親愛なるアッティクスへ
昨日の続きです。
で、思わず私は、では、大作家と呼ばれる人たちはどうしているのだろう?と想い、改めて、16歳、(高校一年)の頃に愛読した業界(?)のバイブル、「司馬遼」小説を引っ張り出して、ページを開いてみたのですが、驚いたことに、あの頃はハマって読んだのに、今見たら、ムチャクチャ難しいんですよね!
こんな単語初めて聞いた!みたないのもあるし・・・。
あの頃、よく読めてたよな・・・と、我ながら、妙に感心したりして(笑)。
そこで初めて、司馬さんが「気にすることはない。思い切ってやりたいようにやりなさい!」と、背中を叩いてくれているように感じ、以来、敢えて読み手のことを考えず、自分の好きな表現で書くようになりました。
ところが、前作を読んだ友人から、「おまえのは、文体に独特の言い回しがあり、それが気になる」と言われたことがあります。
その彼の友人に、業界紙に
論文などを掲載している人がいるらしく、そちらは、出版社の方から、徹底して、そういった言い回しなどを矯正されたということだったそうです。
「それに比べて、おまえのは・・・」ということだったのでしょうが、そう言われて、私も少し考えてみました。
で、私の考えた結論としては、元来、
論文と
小説というものは、まるで違う要素の媒体なのだから、それを同一視してしまうこと自体に無理があるのではないだろうか・・・というものでした。
ワタクシ的に言わせて頂くなら、小説とは
「名水」であり、論文とは
「工業用水」だと・・・。
ご承知の通り、自然界を流れる水の中には、
ミネラルなどの
不純物がたくさん混じっており、それらは、時には
毒にもなるが
旨みにもなるわけで、一方、それら不純物を
機械的に一切取り除いた水が工業用水などで使われる水であり、これを口に含むと、本当に、毒にもならないが、無味無臭、旨くもまずくもない、純粋に「水の味」だけしかしないそうです。
思えば、
池波正太郎さんなども、独特の文体があり、私は、それが鼻につき、あまり、好きではありませんでしたし、「神様」
司馬遼太郞さんの独特の言い回しで、ワープロを変換すると、画面に
注意メッセージさえ出ます(笑)。
(この辺は、
ホールインワンというのは、機械では打てない・・・というのに、共通するような気もしますが、如何でしょうか?)
ということで、このブログも、敢えて、読み手のことを考えず、自分勝手な独りよがりの文章になっていることとは思いますが、何卒、これに懲りず、今後ともご贔屓のほど、宜しくお願います。
平太独白