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設計士の鉛筆
5年で5億人増えてる世界人口・・・。
先日、テレビでローマ帝国についてのドキュメンタリーを見ていたら、当時のローマ帝国全体の人口は5000万人全世界の1/4を占めていたとか言ってましたから、ということは、当時、人間の数は世界中併せても2億人程度しか居なかったんですね・・・。
まあ、至る所、空き地だらけだったんでしょう・・・(笑)。

e0027240_1603893.jpg←ところで、これが何かおわかりになりますでしょうか?

そう、言うまでもなく、鉛筆ですよね。
何の変哲もない鉛筆です。
でも、よく見ると、少し写りが悪いのですが、この鉛筆、左と右とで、少し研ぎ方が違うのがおわかり頂けるでしょうか?
どういうことかというと、左は私が普通に使っている鉛筆、右側は建築士だった亡父が使っていた鉛筆なんです。

通常の鉛筆削りで削った鉛筆だと、ご承知の通り、芯の部分が円錐型になるわけで、これが左側の鉛筆です。

ですが、これだと、一本の線を書き続けた場合、当然、後になるに従って、線が太くなっていってしまうわけですね。
で、設計士は、線を引き続けても線の太さが均一になるよう円錐型を、出来るだけ、円筒型に近づけるような形で、自分でこういうふうにナイフで研いで使ったんですね。
まあ、我々の時代になると、シャープペンシルという永遠に線の太さが変わらないモノがありましたし、ましてや、今はもう、すべてCADですから(コンピューターが書いてくれます。)、もう、鉛筆で線を引くこともななく、従って、こんなことする必要はありません。

おそらく、最近の若い設計士の方の中には、生まれながらにして、図面を鉛筆で線を引いたことが無い方もお有りなのではないでしょうか?
もっとも、それは、無理からぬことで、私がCADに触れてからでも、すでに、20年になるのですから・・・。
ついでに言えば、うちには父が使っていた計算尺なる物があります。
ありますが、私には使い方がわかりません。
我々の世代は、もう、電卓でしたから・・・。
でも、このアナログ製品も、このまま、考古学の対象にしてしまうのは少し惜しい気がして、年配の建築関係の方に聞いて廻ったのですが、誰に聞いても、「そう言えば、どうやって使ってたっけ?」と言う返事が返って来るのみで、このままでは、計算尺という物は本当に考古学の対象になってしまうのかも・・・。

私はかつて、CADの出端、友人の設計士に、「間違いなく、おまえらの業界も『昔は自分たちの手で線を引いてたんだ。』というようになる。なぜ、そう言いきれるかと言えば、建設現場の方でも(当時、私は建築屋でした(笑)。)、今や、すべて、丸ノコが材木から何から切ってくれるが、もう、『昔は自分たちの手で、のこぎりを使って材木を切った。』というふうになりつつある。」と言ったことがありました。
でも、先日、工務店に仕事を依頼しに行ったところ、今や、丸ノコどころか、この世界もすでにデジタルなんですね。
ノコギリどころか、カナヅチさえ使わない。
すべて、恐ろしいほどに発達した電動工具がやってくれるわけです。

話を元に戻すと、この鉛筆のような話は、何も設計士に限ったことではなく、かつては、この国には、普通にこういうことが息づいていたようです。
プロ野球の審判も、目が悪くならないように電灯の下では絶対に新聞を読まなかったとか・・・。

おそらく、この流れは行き着くところまで行き着かないと止まらないでしょう。
であるからこそ、こういう設計士の鉛筆画像は、かつて、この国に職人の世界というものが生きていた証になるのかもしれません・・・。
                                平太独白
by heitaroh | 2006-02-28 16:16 | 社会全般 | Trackback(1) | Comments(10)

博多湾の海図に想う児玉大将の地図を持たない人々への喝!
親愛なるアッティクスへ

今回は、先週の続きで、またまた、博多湾シリーズです。

e0027240_1521876.jpg←博多湾に沈む夕陽、その2です。

まず、「博多」という名称が文献で最初に確認できるのは759年『続日本紀』においての大宰府から朝廷への進言の中に「博多大津に船が足りない」という一文が出てくることに始まると言います。

さらに、中国の古代の書物には、博多のことを「覇家台」「八角島」「花旭塔」などの字を当てて記しているとか、朝鮮の古い地理誌には他にも「石城府」「冷泉津」「筥崎津」などの名で出てくるとか。
それほどに博多は古くから知られていたわけで、やはり、博多港は今ほどには水深が深くなく、(暗礁)が多かったにしても、志賀島という九州本土と島が潮流の関係で自然に繋がってしまったという地続きの島を持つことで、ちょうど右手で博多湾を抱きかかえ、左肩(糸島半島)をせり出すような形となっており、さらに、その右手と左肩の間に玄界島能古島という、これまた、波よけの島を浮かべていたことで、何だかんだ言っても、当時の貧弱な航海能力を考えれば玄界灘の荒波から守ってくれていたのでしょう。

