龍馬伝での吉田松陰に思う「僕」と「有り難う」の真実
親愛なるアッティクスへ

今年は、14日日曜ということもあってか、例年になく、バレンタイン戦線の動きが早いようですね。
まだ、10日というのに既に2個目ですよ。

お陰様をもちまして、毎年、この季節だけは、ガキどもに親父威厳を見せつけています(笑)。

で、昨日とは一転、気力横溢で臨む本日の本題です。(←結構、単純・・・(笑)。)

日曜に、大河ドラマ「龍馬伝」を見たのですが、松陰吉田寅次郎の役を誰がやるのかな・・・と思っていたら、何と、生瀬勝久さんでしたね。
イメージとは合いませんでしたが、思ったより、なかなか良くできてましたよ。
「自分もアメリカへ連れて行ってくれ」という坂本龍馬に対し、「これは僕がやることだ!」と言って一喝する辺りは私も思わず大きく頷きましたね。
もっとも、龍馬には「君は君のやるべきことがある」と言いながらも、金子君は連れて行くというのはよくわかりませんでしたが(笑)。
それに、「僕」というのは、確か、長州人が作った言葉だと記憶しておりますが、ただ、出来たのはもう少し後のはずで、仮にあったとしても、土佐人の龍馬がいきなり、「僕」と言われてわかったのか・・・という気はしましたけどね。

で、生瀬さんも含め、過去に吉田松陰を演じた役者さんの中で印象に残っている人を挙げてみると、今回の生瀬さん以上に意外感があったのが昭和46年(1971年)テレビドラマ『天皇の世紀』 第2話「野火」での原田芳雄さん・・・。
この番組は、途中から、なぜか、ドキュメンタリーになるという、その展開も意外でしたが、イメージ通り、何ともワイルドな松陰像に仕上がってましたね(笑)。
でも、松陰と言えば、これまでもたびたび触れてきましたとおりで、未だに昭和52年(1977年)の大河ドラマ「花神」での篠田三郎さんのそれを凌ぐ物はないでしょう。
(以前、何かの番組で、ご本人も、「未だに、あのときの松陰は良かったと言われる」と言っておられました。)

で、うちのお馬鹿なガキも、「龍馬伝」は熱心に見ていたので、「ならば・・・」とばかり、花神のDVDを見せたのですが、家中すべてが、異口同音に「何を言っているか、さっぱりわからない」と言う・・・。
確かに言われてみれば、以前、「素浪人花山大吉」の稿でも述べたことですが、時代劇用語というのが今では死語になっている・・・という事実があるんですよね。
でも、私は当時、それなりではありますが、割と違和感なく見ていたわけですから、どうして、昭和の子供にはわかって、平成の子供にはわからないんだ・・・と。
いくら、時代がドラマの舞台に近いと言ったところで・・・と。

で、この点で、ひとつ、思うところがあります。
これは龍馬伝を見ていて、以前から、思っていたことですが、福山雅治さん演じる龍馬が良く、「有り難う」と言いますよね。
あれは、土佐では良くああいう使い方をする、一種の方言なのかな・・・と思っていたんですが、もしかしたら、現代人に合わせて、意図的に、「有り難う」と言ってるんじゃないですか?
本来なら、如何に下級士族とはいえ、武士は「かたじけない」でしょう。
土佐や郷士階級がどうだったかを含め、本当のところがどうだったのかは知りませんが、これで良いのか日本語教育・・・という気はしますね。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-02-10 08:09 | 文学芸術 | Trackback(1) | Comments(2)

映画「アバター」に見たアメリカの理想と自信喪失
親愛なるアッティクスへ

最近、このブログも5年目に入ろうとなんなんとするからか、はたまた、季節の変わり目からなのか、パソコンに向かっても毎日、何だかなーって感じで一向に筆が進みません。

(←うちの博多駅です(笑)。結構、出来てきました。)

ネタはあるんですけど、何だかなーって感じです。
で、気乗りしないまま、本日の本題です。

先週、巷で話題になっている「アバター」という物を見に行ってきましたよ。
(無論、独りです。誰か友達になってください(涙!)。)
私は、当初、こういうお決まりストーリーの映画に金を払う気はなかったのですが、あまりに「3Dが凄い!」という話を聞くに連れ、遠い昔、スター・ウォーズという映画が封切られたときに、「ストーリーがくだらない」と言って行かなかったがために、新時代に乗り遅れてしまったことを思い出し、「ならば、ひとつ乃公も出ずるとするか・・・」と重い腰を上げた次第でした。

で、まず、ストーリーだけで言えば、古くは「シェーン」、近いところでは、「タイムマシン」、「ダンス・ウイズ・ウルブス」、「ラスト・サムライ」などと同じで、よその土地に乗り込んでいったアメリカン・ヒーローがその土地の人のために戦うというもので、ヒーローが現地人以上の勇気戦闘力を示して、現地人にも一目置かれる・・・という辺りも、「ランボー」以来の如何にもアメリカ人が理想とするヒーロー像という感じで、使い古されたストーリー以外の何ものでもなく・・・。
ただ、少し思ったのは、戦う相手がかつてのようにドイツでもソ連でもない、典型的なアンクル・サムという点で、この辺は少し前までなら考えられない話で、アメリカも少しは自分自身を見つめ直す殊勝な気持ちを持ったのかな・・・と思うと同時に、真っ先にこの映画に上映禁止というヒステリックな反応を示したのが当のアメリカではなく、中国だったというのも少し笑ってしまう話ではありますが、やはり、アメリカは自信喪失していると言って良いのかもしれません。
(この映画が興行収入の世界記録を更新し続けられるほどに、世界で受け入れられるのも、オバマ政権の登場と無関係ではないと思いますよ。)

で、3Dの方ですが、結論を言えば、私的には期待してたほどではありませんでしたね。
飛び出す・・・というだけでしたら、昔、中学生くらいの時に隣の兄ちゃんに連れられて見に行った「空飛ぶ十字剣」で十分でしたし、立体感という点では以前、目の筋肉を鍛えられるという触れ込みで買ったボタン電池式専用メガネで見る立体画像DVDの方が素晴らしかったように思いましたし、噂の「奥行き感」というのも、思っていたほどではありませんでした。
無論、高い所から下を見る恐さはありますが、それはおそらく3Dでなくとも、それなりに恐怖感はあるんだろうし・・・と。
その意味では、この映画で一番、3Dを感じたのは、浮き出た字幕でした(笑)。

ということで、ま、話の種に一回行ったから、これでいっか・・・と。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-02-09 17:20 | 文学芸術 | Trackback | Comments(2)

朝青龍引退の本質は日本相撲協会の経営不在の無為無策
親愛なるアッティクスへ

またしても先週からの続き(のようなもの)です。

この週末、朝青龍引退の裏舞台についての特集などを見ていて一番思ったのは「もう、相撲外国人を入れるべきではないのではないか?」ということです。
特に、この件でのモンゴル報道などを見ていて強く感じたのですが、以前、大麻で捕まったロシア人力士解雇になった際も、ロシア側が同じような反応を示してましたよね。
いずれも、事実誤認以前の話で話にならない主張ばかりですが、とかく、外国の主張とはどこも同じようなことになるもののようで、現に、問題を起こす外国人力士が圧倒的少数であることを考えれば文化の違いというのは到底、言い訳にはならないでしょう。

それに、「相撲は伝統を守る国技」・・・と言ったところで、目にするのは外国人ばかりじゃないですか。
であれば、日本相撲協会が「財団法人として日本国政府から優遇措置を受けている」以上、以前のように高見山が一人だけ・・・という程度ならともかく、今のように、「日本人を捜す方が難しい」というような状態では、国民の税金から補助金を支出するというのは本当はおかしいと思うんですよ。
大正14年に日本相撲協会が財団法人格を取得したときには、こういう事態になることを想定していなかったんじゃないですか?それに、そもそも、外国人を入れたのは日本人の新弟子の増加が見込めないことから、「力士一人当たりいくら」と決まっている補助金を減らしたくないという日本側の都合でしょ?)

ただ、そうは言っても、日本とはまるで違う文化の国から連れてくるわけだから、その辺は日本相撲協会は外国人力士を受け入れるに当たっては、あまりにも無為無策であったとは言えるでしょう。
(この辺の不備も、経営のプロ介在していないことの弊害だと思います。)
まず、これは、日本人同士でも良くあることですが、「こういう決まりになっている」と一方的に上意下達で伝えれば事足りると思っている人が意外に多いんですよね。
私などは、昔から、自分が納得しない決まりには決して従わない子供でしたから、よくわかるんですが、こういう子供は逆に言えば納得すれば従うんですよ。
つまり、その規則慣習が出来た元々の合理的根拠を示してやれば良いだけなのですが、多くの上司にそれを言うと「そんな面倒くさいこと出来るか!」と露骨に嫌がります。
でも、本当のところは指導する側も、「根拠?」というのが本音なんですけどね。

であれば、日本相撲協会は、外国人を受け入れるに当たっては、まず、「スモウ国技であるから、日本政府からの援助も受けており、k-1などの一般の民間(?)格闘技団体とは違う制約がある」ということを良く納得させ、その一方で、日本人同士の阿吽の呼吸で通じるような曖昧なルールについては、これを限りなく、具体的な形に直して明文化していくことが必要だったでしょう。
つまり、良い例が「品格」というもので、(私はガッツポーズくらいは良いと思うんですけどね。)総則として、「横綱は国民の範となるよう努力しなければならない」とか謳っておいて、具体的に「日本の法律に違反する行為はダメ」、「土俵の中でのパフォーマンスはここまで」・・・などとし、さらには、違反した場合の各条に応じた罰則も設けておけば、「あ、これやったら解雇されちゃうからマズイな」・・・と自分でもわかるでしょう。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-02-08 08:02 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(4)

続・貴乃花親方の相撲協会理事就任と朝青龍問題は同根
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

まず、お断りなのですが、実は私はいつも、文字数が一定になるように心がけており、具体的にはパソコンの画面に収まる程度・・・というのを基準にしているのですが、これすなわち、長すぎると読む側が読む気を無くすし、短すぎるとこちら側が伝えきれない・・・という想いから、自分なりに要旨が伝わる最低限ということにしております。
もっとも、この長さ自体、何ら人間工学に基づく根拠があるわけでもなし、果たして、それが適正なのかはわかりませんが、ただ、それだけに、当初から一度で書ききれないとわかっている物についてはシリーズ化するなどの形を採るようにしているものの、中には以前書いたことと重複することで要旨を省いた物や、単純に長すぎたので縮めた・・・などという物もあり、なかなか、ニュアンス的に伝え切れていないと感じることも少なくありません。

で、今回の表題もまさしくそれでして・・・。
書き終えた時点で、補足の必要を感じていたのですが、特に、誰からも疑義のコメントもなかったので、「なら、いいや」と、そのまま捨て置くつもりだったところ・・・、有り難くも勿体なくも疑義を頂戴しましたので、改めて本日のお題となった次第です・・・。
まず、以前も平太郎独白録 : 日本相撲協会にみる経営不在の四半世紀 前編で言ったことなのですが、かつて、プロ野球の名監督で、日ハム球団社長も務めた三原 脩翁は、球界を運営していく上での「理想形」として「日本相撲協会」を挙げておられました。
つまり、引退後も選手に「その道」で雇用があるということが主旨だったのでしょうが、しかし、その日本相撲協会の現状を見ていると、さすがの三原さんも技術屋上がり狭い視野からは脱却できなかったかな・・・という思いを拭えません。
やはりこれは、「選手経験者ですべてを仕切ることの無理」が如実に表れている証左以外の何ものでもない・・・と。

一方で、球団経営を現場の経験がない人たちが握っていることで、現場に対する不理解が生じるのも考えられることで、その意味で、日航の運営を任された名経営者・稲盛和夫氏が、自らは会長として経営全般に当たり、社長には日航生え抜き整備畑出身の、大西 賢54歳を据えたことに触れた次第でした。
つまり、名選手名監督ならず・・・で、力士経験者が必ずしも「経営能力」がある・・・とは限らないことを考えれば、相撲協会(もしくは各部屋)は力士経験者だけの独占形態とせず、日航のように経営感覚がある人が会長、現場がわかる者が社長・・・という組み合わせにすることが好ましいと思います。
(第一、今の各部屋の経理なんて誰がやってるんですか?全部とは言いませんが、少なくない部屋ではおかみさんがやってるんじゃないんですか?つまり、未だ、個人商店の感覚であり、それも問題なんですよね。)

