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英賀合戦の地を歩く「なんじゃこりゃ?」の巻
先日、ちょっと京都まで行ったので、帰途、姫路に一泊し、かねてより行きたかった姫路郊外の英賀に行ってきました。

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(↑姫路城遠望。降りたら正面に城が出迎えるという駅も珍しいですよ。)

英賀と言えば、天正5年(1577年)5月、東上を開始した毛利の先遣隊5千を若き黒田官兵衛孝高(当時は小寺官兵衛)がわずか500の軍勢でこれを破った英賀合戦で知られる地ですね。

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私の認識では、毛利の一翼を担う小早川隆景の部将・浦宗勝に率いられた五千が、本軍に先駆けて、まずは、同盟する播磨国の英賀の地に上陸し、船旅で疲れて休息していた所を官兵衛に襲撃され、再び、海に追い落とされた・・・というものでした。

ただ、現地に初めて行ってみて、「なんじゃこりゃ?」と。
まず、播磨へ東進する毛利軍は直接、海から英賀に上陸したのかと思っていたら、毛利軍は、合戦に先立ち、「海上から室津(現・兵庫県たつの市)に上陸し、英賀から姫路を目指した」となっており、室津ってどこ?と思い、地図を見てみたら、英賀から10kmくらい離れてるんですね。
ここに上陸して英賀を陸路で目指したのなら、「船酔いで休息」という前提自体が崩れるわけで。

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さらに困ったのが、官兵衛が襲撃した場所ですが、何も、毛利軍は上陸して野原でくつろいでいたわけではなく、英賀城という城の中の英賀御堂という、本願寺の施設の中にいたんですね。

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おまけに、一帯は当時は葦などが茂っていたとしても、特に目隠しになるような遮蔽物もなく、比較的、見通しのいい所で、小寺方が近づいてくれば見つかってしまう可能性が高い・・・。
だからこそ、毛利軍は油断していた、しきっていたといえるのでしょうが、それにしてもと。
つまり、官兵衛は奇襲とはいえ、わずかな軍勢で大兵力が籠もる城を攻撃したことになるわけです。

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(↑官兵衛が襲撃をかけた毛利兵休息の英賀御堂は、今では昭和の企業誘致で川の下。兵どもが夢の跡。)

おそらく、毛利方先遣隊五千のうち、半分が室津に上陸し、残り半分はそのまま航行を続け、英賀城の入り口、川沿いに設けられた英賀港に上陸し、そのまま、城内の本願寺に入って休憩していたということだったのではないかと思いますが、それでも、敵には2500の兵がいるわけで。
それに対し、小寺方は各地に抑えの兵を割かなければならず、また、小寺方と言いながら、主君小寺政職には大した戦意はなく、官兵衛手持ちのわずか500の兵しかいなかったと言われています。

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(↑官兵衛決死の背中を見送った播磨の山河。)

官兵衛はこの時、近隣の農民に旗を掲げさせ、織田の援軍が既に来ているように見せかけたことから、その智略を賞賛されてますが、でも、この程度なら、官兵衛ならずとも考えますよ。
まあ、毛利のこの大兵力を相手に戦おうと思う時点で既に常人離れした思考なのでしょうが。
ただ、こういう状況の中ではもう少し、何かがあったはずです。

ここで一つ思い当たることがあります。
英賀城主・三木通秋は一向宗の熱心な門徒であったものの、家臣の三木清閑は官兵衛の妹婿でもあり、その常人離れした才知のほどを妻から聞いていたのでしょう、かねてより官兵衛に協力的で、おそらく、この時も、心情的には官兵衛の味方をしたかったのではないかと。
が、主君を始め、領内の一向宗門徒へ配慮する必要に迫られ、やむなく、敵方についたと。
それだけに、官兵衛の味方をしないまでも、官兵衛軍が近づくのを黙認、いや、城内への侵入を手引してやったと。
そうでも考えなければ、どうにも、有り得ない話のように思えるわけです。

清閑の子孫はのち、福岡藩士となったといいますが、関ケ原合戦の翌年、慶長6年の福岡藩分限帳を見ると、家臣団の中に「三木」の姓を名乗る者が二人。
ともに、「吉」の字がついてますから、兄弟だったのではないかと思いますが各1200石と500石。
重臣とはいかないまでも、まずまずの身分だったかと。
彼らが、子孫だったのでしょうか。
                  平太独白
by heitaroh | 2016-11-25 06:44 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