ところが、その博多港は、もうひとつ特異な歴史を持っております。
それは、これまでにも何度も述べてきましたように、それほどに古来から良港として認識されながらも、軍港として利用された経歴が殆どないことです・・・。
思えば、秀吉朝鮮出兵の時も前線基地となったのは肥前名護屋であり、水深が深くなり、瀬も海図も整備された明治以降も軍港とされたのは佐世保でした。

その上で、博多湾で最初の近代海図が作られたのは、明治37年(1904年)
つまり、日露戦争勃発の年ですね。
であれば、なぜ、初の博多湾海図がこんな時に作られなければならなかったのか・・・ということは疑問に思えてきます。
なぜなら、旅順港ウラジオストック東洋艦隊の基地を持つロシア海軍の存在を考えれば、当然、西日本の日本海側が戦場となることは明白であり、また、陸軍も、朝鮮半島経由で大陸に大量の兵員や物資を送らねばならず、当然、各地の港は総動員だったでしょうし、そうなれば、博多港を利用しない手はなかったのでしょう・・・が、実際には海図さえなかった・・・というわけですよね。

で、私の好きな映画に「二百三高地」というのがありますが、この中で、とても教訓に値する場面がありました。
日露戦争開戦前夜、遂に開戦を決意した明治政府は事に臨まんとして、児玉源太郎陸軍大将を内務大臣から格下に当たる総参謀長(事実上の陸軍の作戦指導責任者)に転任させました。
(ドイツはこの人事で、日本が開戦するハラを固めたことを推察したとか・・・。)

で、それまで陸軍内部でも、盛んに開戦論をぶちあげ、時には政府首脳に対し、直訴・懇請さえした若い参謀らが多数いたそうですが、児玉大将が総参謀長に就任し、参謀本部に乗り込んできたとき、色めき立つ幕僚らに対して、「主戦場となる満州の地図を出せ」と言ったら、その場にいた青年将校たちは、皆、顔を見合わせ、「地図??」と言ったとか・・・。
「何ぃ!貴様ら、戦争、戦争、言うとったくせに地図も用意しとらんのかぁ!」と、早速、児玉大将のカミナリが落ちたと言いますが、この話は大変、考えさせられる話です。
散々、「開戦しかない!」名論卓説をブチあげていたエリート参謀たちが、実際には地図も用意してなかったと・・・。
昨今でも、「中国けしからん!」、「政府は弱腰だ!」などと気勢を上げている人を見かけますが、果たして、こういう人たちのどれだけが地図を用意しているものなのでしょうか・・・。
                            平太独白
by heitaroh | 2006-02-27 17:38 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

現場レベルでの明治維新〈長州の日本化ならぬ日本の長州化〉
親愛なるアッティクスへ

メイジ・レボリューション・・・通常、明治維新を英訳するとこう呼ばれます。
レボリューション、つまり、革命ですが、果たして、明治維新は革命だったのでしょうか・・・?
一般に、「明治維新はいつ?」と言われれば、多くの方が、「明治に改元されたとき」とか「王政復古の大号令の時」・・・などと言われると思います。
ところが、その段階では、薩長土肥と呼ばれる西国雄藩連合の武略で徳川氏を追い落としたに過ぎず、階層の流動化である「革命」という点では具体的な動きはなかったはずで、明治維新において、薩摩藩と並んで一方の主役であった長州藩では、幕末、幕府による長州征伐と、四カ国列強との交戦をほぼ同時に受け、まさに国が滅びる!という危機感のなかで、背に腹は代えられず奇兵隊という欧米型の国民皆兵制軍隊を生み、それがさらに禁門の変第二次長州征伐鳥羽伏見の戦いといった戦闘を経ていく中で、その百姓町人を中心とする奇兵隊の勇猛さは、庶民発言力向上をもたらしたわけで・・・。