「各相撲部屋を株式会社にすると、幕内力士がいない部屋などは経営が成り立たないことが懸念される」というご意見を頂戴しましたが、本来、経営が成り立たない企業は淘汰されるのが市場原理の原則であり、一般社会はそうやって生きてきているわけですよね。
育成には時間がかかるので、市場原理を持ち込むのはそぐわない・・・というのなら、一定期間、協会が助成すれば良いわけで、それでダメなら淘汰されるるか、少なくとも、親方は業績不振の責任を取って交代するべきでしょう。

まだ、少し舌っ足らずですが、ちょうど、字数となりましたのでこれにて。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-02-04 07:41 | スポーツ | Trackback | Comments(8)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その8
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

事実がどうだったのかはともかく、もし、伊藤博文のケースが吉田東洋のそれと同じであったとしたら、日本の帝国主義者たちにしてみれば、目の上のたんこぶだった伊藤が消えてくれたことは歓迎すべき事態だったということは十二分に有り得る話だったでしょう。
だからこそ、伊藤は死に臨んで、自分を撃った相手が韓国人だと聞くと、「ばかなやつだ」と呟いた・・・と。
この最期の言葉を、「明治の人物誌」の中で星 新一氏は「自分を殺せば韓国のためにも、日本のためにもならないという意味ではなかろうか」と述べておられましたが、私には、「俺を撃ってどうする」・・・という意味と共に、相手への暖かみがある言葉に聞こえます。

そう考えれば、著者は同時に、「韓国人が伊藤博文を豊臣秀吉と並べて二大悪人と呼ぶのは、当然である。植民地支配への引き金となり、そのシンボルとなったのはたしかなのだ。しかし、日本人までが戦前の評価を裏がえしにし、大陸侵攻の元凶とし、責任を彼ひとりに押しつけてしまうのはどうか」と言っておられましたが、この点で思い出す話があります。
以前、伊藤の子孫の家に突然、韓国の国会議員を名乗る人物が訪ねてきて、何かの式典に出席し、安重根の子孫と和解するというセレモニーへ参加してくれと要請されたそうで、このとき、伊藤家側は困惑し、外務省に聞いたところ、「見送るように」と言われたので断った・・・という話でした。
これが何年前の話なのかは失念しましたが、今でもまだ、伊藤に対する嫌悪感が抜けていないことを考えれば、「和解」と言っても、下手をすれば壇上で吊し上げにあうことになった可能性もあり、外務省が止めたのもその辺を懸念してのことだったのでしょう。

もっとも、この辺の詳細についてイマイチわかりませんし、韓国側の思惑がどういうものだったのかも良くわかりませんので、これ以上、迂闊なことを申し上げる気はありませんが、一方で、同書には日露戦争のあと、伊藤が西園寺公望首相を始め、軍関係者に対して、「満州にあるロシアから譲渡された権益を保有することには、なんの問題もない。しかし、その地は清国の領土。戦いが終ったいま、軍をとどめておくことは許されない。その地方の行政および治安は、清国に一任すべきだ……」と言って、「窓ガラスがふるえるほどの大声でどなりつけた」という記述があります。
この点は、伊藤の師匠と言っても良い大久保利通も、台湾出兵による清国との交渉の後には、「実際の補償に当てた以外の賠償金は清国へ返還すべし」ということを言ったように記憶しておりますが、思えば、この師弟には共通点が多いですね。
共に近代日本に置いて大きな業績を為し、共に暗殺され、共に良く思われていない・・・、そして、共に、死後、あまり遺産を遺さなかった・・・と。

でもって、この「明治の人物誌」を読んで、もうひとつ、思ったのが伊藤は徹底した「平和主義者」だったのではないか・・・ということです。
彼が、日露戦争開戦前夜、大勢が「開戦」に傾きつつある中、独り、開戦を逡巡したことはよく知られてますが、それは平和主義などではなく、「勝てる」という確証が得られないがゆえの逡巡であり、その辺は、開戦を促す頭山 満に、「諸君らの名論卓説よりも、今は一発の砲弾が欲しい」と言ったことでも見て取れるように、現実主義政治家面目躍如たる話だとばかり思ってました。

明日に続きます。

                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-02-03 18:38 | 歴史 | Trackback | Comments(4)

貴乃花親方の相撲協会理事就任と朝青龍問題は同根
親愛なるアッティクスへ

日本相撲協会の理事に貴乃花親方が選ばれ、一方で、横綱朝青龍が暴行問題だそうで、まあ、野球がシーズンオフでオリンピックが始まる前・・・というこのタイミングでのそれですから、スポーツ紙などはさぞかし大喜びだと思いますが、それはさておき、この両者は一見、分けて考えるべき問題のようで、実は同根の物であると思います。
まず、貴乃花親方の理事就任から言えば、某新聞は、「貴乃花親方は具体的な改革案にはまったく触れていない」ということを指摘していましたが、この点は、親方としては、理事になったからと言って、理事会も開かれないうちから、先走ってマスコミにビジョンを開示するはずもないわけで当然と言えば当然でしょう。
ただ、彼自身にどういう腹案があるのかは知るよしもありませんが、仮に、具体案があったとしても、彼のような有名人ともなれば、色々な財界人企業経営者などの知り合いもいるのでしょうから、是非、そちらの方面に意見を求めるべきだと思います。
その人たちは、相撲のことは素人でも、経営という面では力士上がりの親方などよりは遙かに専門家なんですよね。

できれば、稲盛和夫氏のような人に顧問として経営に参画してもらうのが望ましいのでしょうが、まあ、今は日航のことがありますから、到底無理な話でしょう。
(ちなみに当初、稲森氏が日航を引き受けると聞き、いくら財界と繋がりのない民主党でも、78歳という高齢の人を引っ張り出さなくても・・・と思っていたのですが、やはり、その辺はわかっておられるようで、しっかり自らは会長となり、社長には生え抜き整備畑出身54歳大西 賢氏を据えましたね。改革を進めるときのTOPには技術屋から抜擢するのが一番良いんですよ。売るべき商品に一番精通してますから。)

で、それらを踏まえた上で、今後、貴乃花親方が取り組むべき課題ですが、私は一番の問題は相撲協会が財団法人である・・・ということだと思います。
日本相撲協会については、以前からたびたび指摘してきたことではありますが、(平太郎独白録 : 日本相撲協会:参照)そもそも、興業団体財団法人であること自体がおかしいわけで、まあ、国技とはなんぞや・・・とか、社団法人ならまだしも、なぜ財団法人なのか・・・などという問題についてはここでは触れませんが、興業をやって収入を得る団体が公益法人であるということは明らかに本来の姿ではないわけで、それに甘んじている結果、逆に相撲協会の機能不全を引き起こす原因となっている・・・と。

以前、時津風部屋死亡事件が起きたときに、当時の北の湖理事長は「責任は部屋の親方がとるべきで、相撲協会の理事長は関係ない」というスタンスをとってましたよね。
これなどは今回の朝青龍の暴行事件でも同じで、責任者不在の体質なんですよ。
つまり、「部屋」と「協会」というものが如何にも前近代的な、極めて曖昧な扱いになっているから、親方の中から選ばれたはずの理事長も各部屋の運営には口を挟めないし、親方の頭越しに何の決定も為せない・・・ということになるわけです。
従って、相撲協会を改革しようとすれば、まず、財団法人の縛りを無くし、各部屋を株式会社にして、協会理事長はコミッショナーのような形にするか、もしくは、日本相撲協会そのものを株式会社化し、社長に責任と決裁権を集中させるべきだと思うんですよ。
そうすれば、自浄作用も働くわけで・・・。

明後日に続きます。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-02-02 19:50 | スポーツ | Trackback | Comments(2)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その7
親愛なるアッティクスへ

先日よりの続きです。

星 新一著、「明治の人物誌」ですが、次に実父・星 一と関わりを持った人として出てくるのが、明治の元勲・伊藤博文です。
この人物については、先日も申しましたように、私の世代にとっては、物心ついたときには千円札の顔となっていた人であり、事実上の近代日本を作った人物・・・という認識を当然のように持っていましたが、同著で、「顔を見ていても、きわめて印象の薄い人物となっている」と言われ、「どんなことをした人か、ほとんどの人が知らないのではなかろうか」・・・と言われてみれば、確かに、高杉晋作、坂本龍馬から児玉源太郎、大隈重信まで幕末維新に関する伝記では必ず登場する人でありながら、面と向かって、この人自身について書かれた物・・・というのは私も読んだことがないんですよ。
(ていうか、一時期だけならともかく、生涯を通じてこの人について書かれた物・・・というのは見たことがないような気がします。)

その理由を、著者は、「しだいに暗記しきれなくなり、うんざりしかかった時に明治維新となる」という学校の歴史カリキュラムの問題と、「大陸への進出から終戦に至るあいだのことは、反省すべきことがらで、思い出したくないというムードがある」ということを挙げておられましたが、カリキュラムの問題よりも、やはり、後者の「伊藤が日本の朝鮮侵略象徴的存在に祭り上げられている」・・・という点が大きいのでしょう。
事実、先般、元外務次官の野上義二氏の講演を聴いた際、「日本では殆ど報道されていないが、今、韓国ではビルの一面を全部潰して、安重根の写真にしている」と言っておられましたが、それほどにあちらには伊藤を殺した安を讃える空気があるわけで・・・。

ただ、この「明治の人物誌」を読むと、伊藤はむしろ、自分が朝鮮総督としてあることで、日本内部の植民地支配論者を抑えていたということが書いてあり、確かに、日韓併合になったのは伊藤の死の後のことですし、何より、維新の元勲である伊藤がその地位にいれば、軍部と言えども、そうそう横暴なことも出来なかったことも十分、考えられるわけで・・・。
(伊藤は韓国の民族服を着て写真に納まったりしてますし、新渡戸稲造にも韓国を植民地支配することには断固反対する旨のことを語ったといいますから・・・。)
もとより、あくまで、同書一冊を読んだだけですから、伊藤善人説を唱えるには今少し、反証が必要だろうと思いますが、同書は短い文章の中で極めて、的確に伊藤像を伝えているような気がします。

この点で思い出すのが吉田東洋という人物です。
この人は、やがて、大河ドラマ「龍馬伝」でも出てくると思いますが、土佐藩参政武市半平太を中心とする土佐勤皇党によって暗殺されたことから、郷士と呼ばれる下級士族を弾圧した権力主義の権化のように思われていますが、実は、暗殺当時は、身分にとらわれず有能な者を登用することを旨とした藩政改革に取り組んでいるところだったとか。
となれば、改革には、いつの時代にも既得権益を守ろうとする守旧派が付きものなわけで、つまり、東洋にしてみれば、敵は土佐勤皇党よりも、むしろ、それら抵抗勢力であり、土佐勤皇党にとっては東洋は排除すべき相手ではなく、藩内守旧派にすれば土佐勤皇党は自らの手を汚すことなく、政敵を排除できるわけで、「敵の敵は味方なり」・・・というところだったでしょう。

明日に続きます。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-02-01 20:26 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

我が聖地・篠栗八十八ヶ所霊場第四十番札所一ノ滝寺に涙
親愛なるアッティクスへ

唐突ですが、福岡県糟屋郡篠栗町という所をご存じでしょうか?
福岡市には直接、隣接はしていないものの、周縁部に当たるような地域で、最近では福岡市のベッドタウンとして随分と宅地化が進んだ所ですが、元々は、山間部が多いことから「篠栗八十八ヶ所霊場」がある地として知られています。
(「篠栗八十八ヶ所霊場」とは、本場の四国八十八ヶ所霊場とは別に小豆島四国、知多四国とともに「日本三大四国」とされているところだそうです。)
この地は、福岡市の都心からでも車で30分程度の所にありながら、夏でも涼しい風光明媚な地であり、空気は澄み、水は冷たく、まあ、夜に行けばどうか知りませんが、昼に行く分にはとても感じの良いところで、今もお遍路する人の姿をよく見かけるところでもあります。
ましてや、私が子供の頃などは、国鉄の駅もあり、その近くにお遍路目当ての旅館食堂がたくさん在って、結構な賑わいを見せてましたよ。

