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博多港の歴史に見る「この前の戦争」的定義!
親愛なるアッティクスへ

私の地元である福岡市の港、博多港は、古くは「漢委奴国王」(漢の倭の那の国王)で有名な「金印」に始まる日本有数の古い歴史を誇る港ですが、その博多港が、今のところ、最後に歴史にその名を刻んでいるのが、太平洋戦争後の引き揚げ港であったことです。

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(↑光満つる海。金印発掘地より見た博多湾。)

当時、満州100万人朝鮮半島90万人在留邦人(派兵兵士を含まない全くの民間人)が暮らしていたといいますが、何と、博多港が敗戦後の一年間だけで収容した人数は、140万人と言いますから如何に博多港が終戦時の引き揚げ港としては、突出した存在であったかがおわかりになると思います。
まあ、在留邦人が朝鮮と満州だけにいたわけではないでしょうが、「引き揚げ」と言うと、舞鶴港などが、「母は来まし~た~♪ 今日も来た~♪」で有名な二葉百合子さんの往年のヒット曲、「岸壁の母」の舞台となったことなどもあって有名ですが、舞鶴港は、主に、博多港引き揚げよりは、随分経ってから、シベリアからの抑留者の帰還の舞台となったところだと聞いておりますので、少し、意味合いが違ってくるのかもしれません。
(あ、調べて言っているわけではないので、間違っていたらごめんなさい(笑)。)

で、以前、私が、ある祖母の友人の方とお会いしたときに、四方山話のついでから、「ご出身はどちらですか?」とお尋ねしたところ、「高崎です」と答えられました。
(「高崎」と言われて、関東の方はそれほど違和感はないでしょうが、九州では「はあ・・・たかさき・・・ですか」となります(笑)。特に若い方ならまだしも年配の方に言われると、「そう言えば、大分かどこかにも高崎ってあったっけ?」と・・・(汗”)。)
で、よくよく聞いてみると、やはり、群馬の高崎だとのこと。
私が、「何でまた・・・。今でこそ、羽田まで出て、飛行機ですぐでしょうけど、当時は、新幹線もない時代ですから、来るだけで大変だったんじゃないんですか?」と問うたところ、「いや、引き揚げで、そのまま、居着いちゃって」と。

当時、引き揚げ者は、命からがら、日本まで引き揚げてきたものの、日本を統治していた泣く子も黙るGHQ(占領軍)は、「引き揚げ者は日本の大陸侵略の手先の役割を為した。したがって、引き揚げ者の財産は、すべて大陸の財産であり、引き揚げてきた国に返還する」という理由で、引き揚げ者の所有しているわずかな財産さえ、すべて没収したそうで、そうなると、博多まで引き揚げてきたのは良いけれど、今度は、博多から故郷まで帰る旅費が無いわけで・・・。
確かに、当時は、結構、そういう方も多かったのかもしれませんね。

で、そのときに、この方が仰っておられたのですが、この方のお住まいは、今の福岡ドームがある近くなのですが、この辺は、今でこそ、横浜「みなとみらい」みたいになってますが、元々は、ここ20年ばかりで埋め立てられた地で、私が生まれた頃は海水浴場だった所です。
で、戦後すぐに、ちょうど、この辺りの、沿岸石垣が壊れるという事件があったとか。
すると、その壊れた石垣の中から、多数の人骨が出てきたと・・・。
となれば、当然、時節柄(?)、「先の大戦での死者か!・・・」となったそうですが、その後、色々と調べたところ、死者は死者でも太平洋戦争での死者ではなく、何と、「元寇」での死者であったとか・・・(驚!)。

委細は存じませんが、「この前の戦争」と言うと会津では太平洋戦争ではなく戊辰戦争、同じく、京都では「応仁の乱」だと言いますが、どうやら、博多では「元寇」のようです・・・。
                             平太独白
by heitaroh | 2006-01-31 00:42 | 地域 | Trackback(1) | Comments(24)

「日本版SECって、今頃かよ!」と言う、お笑いかよ!的突っ込み。
親愛なるアッティクスへ

e0027240_11183665.jpg先日の、「書き上げた後にエラーが出て、消えてしまった分」を思い出しながらの起稿も、昨日で、何とか終わることができました。
都合、4日分にも渡る原稿が一瞬にして消えたわけですから、私が終戦直後の日本人状態と化したのも、おわかりいただけると思います。
で、なおかつ、その間、インフルエンザにも成り・・・で、まだ、本調子ではありませんので、しばらくは、意味不明のことがあっても、許してあげて下さい(笑)。

