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日本社会では機能しない高速道路のETCを義務化の是非。
親愛なるアッティクスへ

すでにお気づきかと思いますが、当方、世情の出来事に対して、なかなかに鈍感でして・・・(笑)。
で、結果的に話題の出来事、世情を賑わせている出来事というものは、しばらく経ってから取り上げることが多くなってしまっているのですが、ふと、気づきました。
毎週、土曜をその週にあったことの「日々雑感」とすれば、それほどに遅れなくとも済むな・・・と。

で、早速、土曜に回すつもりだった、高速道路のETCの件をひとつ・・・(笑)。
昨日、「首都・阪神高速で、ETC義務化の是非を国交省が検討」というニュースを耳にしましたが、私的に言わせてもらえれば、このニュースは「??」でした。
なぜなら、高速道路のETCを強行突破していく者が多発しているという記事が載っていましたし、(さらに、ネットには堂々と、「ETCを強行突破する方法」なんてのも載ってるくらいで・・・。)実際、突破して、走り去ったところで、ナンバー撮影用ビデオカメラひとつさえ無いのが現状らしく・・・、つまり、まったくの逃げ得状態なんです。
そもそも、そんなこと、今頃言っている事自体、呆れた話で・・・。

さらに、日本道路公団関西支社に至っては、ETC端末へのカード入れ忘れや接触不良などによって、料金所通過時に開閉バーが上がらず、車体に接触し、利用客からのクレームが殺到したことで、バーが車体に接触しないようにしたところ、今度はETC被装着車であるにも関わらず、ゲートをすり抜ける車両が目立つようになったのだとか・・・。
(最近では1日あたり20~30台が料金を支払うことなく、通過しているとか・・・。)
結局、同支社では、バーの長さを元の全国標準的なものに戻したと言いますが、今度は、不正通過は防げるものの、しばらくの間は、これを知らずに強行突破を試みてバー激突するクルマが増える可能性が危惧されているとか・・・。
ていうか、その短いのに変えて、それをまた元に戻した工事費用は誰が負担するの?って・・・。

そもそも、ETCというのは、渋滞緩和と言う点では、確かに便利でもあるのでしょうが、一方で、ハイウェイ・カード偽造多発に頭を痛めた道路公団側事情も、ETC導入を推し進めた一因にあったはずです。
その意味では、やはり、ETCとは、利用者に端末機器代金負担を強いるわけですから、本来的な意味で言えば、「よかったら使って下さい」程度のものでなければならないはずで、それを普及させ、さらに、こんな逃げ放題のような状態で長らく放置したまま(今頃、問題視していること自体がおかしいのでは?)、「義務化」を検討するなんて・・・。
そもそも、日本はぶつけた方よりもぶつけられた方悪いというおかしな社会なんですから、ETC自体が刑罰を厳しくするとか、捕縛体制強化するとか、そういうことをしない限り、成り立たない物なんじゃないんでしょうか・・・。
つまり、「ぶつかったら車が跳ね返される」バーを採用出来ない日本社会では、ETCとは「最初から導入に無理がある物」であり、それを導入しておいて、ずさんな運営で、その上、義務化・・・と。
やはり、「今更、何言っているの?」って言う、民間企業では考えられないような発想ですよね。

郵政民営化の時に、「民営化が必ずしもいいものではない」という論調もありましたけど、少なくとも、私の生活感の中では、電電公社国鉄専売公社もはるかに良くなったように思いますよ・・・。
まあ、それ以前に、本来、高速道路は無料になるはずのもの・・という論議もあるんでしょうけど・・・。
ま、利用者から料金徴収しても、ちゃんとしたことに使ってくれればいいんですけどね・・・。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-04-28 08:01 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

孫子と「人民の狂騒は一ヶ月で終わる」は不朽の理と見つけたり。
e0027240_9545857.jpg今日は、昨日よりは風も吹いてないし、まずまずのお天気のようですが、気温は少し低めのようですね。
まあ、あのまま、一直線に向かうとは思ってはいませんでしたけどね・・・。

想定内ってところでしょうか・・・?(←これって、すでに死語?(爆!)。
人民の狂騒は一ヶ月で終わる。」ってのも平太郎語録にありましたよ(笑)。その意味では、拉致被害者家族の方たちが、何を言われても、テレビに出続けていらっしゃるのは賢明な方策だと思います。いくら、彼らに同情が集まっていようとも、話題に上らなくなったら、人民は一ヶ月で忘れますよ。)

ということで、また、昨日の続きです。

かつて、大分県平松守彦氏が県知事に就任ししたときに、助役か誰かに、「大分は海と山しかない、何もないところですから・・・。」と言われ、「それは違う。大分には海と山があるんだ。」と言ったといいます。
平松元知事は、この後、全国的に広まる「町おこし」の元祖となる「一村一品運動」などに代表されるように、この言葉の通り、大分県の存在感を向上させるのに大いに腕を振るわれたとか・・・。
(その関係があるかどうかわかりませんが、私は「日本で一番、食い物が美味い」のは、博多でも札幌でも東京でも大阪でもなく、「大分」だと思っております。海の幸、山の幸・・・。本当に絶品ですよ。)

