さんが監督に就任された当初、かつて、仰木さんと西鉄ライオンズの同僚だった豊田泰光さんが、「仰木にあの年で監督をやらせるなんて、無茶だ!まるで仰木に死ねと言っているようなもんだ。万一のことがあったら、どうするんだ!」と言っておられたと聞きました。
それほどに、監督業というのは激務なんでしょう・・・。
その意味では、ノムさんも、その仰木さんと同じお年で、それも、球史に残るほどに群を抜いて弱いチームの監督を引き受けられたなんて・・・。
息子の、カツノリ捕手のことを思えばこそ・・・でしょうが、やはり、内心は、相当の覚悟なんじゃないでしょうか・・・。

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by heitaroh | 2006-05-24 18:08 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(2)

DEATH NOTEに想う信長の死生観と死は形を選ばない。
いつも、私は床屋(あくまで、美容院などには行きません(笑)。九州男児は床屋です!)に行くと、マンガを読みます。
で、行きつけの床屋では、少年ジャンプ少年マガジンを愛読。
が、最近では、さすがに「少年」は無理があるのか、段々と、読むところが少なくなってきました。
で、先日、いつものように床屋に行ったところ、少年ジャンプに連載されている、「DEATH NOTE」が最終回でした。

e0027240_18322330.jpg

まあ、死神と契約したことで犯罪者に独自の裁きを科していく若者と、それを追い詰める者・・・といったストーリーなのですが、その冒頭の部分で、死神から、「死神と契約した者は天国にも地獄にも行けない」と言われた主人公が、「そんなことか。つまり、死後には天国も地獄もないということだな」と喝破するシーンがあるのですが、最終回でも、「死後には天国も地獄もない。だ」というところがあります。
この点で、かつて、司馬遼太郞さんは、その著作の中で、「織田信長という人に、無神論という論文を書かせてみたら、さぞかし、素晴らしい物を残しただろう」と言っておられました。
確か、「信長の死生観とは、『死んだら無』というものであり・・・。」とも述べておられたように記憶しているのですが、私も、信長の死生観は、まさしく、この「DEATH NOTE」に通じる物だったと思います。
「死んだら無だ。そこには、霊魂も幽霊もない。」と。

私も、無神論者ですので、概ね、この手の死生観には同感です。
輪廻転生であるとか、死後の世界・・・と言った物に対しては、いくらでも、巷間言われている、その論理や定義の矛盾を突くことができるからです。
ただ、すべてを一概に否定しようとは思っていません。
どういうことかというと、まあ、霊魂くらいはあるかな・・・と思っているからです。
では、霊魂とはなんぞや・・・。
それは、おそらく、「意識」なのだろうと思います。
人間の肉体は滅んでも、何らかの形で、その「意識」だけが現世に留まることがあるのだろうと・・・。
そしてそれは、「怨恨」「心残り」などの、現世に執着する想い、つまり、想念の強い人の意識ほど残るのではないかと思っております。

最近、聞いて、良い言葉だなと思ったものに、「死は形を選ばない。」というものがあります。
良い言葉・・・といえば、少し、語弊がありますが、最近、考えていたことを、すっぽりと埋めてくれような言葉でしたので、思わず、そういう表現になってしまいましたが、つまり、「死」というものは、戦死であっても、病死であっても、惨殺されようとも、自死しようとも、餓死しようとも、こと「死」という一点に於いては変わりはない・・・ということです。
そういうと、あるいは、何らかの被害にあった遺族の方などは気を悪くされるかもしれませんので、あまり、微に入り細に入り、述べるのは控えさせて頂きますが、少なくとも、死に至るまではともかく、死んでしまった後は、痛みを感じるわけではなし、つまり、「死」という一点に於いては、自分が「無」になるという点で、悪人も善人も万人平等だと思うのです。