←で、この間に、拙著「死せる信玄生ける勝頼を奔らす」新聞広告が載りました。
でも、前作の時は、結構、期待されてたので、こういうところでの扱いもよかったのですが、しっかりと期待を裏切った為、今回は、扱いがあまりよくありませんでした(泣)。

で、唐突ですが、今から20年近く前昭和63年(1988年)夏。
当時、私は、仕事で、数人の学生アルバイトを使っていました。
で、そのうちの一人に、九州大学学生がいたのですが、しばらく話をするうちに、彼は、在学中ながら、「株取引?やってるよ。」と言う話でした。
(ていうか、まず、その「タメグチ」をやめろよ・・・と言いたかったですけど(笑)。)
まあ、時代はバブルの真っ盛りで、株価右肩上がりでしたけど、私はそれを聞いて、彼に、「株をやるのは危ない。」と言いました。
すると、その学生氏は、私が世間一般の大人たちと同様に、単純に「先物取引はヤクザな職業だ!」みたいな、思いこみ迷信みたいな感覚で言っていると思ったようで、またかよ!という顔をしながら、「だ~か~ら~、それがおかしいっつうの!」と口を尖らせて反論しました。
(だ~か~ら~、まず、そのタメグチやめさないっつうの!(笑)。九大って、時々、こういうのがいるんですよね・・・。周りもチヤホヤしすぎっつうの。)

で、私は、それに対して、「今の日本の証券市場には、アメリカSECみたいなのが無いでしょ。いつか、今のバブルがはじけたとき、機関投資家売り抜けて、個人投資家だけがをするようなことになる。」と言ったら、その学生は、「こいつ、何言ってるんだ???」みたいな、怪訝そうな顔で私のことを見てました・・・。
その学生氏とは、そのときだけの関係でしたので、その後、彼がどうなったかなどは、もとより、まったく、知るよしもありませんが、現実には、1990年に起こったバブル崩壊時に、個人投資家はおろか、機関投資家でさえも売り抜けることはできなかったにも関わらず、1993年の証券会社による大企業への損失補塡事件が発覚し、日本版SECとも言うべき、証券取引等監視委員会の設立に繋がったわけですから、この点では、私の予想通りに推移したと言えたでしょう。
(もっとも、一方で、本家本元のアメリカのSECも、実際には2001年のエンロン事件まで機能してなかったといいますから、この点では、ちょっとした、的はずれに終わってしまいましたが・・・。)

で、なぜ、そんな昔のことを思い出したかというと、昨日の朝刊を見ていて、私にはちょっと、思った・・・というよりも、驚いたことがあったのですが、ライブドア事件に関して、末尾に、「東京地検の強制捜査で、市場の監視役である金融庁が「出し抜かれた」(同庁OB)形になったのは象徴的で、強力な調査力を持った日本版SEC(証券取引委員会)創設唱えられ始めた。」と書いてあったからです。
唱えられ始めた・・・って、あーた、今頃何言ってんの!って感じですよ。

「アメリカのSECだって、エンロン事件からだから・・・」って仰るかもしれませんが、それからでも、すでに5年が経ってるんだし、私が九大の学生に「日本版SECができてからではないと、株式投資は始めるのは危ない」と言ってからだと、何と20年ですよ!
もちろん、こんなの私の独創のはずがないんですから、当時、当たり前に新聞か何かに書いてあったことだと思いますし、実際に問題になって、証券取引等監視委員会が出来たんでしょ!
確かに、発足当時は、人員も少なく、公正取引委員会と一緒で、作ったのは良いけど、「鳴かない鶏」になるんじゃないの?って声もありましたけど、それからは、金融庁も権限を強化し、独自の検査などにも入れるようになり、随分と充実していく方向にあったんじゃなかったんですか???
そうじゃないんなら、証券取引等監視委員会って一体、今まで、何してたんですか??

