今日はもう少しまともなことを書こうと思っていたのですが、昨夜、タダ券があったもので、ガキを連れて我が家から車で40分くらいかかる郡部にある温泉もどきに行ったところ・・・、これが寒い寒い・・・。
で、今朝起きたら、しっかり、頭痛と鼻水が・・・。
でもって、本日はこのような状態の中、夜はお通夜に出かけなければなりません。
一応、その後は、
力水(別名、酒とも言います(笑)。)を入れる予定ですので、本日も(?)手抜きです。
過日、京都に行った折、例によってマニアの世界を満喫してきたのですが、その中のとあるお寺でこれ(←)を見つけました。
「月よ!願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と
三日月に祈ったという話で有名な
山中鹿之助の墓です。
山中鹿之助とは、かつては中国地方に威を振るった
尼子家も、広島県に勃興した
毛利元就の前に追いつめられるも、主家を最後まで支えて戦った人物で、戦前は
修身の教科書にも載っていたんじゃなかったんでしたっけ?
この山中鹿之助は、私の最初の著書、
「毛利輝元 傾国の烙印を押された男」でも採り上げているのですが、でも、最後は
織田信長を頼ったもののあっさりと見殺しにされ、天正6年(1578年)、
播磨国(現兵庫県)
上月城に孤立したところを毛利軍に包囲され、主君、
尼子勝久は自害し、鹿之助は護送される途中、
備中国(岡山県)合の渡に置いて斬られた・・・はずなんですよね。
(←傍らにある墓。女性のようですが・・・。)
で、確か、胴体はそのまま、付近の寺に葬られ、首級は
備後国鞆(広島県福山市鞆町)で
毛利輝元の首実検に供された後、地元の人たちによって葬られた・・・ように記憶していたのですが、なぜ、それが京都にあるの?・・・と。
子孫が、豪商・
鴻池の始祖となった・・・とかいう話は聞いたことがありますが、その関係でしょうか・・・。
でもって、むしろ、驚いたのが墓に針金でくくりつけてあったこれ(←)。
早い話が、「子孫が名乗りでないと撤去するよ」と・・・。
まあ、敷地に限りがある・・・というのはわからないではないのですが、でも、こういう古い墓石が貴重なんじゃないですか。
上の墓石だって、
安永九年ってありますから、江戸時代中期でしょ?
やはり、そういうお墓があるからこそ、「さすが京都だ」、「こういうお寺に我が家もお墓を持ちたい」となるわけで・・・。
平太独白