その意味で、よく、「うちは何もない田舎だから。」と言われる方がいらっしゃいますが、こういうのは得てして、中にいる人間よりは、外から来た人間の方が価値がわかる事が多いようで、私がよく言うのは、自分たちの街から、半径何km、何十km、何百kmといった具合に円を描いてみて、まず、その円の中に何があるかを把握し、その後に、内側をもっと掘り下げるか、外から持ってくるなどの方策を検討する必要があるのではないかと・・・。

e0027240_22143130.jpgこれとは少し違うかもしれませんが、かつて、「田中角栄さんは新潟を中心とする環日本海経済圏構想を残した。それに対し、竹下 登さんは、島根に公共工事しか残さなかった・・・。」という話を聞いたことがあります。
これなども、確かに、東京から見れば、辺境の新潟も、環日本海という視点では、まさしく、中心に位置するわけです。
(以前、平太郎独白録 「幻の都 安土をゆく その1 龍馬と司馬遼太郞の読み違えに見る安土。」の中でも申し上げたことですが、福岡市は日本地図で見れば辺境でしょうが、視点を東アジアに置けば、1,000kmで東京、上海、ソウル、平壌、1,500kmで台北、北京と、5つの首都4つの一千万都市が円内に入るという・・・。)

でも、こういった、「己を知らない」ことは、何も地方に限ったことではなく、大都市でも往々にして見られることです。
一例を挙げるなら東京でも、地元の人が、はとバスに乗って、初めて、そういう物が有ることを知る・・・ということも聞きます。
現に、私も行きましたが、吉田松陰、橋本左内が斬られ、解体新書が書かれ、2.26事件の時の青年将校ねずみ小僧 次郞吉が一緒に眠る南千住回向院は、殆どの観光ガイドには出ておらず、やっとみつけた紹介記事では、ゲテモノ扱いに近い、怪奇スポット扱いでしたよ。
東京はあらゆる意味で観光で飯を食っていないですから、こういう物の価値がまるでわからないのでしょうね・・・。
京都にあったら、今頃は、一大観光名所ですよ。

ええ~っと・・・。
もっと、何か肝心のことを書かなきゃいけなかったんですけど、出てきません(笑)。
ちょうど良い長さにもなりましたし、また、思い出したら、どこぞで書かせて頂きます。
乞うご期待!(爆)。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-04-27 08:18 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)

続・ミロシェビッチに見る戊辰戦争とコンスタンティヌスの内戦の定義
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

ローマに話を戻しますと、ローマ帝国末期、帝国は四人の皇帝分割統治する時代を迎えますが、ここで、さらに四人のうちに入れなかった先代皇帝の息子が一人、本来の本国であるイタリア半島で勝手に即位宣言したことから、時代は分割統治から群雄割拠の色合いを強くしていきます。
即ち、誰がこの、「帝位を僭称した皇帝」を討つか・・・ということになり、最初に攻め込んだ皇帝は、諸都市の固い叛意の前に、逆に敗死・・・。
次に攻め込んだ皇帝は、抵抗する城塞都市を殲滅し、見せしめとすることを選択しますが、逆にその情報はいち早く、イタリア半島全体に伝わり、他の都市を死に物狂いにしただけとなり、その皇帝は撤退を余儀なくされた・・・と。
そして、最後に攻め込んだ皇帝は、叛乱に立ち上がった諸都市に対し、「罪は問わない」と宣言し、激しく抵抗した都市も撃破した後は、誰一人、罪を問われなかったそうで、その結果、これが伝わるや、諸都市は戦わずして城門を開き、覇業に大きく前進したわけで、この皇帝こそが、後に大帝と呼ばれるコンスタンティヌスであった・・・と。

次に、「内戦と寛容」というものについてですが、日本の戊辰戦争の時に、誰もその理屈に気づかなかったのかというと、そんなこともないわけで、西郷隆盛賊軍でありながら、最後まで官軍相手に勝ち続けていた庄内藩の戦後処理に寛容を持って臨んだと言います。
(この藩だけは、結局、最後まで負けないままだったそうで、哀しいかな局地戦であったがゆえに、賊軍の本丸である、会津仙台が降伏したことを知り、もはやこれまで!ということで、やむなく降伏した・・・と。ちなみに、このとき、庄内藩に負け続けたのが新政府側に付いた秋田藩で、救援に向かいながら一緒に敗走を重ねたのが我が筑前福岡藩だったという・・・。)
庄内藩士は、西郷のその温情に感謝し、その後、西南戦争勃発の時には、北の果てよりはるばる南の果ての南九州まで駆けつけ、西郷軍に合力したとか・・・。

逆に、会津戦線では、新政府軍は、寛容を持って臨まなかったがゆえに、西南戦争の折り、旧会津藩士が多数、新政府軍として参戦したと言います。
5.15事件暗殺される後の総理大臣・犬養毅は、このとき、従軍記者としてその胆力を大いに発揮し、両軍の前線兵士から多くのインタビューをとってきたとそうですが、その中に、ある会津出身の新政府軍兵士の言葉として、「会津人の剣、疾きか鈍きか!薩摩人に聞かん!」というのがあったと言います。)