思わず、「今頃かよ!」って、さまーずみたいに突っ込んでみたくなりました・・・。

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by heitaroh | 2006-01-30 08:09 | 経済・マネジメント | Trackback(5) | Comments(8)

ギター侍失脚に見る背中合わせのやりきれない話。
親愛なるアッティクスへ

どこまでが本当の話なのかは知りませんが、すっかり、過去の人となってしまった観があるお笑い芸人、「ギター侍」こと、 波田陽区さんが最近、まったく、テレビに出ないのは、お笑い界の大御所で、今や、世界的な映画監督としても知られる、あの!北野武氏(以下、タケシで統一させてください。)を怒らせたからだとか。
何でも、テレビの収録で、目の前でタケシを斬っていたところ、オチが娘が子供を産んだことだったとかで、それを聞いて、タケシは、烈火の如く怒り、椅子を振り回して迫いかけ、慌てて、スタッフが止めに入ったとか・・・。
だから、他の、同じようにブームが去った芸人たちが、まだ、何とかテレビに出ているのに、彼だけは全く出ないんだとか・・・。

この話を聞いて、何だか、やりきれない想いを抱いたのは私だけでしょうか?
最近では、タケシが、元々、お笑い出身だということさえ知らない世代も増えているようですが、我々の世代は、彼は大監督「北野武」ではなく、お笑い芸人、ツービートの一人、「ビートたけし」でもあるんですよね。
彼自身、お笑い時代は、「毒ガスギャグ」などと言われ、毒舌で人を斬っていたのに、大御所になって、斬られる側になると「けしからん!」になるわけですか・・・。
なんとも、やりきれない話です・・・。

波田陽区自体、「いずれ消えていく芸人」、「一発や」・・・などと言われていたにしても、彼が、毒舌で有名人を斬っていくという芸風で売っていた以上、こういうこととは、背中合わせであったでしょうし、であれば、遅かれ早かれ、起こり得ることであったとも言え、彼も、いつかこういう日が来ることは覚悟していたのかもしれません。
ホリエモンからも、マジで怒られたとか言ってましたから・・・。
とは言え、それにしても・・・。
同じ問題発言癖がある私としては、何だか、たまらなく、やりきれない想いがします。

実は、私は、2度ほど、ビートたけしの相方であった、ビートきよし師匠と飲んだことがあります。
(と言っても、あちらは、まるでお酒は飲まれませんので、私一人で飲んでたような状態だったのですが。)
初回は、たまたま、一緒になっただけなのですが、会って早々、「今日のタケシさんとキヨシさんのはどこで付いたとお考えですか?」と聞いたことがあります。
(・・・いくら、「率直さは美徳である」が私のモットーであるとはいえ、我ながら、良く聞いたわいなーと・・・(汗”)。だって、向こうは素面なんですから・・・。)
それに対し、きよし氏は、いささかも気を悪くした様子もなく、「うーん。やっぱり、あいつは上手だったんだろうな。」と返事されました。(←慣れてるんでしょうね。)
よくよく聞くと、どうやら、「あいつは、バカにされたり、嫌がらせされたり、虐められたり、そういうことがあんまり、気にならないタイプだった。だから、皆から可愛がられたんだ。」ということのようでした。
対して、きよし師匠本人は、「俺は、もう、そういうのはまるでダメだったから・・・。」と。

なるほど。
私も、どちらかと言わず、きよし師匠派なのでしょうが、でも、私の周りにも、こういうタケシのようなタイプの人がいますよ!
私なんぞには、羨ましい限りのような人が。
でも、だからこそ、タケシは、「いやいや、俺なんて、大御所でもなければ、大監督でもないんだから・・・。今まで通り、タケシでいいよ。」って顔してますけど、やっぱ、人間って、何だかんだ言っても、ずっと、「大御所!」とか「大監督!」とかって、周囲から持ち上げられていると、段々とそんな気分になってくるんでしょうか・・・。

「でもあんた~、可愛がってくれた人たちのおかげで、今日の地位にまで来られたって一面もあるんですからー!残念!!タケシも昔は毒舌お笑い芸人斬りぃ!

あ、もっとも、「拙者ぁ、本当のところは、どうなのか知りませんから~、切腹ぅ~!!」

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by heitaroh | 2006-01-28 19:29 | 文学芸術 | Trackback | Comments(12)

CM契約に見る毀誉褒貶その3 伝説の名投手 池永正明
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

池永正明氏は、「先輩から八百長の話を持ちかけられたとき、断ったが、ムリヤリ、金を押しつけられ、返すことが出来ず、そのまま、押入れにしまったままにしていた」そうで、池永氏自らは、今でも、八百長行為をしたことを完全に否定しているそうです。
無論、彼が本当に八百長をやったかどうかは、私の知るよしではありませんが、ただ、私が24歳の時、お世話になった人から頼まれて、「助けると思って、この金、受け取ってくれ」と言われて、その場で、はねつけられたかどうか・・・。
「嫌ですよ。勘弁して下さいよ」くらいは言ったかもしれませんが、「頼む!」と言われ、尚も、ちゃぶ台の上にムリヤリ置いて行こうとした物を、「後を追っかけていってまで、玄関で押し問答して追い返した・・・!」と言い切る自信はありません。

