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セントレアの憂鬱・・・。
親愛なるアッティクスへ

先週、所用で豊橋に行ってきました。
かねてよりの念願だった長篠城設楽ヶ原を見てきましたが、長篠城と、「長篠の戦い」の舞台である設楽ヶ原の、その意外な狭さには驚きました。

実を申しますと、この辺りは、恥ずかしながら来年1月に出版する拙著「死せる信玄生ける勝頼を奔らす」(名将、武田信玄負の遺産に苦しむ後継者、武田勝頼を描いた歴史小説)の舞台なのですが、実際には文献のみで、まだ行ったことがありませんでした。
「けしからん!」とお叱りを蒙るかもしれませんが、ある意味、やむを得ないことで、やはり、古戦場巡りということになると、九州からはどうしても、かなりのハンディがあるようです。
なぜならば、戦国期から安土桃山時代までの有名な古戦場となると、どうしても近畿地方から中部地方に集中していることや、さらに、最寄りの空港まで行っても、そこから、どうやっていけばいいの?みたいな・・・。
まあ、古戦場なんて、必ずしもアクセスがいいところにあるとは限りませんでしょうしね・・・。

e0027240_10151192.jpgところで、初めて、中部国際空港セントレアへ行ったのですが、感想は「でっら、広うてあかんわ。」でした(笑)。
しかし、気になったのは、空港内は、結構な人ごみだったのですが、一歩、ゲートをくぐると、国内線はこの状況(←)・・・、つまり、見物客だけ・・・?
まあ、国際線は一杯だったと思うのですが、それでも土曜昼下がりですよ・・・、先行き、大丈夫ですかね・・・。
考えてみれば、名古屋から飛行機東京大阪に行く人はあまりいないでしょうしね・・・。
おそらく、博多、札幌などへ飛ばすしかないのでしょうが、この国は運営という意味では東京という巨大なモノを、何事にも絡めないと厳しいように思いますが、如何でしょうか?

ところで、今日は第三次小泉改造内閣発表だそうですね。
23日の参院神奈川補選で、自民党新人の川口順子氏が圧勝したことで弾みがついたとか・・・。
私は、国民は、「先の衆院選で自民党に圧勝させすぎた。あんなに勝つんだったら・・・。」という想いがあるのではないかと考えてましたので、次の選挙では、「その反動があるのでは・・・。」と思ってました。
しかし、この結果は、やはり、国民は、マスコミが、あれだけ「勝ちすぎたことの弊害!」とか、「ファッショだ!」などとはやし立てても、「小泉内閣」というものを、全面的に支持している・・・ということを、改めて示したように思えますが、如何でしょうか?

ちなみに、次の総理候補の処遇も見物ですね。
安陪さんが、もし、総理になれば、6月17日付けの平太郎独白録 「現代も生き続ける長州閥」の中でも触れましたように、実に山口県からは断トツトップの8人目の総理大臣ということになります。
まあ、現実には、幹事長すら荷が重かった観がありますから、もう少し、主要閣僚の経験を積んでからの方がいいとは思いますが・・・。

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by heitaroh | 2005-10-31 08:45 | 社会全般 | Trackback | Comments(6)

嗚呼、筑前福岡藩!
親愛なるアッティクスへ

先般、ヨドバシカメラビックカメラ福岡店リサイクル料金疑惑が世間を騒がせましたよね。
処分代貰っておいて、実は北朝鮮に引き取らせていたというやつ。

e0027240_1294217.jpgここで問題です。
廃藩置県前に、明治政府によってお取りつぶしになった唯一の藩はどこでしょう?
それは、会津藩でも仙台藩でも二本松藩でもありません!我が筑前福岡藩です(笑)。
しかも偽札なんて情けない理由。
それから、西鉄ライオンズ身売りのきっかけとなった黒い霧事件
(エースを含め、主力投手がごっそりと八百長永久追放になったやつです。)
近いところでは、ダイエーホークスサイン盗み疑惑事件

で、福岡のヨドバシカメラとビッグカメラのリサイクル疑惑!
で、これらに共通するのは何でしょう?
そう、みんな誰もがやってたことなのに・・・と言うことです。
なのに、福岡だけが発覚する。
当時、明治政府九州探題的役割を果たしていた日田代官で、後の総理大臣松方正義をして、「筑前福岡藩、人物一人もなし。」と言わしめた立派なお家芸です。