つまり、長州藩ではこういった呉越同舟的な雰囲気のなかで、身分制の崩壊がすでに始まっており、ひいては階層の流動化「革命」というものを醸し出していたと言え、それが、その後勃発した戊辰戦争において、そのまま新政府軍の中核をなしたことにより、長州の日本化ならぬ「日本の長州化」とでも言うべき「革命」が起動したのではないでしょうか?
即ち、従軍した諸藩の、いわゆる足軽郷士と言われる人たちの多くが、身分の上にあぐらをかいていた人たちの無能さを目の当たりにすることとなり、それがさらに百姓町人からなる長州の兵隊たちを見ることによって・・・、もっと言うならば、自藩の上士が、百姓町人あがりの奇兵隊士にあごで使われるのを見た瞬間に、封建制というものはなし崩しに崩壊したと言ってよく、この瞬間こそが現場レベルでの明治維新だったのではなかったかと。

この点、百の思想を机上で教えるよりも、人民の末端まで、皮膚感覚で、新しい世の中が来たことを実感できたということが、これまで封建制のもとで、不遇を囲っていた庶民たちの支持に結びつき、そのことが、脆弱な基盤の明治政府を、意外に強靱な物にした隠れた理由であったようにも思えます。
もっとも薩摩においては、革命という機運が藩内で高まったのではなく、単に西鄕隆盛・大久保利通ら、指導者層の武略によってのみ幕府を倒してしまったことから、長州藩のような革命的気運醸成と言う経緯を経ずに、そのまま、革命政府に参画してしまったと言え、それこそが意識レベルでの薩摩藩の誤算であったと言えるでしょう。
何故ならば、薩摩藩は、唯一、戊辰戦争において、長州藩より上の立場にあり、長州化する必要がなかった集団だからです。
だが、そのことが、日本全体が長州化していくなかで、その流れに逆行していくことに繋がり、結局、西南戦争と言う破滅にまで至ってしまったのは、その意味では、これまた、当然の帰結だったと言えるのかもしれません。

ただ、薩摩の側に立って言うならば、幕末の薩摩藩の実質的なオーナーであった島津久光には、元々、幕府を滅ぼす気などは毛頭なく、その結果、薩摩の倒幕指導者たちは国許にいる主力軍を当てにすることは出来ず、本来、長州と違い、上手に立ちまわったがゆえに、あまり損耗していない薩摩軍が加わっていながら、鳥羽伏見の戦いでは幕府に対し、兵力の上では圧倒的に劣勢に立つしかなかったということが、長州と違った意味で体調万全ではなかった薩摩側の内幕を語るものであると言えるでしょう。
薩摩はこういう内情を誰にも悟られることなく、ある意味、虚勢で明治維新を起こしたと考えると、薩摩人の気迫がこういう所にも見受けられるように思えます。
言うならば、鳥羽伏見の戦いの直前段階での長州を満身創痍の大けがに例えるなら、薩摩は内臓疾患を抱えていたといってよく、明治になって、久光という病根から開放されたことで、元気になったからといって、急に激しい運動をしたところ、逆に怪我しなれていないがゆえに、骨折してしまったのが、西南戦争だったと言えるのかもしれません・・・。
                                         平太独白
by heitaroh | 2006-02-25 07:38 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(4)

福岡人気質が決定的としたディマジオとモンローの破局。

   「細君の 反応欲しく 倒れたり 反応したるは 空清器のみ」
                                  梁庵平太


    (「さみしー!」←知る人ぞ知る財津一郎の往年のギャグ・・・。)

さておき、私の地元・福岡市(博多)は、たびたび、平太郎独白録 「博多港の歴史に見る「この前の戦争」的定義!」平太郎独白録 「もうひとつの元寇にみる日本政府の拉致への対応。」などでも述べさせて頂きましたように、「漢委奴国王」金印でも知られるとおり、日本でも有数の歴史ある街なのですが、(その一番古くは金印として、一番、新しい歴史は、終戦後、大陸からの引き揚げ港に指定されたことです。)意外と知られていないところでは、ハリウッドのセックス・シンボル、マリリン・モンローとメジャーリーグのスーパースター、ジョー・ディマジオ新婚旅行で来日した際、夫妻の仲が決定的になった地・・・でもあります。

すでに現役を引退していたディマジオとしては、新婦に自分の人気がどれほど凄いかを見せつけようと思って、数年前、メジャー・リーグの一員として来日したときに熱狂的に迎えてくれた日本を新婚旅行の場として選んだのだそうですが、来日したところ、皆、「ディマジオって誰?」状態だったそうで、それどころか、どこに行っても「モンロー!」だったそうで・・・、まあ、この辺が極めて日本人らしいのですが・・・。
(今でも、三大テノールとかが来日したら、大勢押し寄せますが、「あんた、本当に知ってんの?」ってところがありますよね。もっと言えば、ブーニンってどこ行ったの??・・・と(笑)。)