大河ドラマ「真田丸」での中間管理職・板部岡江雪斎の悲哀
昨日の大河ドラマ「真田丸」での板部岡江雪斎の姿を見て、中間管理職の悲哀に、いたたまれなかった人も多かったのではないでしょうか。
板部岡は小田原北条家の外交官(僧?)で、その末期に武田、織田、徳川との外交交渉を担った人ですが、ドラマでは苦労して勝ち取ってきた「成果」を主君である北条氏政に、はねつけられる・・・という、現代でも往々にしてよくある光景を展開してましたね。
現場の担当者としては、「そんな馬鹿なぁ!」と思わず、言いたいところでしょうが、いつの時代も「部下は上司を選べない」なわけで、「もう一回、行ってこい」などと言われても、誰よりも無理なことはわかっているだけに・・・。
「このバカタレが!」と言って、辞表を叩きつけたいところでしょうが、なかなかそうもいかないのが人の世なわけで・・・・。

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(↑小田原城。)
ただ、ドラマでは絵に描いたような愚かな上司としての氏政が出て来るのですが、現実にはそれほど簡単な話ではなく、父、北条氏康の時代にその片腕を担ったのが妹婿であった猛将・北条綱成であったように、氏政の時代に事実上、軍事面をリードしたのが、氏康の次男で、氏政の弟になる氏照でした。
武田、上杉、織田に対しても一歩も引かず、赫々たる戦果を挙げてきた氏照の発言力は大きく、五代当主で甥の氏直に対しても、未熟者扱いで、隠居の氏政が同席していないと何も言えなかったとか。
氏直も父が死んだら、この叔父さん、どうしよう・・・と思っていたでしょうね。
同族経営の悲哀です。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐が勃発すると、氏照は反対意見を抑えこんで徹底抗戦を主張。
秀吉もその辺の力関係は的確に把握していたのでしょう、戦後は兄、氏政と共に切腹を命じられています。

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一方、板部岡と並んでもう一人、外交に尽力した人物に北条氏規がいます。
この人物は氏政、氏照らの同母弟になりますが、五男坊ともなると、もう、単なる人質要員
そのため、幼少時は駿河今川家に人質として出され、この頃、同じく、今川家の人質となっていた徳川家康と親交を持ったといわれます。
(まあ、この辺は伝説の域を出ない話ですが、私はその後の両者の親密な交流を見れば十分に有り得る話ではないかと。)
氏規は、特に家康との人脈を活かして対徳川家外交に強みを見せていたようです。
それだけに板部岡とともに秀吉への臣従を主張、自身も上洛し秀吉との交渉に当たるなどしますが、結局、兄たちに受け入れられず、韮山城へ籠もり大軍を相手に善戦するも、衆寡敵せず、家康の説得を受け入れて開城しています。

言うならば、同族企業北条において、代表取締役社長会長氏政、代表取締役社長氏直、代表取締役副会長氏照で、取締役営業部長が氏規、営業課長が板部岡・・・といったところだったでしょうか。
一方、板部岡はその後、鋭敏な外交感覚を活かして秀吉に随従、秀吉死後は家康への乗り換えも無難にこなし、徳川家の旗本として存続したとか。
結局、上司に恵まれなくとも、見ている人は見てくれているということでしょうか。
                      平太独白

by heitaroh | 2016-06-06 07:59 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(4)

現存する日本最古の城と壮烈岩屋城。
危うくまた、9月を忘れるところでした。
実は連休前から、ちょっと体調を崩しておりまして、従って、連休も家でゴロゴロしていたのですが、一日だけ、ちょっとここに行ってきました。
現存する日本最古の城、大野城跡です。

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と言っても、うちから車で30分程度、太宰府の傍らにそびえる四王寺山という所にある山城ですから、まあ、ちょっと息抜きということですね。
実はここ、もちろん、初めてではないのですが、タモリさんも先日のブラタモリで言ってたとおり、「歴史という物にまったく興味が無い福岡人」らしく、殆どの人があまり興味を持ってません。
つまり、ちゃんと整備されてないんですね。
従って、とにかく、看板はあっても車が止められないとか、中心がどこかわからないとか、行きたい奴は勝手に行けって状態なんですよ。
で、今回、病み上がりだし、時間もあるので、ちょっと行ってくるかと。
ちなみに、大野城と白村江敗戦後、大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備え、天智天皇4年(665)に亡命百済貴族に命じて築かせた城ですが、その規模たるや、後年の戦国時代の城よりも遥かに広大。
明らかに国家レベルの城だと感じさせます。