ついでに言えば、福岡県からは総理大臣はわずかしか輩出しておりませんが(ちなみに、隣の山口県は日本一の輩出県です。)、芸能人は人口当たりにするとダントツの1位だと思います。
もっと言えば、高名な戦国武将はいません。
いたのは、博多商人と呼ばれる豪商ですね。
そういうお国柄なんですね・・・。
                        平太独白
by heitaroh | 2005-10-28 23:58 | 地域 | Trackback(1) | Comments(0)

吉田松陰、その命日に想ふ武士の教育!
親愛なるアッティクスへ

今日、10月27日吉田松陰の146回目の命日です。
昨日、一昨日と、この希代の教育者について述べてきましたが、これまでは慈母の存在というものについて、今日は、それとは対局をなすという意味でも、厳父と言うべき、武家の教育というものについて取り上げてみたいと思います。

まず、昨日の終わりの所でも触れましたが、寅次郞少年(松陰)は、幼時、叔父であり、でもあった玉木文之進について兵学・政治学など、様々な学問を学んだと言われています。
が、それ以上に教えられたのが、武士というもののあり方・・・というものだったそうです。
文之進にとっての「武士」とは、即ち、「私心を持たない」と言うことだったようで、あるとき、講義中に寅次郞の額に虫がとまり、痒かったので、つい手でポリポリと掻いてしまったそうです。
それはみた文之進は、突如、烈火の如く怒り、寅次郞に殴る蹴るの凄まじい暴行を加えたと言います。
(この光景を見た寅次郞の母、タキは、後年、息子は死んだと思った」そうです。)

文之進に言わせると、「痒みは。講義は公(おおやけ)に役立つ為にやるのであるから。とすれば、掻くことは私の満足である。それをゆるせば長じて人の世に出たとき、私利私欲をはかる人間になる。だから殴るのだ。」ということだったそうですが、現代人から見ると、少々、理不尽なようにも思えますが、やはり、松陰という人格を形成する上では必要なことだったのかもしれません。
暖かく前向きな母だけで、後の吉田松陰が出来たわけでもないということでしょうか・・・。

一方で、こういった話は、武士の世界ではそれほど、突飛なことでもなかったようです。
豊臣秀吉の初期の軍師、竹中半兵衛についても同じような話が伝わっています。
竹中半兵衛と言えば、当代きっての知恵者として知られていた人物ですが、我々のイメージでは、の黒田官兵衛の竹中半兵衛といった印象の、白面の物静かな文学青年といったところではないでしょうか?
この半兵衛が子供たちへの軍学の講義中、息子の一人が黙って席を立ったそうです。
で、戻ってきて、「どこへ行っていた?」と聞かれたので、「厠(トイレ)へ行ってました。」と答えた途端、普段、物静かな父が烈火の如く怒りだし、まさに玉木文ノ進状態で激しく折檻されたと言います。
曰く、「竹中の家の子供が軍学の講義の途中で、尿意を催したのなら、何故、垂れ流さん!『竹中の家の子は、軍学の講義に夢中になった余り、尿意すら忘れて垂れ流した』と言われてこそ、竹中の家の誉である!」と・・・。
これも、理不尽と言えば理不尽のようにも感じますが、これは私には何となくわかる気がします。
要は「覚悟」の問題を言いたかったのでしょう。
「竹中の家は軍学者の家である。その家の子供は尿意に気づかぬほど軍学に打ち込んでいる」と。

私がまだ子供の頃、材木の上に土足で乗ったところ、父からほぼ同じような折檻をされたことがあります。
大工の家の子供が、材木に土足で乗ったらいけないというのは、一々、教えられるまでもなく、当然、見知っておいてしかるべし・・・というものだったのでしょうか。
しかし、文ノ進も半兵衛も、教育者とは言え、とんでもない教育者ですよね・・・。
身近にいないでよかった・・・、居たか(笑)。
                            平太独白
by heitaroh | 2005-10-27 00:13 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

シリーズ第二弾、吉田松陰に見る教育者の在り方と育て方。
親愛なるアッティクスへ

昨日の続き、吉田松陰シリーズ第二弾です。
明日は遂に命日ですね。
で、史実なのかどうかは知りませんが、昨日、紹介したNHK大河ドラマ「花神」の中で、幾つか印象に残ったシーンがあります。

