親愛なるアッティクスへ
今日は七夕ですね。
ここ数日の雨で、川も結構、増水していたのでしょうね。
川沿いの樹木には、流されてきたゴミが、まるで、七夕の笹のように引っかかってました。
思わず、画像撮って、ここにUPしようかな・・・とも思ったのですが、まあ、あまり、きれいなものでもないな・・・と思い、やめました。
ところで、全国的な知名度という点では、現代では殆ど、人の口にのぼることはないのでしょうが、福岡では、偉人を語る上では割と良く出る名前があります。
それが、団 琢磨です。
(お!一発変換した!・・・ということは、やっぱり、全国的にも有名なのでしょうか。)
この人物は、現代では、むしろ、あの作曲家で数年前に中国で客死した、
団 伊玖磨氏の祖父として知られているのかもしれませんが、簡単に触れておきますと、団 琢磨という人物は、安政5年8月1日(1858年9月7日) 、
筑前福岡藩の中級武士の家に生まれ、明治4年(1971年)、
13歳にして、あの!
岩倉遣欧米視察団に同行し、そのまま7年間、米国に留学。
マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学び、同校卒業後、帰国。
帰国後、
大阪専門学校、東京帝国大学で教鞭を執った後、三井炭鉱(福岡県大牟田市)へ転じ、明治21年(1888年)に三池鉱山が政府から
三井財閥に売却されたときには、「私は三池炭坑に入ったのであって、三井が買収した以上、ここに留まるのは筋違いである。」と言って、三池炭坑を去ろうとする団に対し、三井側は、慌てて、
「この買収代金には貴方の代金も入っている。」と言って引き留めたと言いますから、彼が、この時点で、すでに一介の技師ではなかったということが読み取れると思います。
その後、三池炭坑の近代化を足がかりに、大正3年(1914年)、鈍翁こと
益田孝の後任として、
三井財閥総帥(三井合名会社理事長)にまで上りつめます。
そして、昭和7年(1932年)3月5日、
世界恐慌と
満州事変の動乱の中、右翼団体
血盟団の
テロにあい、横死。
明日に続きます。
平太独白