で、その八十八ヶ所のうちの四十番目、すなわち、第四十番札所というところに一ノ滝寺というところがあるのですが、ここは私の祖父母の時代には大変、懇意にして頂いていた所でして、従って、私も物心付いた時から良く連れて行かれていたところでした。
(本当に生後すぐから連れて行かれていたそうで、駅に着いたら祖母が乗り物酔いしてしまって、やむなく、祖父が私のおしめを取り替えたという話も聞いております。)
今は、JRになって、一本で行けるのですが、国鉄の頃は、博多駅鹿児島本線に乗り、ひとつ隣の吉塚駅というところで篠栗線に乗り換え、結構、この乗り継ぎが不便だったようで、バスで行っていた記憶もあり、さらに駅に着いてからも結構、坂道を登らなければならず・・・、体力のない町の子供には結構、辛く、ゼイゼイ言って登っていた記憶がありますが、それでも、ここで出されるところてん絶品でして、とにかく、ところてん食べたさに喜んで行ってました。
後にも先にも、食い物で辛さを忘れたのはこのときだけですね(笑)。
(数年前まで食すことが出来たのですが、やはり、今食べても絶品でした。私は、未だかつて、あれ以上のところてんは食べたことがありません。ちなみに、意外に美味しかったのが横浜三渓園のところてんでした。)

また、ここには、当時、祖父が福岡市下人参町自治会長だったこともあって、町内会有志に声を掛けて等身大くらいの、比較的、大きなお地蔵さんを奉納しており、台座には懐かしい名前に混じって祖父母の名前もありました。
つまり、ここは私にとっては思い入れ深い「聖地」でして、従って、我が子にもその想いをいささかなりとも受け継いでもらいたいという想いから、なるべく、折を見て、子供たちを連れて行くようにしていたのですが、先週、ここへ行って、愕然としました。
昨年夏に福岡県地方を襲った大雨山崩れに遭い、祖父母が奉納した地蔵も何も跡形を残さず、壊滅的被害を受けており、参道には行政名による「歩行者も通行禁止」の文字が・・・。
(普通に登れましたが、事故があったときに責任問題になるのが嫌なんでしょうね。)


ちと、画像ではわかりにくいと思いますが、左側の土砂に埋まった川はかつては男滝、女滝という大小二つの滝が流れていた清流で、道の両端にはずらっとお地蔵さんが並び、中央付近にある主を無くした台座の上に下人参町奉納のお地蔵さんが鎮座していました。
私も、まさかこうなるとは思ってませんでしたので、特に写真などは撮ってなかったようで、慌てて探しましたがわかりませんで、もし、被害前の画像をお持ちの方は是非、分けて頂きたいのですが、とりあえずは被害前の風景の方はこちらをご覧ください。
     ↓
第40番札所 500以上の仏像があるお寺 一ノ滝寺
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-29 17:40 | 地域 | Trackback | Comments(6)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その6
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

星 一星製薬を金融面から支援した岩下清周ですが、その名前の読み方は星 新一の著書「明治の人物誌」には「せいしゅう」とありましたが、実際には「きよちか」と読むのが正しいようですね。
実は私も「せいしゅう」と読んでいたのですが、何かで「きよちか」と読むのが正しい・・・というようなことを目にした記憶があり、以来、私は「きよちか」と呼んでいたのですが、この点は、源 義経の伝記「義経記」は「よしつねき」ではなく「ぎけいき」で、織田信長の伝記「信長公記」は「のぶながこうき」ではなく「しんちょうこうき」と読むのと同じ理屈で、偉人の名前を本来の訓読みではなく、敢えて音読みで読み表す、いわゆる有職読み(ゆうそくよみ)の例もあり、著者も、単に間違えたのか、それとも意図的に「せいしゅう」と読んだのかはわかりません。

ただ、この点で、個人的な事情で私は声を大にして言いたいことがあります。
「頼むから、はっきりしてくれ」・・・と。
その「個人的な事情」となったのが岩下の次に「明治の人物誌」に出てくる伊藤博文という人の名前についてです。
伊藤博文・・・、もちろん、言うまでもなく、明治の元勲の一人であり、昔はお札の顔にもなっていた人で、この人のことは、私などは、随分と長いこと「ひろふみ」と呼んでましたが、正式には「ひろぶみ」と読むのが正しいようですね。
ところが、これを、時々、「はくぶん」と読む人がいるんですよ。

実際、私が小学校の頃持っていた参考書には、「はくぶん」とふりがなしてあり、「え?ひろふみじゃなくて、はくぶんが正しいの?」・・・と思ったものの、あまりにもはっきりとそう書いてあるもので、翌日の授業で、「いとうはくぶんが・・・」と発表したら、先生が、「ん?はくぶん?ああ、それはひろふみね」と言われ、「ハクブンげな!」とクラス中の笑い物になりました。
「何だ?やっぱり、ひろふみで良いのか?制作者のミスか」と思っていたのですが、最近では、時々、識者を自称するような人などから、やはり、「いとうはくぶんが・・・」などという言葉が聞かれたりするんですよ。

でも、有職読みの理屈はわかるんですが、もし、試験に、「伊藤博文に読み仮名を打ちなさい」と出た場合、「はくぶん」と書いた人は不正解になるのでしょうか?
もし、それが正解と言うことになれば、徳川家康を「かこう」と書いても正解ですよね?
第一、その有職読みでさえも、すべての人に適用するわけでもありませんでしょ。
(あるいは「松陰」「南州」と言った雅号を持っていなかった人をそう呼ぶのか・・・とも思いましたが、「松菊」と号した木戸孝允は「たかよし」なのに「こういん」と呼ばれるけど、「甲東」と号した大久保利通を「りつう」と呼ぶ人は聞いたことがありません。)
であれば、少なくとも、先生は「あ、はくぶんでも必ずしも間違いではないのよね」くらいは言うように指導要綱を改めろよ・・・と。(←結構、根に持ってる?(笑)。)

ちなみに、岸 信介は「しんすけ」ではなく「のぶすけ」、平松政次は「まさつぐ」ではなく「まさじ」・・・で、更に言えば、星 一は「ほしはじめ」ですが時には「ほしぴん」とも呼ばれていたそうで・・・、嗚呼、「はくぶん」と読んだ小学生が救われる日は訪れるのだらうか・・・。

もやもやは解消されないまま、明日に続く。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-26 19:44 | 社会全般 | Trackback | Comments(2)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その5
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

星製薬の成長を金融面で支援した岩下清周北浜銀行頭取も、「晩年は政争絡みによる失脚の標的とされ、ゴシップ紙の執拗なスキャンダル報道の結果、大正3年、北浜銀行は取り付けにあい、翌年、失脚に追い込まれ、その後は隠遁生活に入った」そうですが、岩下翁の失脚後には、星製薬はもう独り立ちしてやっていけるようになっていたそうで、随分、援助なども申し出たようですね。
ただ、「明治の人物誌」の著者で星製薬社長・星 一の実子である星 新一氏は「後に星製薬が同じような道を辿ることを考えれば・・・」というような内容のことを述懐しておられましたが、こういう企業の伸張と政争が絡みやすい・・・というのも、如何にも明治大正という、揺籃期ならではの時代を感じさせることだと思います。

もっとも、もちろん、現代でもそういうことがないわけではないわけで、一例を挙げれば、今、問題になっている小沢一郎民主党幹事長の疑惑がありますが、この問題について私見を述べさせて頂ければ、小沢氏及び民主党側は前政権時代にはこの疑惑に対して、「自民党が選挙に勝つための国策捜査だ!」ということを主張されてましたよね。
では、民主党政権下になっての一連の逮捕については何と言われるのかな・・・と。
「あれは、鳩山が私を追い落とすための陰謀だ」とでも言うのでしょうか。
まあ、検察の捜査というもの自体が、そもそもが人間がやっていることですから、それなりに恣意的なものが入るのは否定しようのないことでしょうが、少なくとも「検察は政権には左右されていない」ということを示したという点で、つまり、検察への信頼が保たれた・・・という点では是として良いのかもしれません。

話を元に戻すと、明治も初期の頃には、明治5年(1872年)、山縣有朋らと昵懇だった山城屋和助陸軍省御用達となったことで巨利を得、さらに陸軍省の公金を生糸相場に投じ、さらなる巨富を得んとしたものの藩閥間権力闘争に巻き込まれ、一切の責任を押しつけられて割腹自殺に追い込まれた山城屋事件や、大久保利通・大隈重信・後藤象二郎らの後援を受けて、海運業で財を築いた三菱岩崎弥太郎も、大久保が暗殺され、大隈・後藤が政権を追われると、一転して政府からの弾圧を受け、抗争最中の明治18年(1885年)、憤死に追い込まれた・・・などということがあったわけですが、これら政権側と結んでの「政商」などでなかったとしても、「政敵の支援者」というだけで、いや、そう見なされるだけで、反対勢力が権力を握ると露骨な潰しに遭う・・・という、これは今日でも途上国ではよく見かけられる光景でしょうが、さすがに現代日本では「政権が変わると、支援者の企業が狙い打たれる」ということは一般的では無くなりましたよね。
(結果として三菱が残ったのは偏に弥太郎の跡を継いだ弟・弥之助の手腕かと。)

まあ、佐川急便リクルートなどがどうだったのかは知りませんが、仮にそうだったとしても、明治大正期はまだまだ資本の蓄積は小さく、企業に限らず、政治家に資金を供給できるルートは限られていたわけで、そう考えれば、この点は揺籃期のことだと言え、現代のそれと同じに考えるわけにはいかないでしょう。
ちなみに、「明治の人物誌」では、岩下清周の名前の読みは「せいしゅう」とありましたが、どうやら「きよちか」と読むのが正しいようですね。
この点では、ちと、言いたいのが岩下の次に出てくる伊藤博文です。

明日に続く。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-25 08:42 | 社会全般 | Trackback | Comments(0)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その4
親愛なるアッティクスへ

先日の続きです。

中村正直・野口英世に続いて「明治の人物誌」に登場するのが岩下清周という人物ですが、著者は、「おそらく、この人の名前は殆どの人は知らないのではないか?」と前置きしてありましたけど、私は知っていました。
以前、阪急の創始者・小林一三翁の伝記を読んだときに、翁の恩人というか、師匠というような位置づけで出てきたからです。
その後も、明治大正期の実業界の話の中で、結構、耳にする名前でもあり、何かでそれなりに読んだ記憶はありましたが、ただ、私にとっては、「小林翁を引き立てた人」以上の認識はなく、少なくとも、正面からこの人の伝記について読んだことはないはずで、それほど頭の中で具体的に「像」として形を為している・・・という人物ではありませんでした。

安政4年(1857年)生まれと言いますから、著者である星 新一の実父・星 一よりは16歳の年長であり、(ちなみに、他もすべて年長であることから、つまり、この人物誌に置いては野口英世だけが同世代だったということになるわけです。)三井物産パリ支店長品川電灯社長三井銀行本店副支配人等を経て、明治29年(1896年)同大阪支店長となり、大阪へ来る・・・と。
大阪では、その辣腕を買われ、翌年、設立されたばかりの北浜銀行を任されることになり、そこで銀行家として海のものとも山のものともつかぬ企業の将来性を読み取ると、そういう企業には積極的な融資を行ったようで、このとき、岩下の支援を受けた企業の中に著者・星 新一の実父・星 一が経営する星製薬があった・・・と。