まず、松陰が肥後藩士宮部鼎蔵らと東北旅行を約束した際に、通行手形の発行が間に合わないから先延ばしにしろと藩の役人に言われながらも、「人としての本義は一諾を守ることにある。それを守らなければ長州武士は惰弱だとの誹りを受ける」と言い、脱藩を決行します。
脱藩と言っても、もう少し後の時代になると、坂本龍馬に代表されるように割と一般化してきますが、この時代はまだペリー来航前でとんでもない大罪でした。
それを安易に許せば、藩という枠組み自体が成り立たなかったでしょう・・・。
しかし、松陰は脱藩し、旅に出て、刑を覚悟で藩邸に戻ります。
結果は、松陰を可愛がっていた藩主の意向もあり、生家へお預けという割に寛大なものでした。
で、このドラマの一シーンです。

生家へ戻った寅次郞(松陰)に対し、家族はとても暖かく迎えます。
妹はかいがいしく兄の世話をし、母は「ご厄介になってよろしいでしょうか?」という息子に向かって、「そんな他人行儀な。ここは貴方の家ですよ」と言う。
帰宅した父は、「寅次郞、お前の志はなかなか遠大のようだのう・・・」などと言っている始末。
誰も、「おまえは何て事をしてくれたんだ!」、「兄の出世に・・・」、「妹の縁談に・・・」とか、ましてや、「東京にやったばかりに・・・」などとは言わない・・・。
如何に、母タキの人柄が杉家を如何に暖かい家族風景にしていたか・・・ですね。
我が身を振り返り、大変、考えさせられます・・・。

また、篠田三郎演じる吉田松陰が、中村雅俊演じる高杉晋作との初対面のシーンで、高杉の差し出した漢詩を一読して、「久坂君(久坂玄瑞)の方が優れている」と言った後、くってかかる高杉に対し、静かにこう言います。
「私も学問を学びつつある人間です。が、何が本物で何が偽物であるかははっきり言える。貴方の持つ、直感力、独創性、確かに本物です。だが、学問の裏付けがなければ、それはただの気まぐれ、独りよがり、貴方は一個の乱暴者に過ぎなくなる。貴方が乱暴者で終わるか、十年後に大を為す者になるか、それは貴方自身が選ぶべきです。
松陰が牢屋に入ったら囚人が皆、勉強し始めたと言いますが、こんなこと言われたら私だって必死で勉強しますよ。

余談ですが、この場面でナレーターが、「後に松陰は言っている。高杉は有識の士である。しかし、学問は十分でなく、議論も主観に過ぎ、害が強すぎた」と。
この辺り、多分に現代のネットなどで過激な意見を吐いている人たちにも通じるように思えますが如何でしょうか?
イデオロギーを主観と言うと、言い過ぎでしょうか・・・。)
思えば、西鄕隆盛島津斉彬から、同じようなことを言われてますよね。
いつの時代も、若者ほど、まず、観念を欲しがるものなのかもしれません。
松陰ほどではないにしても、今の時代も良き教育者が求められていると愚考致します。

「侍は生まれるものではない。作るものだ。」
その松陰を教育した叔父、玉木文之進の言葉だったと記憶しております。
如何でしょうか?御同輩・・・。
                            平太独白
by heitaroh | 2005-10-26 08:30 | 歴史 | Trackback(2) | Comments(2)

辛いときほど声を出せ!吉田松陰の母にみる苦境での在り方!
親愛なるアッティクスへ

明後日、10月27日は幕末の思想家、松陰吉田寅次郞命日だそうです。
そこで、吉田松陰について、今日明日で少し触れてみたいと思います。
松陰については、私はNHK大河ドラマ「花神」の中で、篠田三郎演じる松陰に深く感動して以来、度々、萩にも足を運んだ間柄(?)なのですが、花神の話はまた明日にするとして、今、私の手許に永冨明郎「武蔵野留魂禄 -吉田松陰を紀行する-」という本があります。
以前、たまたま、知人を介して、著者より直接、戴いた物なのですが、この本の中で、特に私が強く印象に残った話があります。