で、今や、日本人の寿命予測は、50年後には100歳を超えるようになったとか・・・。
私の遠縁の人の話ですが、その方のお母さんが80歳になったときに、「私も、この後、何年も生きられないだろう。であれば、私が生きているうちに私が入る棺桶を自分で見ておきたい」と言い出したそうで、あまりにしつこく言うので、やむなく、棺を作ってあげたそうです。
ところが、そのおばあちゃんが亡くなったのは、何と、103歳の時だったとか・・・。
つまり、20年以上入り手のない棺が、その家の納屋にはずっと置いてあったのとだか・・・(笑)。
今度から、いつ死ぬか、はっきりさせてから棺桶は作りましょうね、御同輩・・・。
                          平太独白
by heitaroh | 2006-05-23 08:09 | 思想哲学 | Trackback | Comments(16)

ウルトラマン40周年に見る40年という歳月。
親愛なるアッティクスへ

ここ数日、お堅い話ばかりでしたので、今回は少し、マニア向けの話題です(笑)。
あの、ウルトラマンが40周年とのことで、記念コインが発行されるそうですね。
オーストラリア発行だとか・・・。

で、昨日、たまたま、テレビで昔懐かしい「帰ってきたウルトラマン」をやってましたので、ヒマだったこともあり、もちろん、懐かしさもあって、子供に付き合って見ていました。
そのうち、劇中で隊員の一人が、旧帝国軍人であった亡父によって開発された毒ガスを呑み込んだ怪獣と戦う・・・というシーンがあったのですが、どうみても、「まだ、二十代の隊員の父が帝国軍人??」と何だか違和感がありました。
でも、よく考えて見れば、このドラマがテレビで放映されたのは昭和46年(1971年)ですから、戦後、まだ26年しか経っていない時代なんですね・・・。
(ちなみに、昭和46年とは、マクドナルド第一号店京王プラザホテル開業した年であり、カップ・ヌードルが発売された年・・・、と言っても、地方在住の私にとっては、むしろ、尾崎紀世彦氏が「また逢う日まで」でレコード大賞を獲った年、大横綱大鵬引退し、直後に横綱玉の海が27歳で急死した年、阪神江夏オールスター9連続三振を奪った年・・・と言った方が記憶にあります。)
それなら、その隊員が26歳だったとしても、設定的には帝国軍人が父でも、少しもおかしくないなと・・・。
今や、いつの間にやら、戦後も26年のどころか、はるかに60年ですからね・・・。
「思えば遠くに来たモンだ♪」じゃないですが、我々は、本当に、いつの間にやら、もう引き返せないところまで来てしまったんですね・・・。
少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずるべからず・・・でしょうか。

という、中年の感慨は放っておいて、この「帰ってきたウルトラマン」という番組ですが、実は、もうひとつ、私には記憶に残っていることがあります。
昭和41年、「ウルトラマン」の登場で、当時の子供たちのハートを、ガッチリとわしづかみにした、特撮怪獣番組ですが、実は、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」と続いた後、「キャプテンウルトラ」という番組を最後に、しばらく、テレビから姿を消した時期がありました。
(当時、円谷プロも、人的にも採算的にも、結構、無理をしてたようですね。)
時期的には、私がちょうど小学校に上がり、我が家にも、カラーテレビと言う物が来た頃でしたが、それからの3年間、アニメはあっても、この手の「怪獣特撮」番組は一切、ありませんでした。
それが、昭和46年、ある日突然、待ちに待っていた「特撮怪獣番組」が堰を切ったように一斉に始まりました。
「スペクトルマン」(当初のタイトルは「宇宙猿人ゴリ」)や「仮面ライダー」といったヒーローたちがブラウン管(この言葉も、絶滅危惧種ですね・・・。)から溢れ始めたとき、本家本元を代表して、当時の子供たちの前に登場したのが、この「帰ってきたウルトラマン」でした。

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by heitaroh | 2006-05-22 08:25 | 文学芸術 | Trackback | Comments(2)

ローマ帝国衰退に見る権力継承の意義その5 結論
昨日の続きです。

となれば、なぜ、ローマ人は皇帝を選挙で選出することをせず、正当性の担保を血縁にのみ頼ったのか?という疑問が浮かんできます。
領土が広大であり、現代のアメリカのように通信技術も発達していなかったから・・・というのも、一理あるでしょう。
では、そうならば、元老院議員による互選という間接選挙制でもいいわけで・・・。