今となっては考えられない融資手法ですが、この手の話は、この時代は割とあったみたいですね。
昭和電工が含まれていたことで知られる森財閥の創始者・森 矗昶が水力発電を始めるに当たって、当時の取引銀行に融資を申し込んだところ、融資係だった小川栄一(後の藤田観光創始者)から「担保は何ですか?」と聞かれ、そのまま、小川を山奥の滝に連れて行き、「担保はこれです。無尽蔵に落ちてくる水です」と答えたところ、さすがに、才人・小川栄一・・・、この型破りな行動に対して、事を理解したようで、周囲の反対を押し切り、融資に応じた・・・とか。

でも、岩下と一番似ているのは、第百三十銀行の創始者の一人にして、後に頭取となった松本重太郎のケースでしょう。
松本と岩下が共通するのは、有望と思われた企業や経営者にはリスクを承知で積極的に融資をする・・・という点であり、それはある意味、金融家の本分でもあるのでしょうが、見方を変えれば、彼らが担保としていたのは「自らの才気」だった・・・とも言えるわけで、当然、融資額も増えた分だけ、リスクも大きくなっていったわけで・・・。
結果、百三十銀行は明治37年(1904年)、日露戦争の最中に破綻・・・。
北浜銀行も、大正3年(1914年)、第一次大戦の最中、融資先の営業不振による債務焦付きなどもあって破綻に追い込まれ、岩下は逮捕の憂き目を見る・・・と。
ちなみに、松本が関わった企業としては、現在の東洋紡績、南海電鉄、JR西日本、日本火災海上保険、アサヒビールがあり、岩下が関わったものには阪急電鉄(阪急阪神ホールディングス)、近畿日本鉄道大林組などがある・・・と。

来週に続きます。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-23 08:19 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

夢かうつつかに見た夢に先駆けて咲く梅の花を思う
親愛なるアッティクスへ


今日の福岡県地方は曇り時々晴れ・・・と言ったところで、晴れたり曇ったり・・・なんですが、ここ数日と違い、寒の戻りで少々、肌寒いようです。

でも、(ろうばい?)は昨日だったか、「お、もう、蕾を付けている」・・・と思っていたら、今朝には、もう、しっかりと花を開かせて、良い匂いを当たりにまき散らせておりました。
私は、寒気にもめげず、梅の花が周囲に先駆けて咲く、とした姿を見ると、毎年のようにハッとさせられます。

 「先駆けに
    志見たり
     梅の花」

        梁庵平太 

ところで、今日は本当は先日からの「明治の人物誌」シリーズの続きを書くつもりだったのですが、ちと、思うことがあり、急きょ、変更します。

実は、私には、昔、随分長いこと一緒に仕事をやっていた職人がいたのですが、その人は如何にも昔の職人気質そのままに、一癖二癖・・・、なかなかに底意地の悪い人で、当時は少なからず辟易させられました。
ただ、その人はもう結構なお年で(それでも、一緒にやっている頃は私などよりは遙かに元気でしたけどね(笑)。)、最近は随分と弱って入退院を繰り返しているらしい・・・とだけ、風の便りに耳にしていました。
それが、今朝、ちと、夢を見まして・・・。

一夜の夢の中で、なぜか、ここ3日間ほど、その人に仕事を手伝ってもらったので、今日は私がその人の仕事を手伝いに行き・・・で、ここ数日、久々にその人と一緒に仕事をしたのですが、昔と違って、やたら良い人なんですよ。
それに、「随分弱ってる」と聞いていた割には、昔と変わらず元気で・・・。
で、「一服しようや」と言うので、そこら辺に腰を下ろして休憩した際に、私が「弱っとうて聞いとったばってん、昔と変わらんやないな」などと語りかけ、他にも、色々と話しているうちに、突然、その人の声が段々小さくなっていき、そのまま、話しながら倒れ込んで眠り始めたんですよ。
私は「え?寝ただけ?それとも、もしや、これが脳OOとか何とかいうやつなの?」と困惑を隠しきれなかったのですが、それでも誰かに報せなきゃ・・・と思っているところで目が覚めました。

私は生まれてこの方、その人の夢なんて見たこともありませんし、もう、10年近くも会っていません。
この夢は、一体、何だったんだ・・・と思ったわけです。
もしかしたら、あの、おっさん・・・死んだのかな・・・と。
「おっさん、俺に別れを言いに来たのか?」・・・と。
それとも、私が年をとって、感傷的になっているのでしょうか?
別に今まで「会いたい」などとはまったく思いませんでしたが・・・。

とまあ、私のくだらない夢話に付き合わせて申し訳ありませんでしたが、ま、これも備忘録的な意味で・・・と。
「おっさん、まだ、生きてたらゴメン(笑)。」
                                         平太独白
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# by heitaroh | 2010-01-22 08:36 | 私小説 | Trackback | Comments(2)

小林繁氏の急逝に振り返る「空白の一日」事件
親愛なるアッティクスへ

元プロ野球投手の小林 繁さんが急逝され、葬儀の模様がニュースで流れてましたが、この人は、やはり、我々の世代にとっては記憶に残る選手の一人でしょう。(合掌・・・)
昭和53年(1978年)11月に、あの「空白の一日事件」があったとき、当時、阪神ファンだった私が真っ先に思ったことは、「いずれにしても、巨人に批判の矛先が向かうことは間違いない」ということで、その後、世論の後押しもあって強行(?)されたドラフトで阪神が江川卓投手の交渉権を獲得し、さらに、コミッショナー裁定で当時、巨人のエース格だった小林氏との三角トレードとなったときには、「海のものとも山のものともつかぬ江川を獲るよりも、確実に15勝以上、うまく行けば22勝くらいはいけそうな小林が獲れた方が阪神にとっては効果的だ」と思いましたね。
(当時、江川投手は前年に我が福岡クラウンライター・ライオンズにドラフトで指名されたものの、それを拒否して、一年間、アメリカ野球留学しており、このブランクにより実績を残せないまま終わるのではないか・・・ということが言われてました。)

移籍一年目、小林投手は22勝を挙げ最多勝を獲得し、特に古巣・巨人には8勝0敗という大活躍だったんですが、この22勝というのは結構、凄いことなんですよ。
おそらく、私の記憶では、この時以来、22勝以上というのは出てないはずなんですよね。
(前年に、近鉄の鈴木啓示投手は25勝挙げてますが。)
一方で、阪神はこの年、掛布雅之選手が球団の本塁打新記録を更新する48本本塁打王に輝き、投打の主軸が最多勝と本塁打王という最高の結果を残しながらも4位・・・。
まあ、それも仕方がない話で、掛布さんも48本も打ちながら、打点はわずかに95で、やたらとソロホームランばかりの48本でしたからね。

ただ、翌年以降は江川投手との直接対決には見事に勝てなかったのですが、この組み合わせは明らかに小林投手には不利でしたよ。
小林という投手は2点くらいに抑えるものの、殆ど、完封というものがない投手で、つまり、完封できる能力を持った江川と対戦すると、いくら良い投球をしても打線が完封されてしまうと勝てない・・・という構図が出現するわけです。
(この点は、少し前の松坂大輔投手に対する和田 毅投手などがそうでしたね。)

ついでに言うと、あのときの阪神は、元々、江本孟紀、古沢憲司、上田次郎・・・と、主力投手陣がサイドスローの投手ばかりでしたから、小林投手の加入によりサイドスローの投手ばかりになってしまったんですよ。
こういうことは、時々、編成上、まれに起こるみたいで昭和56年(1981年)の大沢啓二監督に率いられてリーグ優勝したときの日ハムがそうでしたね。
高橋一三、間柴茂有、木田 勇、江夏豊・・・と左投手ばかりになってしまい・・・。
まあ、それでも皆、それなりの成績を残したわけですから構わないのでしょうが、相手チームからすると対策が立てやすかったことには違いないように思うのですが。

ちなみに、小林投手と巨人で同僚だった高田 繁現ヤクルト監督は「投手という人種はあまり、付き合いたくない人が多いが、唯一の例外が小林 繁」と言ってましたが、その小林さんでも、子供の頃はメンコで負けたら、下駄で相手をぶん殴っていたそうですから・・・(笑)。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-21 08:32 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(4)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その3
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

これら、「明治の人物誌」の登場人物についてですが、まず、著者の実父が、著書を通して影響を受けたのみで実際の面識はない中村正直は置くとして、次に登場するのが野口英世博士・・・です。
言うまでもなく、千円札の顔になった大正期を代表する世界的細菌学者であり、幼少の頃に負った火傷ハンディを抱えながらも苦学して偉業を成し遂げ、最期はアフリカの人を伝染病から救おうとして、自らも斃れた・・・、まさしく、少年が模範とするような偉人の中の偉人で、とにかく、私が子供の頃などは二宮金次郎の銅像と同じような感じで、うんこもおしっこもしない人・・・という感じだったのですが、近年では決して、そんな聖人君子などではなく、借金乱行婚約不履行に・・・と、かなり、いい加減な面もあったということが言われるようになってきましたよね。

まあ、そのいい加減さも、四角四面の現代と違い、如何にも明治期のそれらしく大胆かつ、おおらかな話で、当時、野口清作といったその若者は、恩師に貸してもらった善意遊学費用放蕩生活で使いきってしまうと、あちらこちらから借金し、さらに放蕩生活を続け、それが坪内逍遥の小説「当世書生気質」に、「弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る野々口精作」という人物として登場したことから、「これはまずい」と改名を決意。
で、「世にすぐれる」という意味で「英世」とした・・・と。
確か、改名するには郵便配達上の問題で同一集落の中に同姓同名がいる場合のみ認められる・・・か何かの特例があったため、敢えて、同名の清作という人を騙くらかして(←博多弁?「騙す」よりは、少し罪がない感じなのですが、これに相当する表現が標準語にはないもので・・・。)近所の野口さんちに養子に入れさせて、むりやり、同姓同名を創り出した・・・と記憶しております。

ところが、驚くのはそんなでたら目な生活を送っていても、彼にはこれでもかと言うほど援助者が湧き出てくることです。
郷里の恩師・小林 栄に、畏友・血脇守之助然り・・・。
(やはり、この人はでたらめな生活をしていても・・・、また、決して、モラル的には褒められた生活はしていなくとも、何かしら人に好かれる人だったんでしょうね、私の友人にも一人、そういうのがいましたから、何となく、わかるような気がします。)
そして、その点では、「明治の人物誌」の著者、星 新一氏の実父・星 一もその一人・・・どころか、金額だけならおそらく一番出した人でしょう。
それなのに、野口英世伝には星一の名前は殆ど出て来ない。
わずかに、「凱旋帰国する際の渡航費を出した」という1行しか出て来ないそうで、つまり、実父と英世との親密な交流が知られていないことに、、実子である著者としては結構、忸怩たる想いがあったのでしょう。

それだけに、他稿と違い、この稿にのみ関しては、それなりに押さえてはあるものの、かなり、その辺の不満というか、「是正」に対する想いが伝わってきましたね。
二人は同郷で、年も近く、かつ、身体にハンディを負っていたことも共通していたらしく、アメリカという異郷の地で過ごす者同士、「親友」と呼んで良い間柄になり、それゆえに、事業で成功した星は高額の帰国費用を出し、英世は星製薬の顧問に名を連ねた・・・と。

明日に続く。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-19 17:26 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

大河ドラマ「龍馬伝」に見る時代劇というものの心得
親愛なるアッティクスへ

本日は、先週からのシリーズの続きで行くつもりだったのですが、ちと、訳あって、少々、そういう気分になりませんで、従って、普段は再放送を録画してみている私が、昨日はたまたま、リアルタイムで見てしまった大河ドラマ「龍馬伝」についての方が書けるかな・・・みたいな感じですので、急きょ、予定変更で昨日の龍馬伝を見ていて思ったことについて、書いてみたいと思います(笑)。

まず、現代日本を代表する二枚目俳優・福山雅治さん演じる坂本龍馬ですが、顔の方が男前になるのは娯楽番組主役ですから仕方がないことでしょうが、ただ、同じ長身ではあっても小顔体の薄さにはやはり、違和感を覚えますね。
あの八頭身と手足の長さは、哀しいかな、平成の人の物ですよ。
昭和の時代でも、芸能人でもあまり見かけませんでしたからね。
ましてや、実際の龍馬という人は結構、剣術水練で鍛えていたようですから、もっと体の厚みがある人で、実際、残された写真を見る限りでもそういう気がします。
もっとも、ドラマを見る限りでは、その部分はそれほど気になるものでもありませんし、むしろ、ストーリー的には「龍馬」といえば、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」呪縛から逃れられない作品が多い中で、岩崎弥太郎を絡ませるなど、なかなか、ユニークなものが出来ていると思います。