そして、この人物が、容易成らざる人物であったことを示すのは、実はこれより後のことなのです。
球界を永久追放された24歳の池永氏は、西鉄時代のかつてライバル、尾崎将司氏(ジャンボ尾崎)から、ゴルフ界への転向を打診されたと言います。
あの!ジャンボ尾崎自らが、「素質では池永にはかなわない」と痛感して、ゴルフ界へ転向したと言うくらいですから、池永氏はゴルフ界へ行っておけば、あるいは、尾崎、中島、青木らと並ぶような、一時代を築くプレーヤーと成り得た可能性は十分にあったと思われます。
それは、ある意味、自分を永久追放したやつら、手のひらを返した連中を見返す為にも、また、実際の生計手段としても、それを選択するのが、ごく自然なことだったのかもしれません。
しかし、彼はその誘いを断ります。
そして、彼が選んだ道・・・、それは、そのまま、博多に残り、地元の歓楽街、中洲バーを始める・・・ということでした。

普通、こういった場合、「何とかして見返してやりたい」、「過去の栄光をもう一度」、「誰も俺のことを知らないところで・・・」などと考えるものなのではないでしょうか?
しかし、彼は、まだまだ、超一流の働きが出来る肉体を持ちながら、誰もが「八百長で追放された池永」を知ってる街で、敢えて、自分を殺して生きていくことを選択したわけです。
つまり、彼は、敢えて、「生き恥」をさらすことを選択したわけですね。
私には、それが、彼を永久追放した人たちへの、彼の無言の「抗議」、応援してくれた人への自らの「覚悟」、そして、世間という物に対する「意地」だったように思えてなりません。

ちなみに、池永氏は永久追放になった後の、この一番どん底のときに、「糟糠の妻」というべき、現夫人と結婚されたそうです。
人間、いいときには、モデルだ、芸能人だ、女優だ・・・と、色々と、ついてくるのかもしれません。
この点は、池永氏にも、そういう話を聞いたことがあります。
ホリエモン氏が、この先、どのような人生を歩まれるのか、もとより、私などの知ることではありませんが・・・。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-01-27 08:27 | スポーツ | Trackback | Comments(2)

CM契約にみる毀誉褒貶、その2 伝説の名投手 池永正明。
親愛なるアッティクスへ

昨日の大鵬親方とは違いますが、私には個人的に忘れられないCMがあります。
(ということで、強引ですが、CM繋がりです(笑)。)
プロ野球、西鉄ライオンズの元投手で池永正明という人物がいます。
当時、地元では、「西鉄の池永です。池田パンをどうぞ!」という、モロ、棒読みCMにも出られており(笑)、私などは、おかげで、「池田パン」というあだ名がつけられたほど、当時の博多では知らぬ者はないほどの有名人でした。
しかし、同時に、この名前は、私のような博多昭和40年代に少年時代を過ごした者には、少々、複雑な感慨を持って迎えられる名前でもあります。

池永氏は、昭和40年、「甲子園の優勝投手」という看板を引っ提げて西鉄に入団。
その年、いきなり、20勝を挙げて新人王に輝き、その後も、わずか5年間99勝を挙げ、6年目に入ってすぐに100勝を達成しています。
また、打撃の方でも非凡なものをもっており、当時、パ・リーグでは、指名打者制がなかったことで、「野手は、ただ守ってくれていれば良い」と言ってのけたとか、とにかく、投手としては、肉体、度胸、頭脳・・・、すべてに並はずれた、伝説的な名投手でした
ただ、それほどに優れていた彼が、6年目のシーズン半ばで、「でした」と過去形にしなければならなかった理由・・・。
それこそが、昭和45年(1970年)、当時の球界を揺るがせた、暴力団によるプロ野球選手の八百長(敗退行為)事件、通称、「黒い霧事件」に関与していたとして日本プロ野球機構から永久追放処分にされたことです。

当時、西鉄ライオンズは、かつてほどの強さは無かったとは言え、まだまだ、そこそこの実力は有しておりましたが、このとき、西鉄は、池永氏の他にも主力投手が、ごっそりと永久追放になったことから、一転、リーグのお荷物球団とまで言われるようになり、その結果、平和台球場は閑古鳥が鳴くようになり、ついには、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズを経て、西武鉄道に買収され、現在の西武ライオンズとなって博多を去ることになってしまったわけですから、「池永さえいたら・・・。」という想いは、当時の博多人には、少なからず有った想いだったと思います。