もっとも、古代ローマにても、必ずしも、カエサルやコンスタンティヌス大帝のように内戦というものの定義を理解した戦い方をした人物ばかりだったわけではなく、初代皇帝・アウグストゥスよりの皇統が途絶えた後に起こった内戦においては、勝った方の方面軍が破れた方の方面軍を辱めたそうで、となれば、次の内戦が勃発した際には、会津人の西南戦争参戦よろしく、負けた側の方面軍は勇んで参戦し、結果、勝者と敗者が逆転し、そしてまた、敗者に同じような辱めを与えてしまったとか・・・。

内戦とは、外敵を撃退することよりもデリケートなものだということなのでしょう・・・。
                                         平太独白
by heitaroh | 2006-04-26 20:09 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

ミロシェビッチに見る戊辰戦争とコンスタンティヌスの内戦の定義
親愛なるアッティクスへ

e0027240_15525645.jpg「我が胸の 
  燃ゆる想いに
    比ぶれば
   煙は薄し 
     桜島山」


郷土、筑前福岡藩が生んだ数少ない勤王の志士、平野国臣の句です。
聞いただけで勇壮な気分になるような、まさに名句と言っていい一句ではないでしょうか。

さて、以前、福島県の友人と一緒に鹿児島へ行った折、「おまえら薩長は敵じゃないのか?」とからかったところ、彼ら曰く、「いや、薩摩はまだいいんだ。会津の恨みが激しいのは長州に対してなんだ」とのこと。
これは私には少し意外で、「長州は最初から敵だったからまだいいけど、薩摩こそ途中から裏切った怨敵」と聞いておりましたので。
その旨を言ったところ、「戊辰戦争における会津の恨み」というのは、戦争その物よりも、戦後、勝者ある長州軍が、会津側戦死者遺体埋葬させなかったからだそうで、これこそは、即ち、戊辰戦争というものが「内戦」という意識が当事者間にカケラもなかった戦争だったと言うことだったと思います。

内戦というものを戦う上では、忘れてはならない、一つの重要なキーワードがあります。
それこそが、「寛容」というものです。
これは、何も内戦に限ったことではなく、戦後も、そこを自国の領土として併合する意図がある場合などでも同じです。
この点は、数々の内戦を繰り広げてきた古代ローマ人の戦いにこそ、もっとも、顕著に表れていると思います。
即ち、異民族、蛮族など、自分たちに同化しようとはしない外敵には、見せしめというものが必要ですから、皆殺しなどの残酷な措置が必要ですが、同胞には、どのような抵抗があろうとも、「寛容」というものを忘れてはならず、ローマ人の歴史は、内戦においての寛容というものの重要性を、見事なまでに我々に教えてくれています。

ローマ時代における最大のスーパー・スター、ユリウス・カエサル(シーザー)は、どれほどに抵抗が激しかろうと、戦後はすべてを忘れたかのように、敗者に対して恐ろしいまでに寛容でした。
それは、ある意味、当然のことで、内戦が終わったら、元の通り、皆、同じローマ人として暮らしていかねばならないわけですから、自分が戦後、国をまとめていく立場に立つことを考えたならば、妙な遺恨を残してしまっては、逆に統治の妨げになるわけで・・・。
となれば、寛容というものが、内戦を戦い抜く上においては、結果的には、もっとも有効にして、もっとも効果的、もっとも安上がりな政策となってくるわけです。

この点では、現代の旧ユーゴスラビア紛争の指導者の一人であったミロシェビッチ氏が、元々、分離独立を許さないと言うことで内戦をスタートさせたはずなのにエスニック・クレンジング(民族浄化)などという一番、愚かな手段を用いてしまったことを思えば一番、わかりやすいでしょうか。

明日に続く。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-04-25 17:30 | 歴史 | Trackback | Comments(16)

英語教育の是非に見るプロ顔負けのゲイ人・・・。
親愛なるアッティクスへ

賛否両論を巻き起こした小学校からの英語教育の実施・・・。
「世界の中で英語というものは、もう、一般常識のようになっているから、早いほうがいい。」
「いや、日本文化を守る上で、まず母国語をきっちりと習熟してから学ぶべきだ。」等々、確かに、どちらにも、一理あり・・・。
いっそ、本人たちに選ばせたらどうでしょうか?
「子供には、意外と判断能力がある」という話も耳にしますし・・・。

それ以前に、よく、日本の英語の授業は「話せない英語だ!」ということが指摘され、実際に外国人を教師に雇うところもあるようですが、私は英語の授業で「話せない」ということは構わないのではないか・・・と思っています。
まず、「話す」ということは、既存の学校教育で習熟度を計測する上では把握しづらいということがあります。
それを考えれば、これに対応するとなれば、人材の面でも、環境の面でも、費用対効果を考えれば、あまり現実的だとは思えないからです。
(そう言えば、以前も、センター試験か何かで、「試験中に、ヒアリングの機械が壊れた・・・」などというニュースが流れてましたよね。)