で、来福した折り、当然、軽薄さでは日本一を豪語してもいい(?)、福岡人ですから、まあ、大体、想像は付くかと思うのですが、当時の地元新聞記者は、ディマジオなどそっちのけで、モンローに突撃取材を敢行し、モンローがホテルの外に集まった群衆に向かい、窓から身を乗り出して、ファンに手を振るところを、後ろから写真を撮ったと言います。
当然、翌日の新聞一面には、モンローが大きくお尻を突き出した写真が大々的に載ていたとか。

e0027240_11182017.jpg(←ディマジオとモンローが見たであろう玄界灘です。)

そんなこんなで、気まずい雰囲気は、結局、この直後に勃発した朝鮮戦争への慰問公演をモンローが依頼され、ディマジオが反対したにも関わらず、それを受けたことでディマジオはモンローを待たずに帰国。

二人の仲は事実上の破局を迎えたとか・・・。

モンローとディマジオ・・・、いや、ディマジオとモンローの破局にも関わっていたとは、恐るべし、福岡人・・・ですね(笑)。

親愛なるアッティクスへ
                              平太独白
by heitaroh | 2006-02-24 08:00 | 地域 | Trackback(1) | Comments(16)

海図から見る博多港今昔から想いを馳せる金印!
親愛なるアッティクスへ

博多港シリーズ第5弾(・・・あるいは第六弾かも(笑)。)です。
去る新聞朝刊に、九州大学大学院教授 服部英雄氏の筆になる「海図を読む」という特集記事が載っておりました。
大変、興味深く読ませて頂きましたが、それによると、てっきり古来からの天然の良港だとばかり思っていた博多港も、実は明治の段階ではまだまだ、「瀬」と呼ばれる海面下に隠れてしまう暗礁が多々あったそうで、中には海中に立てる所さえあったとか・・・。
この教授氏ならずとも、「立ってみたい」という気持ちになろうかというものでしょう。

しかし、そんな、「漁師にとっては絶好の漁場」であり、「住民にとっては天然の防波堤」でもある「瀬」は、同時に、航海者にとっては「障害」以外の何ものでもなかったわけで、そこから明治になって初めて海図というモノの必要性が出てきたのだそうです。
(それ以前は、漁師にとっては、知ってることが当たり前であり、それをわざわざ、図面に落とす必要を感じなかったとか・・・。)
この辺を昭和4年(1929年)の海図でみると、そういった瀬と瀬を結んで、その上に防波堤が築かれており、さらに、港湾内の浚渫も開始されているのもわかるとか・・・。
そのおかげで、現在の博多湾の人工航路の水深は14mあるのだそうで、それで、現在では大型船の出入りが出来ているわけですね。

その辺を、一部、抜粋させていただきますと、
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博多湾等深線を読んでみる。
博多湾内は意外に浅く、先の間の瀬あたりは、二尋(3.6m)程度の水深しかない。
能古島東方つまり博多湾の過半は水深三尋(5.4m)程度であった。
加藤清正の軍船は350人を乗せ、船艙深5.9mだったという。
三尋では不足する。
『老松堂日本行録』の朝鮮通信使・宋希璟がそうしたように、船は志賀島に碇泊したままで、それより博多へは小艇乗り換えて往復することも多かった。
島の重要性がわかる。
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だそうです。

e0027240_16243281.jpg←こちらは、現代の博多湾です。
中央部分に地続きになった島が確認頂けると思いますが、これが志賀島です。
ここに船を置いて、ここから、小型舟艇に乗り換えて、向こう岸まで行かないといけないわけですね。

また、教授は「蒙古襲来時の元軍停泊地伊万里湾の入口にあった鷹島であって、ただちに上陸はしなかった。豊臣秀吉は博多ではなく、深い呼子の海を朝鮮への出撃基地に選んだ。」と書いておられました。

なるほど、それで行けば、志賀島に金印が埋まっていたのも「WHY!」ってほど不思議な話でもないわけで、秀吉が朝鮮出兵の拠点を肥前名護屋に選んだのも、必ずしも、「前線基地にされたくなかった博多商人たちの深謀遠慮」b>に引っかかったというわけでもなかったわけですね。
(ちなみに、旧暦の2月23日金印発見された日だそうです。)

e0027240_16224591.jpg←こちらの画像は、その志賀島から福岡タワー方向を見たところです。
(この辺りからは、角度的に、福岡市のいわゆる、天神、博多駅、中洲といった中心部分は見えません。)方向的には、ほぼ、上の画像の志賀島南端部分から垂直方向にを見たものとご理解下さい。

                                 平太独白
by heitaroh | 2006-02-23 16:55 | 地域 | Trackback | Comments(10)

幕末における大局的見地からみた最大の功労者としての徳川慶喜
親愛なるアッティクスへ

e0027240_15323874.jpg民主党岡田さんです。
痩せましたネー・・・って、違いますよ!
坂本龍馬の懐刀にして、不平等条約の改正に尽力した明治の外務大臣、陸奥宗光です(笑)。
息子の小学校の歴史の教科書で見つけました。
・・・似てませんか?