それは、吉田松陰自身についてではなく、そのについてのことでした。
松陰の生家、家は、松陰の母が嫁いでくる以前、極貧の中にあったそうで、何故そうなったかというと、松陰の祖父七兵衛は異常なほどの本好きであり、江戸詰め時代も家族への仕送りなどそっちのけで給料の殆どを本の購入にあて、帰国となると、そのまま膨大な本を持って帰ったからだそうです。
ところが、松陰の父百合之助が13歳の時、萩城下で火事が起こり、家ごと膨大な本の山は焼けてしまったそうで、以来、七兵衛は半ば茫然自失のまま、余生を過ごします。
大変なのは家族で、本よりも家が全焼したわけですから、しばらくは郊外の農家の離れのようなところに住んだ後、百合之助が苦労して、ようやく小さな家を借りることができたそうですが、生活は武士とは名ばかりの極貧生活で辛うじて糊口を凌いでいたという状態だったとか。
そんな中へ、松陰の母、タキは杉家へ嫁いできたわけです。
ところが、この女性は、この極貧の杉家へ嫁して、まず、何をやったか。
何と!毎日、風呂に入ることを宣言したそうです。

こういうと、若い方は失笑されるかもしれませんが、思えば当家も、私が子供の頃の福岡市下人参町には水道こそありましたが、お湯はで焚いてましたよ。
まあ、商売柄、材木の切れ端には困らなかったということもあるのでしょうが、夏も冬も雨の日も雪の日も母が外に薪をくべに行ってましたから。
昭和43年博多駅地区土地区画整理で新しい家に引っ越して初めて、ガス釜というのが付きましたね。
ましてや、江戸期は、蛇口を廻すどころか、バケツで何杯、何十杯と、それも、井戸からつるべで汲み上げて桶に移し、それからさらに、火を起こし(ライターどころかマッチも無い時代です。)、薪をくべ・・・の時代です。
従って、当時は何人もの使用人を抱える重役の家以外、それなりの武家屋敷ですら、入浴は数日おきが普通であったそうです。

この部分を同書より抜粋しますと、
「(タキは)もちろんその作業はすべて自分がやった。後に(松陰ら)子供達が大きくなると、水運びや薪集めは次第に子供達も手伝うようになった。初めの内、百合之助も周囲も、身分不相応だと大反対した。しかしタキは断じてこれだけは譲らなかった。
貧しくとも風呂ひとつで心が温まり、翌日への意欲が沸くならばとの思いがあった。貧すれば心までもが貧しくなっていき、更に寒さは一層気持ちを萎えさせる。その思いが次第に百合之助にも通じ、いつしか誰も苦言を呈さなくなったという。」と。
まさに、この母にしてこの子あり
辛い水汲みや薪拾いを、明るく楽しげにやる、この家の光景が目に浮かぶようです。

実は私はこれには、思い当たる話があります。
先頃、知己より、「友人が営んでいる割烹料理屋に行こう」と言われ、一緒したのですが、往路、「彼の所は、先般、奥方病没してね」と聞かされました。
で、帰途、友人から「どうだった?」と聞かれ、私は一言、「暗い!」と。
(店の雰囲気は、おおよそ、タキが嫁ぐ前の杉家を思い浮かべてもらえればいいかと。)
「草野球でも何でも、負けがこんでくると暗くなるもんだ。客商売が暗くてはいかんよ」
「まあ、奥さんが亡くなったばかりだからな・・・」
「逆だろう。亡くなったばかりだから、嘘でも明るくしておかなければならないんだ。暗くしているから客の入りも悪くなり、店にも活気がなくなり、また余計に暗くなるという悪循環に陥る。大将は辛いときほど明るくしてなくちゃいけないんだ!」・・・と。
私も以前、ある会社の営業をやっていた時代があるのですが、成績が上がらなくなってくると、人間、声が小さくなるもののようで、そうなると、また不思議に成績が悪くなる・・・。
だから、売り上げが悪い時期が続いていても、気が付く限り、大きな声を出さなければならない・・・、辛いときほど声を出せ!です。
人間というものは、自分で起こした勢いというものに、自分も巻き込まれるような面があるのかもしれませんね。

以下、タキについて、もう少し同書より、抜粋させて頂きたいと思います。
「元々、村田右中の三女であったタキは児玉家に奉公しており、その緑から児玉家の養女として杉家に嫁いできた。タキは根から陽性の人であり、彼女ならば赤貧にあえぐ杉家に明るい空気を持ち込んでくれるに違いないと児玉が見込んで嫁に薦めたという。(中略)
 百合之助は維新を迎えることなく慶応元年8月に62歳で生涯を閉じたが、タキは更に四半世紀も生きながらえ、明治23年に84歳の大往生を遂げる。心身ともに健康な人であったに違いない」
                                     平太独白
by heitaroh | 2005-10-25 07:33 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(6)