ただ、明らかに、いただけないのが広末涼子さん・・・。
地元出身だけに土佐弁は上手いのかもしれませんけど、明らかに、普段、着物を着たことがない人が着物を着ている。
歩き方はたどたどしいし、それ以前に着物が体に馴染んでない・・・、まるで、人形がクレープの生地にくるまれているようで、どう見ても、「アナタ、今、初めてこれ着たでしょ」・・・みたいな。
龍馬伝というのは現代劇ではなく、江戸時代が舞台なのですから、着物を着てぎこちないということは、もう、それだけであり得ないわけですよ。

もっとも、この点は、広末さんだけを責めるわけにはいかないのでしょう。
かつて、巨匠・黒澤 明監督は名作「七人の侍」を撮るに当たって、出演者すべてに前もって衣装を渡し、「自宅でも普段からそれを着て、よく、体に馴染ませておいてくれ」・・・と言ったそうですね。
ましてや、黒澤さんの時代と比べても、生まれながらに着物なんて着たことがない役者さんが大半になってるわけで、そう考えれば、ある程度、彼女にも「せめて、家にいるときくらいは出来るだけ着物を着ておいてください」くらいのことは言うべきだったでしょう。
(私も、今年の正月、初詣に出かけた際に、男はともかく、とにかく、女性の着物姿がとにかく少ないのに驚きました。)
ただ、本来で言えば、プロの役者さんというのは、いつ、そういう役が来るかもしれないわけですから、一般の人と違い、機会が有れば普段からそういう物に袖を通すように習慣づけておくべきで、もしくは一切、そういう役は受けないようにするか・・・だと思います。
その論で言えば、少なくとも、広末さんは女優としてのプロ意識が欠如していると言われても仕方がないのではないでしょうか。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-18 19:02 | 文学芸術 | Trackback | Comments(4)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その2
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

その、「明治の人物誌」ですが、手にとってすぐに思ったのが、まず、「何でこの顔ぶれなの?」ということです。
この辺は、末尾に書評を寄せた城山三郎氏も同様のことを思ったようで、曰く、「本書を手にしてまず感じるのは、とり上げられている人々についての不統一というか、多様さである。野口英世、伊藤博文など高名な人もあれば、一般的には無名に近い人もある。私のような仕事をしている者でも、その姓名(後藤猛太郎)だけでは、すぐに思い当たらぬ人もある。職業も学者、政治家、実業家、政治浪人などさまざまであり、そこにエジソンまで加わることで、この人たちを集めた意図がいよいよ読めなくなる」・・・と。

で、読み始めてしばらくしてやっとわかったのですが、そこに採り上げられている、中村正直/野口英世/岩下清周/伊藤博文/新渡戸稲造/エジソン/後藤猛太郎/花井卓蔵/後藤新平/杉山茂丸という人たちは、著者である星 新一氏の実父、星 一氏と皆、何らかの形で関わりがあった人だということで、つまり、この明治の人物誌というのは形を変えた父への追悼文だったわけです。


星 一という人については、新一氏がその著書、「人民は弱し 官吏は強し」で述べているように「有能な経営者でありながらも、政府の干渉圧迫によって経営する星製薬を頓挫させられた悲劇の人で、新一氏も東大を卒業してすぐに亡父の跡を継いで社長になったものの未熟さは誰の目にも明らかであり、ついに事業は破綻し、氏も随分と辛酸をなめた」・・・という程度のことは私も知ってましたが、残念ながら、同書はまだ読んだことがなくそれ以上は知りませんでした。
(それでなくても、うちの本棚は、まだ、積ん読状態の物が100冊くらいあり・・・。家人からは、「今、読む物だけを図書館から借りてこい!」と・・・叱責されている始末でして(涙z)。)

で、改めて、そういう目で見ると、この本はちょっと驚きでしたね。
なぜなら、これらの顔ぶれのうち、新一氏の実父が面識がないのは著書を通して影響を受けた中村正直だけであり、後はすべて実際の面識がある人ばかりなんですよ。
伊藤博文とも、エジソンとも、野口英世とも・・・、無論、親密の度に差はあるにしても、皆、それなりに親交があった・・・ということでしょ。
これって凄くないですか?
自分の父親が、生前、吉田 茂アインシュタイン湯川秀樹なんかと親交があったようなもんですよ。
これが、「長州閥の人たちとの付き合いの中で伊藤博文とも面識があった・・・」とか言うんなら、まだ、わかるんですよ。
でも、伊藤博文とエジソンと野口英世は少なくとも彼ら自身には、あまり接点があったようには思えませんからね。
まあ、その辺は当時としては貴種と言っても良い、「海外留学」を経験しているということが大きかったのでしょうが・・・、ともあれ、週明けよりは、もう少しその辺を突っ込んで採り上げてみたいと思います。

ということで、次回に続く。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-16 08:18 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

正月に久々に読書三昧にさせられた明治の人物誌 その1
親愛なるアッティクスへ

今年もたくさんの方から年賀状を戴きました。
私は昔から年賀状を書くのはまったく苦にならない子供でしたので、今も出す方も同じくらい出してますね。
(残念ながら、我が家には、誰も私のスピリットを受け継いだ者はいないようです(涙)。)

ただ、それらとは別に、今年は今頃になって、喪中寒中見舞いのハガキが立て続けに届きました。
皆さん、ご高齢の方ばかりだったのですが、年末になって、急にお亡くなりになったとのことで、喪中ハガキどころではなかったようです。
思えば、私も今年で数えの五十ですから、気が付けば、私の子供の頃に廻りにいた大人の人たち・・・というのが本当に少なくなってきた感があります。
ますます、昭和は遠くなりにけり・・・でしょうか。
そういうことで、今日も今からお悔やみに行かなければなりませんので、急ぎ、本題です。

昨年の年末、帰宅すると、テーブルの上に一冊の文庫本が置いてありました。
図書館のシールが貼られたその本のタイトルを見ると、「明治の人物誌」とあり、著者は星 新一とありました。
星 新一といえば、言わずとしれたショートショートの名手ですから、あるいは堅苦しい題名とは裏腹にそういう明治の人たちを題材にした柔らかい内容の物なのかな・・・と思い、手に取ってみると、柔らかいどころか、題名に偽りのない、見事な明治という時代を生きた人たちの人物誌でした。
内容からして、子供にはちと無理でしょうから、となれば該当者は一人しか居ず・・・。
ただ、我が家では、そのような類の本を読むのは私だけでして、「一体、どういう風の吹き回しだ?」・・・と思っていると、何と、借りてきたのは小学生のガキ・・・で、聞けば、星新一の名前だけでショートショートと思い、中身を見ずに借りてきたとのこと。
ならば・・・とばかり、私が思い立ったのですが、聞けば、借りているのは冬休み中だけ・・・とのことで、結果、久しぶりに、今年の正月は読書三昧となりました。

で、読むに当たって、まず思ったのが、そこに紹介されている人物たち・・・。
中村正直/野口英世/岩下清周/伊藤博文/新渡戸稲造/エジソン/後藤猛太郎/花井卓蔵/後藤新平/杉山茂丸と・・・千差万別多種多様
(私も、割と知ってると自負している方なんですが、中村正直・後藤猛太郎・花井卓蔵という人は知りませんでしたね。)

ということで、折角乗ってきましたが、今からお悔やみに行かねばなりませんので、続きは明日・・・ということで。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-15 18:04 | 歴史 | Trackback | Comments(0)

魁皇の最多勝利新記録に想う東尾の殿堂入りと勝利論
親愛なるアッティクスへ

本日の福岡市内はこの冬初めての積雪・・・。

(←10分ほど走らせたにも関わらず、未だに愛車の屋根はこの通り。当然、動き出す前はワイパー「よいしょっとぉ」と声をあげながらフロントガラスに積もった雪を払いのけました(笑)。)

で、本日の本題ですが、何と言っても福岡県出身魁皇の、大横綱・千代の富士の記録を塗り替える幕内最多勝利新記録でしょう。

でも、大横綱として、数々の記録を塗り替えた千代の富士ですが、私的にはむしろ北の湖の強さの方が印象深いですね。

(←路面は溶けているものの、ご近所の屋根はこの通りの雪化粧・・・。)

思うに私などは特にそうですが、男の子は時に「圧倒的な強さ」・・・というのに憧れる傾向があるようです。

常勝・巨人をこれでもか!という形で3年連続で下し続けた頃の西鉄ライオンズ然り。
しかし、あまりにも強すぎて、毎回毎回、同じ人ばかりが勝ち続けると人は飽きてくる・・・。

9年連続で日本一になった巨人には「アンチ巨人」という言葉が生まれ、黄金時代の広島カープは常勝になるとなぜかファンが減り始めた・・・と。
同じ野球をやっていながら、最初の頃は勝つだけで喜んでくれたのに、勝ち続けると、「強いのは嬉しいんだけど・・・」と言われる。
その典型が、北の湖だったでしょう。
勝ち続けることに対し、あれほど罵声を浴びせられた力士も珍しかったですし、逆に、北の湖が負けるとニュースになった・・・くらいで、この点は今の、(ちょっと前の?)朝青龍などにも通じるものがあるでしょうか。
その点、千代の富士は、出てきた頃、先代貴乃花の後継者・・・みたいな観がありましたので、まさか、あれほどの大横綱になるとは思いませんで、(先代貴乃花の路線は若島津寺尾が引き継がれましたね。)私の印象では、北の湖が下り坂に入り、怪我して休場を繰り返すようになって、勝ち星を重ねるようになった・・・感があります。
それだけに、千代の富士が色々な記録を更新するのを聞くたびに、少し意外な気がしましたね。

で、まさかあれほどになるとは思わなかった・・・という点では、本日はもう一人、旬のネタの人が居ます。
昨日、野球殿堂入りが決まった東尾 脩元西武監督です。
今や、娘の東尾理子さんの婚約の話題の方で有名になった観がありますが、この人は元々、福岡の西鉄ライオンズ出身で、私などは子供の頃から見てましたが、正直、まさかこれほどの大投手になるとは思いませんでしたね。
歴史に残るような弱体球団にいたから、打線の援護もなかった反面、主戦級として投げさせてもらっていたものの、期待感ばかりが先行していた感があり・・・。
彼の場合、若いうちにそういう経験を積むことが出来たというのが一番、大きかったのでしょうね。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-13 08:08 | スポーツ | Trackback | Comments(4)

毎年恒例十日恵比須にちらっとだけ商売繁盛を願う無神論
親愛なるアッティクスへ

この連休、いかがお過ごしでしたでしょうか?
私は10日だけ、今年に入って初めての「完全オフ」で、毎年恒例、博多の商売繁盛の神様である十日恵比須に行ってきました。
(←人人人・・・の人の波です。特に今年は休日と重なったこともあり・・・。)

正月以来、運動らしい運動もしてなかったことから、毎日、家でゴロゴロしているガキを1匹連れて、片道一時間かけて歩いて行ってきました。

←十日恵比須名物、名付けて、「十日笹」・・・!
植え込みの間から顔を出しているのはススキ・・・などではなく、お札が付いたです。

ここにお参りして、何か縁起物を買うと、1本笹に「十日恵比須」のお札が付いた物が付いてくるのですが、別に、おみくじを枝に結べば運気がアップする・・・などというようなものの類ではありませんで、先般からたびたび申し上げておりますように、軽薄その場凌ぎでは日本一を自負する福岡人のこと、モラル神罰も何のその、皆、帰りがけに、その場でその笹をそこら辺の植え込みに差していく・・・、つまり、直裁に言うところの「捨てて帰る」んです(笑)。

で、この十日恵比須の3~4日間に限り出現するのが、こういう風景である・・・と。
思わず、かつて、平和台球場で券を買うことなく、スタンドの外にあるに登って観戦する「白木鳥」を想起してしまいました(笑)。