冗談はさておき、以前、私は、ある友人と幕末の人物について話をしたことがあります。

友人は、「今日の日本があるのは河井継之助のような人がいたからこそだ・・・」と。
それに対し、私は、「彼がやったことは、ナポレオンと一緒で、多くの人を殺して、国を小さくして、次代に申し送っただけに過ぎない」と答えました。
まあ、歴史上のロマンは感じるかもしれないけど、結果的には歴史の歯車をほんの少し、遅らせただけに過ぎなかったというのが私の考えです。
むしろ、彼を評価するのならば、北越戦争以前に、財政的に行き詰まっていた長岡藩財政立て直し手腕にこそあったように思います。

ついでに言えば、今年の正月でしたか、「土方歳三最後の一日」というドラマをやってましたよね。
これを見ていて思ったのですが、まあ、土方というのは、女性に限らず、男性が見てても、ある種、理想の男の姿がありますが、でも、函館戦争での土方の姿というのは太平洋戦争終戦前夜に、尚も、徹底抗戦を唱えていた青年将校とどこが違うのかなって気が・・・。
函館戦争も、末期の場面では、明らかにもう、勝負はついていたんですから、大局を考えたなら、榎本武揚ならずとも、ポツダム宣言受諾ですよ。
しかし、こういった局面になっても、なおも、徹底抗戦を叫ぶ、ああいう武闘派は、大局を見ている政府首脳にとっては、もてあまし者以外の何ものでもなく・・・。
女性ファンには申し訳ないですが、言ってみれば、土方は、ハンサム憲兵隊上がり陸軍大尉以上のモノではないのでは・・・。

で、話を元に戻すなら、友人は、「では、そんな人ならば、なぜ司馬遼太郞のような人が取り上げたのか!」と。
確かに、河井継之助に限らず、松本良順然りで、司馬さんが取り上げたことによって、歴史の中に埋没していたはずの者が、一気に陽の当たる場所に引きずり揚げられたという点で、司馬さんの功績は決して小さいモノではないと思います。
が、それと発掘された物自体の評価はまた別だと・・・。
そう言うと、友人は、「では、おまえは誰だと思うんだ。」と。
私は、躊躇することなく、即座に、「徳川慶喜」と答えました。
すると、友人も間髪を入れず、「あんなやつか!」と・・・。
この辺は、以前、平太郎独白録 「最後の将軍、德川慶喜と女たちにとっての幕末維新。」にも、ちらっと述べたのですが、慶喜という人物は、とかく、評価がわかれる人物のようですが、私は高く評価しております。
少なくとも、彼が「徹底して内戦を回避した」という一点においては・・・。

当時、欧米列強は各地で内戦につけ込んで植民地を獲得していく・・・ということを常套手段にしており、それ以前に、獲物を狙うライオンの前でウサギ同士がケンカする・・・ということがどういうことかは、慶喜ならずとも、当時、有識者と呼ばれる人たちにはわかっていたはずで、それを踏まえたならば、少なくとも、慶喜の、この、自らの汚名を覚悟の上で、「多くの人を殺さず、国をそのままの大きさで次代に引き継いだ」行動には、やはり、今の日本人は感謝しなければならないのではないでしょうか?
オスマン帝国の皇帝バヤズィードや、現代の北朝鮮のように、王様とは、自王朝が滅ぶときには国民を道連れにしてやろうと思ってもおかしくないわけですから・・・。

で、慶喜を悪し様に言う人たちにとって、最大の論拠となっているのが、鳥羽伏見の戦いが勃発した直後、大坂から、自軍の兵士を置き去りにして逃亡したことだと思いますが、これ一つを取っても、彼には徹底して内戦を回避するという意志があったことは間違いないと思います。
なぜならば、このとき、慶喜が単に逃げたいのであれば自分だけで逃げればいいのに、老中会津公など、後の旗頭になりそうな連中を、すべて、引き連れて逃げているからです。
で、その後も、慶喜は徹底恭順を貫きますが、恭順というものは簡単そうに見えて、実は、それほど簡単なものではありません。
当初からの、よほどしっかりした方針が無いと、結局、どこかで追いつかれ、結果、中途半端に打って出て潰されるものだからです。
平太独白
by heitaroh | 2006-02-22 18:30 | 歴史 | Trackback(5) | Comments(15)