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で、ここ(↑)。
鏡池と言って、山頂付近にあるのですが、いつも水が涸れることがない泉なのだとか。
おそらく、大野城の井戸だったのではないかと。

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で、見れば、傍らに石碑があって、お地蔵さんがある。
はて?と思って、反対側に廻ってみました。

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「鑑種、鑑豊公自忍の地」と読めるのですが、鑑種と言えば、毛利元就にそそのかされて大友家を裏切った高橋鑑種のことか・・・と。
確か、大友家の大黒柱・立花道雪に鎮圧されたと記憶してましたが、この池の畔で夫人ともども自害していたんですね。
鑑豊は誰かわかりませんが、その一族なんでしょうが、人の世の悲惨さを感じさせます。
でもって、高橋と言えば、有名なのはこちら(↓)でしょう。

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島津へと草木もなびく中、落日の大友家にあって意地を見せた勇将・高橋紹運が籠もり、わずかな手兵と共に一兵残らず討ち死にして果てた岩屋城跡です。
島津側の被害も甚大で、さらに次の攻略目標は岩屋城よりはるかに堅固な立花山城
籠もるは紹運の長男で父以上の名将の噂が高い立花宗茂
後に、豊臣秀吉をして、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言わしめた名将が眦を決して待ち構えているわけですから、さしもの剛勇・島津も矛先が鈍った・・・と。
結局、秀吉の援軍到着もあって、島津の快進撃はここに一頓挫となったわけですね。

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もっとも、岩屋城は元々、高橋紹運が大友武士の意地を見せるためだけの城だったこともあり、城自体は千年前の大野城の出城程度の大きさに過ぎなかったと言われています。
で、この画像は大野城の正門と言われる太宰府口城門跡です。
なるほど、城としての位置づけがまるで違ったわけですね。
                               平太独白
by heitaroh | 2015-09-26 17:04 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

土井ヶ浜遺跡行ってきました。
先日、ちょっと所用があり山口県まで行く用事があったので、ついでに以前から行きたかったここにちょっと足を伸ばしてみました。

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土井ヶ浜遺跡ですね。
ここは発掘された頭蓋骨がすべて同じ方向を向いており、その視線をずーっと先に延ばしていったら中国の山東半島に行くという話を以前聞いたことが有り、以来、機会があれば・・・と思ってました。

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(↑レプリカです。こんなことしていいのかな・・・と思わなくもありませんが。)
また、現地で発掘された当時の頭蓋骨と土井ヶ浜で発掘された頭蓋骨が酷似しているという話もあり、春秋の戦乱を逃れて移り住んできた人々ではないかと。

で、私は以前から渡来人系弥生人だろうとは思ってましたが、改めて現地でのクイズの結果、実証されました。

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間違いなく北部九州土着の弥生人です。

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左下の人は俳優の小澤征悦さんかと思いました。
また、右上の人はうちの取引先にいます。
まったくこのまんまです(笑)。

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元々、日本列島には氷河期に地続きだった時にマンモスを追いながら縄文人が移ってきてたのを、その後、紀元前300年頃に中国や朝鮮半島などから移り住んできた渡来人によって先住の縄文人が駆追された・・・と。
いわゆる、神武東征なんてのもこれじゃないかと。
また、邪馬台国も九州から畿内へ移動したというふうに考えておりますので、これも神武東征ではないかと思っております。

で、東に行けば行くほど縄文系の顔が多くなり、西へ行けば行くほど渡来人系の顔が多くなる・・・とか。

ちなみに、関東の弥生人というのもいます。

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もう一つが南九州からのタイプですね。

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この辺はどっちがどう違うかは少し微妙なような気がしますが(笑)。
                               平太独白
by heitaroh | 2015-02-23 19:37 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