(←角度を変えてみると、こうです。奥には延々参拝のための行列が続いています。)

もっとも、私は以前から申し上げておりますように「風物詩」としての行事を大切にしているだけで、元々、神様よりも織田信長の方を信じている人間ですから、当然、参拝の行列に並ぶこともなく、適当なところでガキと二人、パンパンと手を叩いて帰ってきました(笑)。

ちなみに、司馬遼太郎さんの「太閤記」の一節だったと思いますが、織田家の部将時代の羽柴(豊臣)秀吉の宗教観について語ったものがあり、特に何と言うことのない部分だったのですが、私はなぜかとても印象に残っており・・・。

曰く、「秀吉にとって宗教とは、絶対にあり得ない話であるが、主君である織田信長が明日からどこかの宗教に入信する・・・と言い出したならば、たちどころに彼もその宗教に入るという類のものだったであろう」・・・と。
私が宗教の勧誘を受けたときにいつも言う一言です。
「俺に宗教に入れと言うのなら信長を入信させてよ。信長が入るというなら入るから。多分、俺を勧誘するよりもキリストを勧誘した方が早いと思うけどね」・・・と(笑)。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-12 08:09 | 地域 | Trackback | Comments(2)

広く浅く負担するのが社会保障の本筋
親愛なるアッティクスへ

昨年、確か、NHKスペシャル 「セーフティーネット・クライシス Vol.3 しのびよる貧困~子どもを救えるか」という番組だったと思うのですが、私も子を持つ親の身としてとても胸が痛みました。
この番組は、日本の不況のしわ寄せが社会的弱者である子供たちに波及している・・・という現実を伝え、その上で、北欧などの外国が国を挙げて取り組み、それが一時的に社会の負担に繋がっても長い目で見れば安く付く・・・ということで、教育の重要性負担への理解を求めた番組で、我が身の置かれている現状を考えれば決して他人事などではなかったのですが、最後に、「国民の負担の割合で見て行くと個人の負担に対して、日本は企業が負担する割合が先進5カ国で比べると極めて低い」というデータが示された上で、新浪剛史ローソン代表取締役CEOに「(企業経営者として)どう思うか?」・・・と話が振られました。

英明を持って知られるCEOも、当日は体調が悪かったのか、あるいは元々集中力が続かない人なのか、終盤辺りになると、少し「ん?」というようなことを言っておられたのですが、このコメントを求められた際には完全に電池切れだったようで、「英国の元首相のブレアさんがおっしゃったように、1に教育、2に教育、3に教育ですよ」などと、少し「???」なコメントを・・・(笑)。
で、本人はそれを言い終えた時点で、明らかに「ああ、これで終わった・・・」と安心されたようですが、当然ながらそこを百戦錬磨のNHKの司会者がなおざりにして先に進むはずもなく、安心している新浪さんに、おもむろに、「その部分への企業の負担についてどう思うか?」と再度質問を求めました。
(NHKのこの手の番組の司会者の実力は本当に凄いですね。冷静沈着、的を射て離さず、紛糾してくると極めて的確に各人の要旨を押さえ議事を収拾しますからね。)

すると、新浪さん、まったく、予想してなかったんでしょうね、少ししどろもどろになりながら、「それは・・・、ちゃんと使ってくれるんなら、いや、企業としてもその点は対応しなくてはならないとは考えてますよ・・・」というような意味のことを言われました。
まあ、司会者としても、100点満点の欲しいコメントでもなかったのでしょうが、時間の問題もあり、また、番組の主張する方向にはある程度合致していたのでしょう、これ以上は「武士の情け」(笑)で突っ込まれませんでしたが、私的には氏には、「大筋としては賛成だが、本来、こういう負担を企業に担わせるというのはおかしい。『外国がそうやっているから』というのは関係ない・・・」くらいのことは言って欲しかったですね。

企業に負担させるというのは、そもそもが右肩上がりが前提なんですよ。
しかし、今のような時代にそういう負担を押しつければ、企業は生き残りの為に人件費カットに踏み切らざるを得ず、単に失業者を増やすだけの話ですよ。
ただ、誤解のないように申し上げておきますと、だからと言って、私は「社会保険を無くして良い」とは思っておりません
私が言いたいのは、「社会保障というものは、企業がこれを負担するのではなく、国民一人一人が広く浅く負担すべきものだ」・・・ということです。
セーフティネットが機能することは治安の向上に繋がり、市民生活にも寄与するわけで、無論、企業も恩恵を被るでしょうが、やはり一人一人が応分の負担をするのが本筋でしょう。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-09 17:29 | 経済・マネジメント | Trackback | Comments(0)

正月の終わりに竹下景子の挑戦にみる「女優論?」 その2
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

その、二代目博多淡海という人ですが、この人は、どの役でも役に合わせて演じ分けられるように、奥歯どころか、すべての歯を抜いて、総入れ歯にしていたそうですね。
で、時々、演技中に、手を使わずにそれをポッと口の外に出して、観客の笑いを獲る・・・と。
当時、見ている方は大笑いでしたが、西川きよしさんなど一緒にやっていた人たちには鬼気迫るものに見えたそうですよ。
(まあ、ある意味、この人も「女優」なわけで・・・(笑)。)

で、話を本題に戻しますと、竹下景子という女優さんですが、この女優さんについては、私は元々、必ずしもそれほどファンだった・・・ということではないのですが、実は過去に三度ばかり、印象深い記憶があります。
まず、最初は、私がにこの人の名前を知るに至ったときのことです。
高校一年の、まだ、入学して間もない頃だったと思いますが、クラスに突然、映画研究会なるものからのアンケートが廻ってきました。
(ちなみに、私は在学中、うちの学校にそういう高尚な団体があったのはしりませんで、この団体が活動らしい活動をしたのもこのときしかしりません(笑)。)

で、その一つに、「あなたが好きな女優は?」というものがあり、私ももちろん多感な頃ですから、そういうものに興味がないわけではなかったのですが、いざ、そう聞かれるとすぐには思い当たらず・・・、で、別に好きでも何でもなかったのですが(失礼!)、その頃、割と良く見かけるようになっていた多岐川裕美さんを書こうと思ったのものの、今では大女優も、当時はまだ駆け出しで名前がわからない・・・。
周囲の奴らに聞いても「誰?」・・・。
で、ふと、「ところでおまえらは誰ば書いとうとや?」と。
すると、後ろも隣も、見れば、皆、「竹下景子」と・・・。
私は、そのとき、その名前を初めて聞いたのですが、口では、「そっかぁ、やっぱ、竹下景子だよなぁ」と言いながら、素知らぬ顔でアンケートには「竹下景子」と・・・(笑)。

次に、この人を見て、強く、思ったのが、ドラマ「北の国から」の中でのことです。
と言っても、連ドラの頃ではなく、完結編に近い辺りでのことなのですが、劇中の回想で若き日の竹下景子さんと岩城滉一さんが出てきたことがあったのですが、お二人とも、今でも十分にお綺麗で格好いいのですが、若い頃のそれは何十倍も綺麗で格好良かったんですよ。
不遜な例えですが、「ずっと見ているからわからなかったけど新品と比べてみると、やっぱり・・・」みたいな感じだったでしょうか。
若さとはそれだけで美しい・・・、良いも悪いもないそれが私の率直な実感でした。

そして、三度目が今のお婆ちゃん役への挑戦です。
この辺については昨日、申し述べたとおりですが、女優の宿命として、いずれそうなるにしても、まだ50代半ばくらいでしょうから、少し思い切ったな・・・と言う観は私ならずともあるんじゃないでしょうか。
だからこそ、彼女のプロ意識に敬意を表するわけで、この辺を率直に言えば、「はらたいらに全部・・・じゃなくて竹下景子さんに全部!」という感じでしょうか(笑)。(←古い!)
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-08 08:36 | 文学芸術 | Trackback | Comments(2)

正月の終わりに竹下景子の挑戦にみる「女優論?」 その1
親愛なるアッティクスへ

昨年から、折に触れて申し上げていたことですが、竹下景子さんが最近、お婆ちゃん役をやり出して、しかもまた、それが似合っていることに、内心、複雑なものがある・・・と。
まあ、それは彼女のプロ意識の高さを見るような思いがあるのですが、それでも、「綺麗なお姉さん」的存在がお婆ちゃんになっちゃうと、否応なく、自分の年齢と重ね合わせるわけで・・・(笑)。
ただ、以前からそういう役が多かった人ならともかく、かつて、美人女優と言われた人が老け役に挑む・・・という部分にはプロ意識以外の何ものでもなく、大いに敬意を表しますよ。

そもそも、私に言わせれば日本の女優というのはプロではない・・・人が大半で、もっと極論したならば、ただひとりを除いて日本には女優というものは存在しないとさえ思います。
そういうと、少し語弊があるかと思いますが、私が言いたいのは日本には「プロの女優」はいるが、「女優のプロ」というのはいない・・・ということです。
この点は、特にかつての大河ドラマなどがそうだったのですが、女優さんが誰かの一生を演じてくると、決まって、最後の方では、「おまえ、一体、いくつだ?」みたいな、妙に綺麗なお婆ちゃんになっちゃうんですよ。
今の時代なら、美顔だ、皺取りだ・・・で、きれいなお婆さんは有りなんでしょうが、少なくとも歴史上の人物などを演じるときは、あり得ないでしょ。
おなた、プロなんだったら晩年はお婆さんになりきりなさいよ・・・と。
最近は随分、マシになってきたように思いますが、この点で、ただひとりの例外な「プロ」の女優・・・、ならぬ、「女優のプロ」といえるのが田中絹代という人です。

この人の凄いと思うところは、役作りのために奥歯を抜いたことで、「奥歯を抜く」・・・ということ自体は必ずしも珍しい話ではなく、男性の俳優さんでは、松田優作さんなどを始め、たまにそういう話を聞きますよね。
でも、女優さんでそれをやったのはこの人だけではないでしょうか。
あるいは、他にもいらっしゃるのかもしれませんが、少なくとも田中絹代という人は明治42年(1909年)生まれですから、それをやったのは確か、昭和28年(1953年)の雨月物語の中でのことだったと記憶しておりますので、逆算すれば、当時、彼女はまだ44歳・・・。
人間の老化が早かった当時の44歳を今の44歳と同じに考えることは出来ないでしょうものの、それでも、かつて美人女優として一世を風靡した人であれば、まだ、「美」を捨てることに抵抗がある年齢だったのではないでしょうか。
誰からかやれと言われたわけでもないのに、自ら考えて、それをやったということが如何に彼女のプロ意識が高かった・・・かと思うわけです。
(少なくとも彼女以前に、「女優」でこういうことをやった人はいなかったでしょう。)

ちなみに、「歯を抜いた」という点で役者度を表すのも如何なものかと思いますが、敢えて、その論で言うならば、もっと凄い人がいます。
二代目博多淡海という人です。
おそらく、その名前をご記憶の人はそれほど多くはないかと思いますが、昔、藤山寛美と一緒にテレビの舞台喜劇に出ていた博多弁をしゃべるお婆さん役の男性・・・といえば、あるいはご記憶の方もいらっしゃるのではないでしょうか。

明日に続く。
                                        平太独白
# by heitaroh | 2010-01-07 07:38 | 音楽芸能 | Trackback | Comments(0)

大河ドラマ「龍馬伝」に見る人間とは業の深い生き物
親愛なるアッティクスへ

今年も大河ドラマ「龍馬伝」始まりましたね。
名優・香川照之さんが演じる岩崎弥太郎の目を通して語る「龍馬」・・・というのは司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」から離れるという意味で新鮮で良いんじゃないでしょうか。
ただ、香川さんは同じNHKの「坂の上の雲」で晩年の正岡子規を演じ、もの凄い減量をされたばかりなんですよね。
で、今度は若いときならまだしも、功成り名遂げてからの「恰幅が良い」岩崎弥太郎から語り始めなければならないわけでしょうから・・・、大丈夫ですかね。
まあ、今時は医師トレーナーなどのきちんとした管理の下でされるので心配は要らないのしょうが、それにしても・・・と。

