昨日の大河ドラマ「真田丸」での板部岡江雪斎の姿を見て、中間管理職の悲哀に、いたたまれなかった人も多かったのではないでしょうか。
板部岡は小田原北条家の外交官(僧?)で、その末期に武田、織田、徳川との外交交渉を担った人ですが、ドラマでは苦労して勝ち取ってきた「成果」を主君である北条氏政に、はねつけられる・・・という、現代でも往々にしてよくある光景を展開してましたね。
現場の担当者としては、「そんな馬鹿なぁ!」と思わず、言いたいところでしょうが、いつの時代も「部下は上司を選べない」なわけで、「もう一回、行ってこい」などと言われても、誰よりも無理なことはわかっているだけに・・・。
「このバカタレが!」と言って、辞表を叩きつけたいところでしょうが、なかなかそうもいかないのが人の世なわけで・・・・。
(↑小田原城。)
ただ、ドラマでは絵に描いたような愚かな上司としての氏政が出て来るのですが、現実にはそれほど簡単な話ではなく、父、
北条氏康の時代にその片腕を担ったのが妹婿であった猛将・
北条綱成であったように、氏政の時代に事実上、軍事面をリードしたのが、氏康の次男で、氏政の弟になる
氏照でした。
武田、上杉、織田に対しても一歩も引かず、赫々たる戦果を挙げてきた氏照の発言力は大きく、五代当主で甥の
氏直に対しても、未熟者扱いで、隠居の氏政が同席していないと何も言えなかったとか。
氏直も父が死んだら、この叔父さん、どうしよう・・・と思っていたでしょうね。
同族経営の悲哀です。
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の
小田原征伐が勃発すると、氏照は反対意見を抑えこんで徹底抗戦を主張。
秀吉もその辺の力関係は的確に把握していたのでしょう、戦後は兄、氏政と共に切腹を命じられています。
一方、板部岡と並んでもう一人、外交に尽力した人物に
北条氏規がいます。
この人物は氏政、氏照らの同母弟になりますが、五男坊ともなると、もう、単なる
人質要員。
そのため、幼少時は
駿河今川家に人質として出され、この頃、同じく、今川家の人質となっていた
徳川家康と親交を持ったといわれます。
(まあ、この辺は伝説の域を出ない話ですが、私はその後の両者の親密な交流を見れば十分に有り得る話ではないかと。)
氏規は、特に家康との人脈を活かして対徳川家外交に強みを見せていたようです。
それだけに板部岡とともに秀吉への臣従を主張、自身も上洛し秀吉との交渉に当たるなどしますが、結局、兄たちに受け入れられず、韮山城へ籠もり大軍を相手に善戦するも、衆寡敵せず、家康の説得を受け入れて開城しています。
言うならば、同族企業北条において、代表取締役社長会長氏政、代表取締役社長氏直、代表取締役副会長氏照で、取締役営業部長が氏規、営業課長が板部岡・・・といったところだったでしょうか。
一方、板部岡はその後、鋭敏な外交感覚を活かして秀吉に随従、秀吉死後は家康への乗り換えも無難にこなし、徳川家の旗本として存続したとか。
結局、上司に恵まれなくとも、見ている人は見てくれているということでしょうか。
平太独白