学校教育では、文法単語の構成だけを学習しておいて、あとは卒業後、必要に応じて、各人が学べばいい・・・、つまり、学校教育の段階では、「書ける・読める」までで十分だと思うのです。
と言いますのも、何より、これからは、ネット社会の世の中なのですから、「書ける・読める」だけでも、ある程度、用は足せるように思います。
まあ、発音はできるだけ低年齢のうちから始めた方がいいというご意見もあるとは思いますが、まあ、なにぶん、当方は、学問ということには縁遠い人間ですので、ひとつ、ご批判はお手柔らかに御願いしますぜ、御同輩。

ところで、昭和40年代だったでしょうか、当時、テレビのドキュメンタリー番組に出てた昔気質老芸人明治15年生まれ。故人。)が言ってました。
「色々、慰問に行ったけど刑務所軍隊一番恐かった。」と。
「ああいうところには本物の芸人がおる。」と。
人間、一定の規模で強制的に徴収されて、閉鎖的な生活を送らされるようになると、その中で権力が生まれ、秩序が生まれ、そして、わざびと(技術者)が生まれると言うことでしょうか・・・。
軍隊はともかく、刑務所なんかは、することがないわけでしょうから、そればっかりを一心不乱にやって、それで一定の地位を得ているわけで、そういうところには、プロ顔負けの芸人派生することになる・・・。
そういうことでしょうか。
私の周りにも、なかなか結婚しないので、そちら方面の噂をたてられているプロ顔負けゲイ人がいますが・・・(笑)。
                             平太独白
by heitaroh | 2006-04-24 19:57 | 教育 | Trackback | Comments(15)

続・博多うどん考察 かろのうどんと中世博多うどん!
親愛なるアッティクスへ

先日申し上げました平太郎独白録 「七百年前の港湾都市の現実にみる年越しそばの起源!」の続編なのですが、私は実は、うどんが大好きでして・・・、そばは最近、食うようになりましたが、昔は、まったく・・・。
大阪万博のとき、会場内の食堂には、うどんが売ってなくって、他に子供が食べられそうな物は、そばしかなかったという・・・。
それも、ざるそばなら、まだ、何とか・・・って思ったんですが、メニューにあったのは、汁そばのみ・・・。
まるで、私に「好き嫌いしないで我慢して食べなさい!」と万博が言っていたようで・・・。
でも、「東京はそば、大阪はうどん・・・」だったんじゃないんですか???
あの当時から、もう、大阪は東京に呑み込まれ始めてましたね・・・(怒)。

って、そういう私事はさておき、昭和40年代後半に、永六輔さんがやっていた浅田飴のCMを覚えておられますでしょうか?
永さんの独特の口調で「行った先々で語る・・・」というCMだったのですが、その中の一つに、「大変美味しいうどん屋さんを見つけました。店の名前は『かろのうろん』。この地方では、だぢづでどが訛ってらりるれろになるそうです。だから、『角のうどん』が訛って、かろのうろん。浅らあめ。」というのをやってたことがあります。
当時、小学校高学年だったと思うのですが、私はそれを聞いて、「へえー、『だぢづでど』が『らりるれろ』になるなんて、日本には、変わったところもあるもんだな・・・。」と思ってたのですが、それからしばらくして、うちから歩いて15分くらいの所に、この「かろのうろん」が有るのを見つけました。
「おお!かろのうろんもCM有名になって、ついに福岡にも支店ば出したばいな!」と思っていたら、それは、支店ではなく、本店でした・・・。

つまり、「変わったところ・・・」というのはうちの近所だったわけで・・・(汗!)。
だって、博多弁に、そんな訛りがあるなんて、初めて聞いたんだもん・・・。
思えば、博多には「博多にわか」という伝統芸能・・・、つまり、博多弁の漫才があるのですが、おそらく、うちの祖父だったら、大笑いしたのかもしれませんが、私には、何を言っているのかがさっぱりわからない・・・。
方言も、時代と共に変わっていくものなんでしょうね・・・。

ちなみに、以前、大河ドラマ「北条時宗」があったときに、元寇のシーンを実際に博多湾で収録したのですが(と言っても、もろ、福岡タワーの近くですから、当然、他にも商業施設はたくさんあり・・・。まあ、今は、編集の際にいくらでも消せますからね・・・。)、その際、収録後に、そのまま、セットを一般に開放して、北条時宗展というのをやっていました。

e0027240_1049134.jpgそのとき、そこで、伝来当時のうどんを再現した「中世博多うどん」というのをやってまたのですが、当然、新しもの好きの私としては、食べてみたのですが、まるで記憶にありません(笑)。