で、その龍馬伝ですが、と言っても、実はまだよく見てないのですが、坂本龍馬の子供時代・・・といえば、どうしても土佐・・・、現在の高知県の「上士郷士(下士)の葛藤」というものが避けて通れませんよね。
土佐藩は関ヶ原後に新たに領主となって進駐してきた山内家の家臣を上士とし、それ以前からの土着の旧長曽我部家の遺臣らを郷士とすることで成立しており、郷士は上士からの激しい抑圧に晒されていた・・・というものですが、この点で、数年前の大河ドラマ「新撰組」では、土方歳三近藤勇が新撰組に入る前に坂本龍馬と会って話をするというシーンがあったのを思い出しました。
土方が「おまえは侍だから良いよな」と言うと、坂本が「侍言うても、わしら郷士は侍のうちに入らんぜよ」と言い、さらに、「それでも、侍は侍だ」という土方に対し、坂本は「わしら、土佐の郷士言うのんはのう・・・」と言って、その置かれた環境の厳しさを語る・・・と。

まあ、上士と郷士という身分差別は必ずしも土佐藩だけに限ったことではなく、どこの藩でも多かれ少なかれ見られたことでしょうし、それ以前に江戸時代というのは精巧なまでに細かく仕切られたピラミッド型身分社会であり、司馬さん曰く、「自分より低位の者に対し意地悪をする社会」だったそうですから、何も彼らだけが不遇だったわけでもなかったのでしょうが、それにしても確かに土佐の郷士の置かれた環境は過酷だったようですね。
(←当時の身分制度の頂点に位置した孝明天皇が行幸する際に使用した車・・・だそうです。)

ただ、その意味では、土方が言うことにも一理あります。
郷士身分にいる人たちは、自分たちの置かれた環境を嘆くものの、その郷士以下の身分・・・、土佐藩で言えば岩崎弥太郎や近藤長治郎などに対して、彼らは温かく接したかといえば決してそうではなく、それどころか自らが抑圧された者ほど他者を抑圧することにはけ口を求めるもののようで、自らが受けた仕打ちと同じような酷い対応で臨んだわけで、この点、まさしく、司馬さんの言われる「意地悪」以外の何ものでもないでしょう。
人間とは誠に残念ながら、誰かしら他者を蔑むことで自らの位置を確認しようとする哀しい生き物であり、何とも業の深い生き物である・・・と。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-05 19:25 | 歴史 | Trackback(1) | Comments(2)

「口中有泡 胸中有熱 腹中有一物」の昭和男の仕事始め
親愛なるアッティクスへ

   「口中泡有り
    胸中熱有り
      腹中イチモツ有り」 (≧∇≦*)


とは「激論」ではありません。ビールです(笑)。
とは「熱意」ではありません。胸焼けです。
そして、腹中にはイチモツがあります!(^u^)v

今年も一癖二癖、無くて七癖・・・昭和男で行きたいと思っております(笑)。


で、今日から仕事始め・・・です。
と言っても、昨日まで独身でしたので、正月の間もずっと、仕事してたんですけどね(笑)。
私は例年申し上げておりますように、正月の間は好物の博多雑煮を連日連夜、死ぬほど食べ、帰宅してもすることがないので、これ以上ないくらいに膨れた腹のまま、枕元にある安い焼酎を流し込んでました。
昔は正月に家になんか居たこと無かったんですけどね。
おまけに、結構、デスクワークに追われており、運動らしい運動もする時間もありませんで、かなり、不摂生を絵に描いたような状態です。
まあ、私が死んでも誰も哀しむ者はいないでしょうから、それもいいかと・・・(笑)。

で、ちと、ご報告申し上げておきますと、元旦だけでしたが、久々に着物を着ました。
昔は良く、正月は着物を着ていたのですが、最近は天気が悪かったり、用事があったり・・・で着てなかったのですが、先般、ある大先輩とご一緒した折、着物の話になり、「私も着物好きなんですよ」などと言ったところ、「着物で出席する会があるから誘うよ」という有り難いお言葉を戴いてしまいました・・・(汗!)。
で、今まで着ていた着物は母に言わせるとちんちくりん(←博多弁?)になっているとのことで、慌てて、祖父が着ていた着物を出してもらったのですが、「正月の間にちと、袖を通しておかなければ」・・・と。
で、着物を着て三社参りに行ったのですが、いつの間にか、正月でも殆ど男性の着物姿は見かけなくなってましたね。
でも、どこかの知らないお婆さんから、「やっぱり着物は良い」と声を掛けられましたよ。

ついでに、もうひとつ、申し上げておきますと、年末もかなり押し迫ってから、突然、取引先が訪ねてきました。
「すわ、何事か一大事発生か・・・」と思っていたら、「2月東京である宝塚観劇招待しますので行かれませんか?」・・・とのこと。
旅費から宿泊からすべて向こう持ちだそうで、今まで、そんなこと一度もなかったので、「何で?」と聞いたら、「弊社の創業OO周年でのお客様ご招待です」とのこと。
2名様ご招待なのですが、冷え切った我が家では当然ながら誰も同行しようとはしませんので、せっかくの招待を断るのも勿体ないし・・・で、今のところ独りで出席の予定です。
誰か一緒に行ってくれる素敵な人(←ここ、大事です(笑)。)はいませんかね。
カップルの中で、男独りでの宝塚観劇はちと、辛いものがあるような・・・。
もっとも、素敵な方となら東京と言わず、北欧でもどこでも行っちゃいますけどね(笑)。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2010-01-04 17:51 | その他 | Trackback | Comments(2)

謹賀新年、四十代最後の元旦に思う脂がのらない身の不明
親愛なるアッティクスへ


 新年明けましておめでとうございます。
 旧年中は格別のご高配にあずかり厚く御礼申し上げます。
 本年も何卒倍旧のご支援を賜りますようお願い申し上げます。

 昭和三五年、この年のプロ野球日本シリーズで相見えたは、前年までの最下位から一転、セ・リーグを制した大洋ホエールズ・・・、率いるは前々年まで福岡の西鉄ライオンズ三年連続日本一に導き、計六度目の優勝となる智将・三原 脩、この年四九歳
 対するは、強打のミサイル打線を看板に、パ・リーグの強豪をなぎ倒して勝ち名乗りを挙げた大毎オリオンズ、率いるはこの年三八歳の青年監督・西本幸雄・・・

 下馬評は、圧倒的に大毎有利であったにもかかわらず、蓋を開ければ、百戦錬磨の三原采配は鎧袖一触、気力横溢の青年監督を一蹴し、大洋はストレートの四連勝日本一となり、逆に、敗れた西本は采配批判したオーナーと衝突し辞任に追い込まれた・・・と。
 もとより、私が生まれる前年のことですから、私も遠い昔に物の本で読んだだけのことではありますが、文中での「颯爽たる三八歳」を圧倒した「脂がのりきった四九歳」という表現は今も私の心に強く残っております。

 さて、その私も、早いもので本年は四十代最後の年となります。
 残念ながら、到底、三原の域には達し得ていないことは明らかであり、ただただ、身の不明を恥じるばかりですが、何卒、これに懲りず、本年も変わらぬご指導ご鞭撻のほどを賜りますようお願い申し上げます。

  平成二二年元旦
                                         平太独白

追伸、
このようなどうでもいい話には興味のない方は、こちらをご覧ください。
書き始めて、最初の元旦の記事です。
博多の正月と言えば、博多雑煮ですが、こちらのほうの画像なども起稿しておりますので。
ちなみに、当時、45歳の坂を越えるところだったんですね。
いやいや、若かった・・・と(笑)。
    ↓
平太郎独白録 : 謹賀新年に見る博多雑煮の世界!
# by heitaroh | 2010-01-01 08:27 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(4)

川縁に思う下町で生を受けた昭和男の年末ご挨拶
親愛なるアッティクスへ

ついに今年も一年、終わってしまいましたね。
本日の福岡県地方は、この冬一番の冷え込みのようで、最低気温3℃最高気温3℃という、一日中寒い・・・って感じの雪交じりの天気となるようです。

当方、昨日は友人との毎年、恒例「年も押し詰まってからの忘年会」でした。
でも、これも年を重ねるに連れ、曲折あって、年々参加者が減り・・・、昨年は開催されず、今年は二人という状態でしたが、まあ、それでも、元々、この時期に集まれる者だけ集まろう・・・みたいな感じでのスタートでしたから、二人だからと言って寂寥感というものはまったくありませんでしたけどね。
実際、活きたカニやエビ、貝類などを炭火で焼いて食べ、帰りは寒空の下、友人と二人でほろ酔い加減で真っ暗な川縁を歩き、さらに、俗界に上がり、神社をハシゴするなどして帰りましたので、結構、それなりに楽しかったですよ。
もっとも、心が優しい友人氏にはさすがに動いているカニなどを焼き殺したことのショックが強すぎたのか、食材・・・ならぬ、贖罪の意識が働いたようで、正月を迎える前に三社参りしてしまいましたけどね(笑)。

川縁で思い出しましたが、先日、ベッドの上で「あ、死ぬかな」と思った刹那、私にはなぜか、中洲の匂いがしました。

やはり、往事の福岡市下人参町という、ど下町源流を持つ人間としては、川と言えば清流ではなく、中洲辺りの汚い川こそが帰るべき場所なんだな・・・と思いましたね。
そういえば、神様・司馬遼太郎さんも、存命中、よく、東大阪の自宅に訪ねてきた人から、「なぜ、こんなところに・・・」ということを言われたそうで、つまり、「アナタのような人にはこんな町工場に囲まれた所よりも、もっと相応しい、芦屋帝塚山などの住環境が良い場所があるでしょう」ということだったようですが、本人は「そう言われても、私はこういう所でないとダメなんです。こういう人混みで生まれ育ったから、緑が豊富な、静かなところでは息が詰まって、数行も書けない」と言っておられたとか。

閑話休題。
でも、そのおかげか、今朝は殆ど、二日酔いはありませんで、朝から注文していたおせち料理を取りに行って、その足で実家へ持っていってきました。
昭和男としては、「おせちなんて物は自宅で作るべきだ」・・・という意識が強く、店から買うなど何とも嘆かわしい限りで、実際、父が存命であった頃までは母は毎年、自宅でおせちを作っていたのですから、「おせちくらい家で作らなやろうもん」と言っていたのですが、祖父母存命中には苦労ばかりしてきた母から、「毎年、違うおせちをとるのが楽しみ」などと言われてしまっては・・・。
無念ですが「もはやこれまで」と諦めざるを得ませんでしたね。

ということで、とりとめもない話になりましたが、今年一年、大変お世話になりました。
良いお年をお迎えください。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2009-12-31 12:39 | その他 | Trackback | Comments(2)

大工の世界は無駄をそぎ落としたボクサーの趣き
親愛なるアッティクスへ

先日、都築政昭『黒澤明と「七人の侍」』という本を読み終えました。
この本は、文庫本なのですが、薄くて軽く、行間に余裕があり、字も比較的大きいし、内容も眠くなるような小難しさがありませんでしたので、最近、とみに目が悪くなってきた私としては、カバンの中に忍ばせておき、時間が空いたときに出先で読むのに重宝していました。
従って、読み終えるのに随分と時間がかかってしまった一冊だったのですが、まあ、内容としては、言うまでもなく黒澤 明の代表作「七人の侍」について書かれた物で、すでに語られ尽くされた観があることばかりであり、特に目新しい話もなかったので、その意味では初めてこの映画を見た人が補足的に読むには適している作品でしょうか。

とはいえ、改めて、私なりに思ったこともあります。
これは以前も言ったことなのですが、劇中、村に到着し、早速、防備を固めようとする、幾多の戦場をくぐり抜けた志村 喬らのベテラン侍たちの仕事ぶりは、新築住宅上棟式のときのベテラン大工たちの姿そのものに思えました。
何も言わないでもわかるし、言わなくてもすでに誰かがとりかかっている・・・。
皆、長年の共通の体験があり、誰かが、系統立てて指揮指導しなくても、いつものように手慣れた手つきで眈々と段取りを進めている・・・。
(これは、私も経験あることなのですが、大工の世界というのは日本では異質なほどに合理的・・・、まるで無駄をそぎ落としたボクサーの体のような趣があるんですよ。)
つまり、この映画の中に出てくる侍たちは、あの時代にたくさんいた「職人」という人種たちの姿であり、ひいては、アメリカンナイズされてしまう前に存在した日本文化そのものでもあったのではないか・・・と。