志とは上を向くことに非ず、前を見ることと見つけたり!
親愛なるアッティクスへ

「能はざるに非ざるなり、為さざるのみなり 」 吉田松陰
                        
この数日、他県の友人を連れて、九州各地を廻っておりました。
さすがに、阿蘇山頂寒かったですよ・・・。
で、その一環として、九州は大分県中津市にある青の洞門というところに行ってきました。
ここは、耶馬渓と呼ばれる中国の山水画を思わせる風光明媚なところに有ることもあり、実は、私の愛用の観光地で、老後は大分県山口県に住みたいと思っているほどです。

青ノ洞門とは、18世紀半ば、越後高田(新潟県)の僧、禅海なる者が同地を訪れた際、今では風光明媚なこの景観も、当時は山国川沿いに断崖が連なる交通の難所であり、このときも、禅海は、たまたま通行人が転落死する光景を見たそうです。
禅海は、これに心を痛め、通行人の難渋を取り除くべく、この断崖絶壁を、石ノミトンカチだけでコツコツとトンネルを掘り、遂に貫通させた・・・、それが、青ノ洞門です。
この話は、大正年間、菊池寬により、小説「恩讐の彼方に」で題材にされたこともあり、ご存じの方も少なくないと思います。
ただ、その内容は、相当にデフォルメされた物であったようで、禅海は極悪非道の過去を持つ人物として描かれていたようですが、実際にはそういった事実はなく、むしろ、突然、ろくな道具もなく、穴を掘り始めた彼の姿を近隣の住民は嘲り笑ったとか・・・。

e0027240_17511050.jpgしかし、驚くべきは、それに費やした年月です。
約342メートルも岩盤を掘り続けるのに要した年数は、何と30年!
(明かり取りの窓だけでも、そこを貫通させる為には1mはくりぬかねばならないでしょう・・・。)
30年と一口に言っても30歳が60歳、40歳は70歳ですよ。

昔、伊丹十三監督、 「 マルサの女 」という映画が有りましたが、この中で、主人公の女性が刃物を持った強盗と対した際、「あんた、それで私を刺したら30年はくらいこむよ!あんた、出てきたとき、一体、幾つだい?考えるなら今だよ!」と言い放ち、強盗がしばらく考えて、刃物を落とす・・・いうシーンがありました。
(ミンボーの女・・・だったかも?)
逆に言えば、30年とは強盗が凶器を落とすほどの年月なのです。
まさしく、「奇人」でしょう。

まあ、目前で転落死した人を見て、仏門に在る者として、何か感じるところあったのでしょうが、これはある意味、当然の話で、むしろ、何故、他の仏門に在る者らは誰も旅人の難渋を取り除こうという考えを持たなかったのか?と思うくらいです。
考えを持たなかったのではなく、即ち、誰もこの奇岩を貫くことが可能だ・・・とは思わなかったということではないでしょう。
ここに穴を開けるというのは、言うならば、「太陽にある鉱物を素手で持ち帰る」というのと同義語に思えるほど、現実離れした話だったのではないでしょうか?
しかし、穴を掘ることは出来た。30年という歳月の代償と共に・・・。
となれば、彼らが到底、不可能と思ったのは、342メートルの岩の固さではなく、30年という歳月だったのかもしれません・・・。

「志とは上を向くことに非ず、前を見ることなり。」
TBSフジテレビを傘下に収めようとすることばかりが、志ではないように思えますが、如何でしょうか?
                          平太独白
by heitaroh | 2005-10-24 18:18 | 思想哲学 | Trackback(2) | Comments(4)

30代の私よりの3通の手紙。
先日、書棚を整理していると、以前、私が書いたものが出てきた・・・という話を書かせて頂きました。
参考:平太郎独白録 「男とは、生き恥をさらした分だけ、男である。」