で、詳しい定義は忘れましたが、当時のうどんというのは、麵が赤みがかったうどんだったと言います。
で、その後、しばらく経ってから、その「中世博多うどん」を売り出した店が出来ました。
(←これですね。少し、麵が赤みがかっているのがおわかり頂けるでしょうか?)
で、話を戻しますと、タモリさん曰く、「博多のうどんは、元来、歯ぐきで嚙めるうどん」だと。
(「讃岐うどんなんてアゴがくたびれるだけだ」・・・とも(笑)。)
確かに、最近でこそ、博多にも、手打ちうどんなどが出てきましたが、昔は、博多のうどんと言えば、「歯ぐきで嚙める」ような、ふにゃふにゃした、まったく腰がないうどんでしたね。
私も、30年くらい前に、初めて博多に出来た本格的な手打ちうどん食って、「美味い!」と思いましたからね・・・。
(それまでは、看板には手打ちうどんと書いてあっても、実際にはまったく、手打ちではなかったですね。)
でも、タモリさんの話には続きがありまして、曰く、「讃岐うどんなどの手打ちうどんは、歯ごたえを楽しむのであって、博多のうどんは、歯ぐきで嚙めるうどんだけど、それは喉ごしを味わううどんなんだ。 」と。
喉ごし・・・ってのは、私にはイマイチ、わかりませんが・・・。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-04-22 08:06 | 地域 | Trackback | Comments(0)

銀山温泉にて想う孫子の「人を知り己を知らば」的定義!
親愛なるアッティクスへ

e0027240_22253999.jpg今日の博多は、昨日が、これほどにうららかな良い天気だったのが信じられないほどに、強風が吹き荒れ、少し気温低めのようです。
(←おわかりになりますでしょうか?左上の方に、飛行機雲・・・というより、飛行機が・・・。ここ、大事なところですよ!(笑)。)

が!実は、昨日夜は、今日より、もっとすごかったんですよ!
19時半頃、私は、知人の御尊父様がお亡くなりになったとのことで、車でお通夜に向かっていたところ、天気予報通りに、フロントガラスにポツンポツンと・・・。
で、都市高速に乗ったら、みるみる、大粒の雨が・・・。
まるで、手のひらで窓を叩くみたいに降り始めました。
で、そこから後は、強風と相まって、本当に凄かったですよ。
私も、始めて見ました。
雨が下から降るのを・・・。
まるで、山笠のときに力水バケツでぶっかけるみたいに(この表現、我ながら、極めて、的確・・・。)、道路の下から、ドシャア、ドシャアって・・・。
結構、運転が大変でした・・・。
でも、通夜が終わって、葬儀場から出てきたら、嘘みたいに雨は上がってましたけどね・・・。

e0027240_10572090.jpgところで、先週の週末、宮城県の友人に誘われ、山形県にある銀山温泉に行ってきました。

九州人的には、雪がある風景というのが珍しく、大変、よかったですね。

残雪って言葉自体、あまり、馴染みがないほどですから・・・。

でも、すっかり、ここも有名になっちゃったみたいで、すでにどこも当分は満員御礼らしく、「無理言って、とってもらった。」とのことでした。

e0027240_1133727.jpg(←九州人的には、こういう、日本昔話しに出てくるような世界というのが、大変に新鮮なわけで・・・(笑)。今では貴重里山の風景ってやつですよね・・・。)
以前、大分別府温泉の、道無き道を行くような秘湯に連れて行ってもらったことがあるのですが、行ってみたら・・・。

すでに佐賀ナンバー福岡ナンバー相模ナンバーが止まっていて、標準語で会話が為されているという・・・。
こうなると、もう、秋田乳頭温泉と一緒で、秘湯じゃなくなるんですよね・・・。
それが、逆に、一時的なブームで終わることとなり、結果的には、あまり、よくないという話も聞きますし・・・。

e0027240_119502.jpg大分の、湯布院なんかも、元々、隠れ家的なところが良かったのに、今では日曜は観光バス大渋滞・・・。

これじゃーねー・・・。

(←観光地と言えば、こちらは、帰りに連れて行ってもらった日本三景の一つ、松島です。)

さらに、湯布院の成功を見て、あちらこちらに湯布院もどきがたくさん出来るし、鄙びたところがよかった観光地が、渋滞で動けないなんて、何か根本を間違っているような・・・。

場所によっては、江戸時代の町並みを活かしているようなところもあり、となれば、元々が、バスが入れることを前提に街も、建物も、作られてないところもあるわけで、それが行ってみたら、日帰りバスツアーみたいのがたくさん来てて、身動きが取れず渋滞の原因に・・・ってことも。
いくらいい物でも知られないと意味がないし、知られすぎると価値が下がる・・・
難しいところですね。

で、町おこしという点で少し、思うのが、「敵を知り己を知らば百戦するとも危うからず」という有名な孫子の兵法の一節です。
ただ、この点でよく言われるのが、本当に難しいのは敵を知ることではなく、むしろ、「己を知ること」だということとです。
「敵を知る」ということは、諜報活動重要性を現していると言われていますが、「情報」というものの重み・重要性というものは、古来から、孫子以外でも、口が酸っぱくなるほど言われてきたことであり、逆に言えば、情報を得るということが、如何に簡単でないことなのかを現しているようにも思えます。
(簡単に情報を的に得られてしまうような組織というのは、すでに戦う前から負けているとも言えるのでしょう。)
逆説的に言うならば、それだけ難しい「敵を知る」ことと並べて、「己を知る」と言うことがあげられているということ自体、如何に「己を知る」ことが難しいか・・・と言うことなのかもしれません。