で、演技者という点では、ひとつ、印象に残る話があります。
先般、森繁久弥さんがお亡くなりになったときに、かつて、杉村春子さんとの対談の模様が放送されていたのですが、その中で、森繁さん曰く、「松竹のある監督は新人女優が来ればリハーサルで『良いよ』という。で、本番となったとき、その女優のセリフが終わり、本来なら、『カット!』となるはずのところで、しばらく何も言わずにカメラを廻し続ける・・・。すると、女優は自分のセリフが終わってるから、どうして良いかわからず、目が泳いだり、狼狽えたりする・・・と。すると、その監督は、『こいつはダメだ』というんですよ。『厳しすぎるのでは』と言ったところ、彼は、『人物を掴んでいると何とか言う』と言うんですよね」・・・と。

この話には、森繁さんも、杉村さんも、共に「新人には少し厳しすぎる話なんじゃないか」といって苦笑しておられましたが、確かに私も少々、厳しすぎるようにも感じるのですが、でも、考えさせられる話でもありました。
ああいう世界はそもそもが、スタート前の時点で何か他人と違う物を持っている人がスタートラインに立つべきであって、その、「持って入ってきた」かどうかを見るという意味では、酷なようですが、その監督さんが言っていることは一理あると思います。
無論、この時点で「持っていなかった」からと言って、すべてを否定する必要はないとは思いますが、足を一歩踏み入れた瞬間から選別は始まっていると言って良いわけで、その意味では、「持って入ってきた」人たちからすれば、大きく出遅れたことは否めず、一層の奮励が必要になってくるでしょう。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2009-12-30 18:28 | 文学芸術 | Trackback | Comments(0)

地方都市にまで画一的な物ばかり作りたがる中国の無策
親愛なるアッティクスへ

以前、強国ベトナムと大国タイに挟まれたカンボジア・・・という構図は、強国日本と大国中国に挟まれた朝鮮半島のそれと同じである・・・ということを申し上げましたよね。
で、この構図が成立するもう一つのケースとして、強国ドイツと大国ロシアに挟まれた、中欧、東欧諸国の歴史が挙げられると思いますが、今、そのドイツとロシアが急接近していますよね。
これを、中東欧諸国の人たちはどう思っているのか・・・ということに興味を持ちました。
これを知ることは、単に中東欧諸国の現状を知ることのみならず、中国と日本が接近した際の朝鮮半島の反応を知る一助にもなると思ったからです。

で、先日、ワルシャワ在住の方と話す機会があったのですが、どうやら、容認傾向にあるようですね。
また、「中東欧諸国の国民はEUには補助金をもらっているから親近感を持っているが、ロシアからはもらっていないから義理もない」・・・と。
この方面のことは、これからも注視していく必要があるでしょうが、とりあえずは納得でした。



次に、中国と言えば、私も最近の中国を映像などで見ていて思うことがあります。
「中国人もあんなにたくさん、あっちにもこっちにも、同じ街ばかり作ってどうするんだろう」・・・と。
中国の発展は確かに凄まじい物がありますが、あんなに地方都市まで、やたらと一様に無機質無個性なビルを林立させるよりも、もっと、その地なりの開発の仕方があるのではないか・・・と。
まあ、この点は、やたら、ミニ東京を作ることを尊いとしている日本の地方都市も似たり寄ったりではあるのですが、でも、中国には日本と比べものにならない多様性歴史という物があるわけでしょ・・・。
無論、中国にも、国家歴史文化名城という制度があり、102市ほどがそれに指定されているそうですが、それらに指定されていない都市でも、同じビルだらけにするなら、もっと、何かやりようがあるのではないかと思うんですよ。

たとえば、先日も、三国志の英雄・曹操の墓が見つかった・・・というニュースがあってましたが、もし、曹操にゆかりの何かであれば、たとえ、遺跡が現代に残っていなかったとしても、町のシンボルとして、何か連想させる物を復元、もしくはデザインに組み込むとか・・・とか、出来れば、景観条例のような物を作って、街全体に特色を出していくべきでしょう。
私には、やたら、紫禁城がない北京、旧租界地区がない上海ばかりを作っているように思えてならないんです。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2009-12-29 08:17 | 国際問題 | Trackback | Comments(2)

今も変わらない「戦争を知らない軍人たち」の原理
親愛なるアッティクスへ

先日、NHKで『NHKスペシャル 日米開戦を語る「海軍はなぜ過まったのか」』というのをやってましたよね。
これは、この分野で研究・著作が多い、半藤一利澤地久枝の両昭和5年生まれ戸高一成を加えた各氏が、同じくNHKで8月に放送された「NHKスペシャル日本海軍 400時間の証言」という番組で紹介された旧帝国海軍軍人らによる海軍反省会と呼ばれる討論会での録音テープを聴いて思うところを語る・・・というものでした。
で、この中で、私がもっとも、印象に残ったのが、澤地氏の「この人たち(海軍軍人)は戦争という物を知らないんだなと思った」という言葉でした。
曰く、「陸軍の方は何だかんだ言っても、その後も、中国と戦争したりしているけど、海軍の方は日露戦争以来、戦争したことがない。だから、海軍は日露戦争での日本海海戦をそのまま、引きずっている」と。

確かに、言われてみれば、その後の日独戦争(第一次世界大戦)にしても、シベリア出兵にしても、日中戦争にしても、海軍から犠牲者が出ていないとは言わないけれど、事実上、後方支援兵員輸送だけで、本格的な海軍の戦闘というのはやってませんよね。
(日露戦争から10年後の第一次大戦では、日本海軍は日英同盟の関係から地中海で後方支援に当たっており、そのため、少なからぬ犠牲者を出していますが、少なくとも、大艦隊同士の会戦というのは間違いなく経験していないわけです。)
ということは、35年以上、海軍は戦闘を経験していないということになり、となれば、日露戦争当時、35歳だった人は70歳25歳だった人で60歳になるわけで・・・。
半藤氏によると、太平洋戦争開戦時に日露戦争を経験していたのは山本五十六永野修身の二人しかいなかったといいますが、その2人でさえも実際には新入社員に毛が生えた程度の物ではなかったでしょうか。

私は、この番組を見るまで、この、澤地久枝という人は知りませんでしたが、あの録音テープから、このことを読み解いたその慧眼には正直、感服しましたよ。
私は本来、女性が戦争のことを語るときには、どうしても、戦争を、「妻」とか「母」などの視点で見ることが多いことから、戦争そのものを客観的に見てるようには思えず・・・、実際、番組中でも、この人の代表作には、「妻たちの二・二六事件」「昭和史のおんな」・・・などとありましたので、おそらく、この人単独のインタビューであれば見なかったでしょうね。
しかし、このコメントについてだけは、この人は女性でありながら、戦場を知っている男性以上に戦場のことを知っておられるのではないかとさえ思いましたよ。

ただ、この点で、私には思い出すことがあります。
以前、ある、自称有識者なる人と話したことがあるのですが、その際、彼は、「私は、実際の戦場を知っている。ジャーナリストとして、結構、行ったからだ」と言いました。
つまり、「だから、私の見識は高い」ということだったのでしょうが、そのとき、私は、どうしても話がかみ合わない相手だったこともあり、「君はわかっていないね。勘違いしている。なぜなら、今も世界の戦争を動かしている人たちの大半は実際の戦場を知らないからだ」と言い放ちました。
これって、あながち、強弁でもなかったのかもしれませんね。
                                         平太独白
# by heitaroh | 2009-12-28 08:11 | 歴史 | Trackback | Comments(2)

机上山積みメモ紙処分の為の書き殴りシリーズ その5
親愛なるアッティクスへ

「千と千尋の神隠し」ってありましたよね。
無論、初めて見たわけではないのですが、遠い昔にどこかで見たような光景ばかりでありながら、それでいて、実際には絶対にあり得ないという・・・。
誰かの、大きな家のおもちゃが山積みされているところに忍び込んだことなんて、絶対にあるわけないのに、sどうして、私の記憶の中に引っかかってるんだ・・・と。
ていうか、むしろ、どうして、私のそれと同じ物を宮崎駿雄という人が知っているのか・・・と。
おそらく、私に限らず・・・、特に、昭和生まれは、あの映像を見て、そう思った人は結構、少なくないのではないでしょうか。

アニメのモデルとなったといわれている台湾の九份の建物です。)

ところで、前方後円墳ってありますよね。
あの、昔の鍵穴のような形をした古墳です。
あれって、最近思ったんですけど、「前方・後円-墳」ですから、ということは、前が方形(四角)で後ろが円形(丸)ってことでしょ。
私だけなのかもしれませんが、あの、鍵穴のイメージからか、どうしても、円の部分が(上)で箱形の部分が(下)とばかり思いこんでいたんですよ。
実際、仁徳天皇陵(今は言わないとき来ましたが、ガキの教科書を見たら、まだ、そう書いてありました。)の空撮写真などを見ると、皆、円の部分を上にして表示してありますよね。
まあ、これは、箱形の部分に入り口があるってことだと思いますが、であれば、箱形の部分はエントランスであり、肝心の墳墓は円の部分にあるってことなんでしょうか。
でも、前方後円墳であれば、やはり、写真は逆さまに表示すべきだと思うんですけどね。

それから、韓国に豊臣秀吉朝鮮出兵の際に築かれた「倭城」というのがありますよね。
私も以前、行ったことがあるのですが、あれって、そのとき、ガイドさんも言ってましたが、大体、海や川に近く、見晴らしの良いところにあるそうですね。
ところが、倭城というのは、大半がうち捨てられているのだそうで、私が行ったときも、ガイドさんが、「あれ?去年までは何もなかったのに階段がある」と言っていたくらいですから、本当に何も利用されてなかったんでしょう。
あちこちに、畑なんかもありましたから。
でも、海や川に近く、見晴らしが良い・・・ということは「交通の便が良い要地」ということなんじゃないですか?
であれば、どうして、今日に至るまで何も有効利用されてないのでしょうか?

ついでに言えば、古代に中国東北部からロシア国境付近にかけて存在した渤海国は敵対していた朝鮮半島の新羅などに対抗するため、日本へ使節を遣わし、日本も渤海使を派遣したと言われていますよね。
でも、あれって、渤海から日本へは放って置いても福井から秋田辺りへ流れ着くんでしょうが、日本から渤海へというのは、下手をすれば敵対している新羅へ流れ着く可能性もあったんじゃないですか?
                                         平太独白
# by heitaroh | 2009-12-26 08:11 | 歴史 | Trackback | Comments(2)
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国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し独自の歴史観で語ります。

by heitaroh
プロフィール
池田平太郎

昭和36年 福岡市下人参町(現福岡市博多区博多駅前)で代々大工の棟梁の家に生を受ける。

昭和43年 博多駅移転区画整理により、住環境が一変する。
物心付いて最初に覚えた難しい言葉が、「区画整理」と「固定資産税」。

以後、ふつー(以下?)に現在に至る。

平成16年 関ケ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったために、大国毛利を凋落させた男、「毛利輝元」の生涯を描いた小説、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を出版。

平成18年 老いた名将信玄に翻弄される武田勝頼を描いた[死せる信玄生ける勝頼を奔らす]を出版。

平成20年、共に完売となり絶版となる。

わかりやすく言うならば、昔、流れていた博多のお菓子のCM、「博多の男は、あけっぴろげで人が良く、少しばかり大仰で祭り好き」を聞き、「人が良い」を除けば、何とピッタリなんだと思った典型的博多人にして、九州データブックという、まじめな本に「福岡県の県民性」として、「面白ければ真実曲げてもいい」と書いてあったことに何の違和感も持たなかった典型的福岡人
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