実際、池永という投手は、決して、力だけで押すタイプの投手ではなく、また、肉体的にも素晴らしいバネを持った選手であったことを考え合わせると、あのまま、永久追放にならなければ、あるいは、通算317勝を挙げた鈴木啓示を凌ぐ記録を残したのではないか・・・という想いもあり、それだけに一層、残念でなりません。
その池永氏は、日本プロ野球機構による処分解除に伴い、ようやく35年ぶり復権したことは記憶に新しいことと思いますが、ここで、私が言いたいのは、彼が本当に八百長をしたのかということではなく、また、復権おめでとうと言うことでもありません。
そのとき、彼はまだ、24歳だったということです・・・。

明日へ続く。
                         平太独白
by heitaroh | 2006-01-26 17:40 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(2)

CM契約にみる毀誉褒貶、その1 大横綱大鵬
親愛なるアッティクスへ

で、昨、一昨日よりの続きです。
どうにか、昭和20年の暮れくらいの精神状態まで立ち直ってきましたが、今度は風邪をひいてしまいました・・・(笑)。

ホリエモン氏がどうなるのかはわかりませんが、これまでも申し上げてきましたように、私は決して、彼のことを評価していたわけではありません。
内情は知りませんでしたが、おそらく、遅かれ早かれ、いずれ、行き詰まる・・・と思ってました。
その理由としては、平太郎独白録 「ライブドア堀江社長に想うマキャベリと『好漢惜しむらくは兵法を識らず』」や、平太郎独白録 「理論と実践は車の両輪!」などに書いたとおりなのですが、むしろ、改めて目につくのが、堀江社長逮捕時に、すっかり、この問題をワイドショー扱いにしてしまったマスコミ態度です。
あれだけ、もてはやしておきながら・・・・と。
(思えば、ダイエーの故中内功氏などにも、同じようなことがあったような・・・。いいときは、「最後のカリスマ」なんて言って、散々、持ち上げておきながら・・・。)

で、今日と明日は、これまでの三国志から離れ、CM契約というものに見る毀誉褒貶と、こういう世間というものの呆れるくらいの変わり身の早さについて、触れてみたいと思います。
まず、角界で、北ノ湖千代の富士二代目貴乃花も・・・未だ、誰も破れなかった、幕内優勝32回という最高記録を持つ大横綱・大鵬幸喜 氏とCMとの関わりについてです。
彼は現役時代、決して、CMに出ない人として有名だったそうですね。

実力はもとより、父親をウクライナ人にもつハーフでもあることから、その日本人離れした顔立ちと相まって、当時、「巨人、大鵬、卵焼き」と言われたほどに人気があった横綱ですから、当然、色々なところが、それぞれのなルートで、様々にCM出演の話を持ちかけてきたそうですが、大横綱大鵬はガンとしてCMには出なかったそうです。
ところが、その大横綱が、一度だけ、CMに出たことがあると。
それは、大鵬が大一番に負けて、大けがをし、肉体的にも精神的にも、「もはや再起不能か!」とまで言われたときのこと。
それまでの依頼が嘘のように、パッタリと、どこからもCM依頼が来なくなったそうですが、その中で一社だけが変わらずにCM出演を依頼してきたそうです。
「同情ですか?」という大鵬に対し、この会社は、「いや、うちの商品のイメージに欲しいのはアナタの圧倒的な強さではなく、その安定的な強さと不断の努力を惜しまぬ姿勢だ。」と言ったっとか・・・。

まさしく、「世界チャンピオンになると、急に親戚が増えるが、防衛戦で敗れると、途端に誰もいなくなる。」と言いますが、先日の平太郎独白録 「敬愛する二人の明治の『武夫』と、エディ・タウンゼント的あり方。」でも申し上げました、ボクシングの伝説的な名トレーナー、エディ・タウンゼント氏の言葉、「世界チャンピオンになった人の控え室には、僕が居なくても、たくさん、人が来てくれる。でも、負けた方の控え室には誰も来ない。だから、僕は負けた方の控え室に行くんだ。行って励ましてあげるんだ。」 ではないですが、ホリエモンにしても、中内功氏にしても、何と、世の中には、「勝者の控え室」にばかり足を運ぶ人間が多いことかと、うんざりしたのでは・・・。