今回、また、別に3通見つかりました。
前回の物は、まだ20代だったと思いますが、こちらは、おそらく、内容からして、すべて、平成12年前後、30代後半に書いた物ではないかと推測されます。
一年ほど前に、一度、見つけ出したものの、そのまま、栞代わりに本に挟んだままとなっていたようです。
言うならば、三十代の私からの手紙ですね(笑)。
まあ、昨今の世相とは、少々、相容れないものがあるかとは思いますが、ある意味、いい参考になるかと思い、ご批判に耐えうるかどうかは別にして、以下、開陳してみたいと思います。

【 今日、国に五百兆円もの、国債という借金があるのである。
 建設業界の置かれた環境は厳しい。斜陽産業と言ってもいいだろう。

 戦前、日本人は「産めよ、増やせよ」の合言葉の元、多くの子供を抱えることを奨励された。
 従って、この時代までの生まれの人達は、八人兄弟や十人兄弟などと言うケースが少なくない。特に地方の農家に、この傾向が顕著であるように思える。
 ともあれ、そうやってストックされてきた農家の次男坊、三男坊といった人達は、戦後、農村の余剰人口として、都市部に吐き出され、その復興の為の労働力を担うこととなった。
 彼らの多くは、ある者は伝手を頼って建設会社に入り、ある者は知人や叔父などを頼って、大工や左官などの職人の弟子として、その世界に入った。

 そして、復興は高度経済成長となり、日本は稀に見る繁栄を謳歌し、一人前の職人となった彼らは、皆、一家を構えたいと願い、やがて、○×建設、△□工務店の社長となり、一国一城の主となるという夢を叶えることができた。
 だが、終わりが無いかに見えた成長は一段落し、業界に構造調整の色が濃くなる。
 直接の因果関係は無くとも、オイルショックでの狂乱物価こそが、その象徴であったように思う。
 本来、ここで、建設業者というものは、ある程度、淘汰されていなければならなかったのであろう。
 だが、お上頼みの体質はここでも発揮され、妙に大勢が生き残ってしまった。
 そして、現代。
 バブルを経て、ある団体の業種別割合を見てみると、当然ながら、建設業者の数は、一位であり、二位の不動産関係を倍以上、引き離している。
 さらに、下請けを始め、設計事務所など、何らかの形で建設業界に関わる業種を含めれば、如何にこの業界が巨大、いや、肥大化しているかがわかるというものである。
 平たく言うならば、建設業者というものの数が、異常に多すぎるのである。
 構造調整を先送りしてきたツケが、出ていると言っていいのかもしれない。
 復興、成長というものを形にしてきたのが、建設業者であるとするならば、もはや、成長というものの裏付けを得られない今日、その存在意義は薄れてきているとも言えよう。
 さらに、少子化と不況の波で、建築物自体、供給過剰の感がある。
 だが、そう言われながらも、尚も建て続けなければならないのが、この稼業である。
 当然ながら、収縮した市場は、否応無く、建設業者に淘汰を迫りつつある。

 それに対し、行政は、今更ながらに、「多すぎる建設業者の数を半分くらいに淘汰させる。」などと、あっさりと言われる。
 だが、淘汰させられる側は、たまったものではない。
 「もっと、先に減らすべき所を減らして言って欲しい。」と、なるのも当然であろう。 】

日本の国債は今や、700兆円を超えるとか。
地方債まで入れると1000兆円・・・。
まさしく、天文学的な数字であり、どうやって返すんでしょうか?
考えただけでも、空恐ろしくなってきます。

この点で、私の考えとしては、まずは、元栓を締めること・・・だと思いますが、この点で、ひとつだけモデルケースがあるように思います。(財投もまた、然り。)
それについては、また、明日のココロ・・・と言うことで(笑)。
                              平太独白
by heitaroh | 2005-10-21 08:52 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)

自動車王に見る酷い親父とカリスマの虚像・・・。
親愛なるアッティクスへ

自動車王・ヘンリー・フォード一世には、一人息子のエドセルがいました。
エドセルはなかなかに有能な人物だったようで、フォードに入社した後、弱冠20歳にして専務に就任したものの、以来、どういうわけか会社では父に冷遇され続けたとか。
で、エドセルとしては何とか父に認めてもらおうと思い、あるとき、会社の技術陣の協力を得て試作車を作ったとか。
で、それを父に、「どうだい、父さん」とお披露目したところ、父はにっこりと笑って、そのまま、そばにあったハンマーを手にするや、試作車を粉々に打ち砕いたと言います。
そして、「二度とこんなバカな真似をするな!」と言い捨てて、エドセルに協力した技術者たちをすべて解雇したそうで、自分に協力したばかりに会社を去らねばならなくなった技術者たちを見送るときのエドセルの胸中たるや如何・・・だったでしょう。
技術者たちは口々に、「君は間違ってないよ」と言って去ったといいます。