中国大返しは人間の欲を活用した秀吉の妙。

中国大返し。世界史的にも類例を見ないと言われるこの、200キロにも及ぶ敵前大反転攻勢作戦は常識では考えられない要素を含んでいる。

まず、絶えず生命の危険に晒されている戦場では、敵前での後退はそれだけで恐怖心から潰走に至ってしまう可能性もあり、為に、羽柴(豊臣)秀吉は自軍に「敗走」ではなく「転進」だということを明示する意味から、敵将・清水宗治を衆目の中で自害させ、その上で部隊に撤退開始を指示。

自身は遅れて、毛利との和睦を確認した614時より移動を開始し、途中、休養日などはあったものの7日後の13日には200キロ先の山崎にて明智光秀の軍を撃破、特に、最初の休憩地・沼城から70キロ先の拠点姫路までは豪雨の中を丸1日で走破しています。

おそらく兵士らは24時間歩きっぱなしだったのでは。

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一つには、これは黒田官兵衛(如水)というよりも、おそらく石田三成の手腕だろうと思いますが、鎧や刀槍などの武具はすべて置いて裸になって走れ!ということもあったようですし、また、当時は「歩く」という行為が現代より遥かに身近だったということもあったのでしょう。    

現代ならば「岡山から京都まで歩いて来た」と聞けばびっくりでも、当時の人は他に移動手段がないわけで、「だって、馬なんて持てる身分ではないし」と不思議そうな顔で答えたのでは。

つまり、歩くということは現代人が呼吸するのと同じくらい当たり前のことだったわけですね。

でも、それでも1日平均40キロ移動ですよ。

まだ、疑問氷解とはいかないような気がします。

で、ここで見過ごせないのが秀吉軍の猛烈な戦意です。

一般に1万石以上を大名というようですが、では、1万石というのは現代の貨幣価値で幾らか?

これは、時代によっても大名家によっても違い、また、公務員初任給などない時代ですから、米価なのか大工の手間賃なのかの換算基準によっても違うわけですが、大体、ざっくり1万石=年収1~10億円だと。

こういうと、底上げされた数字のように思えますが私の母方の祖先は福岡藩の下級武士で53人扶持・・・ですから年収100万円以下

しかも、これより下がまだいるわけで、封建社会が如何に貧富の差が激しかったかということがわかるかと。

当然、この年収では生活していけなかったはず。(ちなみに、時代劇に出てくる江戸の同心与力というのは足軽身分ですから、彼らの本来の年収も似たようなもので、実際には役得などの副収入に頼っていたとか。)

つまり、秀吉に従っていた末端の兵士らの多くはこういう未来に展望が描けない低所得の人たちだったわけで、それだけに、「秀吉様が天下を獲る≒俺も殿様になれる=結婚も出来る、家族も養える≒こんなのは一生で一回あるかないかのチャンス」・・・と。

走りませんか?(笑)。

つまり、秀吉軍の強さの秘密は人間の「欲」が支えていたということであり、逆に光秀ら他の武将はその辺を活かしきれなかったということで、改めて秀吉という人の人間心理の洞察力の凄さがわかるでしょうか。

                平太独白


by heitaroh | 2014-07-16 12:59 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

「LEADERS リーダーズ」に上月城と信長日銀総裁を見る
今頃・・・ではありますが、この連休を利用して、ようやく、先ごろ放送された、トヨタ自動車創業者・豊田喜一郎氏をモデルにしたドラマ「LEADERS リーダーズ」を視聴しました。
まあ、少し良く描かれ過ぎている気はするけど、私が知る限り、概ね間違いではないと思います。
経営の神様と呼ばれ、本田宗一郎氏も師事したという石田退三、販売の神様の名をほしいままにした神谷正太郎、興の祖とも言うべき豊田英二・・・、そして、志半ばにして死んだ豊田喜一郎。
本名で出しても良かったんじゃないかな・・・と。

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で、さておき、劇中、主人公が日銀総裁(モデルは日銀の法王と呼ばれた一万田久登かと。)から救済の条件として人員整理を求められるも、「社員は家族」というポリシーの下、その狭間で苦しみ、そして苦悩の末に最後はそれを受け入れる・・・というシーンを見て私には思ったことが有ります。

今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で、織田方の対毛利最前線に位置する上月城を救援せんとするも、敵の圧倒的な兵力の前に果たせぬ黒田官兵衛(如水)・・・。
上司である羽柴秀吉もこの状態を危惧し、主将・織田信長に救援のための兵力の派遣を要請するも、信長からは「見殺し」を指示される。
見殺しに反対する官兵衛、秀吉も、苦慮しながらも、最後は受け入れるしかなくなる・・・と。