それを思えば、ホリエモンはもとより私には、想定内のことでありましたから、特に驚きはありませんが、今の報道を見るにつけ、日本人の軽薄な国民性に少々、やりきれない想いになります。
                              平太独白
by heitaroh | 2006-01-25 19:08 | スポーツ | Trackback(2) | Comments(8)

三国志の世界その2、ライブドア堀江社長へのCM継続の話。
親愛なるアッティクスへ

で、昨日の続きです。

三国志の本当の主人公とさえ言われている、乱世の奸雄(このフレーズ好きです。ん?ホリエモンこと、堀江貴文氏などもそういう感じが受けたのでしょうか・・・。)・曹操については、もうひとつ、忘れられない面白いエピソードがあります。
(あ、言い忘れてましたが、私は三国志に関しては5種類くらい読んでいるのですが、すべて、私の中での三国志ブームは、学生時代、四半世紀前のことでしたので、かなり、あやふやです。せっかく、書き終わった記事が、エラーが出て消えて以来、資料を引っ張り出してきて確認しようと言う気力が回復しておりません。武士の情けです。今しばらく、お見逃し下さい(笑)。)

で、ここからが本題です。
昨日の続きなのですが、官渡の戦いでの大敗以降、もはや、曹操袁紹の、両者勢いの差はいかんともし難く、西暦205年、曹操はついに、袁紹の本拠地河北に進撃を開始します。
迎え撃った袁紹の長男、袁譚鎧袖一触、撃破するや、そのを城門の外にさらし、「この首を見て泣く者あらば斬罪に処す」と書かせた高札を、その傍らに立てさせたとか・・・。
すると、まもなく、何処からともなく、わざわざ喪服を着用した男が現われて、その前にぬかずくと号泣し始めたそうで、当然、男は、たちどころに捕らえられ、曹操の前に連行されたそうです。
曹操が尋問してみると、かつて袁譚に側近として仕えながらも、袁譚に諫言したが為に、逆に勘気にふれて放逐されていた者だそうで、「たとえ、ひどい仕打ちを受けようとも、主亡き後、主のために泣かぬのは不義。死を畏れて義を忘れるようでは。なにとぞ、亡主の遺骸を葬ることをお許し下さい。さすれば、命を召されても恨みません。」と答えたとか・・・。

今川義元とその嫡男・氏真などにも共通するところがあったのかもしれませんが、かつて、我が敬愛する兵法研究家、大橋武夫氏は、その著書で、この一事をして、「袁紹は決して凡君ではなかったようである。」と述べられておられ、この点で、少し思うことがありました。
ホリエモン失脚の折、ライブドアに対して提携解消の動きが続発した中(まあ、当然でしょうが・・・。)、敢えてCM契約継続しようと言う動きもあったとか・・・。
私は、ホリエモンという人物に対しては、元々、あまり、好意を持っておりませんでしたが、少なくとも、この一事だけを見た限りでは、少し彼を見直してもいいのかな・・・とも思っております。

ということで、実はまだまだ、続きます。
(これが、全部、エラーが出て消えたのですから、私のショックたらんや・・・、ご推察ください(泣)。)
                              平太独白
by heitaroh | 2006-01-24 00:24 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

三国志の世界その1、「乱世の奸雄」曹操の憎いセリフ 後編 
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

曹軍は、少数とはいえ、諜報機動力と言う点で、袁軍(あるいは、大軍にありがちな寄せ集めだったのかも。)とは比べものにならないほどに鍛えぬかれていたと思います。

この緒戦のもつ意味としては、劣勢の曹操としては、とにかく、自軍の士気を保つ為にも、局地戦でも前哨戦でもいいから、勝ち続けていかねばならなかったと言えるでしょう。
優勢側は少々、局地戦で負けても、それほど心理的不安は無いのかもしれませんが、劣勢側の兵士の戦場心理は、不安でたまらないものであり、それが負け続けていると、決戦の前に崩壊してしまう可能性もあったからです。
孫子の一節に、「名将は戦いを勢いに求め人に求めず。」というのがありますが、今日でも、プロ野球の日本シリーズなどでは、対戦前に劣勢を伝えられていた方が第一戦を勝ったことにより、勢いに乗って、思わぬ善戦をする・・・ということが見受けられるようです。