これは、ひとつには、この時代あたりから、ローマの元老院という物があまり、機能しなくなってきていたことがあるように思えます。
暴君として有名な皇帝ネロが死んだ後、ローマでは最初の皇帝不在による内乱が起こりますが、このときも、元老院は何ら、有効な手を打てず、結果的に事態を憂慮した各地の軍司令官たちが集まり、合議の末、ヴェスパシアヌス司令官が帝位に付きます。
このときは、内戦に疲れていたこともあり、ヴェスパシアヌス帝の子供たちが世襲する、フラヴィウス朝の成立に異議を唱える者はありませんでしたが、元老院がこの有様では、間接選挙制での元首選出・・・というのも無理だったでしょう。

ここまで、考えると、「カエサルが目指していたモノは大統領制・・・」という自説も、少々、怪しくなってきました。
当時の通信システムと、何より、現代のアメリカ合衆国とは比べものにならないローマ帝国という物の多様性とを考え合わせると、直接選挙制の導入は事実上、不可能であり、その上、間接選挙制も無理・・・ということになってくれば、世襲しか「存在理由」を誇示出来る物はないからです。
そこまで考えて、「いや、やはり、カエサルは・・・」という結論に達しました。
カエサルは、元老院というシステムも、ちゃんと立て直せば、本来、十分、使えるものだと思っていたのではないでしょうか?
その為に、当時、蛮族だと思われていたガリア人などの酋長にも、元老院の議席を与えていますが、これにより、新たな血の導入と、それに伴う、元老院でのコンセンサスの権威向上を目指したのではないでしょうか?

で、ここまで考えて、一番、最初に戻りました。
帝政という物に先鞭を付けたカエサルは権力承継システムというものをどう考えていたのか?ということです。
おそらく、
1.上述のような事情で、選挙という物が有効に働くことが望めない以上、選挙に頼ると、遅かれ早かれ、必ずや何らかの齟齬を来す。
2.であれば、世襲というシステムしかないが、それでは、あまりにも後継者という点では心許ない。
3.それらを勘案すれば、皇帝は「これは!と思う人物を娘婿か、もしくは、養子にして、皇太子とすること」を権力承継の基本的なガイドラインとする。
・・・というシステムを考えていたように思えます。
だから、カエサルはクレオパトラとの間に一粒種実子がいたにも関わらず、敢えて、遠縁オクタヴィアヌス(アウグストゥス)を後継者に指定したのだと・・・。

さらに、その上で、
4.皇帝に後継者となるに相応しい男子の後継者が居た場合など、実子に継がせるかどうかは、皇帝の意志に任せる。
5.皇帝に即位した者は、後継者にするしないに関わりなく、副帝を定めなくてはならない。
副帝は、皇帝の職務を分担・代行すると共に、皇帝に万一のことがあり、後継者が未確定の場合は、摂政もしくは後継者となる・・・としておけば、よかったのではないでしょうか?

アウグストゥスという人物は、長い時間をかけて、帝政という物を徐々に徐々に既成事実化していった人ですが、その晩年、この人もまた、男子に恵まれなかったことから、二代皇帝には、妻の連れ子であるティベリウスを指名することになります。
が、すでに在位中から、ティベリウスが事実上の副帝として安定した手腕を発揮していたにも関わらず、あくまで、自分の血筋に執着し、執着した挙げ句、ついに「該当者無し」ということで、やっと、ティベリウスを二代皇帝にすることに同意します。
あるいは、そういう意味では、この辺のことは、カエサルから、ちゃんと彼に伝えられていたのかもしれません。
構想を完全に理解しておきながら、老いたアウグストゥスは、自らの野望の為にそれをねじ曲げてしまった・・・というところだったのでしょうか・・・。
                                 平太独白
by heitaroh | 2006-05-20 14:55 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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