この場面、官兵衛が豊田喜一郎、秀吉が日銀名古屋支店長、信長が日銀総裁・・・と一緒だな・・・と。
船の航路を見る目は信長の方が正しいのでしょうが、その矢面に立たされる者はいたたまれないでしょうね。
                         平太独白

by heitaroh | 2014-04-29 20:59 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

普通に橋を渡れる幸せ。

先日、ちょっと驚いたのですが多摩川って両岸にあれだけの人口を抱えているにも関わらず、人が歩いて渡れる橋って数えるほどしかないんですね。

福岡市のような中堅都市でも橋は不自由しないくらいにたくさんかかっていることを思えば、渋滞緩和や物流阻害ということ以前に災害時の避難はどうなっているのでしょうか。

多摩川も私が行った時は水量も少なく、まあ、その気になれば歩いて渡れるような気もしましたので、それほど気にする必要はないのかもしれませんが、岡本かの子はかつて、この川を「悠久の時」と呼んだといいますから、ナイル川とは比べようも無くとも、おそらく上流にダムなどもない時代、水量はもっと豊富で川幅もあり、江戸川などとは比べようもないくらいに橋の架設は技術面でも費用の面でも負担だったのでしょう。

でも、それでも今どき・・・と。

 

そこまで考えてふと、思いました。

もしや、人が川を不自由なく渡れるようになったのは比較的最近のことなんじゃないか・・・と。

たとえば、川幅が1mしかなくとも、もし、深さが10mあればその恐怖心たるや軽々には渡れませんよ。

実際、江戸時代までは橋といえば木造が大半だったでしょうから、「橋を架ける」というのは材木の切り出しから、加工、運搬、組み立て・・・とすべて手作業で、せっかく架けても、大雨が降ればすぐに流されてしまう、何とも割の合わないものだったことがわかるでしょう。

そう考えれば、「越すに越されぬ大井川」などと言いますが、あれも幕府が防衛のために橋を架けなかったというよりも、本音は経費面で合わない・・・ということだったのかもしれません。

 

となれば、川にはよほどのことがない限り、普通に橋は架かってなかったはずで、人々は渡し船や漁船などに頼み込んで川を渡っていたのでしょうが、まだ、船など無いもっと古い時代には川を渡ろうとする場合、殆どが浅瀬を見つけて渡る・・・というのが一般的な渡河の仕方だったでしょう。

ただ、そうなると、距離的にも物凄い回り道をしなければならず、さらに、真冬や荷物などがある場合などは渡るには難渋していたと思われ、つまり、現代の人が考える以上に、川は農業用水、生活用水として絶対に必要とされた反面、陸上交通という観点から見た時には障害以外の何物でも無かった・・・ということになると思います。

ちなみに、川を渡ろうとするのは当然、何も旅人ばかりではないわけで、軍勢が通過するに際しては、大体、古代ローマから日本の戦国武将まで共通するようですが、船を並べて、その上を板で固定する方法が一般的だったようです。

もちろん、船は近在の漁船を強制的に徴収し、船を繋ぐ板などの資材は近在の家などを片っ端から打ち壊して調達したようですが、戦乱の時代、庶民にとってはこれだけで済むというのは、まだ、感謝しなければならない範囲のことだったのでしょうねぇ。

                        平太独白


by heitaroh | 2014-02-10 16:40 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

福岡城抜け穴伝説を検証 その3
前回よりの続きです。
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前回、私が福岡城からの抜け穴の存在を疑問視する根拠としてその距離と保存年数だと申し上げましたよね。
まず、距離の問題ですが、城の脱出用抜け穴というのは、そもそも、抜け穴を抜けても、敵の布陣の只中に出てしまっては意味が無いわけで、そうなると、想定される敵の攻囲の向こうに脱出口が無いといけないわけです。
その点、福岡城からここ、穴観音(←)までの距離は最短でも3km・・・。
まあ、敵軍の規模にもよりますが、囲まれた場合に敵をかわす、最低限の距離なんだろうと思います。