偉人たちに見る各人各様の指示の要諦。
親愛なるアッティクスへ

織田信長という人は主語述語を余り述べない人だったようで、家臣たちにとっては、何を言っているかよくわからない困った上司だったとか・・・。
まあ、こういう、頭の回転が常人以上で、行動力もずば抜けた人であれば、さもありなんという気もしますが、頭の回転に口が付いていかず、また、それがわからなければ感情を行動に出してしまう、とんでもない上司ですから、家臣たちも迂闊に聞き返すことも出来ず、大変だったでしょうね。
で、これについて、思い出した話があります。

昭和30年代だと思うのですが、ある財界の大物社長がいらっしゃったそうですが、残念ながら何を言っているか、よく、聞き取れない人物だったそうです。
で、それがわかったのが、唯一、後にその会社の社長となった、ある人物だけだったそうで、この人は、「何で、アナタにだけわかるの?」と聞かれるたび、「そんなもん、スワヒリ語だと思えば簡単さ・・・。」と答えていたとか。
まさしく、木下藤吉郞だったのでしょうね。
結果、何かあると、「もういい!藤吉郞を呼べ!」となったわけで、以来、彼は社長の重要な腹心となり、その後も出世を重ねていき、最後はその会社の社長にまでなったとか・・・。
彼は、その社長が「何を言っているか・・・」だけを「解読」することに専念したことで、出世の糸口を摑んだのであり、これは、ある意味、着点を変えた・・・発想の転換だったとも言えるでしょう。

この点で、同じく・・・というか、違う意味で、徳川家康と言う人も何を言っているか、よくわからない人だったそうですね。
でも、この人の場合は、まあ、いかにもこの人らしいというか、部下に何か指示を与えようとするとき、始めはハキハキ言っているのに、途中から怪しくなっていって、最後は口の奥で「モゴモゴ・・・。」となってしまっていたとか・・・。
家臣の側からすると、よく聞き取れないもんで聞き返すけど、また、途中まで聞いたら、「モゴモゴモゴ・・・」となるそうで、こうなると、さすがに上司相手に、そう何度も聞き返せるものでもなく、後は自分なりに解釈して行動に移していたけど、それに対して、特に何も言われないので、ずっと、そうやっていたと・・・。
つまり、家康は物事を明確に指示しないことで、自ら、部下に考えさせようとしたわけですね。
中には、家康の意にそぐわないことになってしまったケースもあったでしょう。
しかし、家康は、その場合でも素知らぬ顔で、何も言わず、我慢したわけですね。
徳川三百年の基礎を作った徳川武士団というものは、こういった、家康の辛抱強い社員教育あってのことだったということがおわかりいただけると思います。

この点では、明治の元勲、大久保利通伊藤博文大隈重信ら、辣腕の若い部下から非常に人気があり、同じく明治の元勲の一人、木戸孝允は、あまり人気がなかったとか。
彼らが、木戸の元に行くと、事細かに指示されるのに対し、大久保は上申書に目を通すと、「これだけか?」と問い、「はい。」と答えると、「わかった。」とだけ言って、自由にやらせたとか。
彼らにとっては、まさしく、理想の上司だったでしょう。

もう一つ、太平洋戦争の名将・山本五十六元帥は、残業しないことで有名だったそうで、夕方、自室に戻ってくると、机の上に山と積まれた書類に、秘書官曰く、「スタンピング・マシーン」と呼ばれるほどのもの凄いスピードで決済印を押していくのだそうです。
でも、いいかげんな押印なのかと思えば、そうではなく、問題がありそうな箇所はピクッと止まって、じっと読み、また、もの凄いスピードで押印を始めるのだとか。
で、終わってみれば、きちんと振り分けは出来ているそうで、しかも、それで、殆ど問題も起き無かったと言います。
このマジックの種、それは、「どうやら、提出者の名前で見ていた」ようで、つまり、「こいつなら、任せておいていいだろう。」という人と、「こいつは、ちょっと。」という人を分けていた・・・と。
                             平太独白
by heitaroh | 2006-02-21 18:03 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

もうひとつの元寇にみる日本政府の拉致への対応。
親愛なるアッティクスへ

先日、平太郎独白録 「博多港の歴史に見る「この前の戦争」的定義!」の中で、博多港の歴史について触れましたが、元寇の部分で、思いの外に食いつきがよかった・・・じゃなかった反響があったので(笑)、柳の下に何とやらじゃないですけど、元寇その他における博多港ついて、もう少し、触れてみたいと思います。