ということで、続きは明日のココロだ~♪

                                         平太独白
by heitaroh | 2006-04-21 08:14 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(6)

遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 後編。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_13462751.jpg今日の博多は、桜も終わり、すっかり春爛漫です。
今年初めて、車の窓を開けて走り、ちょっと気が早いけど、アイスコーヒーを作りました。
こういう空を見ていると、今も世の中のどこかで争いごとが起きている・・・なんていうのが、何だか哀しい気分になってきます。
ということで、柄にもなく、平和主義者になったところで、明石元二郎シリーズ完結編です。

ここから先は、戦争終結後の明石に絞って述べてみようと思うのですが、元々、明石が工作資金として使った金は、公に出来ない機密費であり、ごまかそうと思えば、いくらでも、ごまかすことが出来る金であったわけですが、にも関わらず・・・。
明石は帰国時に機密費の使用使途について、きちんとした明細を、わずかな釣り銭と共に参謀本部に提出したそうで、その中には、明石が私的に流用した金、個人の遊興の為に使われた金は殆どなかったとか。
気にしない身なり、明晰な頭脳、動じない胆力・・・、そして、高潔な人柄と言うものが見えてくると思います。
(「身なりなど、顧みないのが筑前武士だ。」とうそぶいていたとか・・・。)

日露戦争終結後、帰国を命じられた明石に対し、ロシア革命運動の同士らは、「大佐、アナタハ、帰国シテハイケナイ!」と、共に戦うことを迫ったと言います。
明石が、この時点で、単なるアジテーターに留まっていなかった・・・、体を張って革命運動を支援していたということの、まさしく、アカシだったのではないでしょうか・・・。
彼は、その要請に対し、「私は、日本の軍人だ。」と拒絶し、帰国します。
この、「日本の軍人・・・。」という考え方は、この後も彼の生涯を貫くものとなりますが、惜しむらくは、明石は日本人としては、生まれてくるのが、40年・・・、いや、20年遅かった・・・。
やはり彼は、20年早く生まれてきて徳川幕府を相手に、勤王の志士として、腕を振るうべきで、日本にとっては、人材の浪費になった可能性が高かかろうとも、彼にとっては、その方が幸せだったような気がします。
(もしくは、同時代人であれば、ロシア人か中国人として生まれてくるべきだったと・・・。)

明石が去った後、ロシアの革命運動は一旦、頓挫し、レーニンらは、国外への亡命を余儀なくされます。
当時、ヨーロッパにおいて台頭していた新興国ドイツは、明石の活動を含め、かなり綿密に日露戦争というものを研究していたようで、日露戦争から10年後に勃発した第一次大戦では、タンネンベルヒ会戦での大勝利と、保護していたレーニンらを秘密裏にロシアに送り返すことで、ロシアを大戦から撤退させることに成功します。
その後、レーニンは、ついにロマノフ王朝を倒し、ソビエト社会主義共和国連邦・・・、通称、ソ連を成立させることに成功します。
ちなみに、昭和20年(1945年)の第二次大戦の日本降伏直前に、満州へなだれ込んできたソ連軍の快進撃に対し、スターリンは「これで日露戦争の仇はとった!」と言ったそうですが、しかし、レーニンは、革命成就後、「明石には感謝状を出したいくらいだ。」と語ったとも言います。

一方、明石は、戦後、一旦帰国したものの、それから間もない明治39年(1906年)、今度はドイツ大使館付武官となり、再び渡欧します。
が、夫人の病状よろしからず・・・ということで、歩兵第七連隊長を命ぜられ帰国。
(夫人は、明石の帰国を待つことなく他界。)
その後、明石は寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官警務部長を兼務し、韓国併合の過程では、「日本の軍人」として、ロシアの時とは逆に革命勢力を弾圧する側にまわります。
このため、歴代の朝鮮統監と並んで、明石の朝鮮での悪名は高いとか・・・。

大正2年(1931年)、任陸軍中将、翌3年、参謀次長として、参謀本部に復帰、7年、台湾総督を命じられ渡台。陸軍大将
台湾時代の明石は、朝鮮在任中とはまるで別人のような感が私にはあります。
こちらの方が、本来の明石なんだな・・・と。
水力発電所設置し、華南銀行設立
さらに、日本人台湾人均等教育を受けられるよう法を改正し、その飾らない性格で、部下からも愛され、現地人の評判も悪くはなかったとか・・・。

大正8年(1919年)10月、特別大演習陪観の為の、東京への船旅の途中、船中において重態となった明石は、急遽、郷里の福岡下船し、治療に専念したものの、この、存命中から、「総理の器」という呼び声も高かった男は同年10月24日、脳出血により、生家にほど近い大名町松本健治郎宅で逝去
遺言により、遺体は台湾に埋葬されたものの、その後の歴史の中で、あまり、良い状態にはなかったようですが、平成12年(2000年)、現地有志の手により改葬されたと聞いております・・・。

世界を股にかけた男が、最後は生まれた地で死ぬ・・・。
彼が望んでそうしたわけではないにしても、これもまた、ある意味、福岡人らしい・・・と。
                            平太独白
by heitaroh | 2006-04-20 18:34 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 中編。
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

