親愛なるアッティクスへ
江戸時代を通しての、我が筑前福岡藩の財政運営を言うならば、もう、これこそ、お粗末を通り越して「無様!」の一言です。
福岡藩と言うのは、そもそも、関ヶ原以降、黒田家が入府して成立したものですが、「物語福岡藩史」と言うのを読んだ限りでは、藩政は、智将、如水 黒田官兵衛孝高を祖に持つにしては、あまりにお粗末!余りにも情けない・・・。
元々、筑前国と言うのは、黒田家入府前の
小早川氏時代には
30万石程度だったものを、藩祖
黒田長政が家格のアップを図る為に、無理矢理
50万石にしたもので、当然、
実収が伴うわけではなく、また、石高に伴って、有事動員計画に基づいた人員の
過剰雇用は求められるわ、
長崎警備の負担は命じられるわ・・・で、そもそもが財政が窮乏するような体質になっていたようです。
これは、それ以前の孝高(如水)の代の
豊前中津時代、石高を低く申告して、内部の充実は図ったけど、主君である
豊臣秀吉(中央)には睨まれて、不遇のうちに終わった
才人の父へのいささかの批判もあったのでは?と思いますし、少なくとも、その時点での長政の判断は正しかったと思います。
ただ、
毛利家や
伊達家などが、その後、
増収に成功している事を考えれば、それ以降の福岡藩の政策運営は
拙劣の一語に尽きるでしょう。
即ち、福岡藩のすべての財政政策破綻の根幹は、
不信にあると言っていいと思います。
支配者側に領民からの
搾取以外の発想は無く、それゆえ、一時的に
騙して、とりあえず、藩財政さえ持ち直せばいいや・・・というものが根底にあり、従って、
藩札など発行しても、領民の不信根強く、一向に
流通しないし、とうとう3回目にそれをやったら、(1回目がもろ、騙し)担当者が、ぽろっと、
「あれは実は騙しなんですよ。」と本音を言ってしまって、それがあっという間に広まって、領民からも、
「どうせそんなことだろうと思った。」と
冷ややかな視線を浴びせられる始末・・・。
当然、領民から信用されないようでは、何をやってもうまくいくはずもなく、となれば・・・、安易に
鴻池などの
大坂商人からの債務を一方的に
放棄を宣言してしまったところ、逆に、大阪商人に
筑前米の売り捌きを締め出されて、収入の元を立たれることになり・・・、結局、藩主自らが直々に
詫びを入れに行くなど、まったくもって、
無様。
一時的には、
櫨蝋の増産で財政は上手く行くかにみえたのに、それも、搾取の発想から抜け出せず、育くむことをせず、ちょっと何か
殖産興業が根付いてくると、片っ端から、そこに
ツケを廻してしまい、結局、
頓挫・・・。
で、そんな状態の所へ降って湧いたのが
明治維新と、それに伴う、
戊辰戦争だったわけで、後はご想像の通り・・・といったところです。
平太独白