先日、ちょっと京都まで行ったので、帰途、姫路に一泊し、かねてより行きたかった姫路郊外の英賀に行ってきました。
(↑姫路城遠望。降りたら正面に城が出迎えるという駅も珍しいですよ。)
英賀と言えば、天正5年(1577年)5月、東上を開始した毛利の先遣隊5千を若き
黒田官兵衛孝高(当時は小寺官兵衛)がわずか500の軍勢でこれを破った
英賀合戦で知られる地ですね。
私の認識では、毛利の一翼を担う
小早川隆景の部将・
浦宗勝に率いられた五千が、本軍に先駆けて、まずは、同盟する播磨国の英賀の地に上陸し、船旅で疲れて休息していた所を官兵衛に襲撃され、再び、海に追い落とされた・・・というものでした。
ただ、現地に初めて行ってみて、「なんじゃこりゃ?」と。
まず、播磨へ東進する毛利軍は直接、海から英賀に上陸したのかと思っていたら、毛利軍は、合戦に先立ち、「海上から
室津(現・兵庫県たつの市)に上陸し、英賀から姫路を目指した」となっており、室津ってどこ?と思い、地図を見てみたら、英賀から10kmくらい離れてるんですね。
ここに上陸して英賀を陸路で目指したのなら、「船酔いで休息」という前提自体が崩れるわけで。
さらに困ったのが、官兵衛が襲撃した場所ですが、何も、毛利軍は上陸して野原でくつろいでいたわけではなく、英賀城という城の中の
英賀御堂という、本願寺の施設の中にいたんですね。
おまけに、一帯は当時は葦などが茂っていたとしても、特に目隠しになるような遮蔽物もなく、比較的、見通しのいい所で、小寺方が近づいてくれば見つかってしまう可能性が高い・・・。
だからこそ、毛利軍は油断していた、しきっていたといえるのでしょうが、それにしてもと。
つまり、官兵衛は奇襲とはいえ、わずかな軍勢で大兵力が籠もる城を攻撃したことになるわけです。
(↑官兵衛が襲撃をかけた毛利兵休息の英賀御堂は、今では昭和の企業誘致で川の下。兵どもが夢の跡。)
おそらく、毛利方先遣隊五千のうち、半分が室津に上陸し、残り半分はそのまま航行を続け、英賀城の入り口、川沿いに設けられた英賀港に上陸し、そのまま、城内の本願寺に入って休憩していたということだったのではないかと思いますが、それでも、敵には2500の兵がいるわけで。
それに対し、小寺方は各地に抑えの兵を割かなければならず、また、小寺方と言いながら、主君
小寺政職には大した戦意はなく、官兵衛手持ちのわずか500の兵しかいなかったと言われています。
(↑官兵衛決死の背中を見送った播磨の山河。)
官兵衛はこの時、近隣の農民に旗を掲げさせ、織田の援軍が既に来ているように見せかけたことから、その智略を賞賛されてますが、でも、この程度なら、官兵衛ならずとも考えますよ。
まあ、毛利のこの大兵力を相手に戦おうと思う時点で既に常人離れした思考なのでしょうが。
ただ、こういう状況の中ではもう少し、何かがあったはずです。
ここで一つ思い当たることがあります。
英賀城主・
三木通秋は一向宗の熱心な門徒であったものの、家臣の
三木清閑は官兵衛の妹婿でもあり、その常人離れした才知のほどを妻から聞いていたのでしょう、かねてより官兵衛に協力的で、おそらく、この時も、心情的には官兵衛の味方をしたかったのではないかと。
が、主君を始め、領内の一向宗門徒へ配慮する必要に迫られ、やむなく、敵方についたと。
それだけに、官兵衛の味方をしないまでも、官兵衛軍が近づくのを黙認、いや、城内への侵入を
手引してやったと。
そうでも考えなければ、どうにも、有り得ない話のように思えるわけです。
清閑の子孫はのち、福岡藩士となったといいますが、関ケ原合戦の翌年、慶長6年の福岡藩分限帳を見ると、家臣団の中に「三木」の姓を名乗る者が二人。
ともに、「吉」の字がついてますから、兄弟だったのではないかと思いますが各1200石と500石。
重臣とはいかないまでも、まずまずの身分だったかと。
彼らが、子孫だったのでしょうか。
平太独白