私は、今から、二十年くらい前に「情報将軍 明石元二郎―ロシアを倒したスパイ大将の生涯」という本を読んだのですが、その中で、明石元二郎レーニンと初めて、相対するシーンが出てきます。
レーニンは、最初に、労働者が吸う安い煙草に火をつけながら、こういったそうです。
「われわれの運動を支援したいという申し入れですが、戦争相手の日本政府から金をもらっていたことがわかったら、民衆は私のことを何というでしょう?レーニンの民衆革命不純な動機からはじまったのだ、と私を非難するでしょう。」
レーニンの言い分は、レーニンの立場に立ったなら、至極、当然のことであり、この話を聞いたとき、まだ、20代半ばだった私は、思わず、ぐっと詰まってしまったことを覚えています。
しかし、これは逆に言えば、「誰からも非難されない大義名分があれば協力したい・・・。」と言ってるようなもので。

もとより、こういう話に議事録などあるわけもなく、話がどの程度、真実なのかはわかりませんが、これを読んだ限りでは、まさしく、国際舞台で相手を説得する上で、教科書となるような会話だったように思えました。
(以下、少し長いのですが、この大著より一部、抜粋致します。)

-------------------------
明石は、「レーニン君、私は君を見損なった!」と一喝し、こう続けたと言います。
「そうじゃありませんか。私は共産主義には詳しくないが、共産主義の始祖・マルクスは過去の制度や社会組織、風習を打ち破って、新しい秩序を作ろうとした……。ところが、あなたはいまだに祖国だの皇帝だの同一民族だのと、古い考え方にこだわっている。いいですか?お互いに目的は一つです。あなたはロシアの帝国主義に侵略された人々を糾合して、ロシアに革命を起こして社会主義の国を建設しようとしている。私は日本の自衛のためにロシアに対する戦争を支援しようとしている。どちらもペテルブルクの政府を倒すという目的では同じではありませんか?他人がどういおうと、革命が成功すれは、それは民衆の幸福であり、レーニンの名は民衆の組織者として永久に残るでしょう。しかし、小さな道徳論にとらわれて失敗すれば、レーニンの名は忘れられる。

君は祖国を裏切ることは、革命の同志やロシア人に具合が悪いというようなことをいう。しかし、君はロシア人ではない。タタール人ではないのか?タタール人の君がロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに、日本の力を借りたからといって、何が裏切りなのかね? 大体、いまのロシアのはとんど全部が、十六世紀までは君たちタタール人の国だった。君たちはいうまでもなく、かのチンギスバン大王子孫なのだ。それが十五世紀の終わりにロシア人のイワン三世モスクワ大公国を立て、イワン四世(雷帝)のとき、全ロシアのツァー(皇帝)を宣言するころからタタール人に対する圧迫が激しくなり、やがて各地で敗北したタタール人は、母国のモンゴルに帰り、一部がカザフを中心とする一帯に残ったのだ‥…。私のロシア史の認識は間違っているかね? レーニン君、君がどこかの国の援助を受けて、イワン雷帝の子孫であるロシアの宮廷を倒しても、それは当然の権利回復であって、なんら道義にもとるものではない。そうではないかね? レーニン君。

どうです? 必要なだけの資金を回しましょう。返却は無用です。見返りの代償は不要、私の方は政府の、いや参謀本部の作戦用の機密費です。
謀略は秘密作戦です。そう秘密です。秘密に君に金を融通して、秘密にロマノフの背中を衝くのです。もちろん、一枚領収書も、誓約書もいりません。いかがですか? 秘密ということは、全面的に相手を信頼するということです。男と男の約束です。私は絶対に金のことは口外しません。もちろん、必要に応じて参謀本部に報告しますが、当然、参謀本部も自国の機密費の内容を公開するなどというばかなことはやらないでしょう。」
-------------------------

まずは、古い考えを捨てろという、よくある一般論から入って、お互いにお互いを必要としている、目的は同じだ!という現実論に始まり、民衆の幸福、レーニンの名誉というタテマエと本音を並べ、それでも、レーニンが納得してないとみるや、一転、日本人が知るはずもないようなタタール人にとってのロシア史観を語り、チンギスハンの名前を出して奮い立たせ、ここで、おもむろに金の話を出し、最後に、ばれないことを言って聞かせて安心させる・・・。
一切の無駄を省いた・・・、それでいながら、言うべき事を言うべき順番で述べ、掘り下げるべき所は余すことなく掘り下げて語った、惚れ惚れするような見事なトークだと思います。

日露戦争後陸軍内部では、「明石一人で陸軍10個師団に相当した。」と言われたそうですが、司馬遼太郞氏に言わせると、「10個師団どころか、日本軍全体相当したのではないか・・・。」となるようですが、その点では、私も概ね、司馬史観に同意です。
あ、誤解のないように申し上げておきますと、無論、明石独りでロシアに勝てた・・・などとは露ほどにも思っていませんよ。
誰より、明石本人が思ってなかったのではないでしょうか?