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ただ、おそらく、実際には掘りやすい所を掘っていくわけでしょうから、そんなに一直線に掘り進めたとも思えず、であれば、くねくねと少なくとも5kmは掘らなければならなかったのではないかと。
そうなると、まず、問題となってくるのが「水」の問題でしょう。
今日の地下鉄でもよく、水が排水溝をチョロチョロと流れているのをよく目にするように、埋立地でなくとも湿地帯が多かった当時の日本の地盤では排水というのが結構に問題となってきたように思われます。
(金山なども、金の採掘そのものよりも湧水の処理が問題だったと聞いたことがありますから。)

さらに問題になるのが、掘削時の土砂の処理の問題もながら、酸欠だったでしょう。
一定距離ごとに古井戸などで偽装して酸素を取り込むとしても、毎日、そこに暮らしている領民がすぐに気づきますよ。
もし、領民を締め出したとしたら、敵もバカじゃないでしょうから怪しむでしょう。

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(↑穴観音裏手より、福岡城方面を望む。)

次に、保存年数の点で言えば、昭和10年・・・まではあんまりとしても、仮に幕末、福岡藩が存続していた期間中、抜け穴が存在していたとして、260年も機能していたということであれば、今日の一般住宅でも、人が住まない建物はたとえ鉄筋コンクリート製であっても、驚くくらいに痛みますから、そう考えれば、木材で柱やつっぱりをしたとしても、滅多に空気も変わらない湿気が多い地面の下では、木材は腐りやすく、毎月のように修繕が必要になってきたでしょう。
となれば、石材で壁、床を作り、その上にまた、巨石で蓋をしたと考えざるを得ません。
が、その場合、地崩れしないように土留をした上に地盤固めして、さらに、製材した石をどこからか引いてきて、置いていって・・・って、はっきりいって、ピラミッド並みの物凄い大工事じゃないですか。


仮に、一人が手掘りで深さ2mに幅1mの穴を掘ったとして1日で5m、地盤の問題などを考えて迂回して5km掘ったとして1,000人、実際には石の加工なども含め、のべで5,000人くらいが動員されたのではないかと思いますが、そもそも、抜け穴などというのは敵に見つかってしまうと逆にそこから侵入されてしまうわけですから、建設に際しては極めて秘匿性が求められるわけです。
そうなると、まず、それだけの人に知られてしまって秘密は護り通せないでしょう。
工事にあたった人夫は機密保護のために全部殺した・・・としたら領民の不満は爆発したでしょうし、労働者の問題以前に、城の築造工事などというものは多くの人が出入りするわけで、敵のスパイが紛れ込んでいることなども十分に考えられるわけで、毎月のように修繕に人が入るというのも機密保持上は歓迎できない話のはずです
智将のほまれ高い、如水 黒田官兵衛がそんな無謀なことしたとは到底思えません。
つまり、結論を言えば、抜け穴というのは当時の技術では割に合う話ではなく、また、掘ったとしても維持の面でも大変であるということですね。
                                         平太独白

by heitaroh | 2013-12-21 17:48 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

福岡城抜け穴伝説を検証 その2
前回よりの続きです。

黒田氏の居城、福岡城よりの抜け穴が通じていたという福岡市南区の穴観音ですが、そこに赤穂浪士の墓(↓)が作られたのが昭和10年だそうで、その際、抜け穴は破壊されたのではないか・・・ということになっているようです。
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ただ・・・、私はこの説には極めて懐疑的です。
もっとも、では、抜け穴という物が一切、存在しないかというとそんなこともないわけで、長崎県五島列島にある福江島の福江城(石田城)には今も抜け穴(↓)がしっかり残っています。

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ただ、こちらは「日本最後の城」と呼ばれるように幕末の文久3年(1863年)に完成した城でもあり、また、そもそもが島である為、大軍が囲むことを前提にしていないと思われ・・・、
つまり、保存の点でも、距離の点でも、福岡城のそれと同一に考えるわけにはいかないだろう・・・ということです。

その上で、まず、抜け穴というと、帝国陸海軍が掘ったようなちゃんと人が歩けるようなトンネルをイメージされるかもしれませんが、むしろ、福江城の抜け穴のサイズを見てもわかるように、当時の抜け穴掘削技術ではむしろ、ベトナム戦争の時のベトコン・ゲリラが米軍撃滅のために掘ったような穴を想像したほうがいいと思います。

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(↑穴観音裏手からの風景。今も裏は小高い丘に成っており、意外に眺望はいいですね。)