ところで、博多港に外敵が襲来したこと・・・と言えば、まあ、元寇における文永・弘安の役の二度が有名ですが、実は、869年新羅海賊船侵入事件を始め、結構あり、元寇の前にも、もう一つ外敵が襲来しています。
それが、元寇倭寇、露寇などとならぶ「寇」、通称、「刀伊入寇」と呼ばれる事件です。
(元寇に関しては、こちらをどうぞ↓)
参考記事:平太郎独白録 : アジアには王様が必要

寛仁3年(1019年)、約50隻の船団が突如として、壱岐・対馬を襲い、島民を殺害の上、1300人拉致し、さらに、船団は博多港にまで押し寄せて来たとか。
刀伊とは、高麗(朝鮮半島)が北方の蛮族を指す時に使う名称だったと言いますから、たぶん、満洲(中国東北部)の女真族の一部が押し寄せてきたのではないか・・・というのが、定説となっているようですが、この民族は、度々、朝鮮半島に侵入して、人々を拉致し、奴隷にして農耕に従事させる・・・なんてことをやってたそうです。

e0027240_10313472.jpg(←こちらは、現在の博多湾志賀島より写した画像です。

左手前に見えている細長い砂浜が、日本で唯一、潮流の影響で自然に、島と九州本土とがくっついて出来たという、通称、「海の中道」です。)

現代では、何とも、非道な話に聞こえますが、これは理論的に今日でも有り得ない話ではないと思います。

博多に侵入てきた刀伊に対し、大宰権帥の地位にあった藤原隆家は、直ちに兵を率いて駆けつけ、奮戦して、これを撃退することに成功したとされています。
当時の博多にどれだけの兵力が駐屯していたのかは知りませんが、仮にまとまった兵力は大宰府にあったとするならば、大宰府から当時の海岸線まで8km程度の距離を、一旦、早馬が報せに走り、その後に、直ちにノンストップでで出撃したとしても少なくとも1時間はかかったのではないでしょうか・・・。
ましてや、馬を持たない歩兵は、集合をかけられて、それから武装して、徒歩で2時間の距離を駆け足で駆けつけるわけですし、近在の豪族となると・・・。
つまり、本格的な占領を目指して上陸してきた元寇の時と違い、略奪するだけなら、十分な時間だったのでは・・・ということです。

で、その後、日本側は何者が攻めてきたのかまるでわからないままで、後に高麗からもたらされた情報で、初めて、賊が「刀伊」であったことが判明したと言います。
一方で、日本軍の反撃をうけた刀伊は、今度は高麗沿岸にて同様の行為を行おうとしたそうですが、今度は高麗水軍の前に、あっさりと撃退されたとか。
さすがに高麗は、こういったことへの対応は十分に出来ていたようですね。

で、ここで特筆すべきは、高麗はその後、軍を派遣してまで、入寇時に拉致された日本人の生き残り約300人救出してくれ、丁重にも大宰府まで送り返してくれたとか・・・。
ついでに言えば、このとき、日本の朝廷は、まるで有効な対策をとれないばかりか、逆に武士の力が強くなることを恐れ、奮戦した藤原隆家らを冷遇したとか。

拉致した側と、拉致された側。
絶えず、北からの脅威にさらされてきた高麗と、国家としての未熟さから、拉致に対して、何ら効果的な対応が取れなかった日本政府・・・。
これって、なんだか、どこかで聞いたような話に思えるのは私だけでしょうか・・・。

e0027240_1164496.jpg←博多湾に沈む夕陽です。

この向こうにユーラシア大陸があります。
もちろん、見えませんが(笑)。
おそらく、遣唐使船を送り出した人々も、終戦後に引き揚げてきた人たちもこの夕陽を見たことでしょう・・・。

                               平太独白
by heitaroh | 2006-02-20 08:23 | 歴史 | Trackback | Comments(22)

スポーツ選手の落日に見る一芸で飯を食うことの意義 後編
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

まあ、「ハイリスク・ハイリターンこそがプロであり、安定した生活を望むならアマチュアに行け」と言ってしまえば、それまでなのですが、この点で、先日、スポーツ選手引退後バックアップするビジネスが話題となっているというニュースを耳にしました。

e0027240_1312816.jpg

元々、こういう人たちは、辛い練習にも耐え、ある程度、結果を残して来る事が出来た人たちですから、体力的にも、精神的にも、「優秀な素材」(あくまで、「人材」ではなく「素材」ですね。)であろうことには違いないと思います。
まあ、すべては、そこに目を付けてくれる雇用主がいるか・・・ということなのかもしれませんが、この点で、私は、少々、思うことがあります。