その後、戦局は数度の小競り合いの後、膠着状態におちいります。
しかし、国が小さいと言うことは、兵力もながら、補給という点でも、劣勢だったようで、一時、さすがの曹操も弱気になり、撤退を検討したといいますが、ここで、戦いの行方を大きく左右する事件が起こります。
袁紹側から、部将の一人が離反して来て、曹操に「袁軍の弱点補給基地にある」と伝え、その場所までも教えたことです。
曹操は、この離将の言葉を信じ、直ちに敵補給基地襲撃を決意します。
ただ、この決断は、曹操にとっては、大変危険な賭けだったと言えたでしょう。
まず第一に、離将の言葉がであるという可能性もあり、仮に本当であったとしても、この部将の離反を知り、敵も攻撃を警戒してくるかもしれず、何より、補給基地なんてものは、当然、敵中深くにあるわけで、もし、これが罠だったら、これはもう、「殲滅」というよりは、「殺戮」ということにさえ成りかねないからです。

このとき、「誰に行かせますか?」と問う家臣に対し、曹操は苦笑しながら、こう言ったといいます。
「こんな危険な役目、人にやらせるわけにはいかんよ。俺が自分で行く。」

結局は、離将の言を信じ、乾坤一擲!袁軍の補給基地を、自ら部隊を率いて襲撃したことで、この戦いは、曹操軍の大勝利に終わり、これにより、曹操は覇者への道を一気に突き進むこととなるわけですが、この決断時のこの一言にこそ、この人物の、思わず震いつきたくなるほどの人間的魅力が伝わってくるような気がします。 
                
ということで、続きは「明日のココロだー」と行きたいんですが、三国志ファンの方には、いくら「かいつまんで」だったとしても、随分と舌足らずだとお感じになったことと拝察申します。
しかし、一昨日、書き上げた方には・・・、ちゃんと、ちゃんと・・・、資料に目を通しながら書いたんで・・・、きちんとしたものが・・・嗚呼!(泣)。
ということで、今日だけは・・・今日だけは・・・見逃して下さい。
武士の情けです(笑)。

あ、ちなみに、今日は曹操の命日だそうです・・・。
                                         平太独白
by heitaroh | 2006-01-23 07:45 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

三国志の世界その1、「乱世の奸雄」曹操の憎いセリフ 前編
親愛なるアッティクスへ

昨日は、まったく、ついてない一日でした。
この記事を書いていたら、いきなり、蛍光灯が切てしまい、天気も悪かったので、それ以上、書こうに書けず、そのまま、書きかけならぬ、打ちかけにして、電球を換えようとしたら、これが、どういうわけか、古い蛍光灯が外れない!
蛍光灯なんて、迂闊に力を入れたら、割れてしまいそうだし、結局、器具ごと外して、最後は、ヒヤヒヤしながらも、力ずくで古くなった蛍光灯を外し、また、力ずくで新しい蛍光灯を入れ・・・で、ようやく、悪戦苦闘の挙げ句に、照明がつくようになり、それでは・・・と、記事の作成を再開したところ、今度は、夕方になって、やっと出来た!と思って、「送信」押したら、エラーが出て、半日かかって書いた記事が消えてしまいました・・・(泣)。
もう、こうなると、昭和20年8月15日の日本人状態・・・。
おまけに、帰宅したら、玄関で置き時計を足の上に落として、痛!状態・・・。
ということで、本日、ようやく、気を取り直して、再度書いてます。

で、最近ではゲームなどでも知られるようになってきた三国志ですが、この中に登場する数多の群雄たちの中でも、名門中の名門であり、最大の勢力を誇りながらも、優柔不断猜疑心が強く、有能な家臣を持ちながらも、その助言に耳を貸すことが出来ず、ついには、曹操(後の武帝)によって滅亡に追い込まれてしまった凡庸な人物として、袁紹という人が出てきます。
(まあ、日本で言うならば、今川義元というところでしょうか。)

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ところで、三国志での「戦い」と言えば、多くの方はまず第一に「赤壁の戦い」を思い浮かべられるかもしれませんが、確かに、これにより、曹操の統一は頓挫し、魏・呉・蜀三国鼎立時代を招いたという点では、政治的、歴史的にはエポックメイキング的な出来事だったでしょうが、内容的、戦史的にみる限りでは、統一目前超大国が最後に残った地方軍閥に足元をすくわれた・・・という程度の戦いにすぎず(むしろ、第三勢力であった劉備サイドからの視点が強いかと。)、そう考えれば、最大勢力「名門」袁紹を、新進気鋭「乱世の奸雄」曹操が撃破したことでも、また、その後の曹操の覇権を決定づけたという点でも、「官渡の戦い」の方が、大いに見るべき点が多いように思います。