さらに、こういうことがあったからでしょうか、エドセルが社長になったとき、父会長との不仲は決定的なものとなっており、エドセルが技術偏重型のフォード社の欠点を是正する為、経理を充実させようとしたところ、父はエドセルに無断で、夜中のうちに経理課の机などをすべて搬出させた上で経理課全員を解雇したと言います。
曰く、「うちの売り物はであって、経理の人間たちを売っているのではない」と・・・。
技術屋特有の視野の狭さでしょうか・・・。

その後、エドセルは耐えかねて兵役に志願したところ、今度は父は裏から手を回して、彼を除隊させ、結果、エドセルは失意のうちに若くして世を去りますが、その夜、父、フォード一世が妻に言ったと言われる言葉があります。
「母さん、わしは少し、息子に厳しすぎたかな・・・」
まさしく、大バカ野郎ですね!
しかし、エドセル亡き後、これでフォード一世の暴走に歯止めを掛ける者はいなくなり、老いたフォード一世の迷走はますます、激しくなっていきます。

ボクサー崩れのごろつきを頼りにし、ごろつきは仲間を呼び入れ、彼らは腕力でフォードへの面会を拒否したことから、当然、会社は食い物にされるようになってしまった・・・と。
その後、エドセルの子、フォード二世が成長し、ごろつきたちの元へ乗り込み、これらを切り捨てて、ようやくフォード社は立ち直ることができたとか。
まさしく、「呆けた毛沢東ほど始末が悪いものはない」という好例でしょうか。
周囲は、かつての伝説を知っているから、虚像が一人歩きしてしまい、側近くにいる者だけが、カリスマがかつての英雄ではないことを知ることになる・・・。
「そんなバカな・・・」と言われるかもしれませんが、意外に我々の身近でも起きていることのような気がしますよ・・・。
                             平太独白
by heitaroh | 2005-10-20 08:04 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

学年不要論
親愛なるアッティクスへ

昨今、国立大学はその使命を終えたなどという教育制度自体のあり方が問われることが多くなったようですが、確かに現行の制度の概要が形作られた明治初期は、限られた予算で人材の早急な育成を求めねばならず、国立大学で少数エリート育成優先することはやむを得なかったと言えるでしょう。
しかし、それから、もう100年が経ち、特にこの10年くらいは選択肢が増えた教育を受ける側と、教育機関自体の多様化、そして何より、足音もなく近づきつつある少子化というものを考えたとき、現行の学校制度自体は、もう、いくら何でも見直していい時期に来たのではないかと思えます。
塾などがこれほど充実した今、もはや学校は不要で民営化すべきだという学校不要論もあるようですが、私はそれ以前に学年不要論です。

同じ事を学んでも1年で理解する子供もいれば、6年かかる子供もいるわけです。
また、同じ子供でも、社会は1年で理解するけど、算数は6年かかる子供もいるわけで、それを、皆一様に同じカリキュラムで通し、皆一様に1年で打ち切ってベルトコンベヤーに乗せて上へ上げてしまうと言うのは、いかにも乱暴な話ではないでしょうか?
その結果、わからない子供はわからないまま次の学年に進んでしまうことで、余計わからなくなり、学習への意欲を失う。
この弊害を改める為には、即ち、学年制をやめて単位制にするべきであり、無論、判断能力の低い子供本人に単位を選ばせるのではなく、教師が客観的に判断し、「この子は算数はもう一年」という風に割り振ればよく、同じ年の子供とのふれあいがなくなるというのなら、組というものは維持したまま単位制とし、その授業が終われば、それぞれの組へ帰って行くというふうにするなどの助長補短策を講じればいいのではないでしょうか?