即ち、日露戦争ほどの近代戦になってくれば、桶狭間織田信長今川義元を討ち取ったようなものとは、戦争自体の質が同じ戦争とは言えないほどにまるで違っており、つまり、近代国家における戦争とは、個人の能力の優劣で決まるものではなく、国家という大きな組織同士の「総合戦略」の優劣でこそ決まってくるものだと思うからです。
そして、先述しました日本側の6つの戦略というものこそが、それをよく体現していると思いますが、(ただ、このうちの殆どが、当初から成算があってのことではなかった・・・という点こそが、この戦争の勝利が如何に際どいものであったを現しているのでしょう。)一面で、これらは、それぞれがそれぞれで健闘しているうちに、有機的相乗効果を増していったが故の勝利であったと言え、即ち、どれか一つでも欠けてはならない勝利であったともいえるでしょう・・・。
具体的に言うならば、満州義軍の存在や明石の謀略工作が軍事的成功を助け、軍事的勝利が資金調達を容易にし、資金調達がまた軍事的成功に繋がり、それがアメリカ和平仲介意欲を高め、それがまた、「いけるぞ!」ということになって明石の革命工作も盛り上がる・・・といった具合に・・・。

明日に続きます。
                               平太独白
by heitaroh | 2006-04-19 08:27 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

遅れてきた志士、筑前福岡藩士 明石元二郎 前編。
親愛なるアッティクスへ

日露戦争時、日本が打った対露戦略の中でも、もっとも大きな・・・と言っても過言ではない役割を果たしていたのが明石元二郎です。
明石元二郎は、元治元年(1864年)、筑前福岡藩士・明石助九郎貞儀の次男として福岡天神町に生誕しています。
明石家は1300石の大身であったものの、父、貞儀が29歳の若さで自刃して果てたところから、次第に家産を食い潰し、さらには、元二郎8歳のとき、福岡藩そのものが贋札事件を起こしお取り潰しとなったことから、一家の生活はますます困窮を極め、家は人手に渡り、遂には、母は長男、と次男、元二郎を連れて親戚の世話になることを余儀なくされます。
そんな中でも、母は、二人の息子への教導には余念が無く、針仕事の傍ら、武士としての心構えから論語の素読まで教え込んだとか。

やがて、成長した元二郎少年は、大器の片鱗を見せ始めます。
まず、余りに悪さをするために親戚から土蔵の中に閉じこめられたときのこと。
放り込んだものの、泣き叫ぶ声も聞こえず、余りにも静かなことから、逆に心配になった親戚が土蔵を開けて見れば、元二郎少年は、別に悪びれる様子もなく平然と端座していた・・・と。
また、元二郎の生涯を通してのスタイルととして、頭脳は極めて明晰でありながら、風釆ははなはだ不潔・・・というものがありますが、(後年、それなりの地位についたときも、手鼻をかんで、そのまま、フロックコートのポケットの中になすりつけたなどという話もあるくらいで・・・(笑)。)当然、少年時代も、いつも鼻水や、よだれを垂らしていたそうで、それでいながら、学校では常に成績は一位・・・。
しかも、その一位は並はずれて一位だったそうで、ここでも、元二郎少年は大器を思わせるエピソードを残しています。

元二郎の神童ぶりを聞きつけた当時の県令、渡邉 清が視察に来るということになったときのこと、家とて満足にない明石家にて待つわけにもいかず、代わりに場所を提供した家では、「県令様が来られる!」ということで、家の畳をすべて新しく張り替えて待ったそうです。
元二郎少年は、県令を前に、大人たちの視線にもいささかも臆することなく「精神」の二字を大書・・・。
ところが、あまりに勢いよく書いてしまったもので、「神」の字の最後の縦棒が紙面中に入りきらないことになってしまったとか・・・。
しかし、元二郎少年は周囲が「あっ!」と息を呑む中、そのまま、躊躇することなく平然と青畳の上へ墨痕鮮やかに書き通したとか・・・。
この少年の気宇の壮大さを見て取った渡邉県令は、その後、是非、養子に貰い受けたいと申し入れたと言いますが、母は決して応じることはなかったそうです・・・。

その後、中学を経て、1889年に陸軍大学校を卒業、フランス公使館付陸軍武官
ロシア公使館付陸軍武官を歴任、1904年、日露戦争が勃発すると、38歳明石大佐は、当時、ロシアで澎湃として起こりつつあった革命運動を支援することを提案。
当初、参謀本部は、あまり、乗り気ではなかったと言いますが、渋々、当時の金額で100万円工作資金として渡したところ、内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件戦艦ポチョムキン号の叛乱等を起こし、 ロシア国内の政情不安醸成することに成功。
これにより、事実上の戦争継続が困難になったロシア政府は、講和交渉のテーブルに着くことを余儀なくされますが、その際、講和交渉に応じる条件として、真っ先にロシアが呈示したのが、「まず、アカシの工作をやめさせること。」だったと言いますから、如何に超大国ロシアがアカシ1人に追い詰められていたかが見て取れると思います。

中編、後編へと続きます。
                             平太独白
by heitaroh | 2006-04-18 08:39 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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