かつて、巨人で一時代を築いた強打者に青田昇という人物が居ます。
彼は、引退後、ある会社社長の運転手になった時期があったそうで、あるとき、社長に同行して銀座クラブへ行ったところ、その社長は、グラス片手に、「おい、青田!俺の靴をふけ!」と靴を突き出したそうです。
すると、青田氏は、黙って、ポケットからハンカチを出し、きれいどころの女性がたくさん居る前で、ひざまづいて、その靴を拭いたとか。
それを見て、社長は、「巨人のホームラン王も形無しだな!」と大声で笑ったといいます。
その社長氏は、「『巨人の青田』を運転手にしている」ということにステイタスを感じていただけなのかもしれませんし、実際に、世の中には、この手の低俗な人物がいることもまた、事実です。
ただ、この話は、確かに酷い話ではあるのでしょうが、すべて、青田氏サイドから見た話であり、その社長の立場に立って見たならば、「雇ったものの、いつまでもスター意識が抜けきらない青田氏に、思い切り、冷水を浴びせかけ、目を覚まさせよう・・・と考えた挙げ句の行動」という風にも見て取れるわけで・・・。

実際、私も、昔、アルバイトで雇った女性が、二言目には、「私は前の会社では・・・。」と言うのに、辟易したことがあります。
別に、その方は、「前の会社」では、社長だったわけでも取締役だったわけでもなく、単に、「先輩社員」というだけだったんですけどね・・・(呆)。
アスリートも、引退後は、どれだけ意識を変えられるか・・・、すべてはそこにかかっているようにも思えます。
                                         平太独白
by heitaroh | 2006-02-18 19:10 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

スポーツ選手の落日に見る一芸で飯を食うことの意義 前編
親愛なるアッティクスへ

今、お笑いブーム(第二次?)らしいですね。
毎日、テレビを付けるたびに、色んな若手芸人さんたちが出てますよ。
まあ、面白いのもあり、くだらんと思うものもあり・・・です。
でも、テレビに出ているこの人たちというのは、水面下に隠れているもんのすご~~~いピラミッドのほんの一部分なんだろうな・・・と思います。

思えば、まあ、何の商売でもそうなんでしょうが、お笑いの世界に限らず、役者・作家・芸術家などからプロ・スポーツまで、「一芸で飯が食っていける」というのは、本当に凄いことですよ・・・。
端的にそれを現しているのが、「僕の家族は皆、歌がうまい。でも、歌で飯が食っていけるのは僕だけ」と言った演歌の北島三郎御大の言葉ではないでしょうか・・・。

で、野球にしても、草野球まで含めて、それを志している人の数を考えれば、これまた、もんのすご~~~いピラミッドがあるわけで、水面よりほんのわずか上に出ている部分がプロであり、仮にそこに入ったとしても、そこからまた一軍に入り、さらにレギュラーとなるのは、これまた限られた一部の人であるわけで、ましてや、主力選手として、10年、20年と、それなりの成績を残せる人たちというのは、水面より上のピラミッドのこれまた、ほんの一握りであり、ましてやましてや王・長島イチロー・松井クラスになれる・・・というのは、もう、天文学的・・・と言っていい確率だと思います。

さらに、そこそこ活躍したとしても選手寿命というのは、せいぜい20年程度の物であり、引退後は、皆が皆、監督、コーチなどの管理職になれるわけでもなく(実際、「名選手名監督ならず」という言葉があるくらいですから・・・。)、となれば、解説者になるしかないのでしょうが、スター選手と言ったところで、毎年、同じ数だけ引退してくるスター選手がいるわけで・・・。
つまり、引退後も何らかの形で野球に関わっていけるというのは、限られたほんの一握りであり、板東英二氏のようにテレビタレントとしてやっていくとか、江本孟紀氏のように国会議員になるなどの転身に成功すればいいですが、そういう人たちこそ、逆に言えば、限られた人たちなわけで・・・。

e0027240_1516138.jpg特に野球選手というのは、学校行ってた時代から、ずっと、野球だけしかしてこなかった・・・という人たちが少なくなく、元巨人の広岡達郎氏は、現役引退直後、飛行機切符の買い方がわからなかったと言います。

その最たるものが、私と同年で、もっとも期待された選手だったヤクルト・スワローズ高野光投手のケース。
引退後の転身がうまくいかず、現役時代とのギャップに苦しみ、自ら命を絶った・・・と(涙)。
(←落日です。)

明日に続きます。
                                平太独白
by heitaroh | 2006-02-17 17:32 | スポーツ | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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