もっとも、ベトコン・ゲリラは城攻めのために掘ったのではないので、抜け穴を蜘蛛の巣のように張り巡らせましたが、オスマン・トルコ武田信玄の武田軍などは逆に攻城側から穴を掘って城の内部に潜入しようとする戦法をとったように、迂闊に抜け穴をたくさん掘ると、それにぶつかってしまう可能性もあり、そうなると敵のために掘ってやったようなことにもなるわけです。

で、つまり、私がこの抜け穴の存在を疑問視するのが、ここまで述べてきたように、その距離と保存年数の問題なわけです。

次回に続きます。
                       平太独白

by heitaroh | 2013-12-16 07:30 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

福岡城抜け穴伝説を検証 その1
福岡市南区に穴観音という所があります。
穴の中に観音様が彫ってあるから穴観音。
わかりやすい名前です(笑)。
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ここは古墳だったのですが、誰かが後年、ここに観音様を彫ったわけですね。

ただ、元々、古墳はここ一箇所だけではなく、一帯には古墳がたくさんあったそうですが、1600年、関ヶ原の戦いの後に新たに筑前の領主と成った黒田長政が自らの居城、すなわち、福岡城を築く際に辺り一帯の古墳を壊して石を持って行ってしまい、ここだけになったのだとか。
(当時の築城は廃物利用が多かったそうで、他にもそれまでの国主の居城があった福岡市東区の名島城などからも多く持ってきたと聞いております。)
結果、福岡城の石垣には今もここと良く似た石が使ってあったりするんだそうです。

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で、この穴観音ですが、福岡城より緊急脱出用秘密の抜け穴」が通じていたという伝説があります。

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ここは今は、曹洞宗のお寺になっているのですが、境内には昭和10年に建設されたという赤穂浪士の墓があり、抜け穴はこの辺りにあって、これが出来た際に塞がれたんじゃないか・・・とのことでした。
ちなみに、ここには、「カップルがここでイチャイチャしてたら、突然、石垣から石が一つゴロンと転がり落ちて、見てたら中から誰か出てきて、石を元に戻してそのままどこかに行った・・・」などという都市伝説(アリエネー(笑)。)などもあります。
(こういうことを言い出すのが福岡人です(笑)。)

ちなみに、この赤穂浪士の墓ですが、首を傾げられる方も多いと思います。
それもそのはず、赤穂浪士の墓は東京品川泉岳寺にありますし、刑が確定するまでの間、各浪士はいくつかの藩に分散されて収容されていましたが、岡藩はその中にすら入ってないわけで・・・。

e0027240_13444148.jpg

どういうことかというと、昭和の初めに東京観光に行った人が品川泉岳寺にて赤穂浪士の墓を見て痛く感銘を受け、帰郷後、泉岳寺にあるそれとそっくり同じ物を作った・・・と。

従って、墓はあっても遺骨はなく、血のついた太刀を洗ったという手水鉢はあっても血は流れてないわけです。

e0027240_13461496.jpg
他県の友人にこれを見せると、「まあ、今で言うテーマパークだな」と言いますが、ただ、かといって、これはそれほどいい加減な想いで造られた物でもなく、今でも12月14日の討ち入りの日には義士祭が行われ、信仰の対象として、私の祖母や母などは毎年行ってましたから。
で、話を本題に戻して、抜け穴の件ですが・・・、次回に続きます。
                                                              平太独白

by heitaroh | 2013-11-29 13:58 | 歴史 | Trackback | Comments(0)


国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。
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プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」「固定資産税」

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年 共に絶版となる。

平成22年 性懲りもなく、黒田如水・長政・忠之、三代の葛藤と相克を描いた「黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望」を出版。

平成23年 処女作「傾国の烙印」がネット上で法外な値段で売買されている現状を憂慮し、「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」として復刻再出版

平成25年 前作、「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす」が大幅に割愛された物だったことから、常々、忸怩たる思いがあり、文庫本化に際し、新たに5倍近くに書き足した「死せる信玄 生ける勝頼を奔らす 増補版」として出版。

平成29年 兄、岩崎彌太郎の盛名の影に隠れ、歴史の行間に埋没してしまった観がある三菱財閥の真の創業者・岩崎弥之助を描いた、「三菱を創った男岩崎弥之助の物語 ~弥之助なかりせば~」を出版。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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