その「官渡の戦い」をかいつまんで説明しておきますと、紀元200年、まず、大軍を擁して進撃してきた袁紹軍に対し、劣勢の曹操軍は、一丸となって、行軍中の袁軍の横っ腹を突く勢いを見せます。
これをみて、袁紹は大軍の常道として、包囲殲滅を企図し、曹軍の後方に回り込むべく、別働隊を割いて進撃を命じ、本軍は横っ腹を目指して突撃してこようとする曹軍を迎え撃つべく、行軍の向きを変えたところ、曹軍は突如として、90度向きを変え、袁軍の別働隊に襲いかかるや、袁紹の本軍が救援に向かう間を与えず、これを撃破し、主将を打ち取ることに成功します。
これは、両者の用兵の差というよりも、両軍の練度の差だったでしょう。

明日に続く。
                                平太独白
by heitaroh | 2006-01-21 08:02 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(11)

ホリエモンにマキャベリ思う「好漢惜しむらくは兵法を識らず」
ライブドアホリエモンなる人物は、私は同郷(福岡県出身)でありながら、あまり、好きではありませんでした。
むしろ、私には、なぜ、彼があんなに支持されているのかが理解出来ませんでした。
(そういいつつも、欧米市場では、未だに「彼のような人物を排斥してはいけない」などというコメントがでる始末。杉村太蔵議員も然りですが、「率直さ」というのが、現代の若者に容れられるひとつのキーワードなのかもしれません。)
彼については、度々、ちらちらっと・・・触れてきましたが、別に彼のような人物は、今初めて出てきたわけではなく、金儲けがうまいだけの人間なら、以前からいたんですよね。
山崎晃嗣然り、森脇将光然り、横井英樹然り・・・。

マキャベリの言葉に、「幸運により国を得た者は、幸運が去る前に実体作りをしておかねばならない」とか言うのがありますが、彼は、球団買収に名乗りを上げたことで、一躍、時の人となるという幸運を手にし、期を逸することなく、時流に乗り、今の地位を手に入れたわけですから、その間に、「本業」と呼べる実体を築いておかねばならなかったのでしょう。
ただ、その点では、セシールを買収したりしてましたから、抜け目なく、手は打っているものとばかり思っていたのですが、実態は、やはり、マネーゲームの域を出なかったようですね。
もっとも、マキャベリも、先ほどの言葉の後に続けて、「だが、それは建物を建てた後に基礎を作るようなもので、特に優れた能力が必要である」と言ってます。
彼も、もう少し、本業から入った方が良かったのではないでしょうか・・・。
一方で、マキャベリは「武器無き預言者は滅びる」とも言ってますから、金儲けの大切さもしっかり指摘してるんですけどね・・・。

企業買収を続けていかないといけない・・・というのは錬金術以外の何ものでもなく(店舗展開をし続けていかねばならないというのも聞いたことがあります。)、言うならば、自転車操業的なものだったのでしょうが、一方で、テレビなどであれだけ、言いたいこと言っているわけですから、今更、内幕も言えないと言う・・・。
この辺は、創業者と呼ばれる人が陥りやすい心理でしょうか。
「あの人は、一代でここまで築いたのよ」、「大したもんだ。一代で自社ビルを建てたんだから・・・」などと言われていると、会社がおかしくなっても、「実は」と言い出すことが出来ずに、手形が落とせなくなっても、まだ、ベンツに乗り続ける・・・などと言うことになって、行き着く先は・・・。
これは、実際に私が見た事例です。

私如きが言うのも何ですが、実は、以前、申し上げました平太郎独白録 : 理論と実践は車の両輪!という記事は、堀江社長を念頭において書いた物でした。
彼は、言うならば、実践の人だと言えるでしょう。
理論だけの人は「自分では出来もしないくせに・・・」と言われ、実践だけの人は、「好漢惜しむらくは兵法を識らず」ということになり、いずれ行き詰まる・・・。
従って、金儲けも大事ですが、しかし、儲けてから何をするか・・・という思想の裏付けとなる理論を緊急に充塡する必要があったわけです。

「事業の中で金の占める割合は大きいが、全てではない」
今となっては、平太郎独白録 「我が心の師、大橋武夫氏の叱咤に想う秋霜烈日的ブログのヨロク!」も、彼にこそ、当てはまる物だったのかもしれません。

「いずれ、あをのけに高転びに転び申し候」
まだ、転んだと決まったわけではありませんけどね。
                                平太独白

by heitaroh | 2006-01-20 01:26 | 時事問題 | Trackback(4) | Comments(6)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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