一方で、我々の学生時代は、偏差値と言うものが厳然として存在しました。
時には、偏差値が低ければ、能力ばかりか人間の価値そのものが決定付けられるような一面さえあったように思います。
ただ、我々の時代の教育制度は「如何に平均点を取るか!」ということに重点がおかれた制度で、一芸にのみ秀でていても、「平均点」が低ければ偏差値は低くなり、結果、一芸にのみ秀でた、もしくは教科以外のことに秀でた子供というのは、多くが「落ちこぼれ」の名の下に否定されてきたように思います。
でも、偏差値とはあくまで、0点という下限と100点という上限の中で仕切られた結果でしかないのですけどね・・・。
つまり、社会はまるでダメでも、算数なら160点とれる子も100点どまりなのですから・・・。

私自身、高校受験の時に、こんなことばかりやっていると今に日本は大変なことになるぞ!と思いましたよ。
まあ、私自身が極めて得意不得意の波の激しい子供でしたから、それを言うと我田引水のようにとられましたが、そんなとき、先生は言いました。
「不得意科目を勉強しなさい。得意科目を10点上げるよりも、不得意科目を30点あげるほうが楽なのだから」・・・と。
すなわち、皆、得意分野を殺し、不得意分野を補充するという、誰もが平均点が取れる画一的な子供として量産されることになったわけで、それは日本国民の知識の底上げという点では役に立ったかもしれませんが、一方では規格からはみ出す者には、容赦なく、「落ちこぼれ」「問題児」というレッテルを貼って、十把一絡げベルトコンベヤーの外に置いたと。
この時代、教師にとっては、右と言えば、何も考えずに右を向ける生徒こそが、もっともいい生徒であったというのは言い過ぎでしょうか?
                        平太独白
by heitaroh | 2005-10-19 07:53 | 教育 | Trackback(6) | Comments(6)

長期的視点に欠けたプレーオフ制度の盲点
親愛なるアッティクスへ

昨日はプレーオフ第五戦に行ってきました。
風邪ひいて熱もあるわ、腹具合も悪いわ・・・の状態にも関わらず、あまりの盛り上がりに、相当、飲んでしまいました。
私は、実力の拮抗した者同士が、こういった短期決戦では、そうそう、連勝連敗をすることはないという考えでしたから、おそらく、福岡ソフトバンクホークスは厳しいだろうなと思っていたのですが、まあ、勢いはありましたからね。
で、途中まで行けそうな雰囲気だったんで、期待したのですが、(本年、観戦して負け無しの孫オーナーが観戦予定と聞いてましたが、その姿が最後まで見えなかったことが誤算でした(笑)。)あれで負けたんじゃ、「そりゃないよ~」状態で、帰途、終戦直後の日本人状態のまま、友人と二人で熱燗を浴びるほど飲み、次行って焼酎とウィスキーを飲み・・・。
今日の状態はご想像にお任せ致します。

しかし、プレーオフって制度は、別にひいきチームが負けたから言うわけではないのですが、本当におかしな制度ですよ。
1位になると、2週間、試合しないで待っていないといけない。
休養は十分に取れるのでしょうが、それまで毎日試合やってた人たちが急に2週間あくわけですから、コンディションやマインドの維持が、相当、難しいのであろうことがはっきりしたように思えます。
(あるいは、ロッテは意図的に2位になったのでは?)
とすれば、来年以降、もう1位になろうとするチームは無くなるでしょうね。
王さんだけは、愚直1位通過を狙うでしょうが・・・。)

これは、球場に足を運ぶファンを欺く行為であり、もし露骨に一位を譲り合うような試合があまりに続けば、逆にファンに見放されるかもしれず、せっかく導入したのが本末転倒の結果を招くことになるかもしれません。
以前、平太郎独白録 「原理原則を無視したパシフィック・リーグのプレーオフ制度。」の中でも申しましたことですが、この辺りが長期的な視点に欠けた、「とりあえず、盛り上がればいい」で導入したことの限界だと思います。

ちなみに、昨日はロッテの胴上げがあっているとき、福岡のファンも多くの人が拍手してました。
やっぱ、ロッテは強かったですよ。
阪神はかなり、厳しい戦いになるような気がしますが・・・。
ちなみに、私は三年連続胴上げ見てしまいました・・・。

ということで、今日はこの程度しか書けません。
武士の情け・・・です。
見逃して下さい・・・。

あ、パ・リーグ会長も何か言っているみたいですね。↓
参考:POの制度見直しを示唆 パ・リーグ小池会長 (共同通信) - goo ニュース

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by heitaroh | 2005-10-18 17:37 | スポーツ | Trackback(3) | Comments(4)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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